パラレル・ティータイム 後編:観測者の選択
第四部:真実への接近
第10章
「本当にそれが正しい選択なのかい?」
男の問いかけに、篠原弦は答えなかった。彼の注意は実験装置と「猫の舌」パターンに集中していた。波形は安定し、青白い光を放っている。弦の理論が正しければ、彼はまもなく元の世界に戻れるはずだった。
「私に構わず、実験を続けてくれ」
男は弦からの返事を待たずに言った。彼は研究室の中をゆっくりと歩き回り始めた。あたかもこの空間が彼にとって馴染み深い場所であるかのように。彼は本棚の前で立ち止まり、背表紙を指で撫でるように触れた。
「量子もつれの特性と応用」「シュレーディンガーの猫:現代解釈」「多世界解釈の哲学的考察」—彼は本のタイトルを口にしながら、頷いていた。
弦は実験装置から視線を外さず、男に問いかけた。「あなたは誰だ?なぜここにいる?」
男は振り返り、微笑んだ。その笑顔には、どこか超然とした雰囲気があった。まるで遥か遠くから、すべてを見下ろしているかのように。
「私が誰かというのは、あまり重要じゃない。お互い『観測者』ということにしておこう」
彼は弦の方に歩み寄った。室内の温度はさらに下がり、弦の息は白い霧となって漂った。実験装置からの青白い光が、男の顔を不気味に照らし出していた。彼の目は深い知識を宿しているようで、その瞳の奥には、無限の時間が映っているようだった。
「キミが量子の壁を壊してしまったんだ」
男はそう言って、実験装置のモニターを指さした。「猫の舌」パターンは、今や画面全体を覆い、まるで生命を持ったかのように脈動していた。
「壁?」
弦は聞き返した。彼の手は実験装置のキーボードの上で震えていた。
「世界と世界の間にある壁さ」
男は当然のことを言うかのように答えた。「量子状態の観測は、通常、可能性の一つを『現実』として固定する。その瞬間、他の可能性は別の世界に分岐する。それが多世界解釈だ」
男は話しながら、ポケットから何かを取り出した。それは小さな金属製の箱だった。彼はそれを開け、中から茶葉を取り出した。弦は即座にその香りを認識した。ダージリン。
「しかし、キミの実験は、量子状態の観測後も『開かれた状態』を維持する方法を発見してしまった。それによって、世界と世界の境界が曖昧になり、キミの意識は異なる現実の間を揺れ動くようになった」
男は茶葉を手のひらに広げ、それを実験装置に近づけた。茶葉が青白い光を浴び、奇妙な輝きを放ち始めた。
「香月さんの存在も、高嶺さんの消失も、ダージリンの記憶も、すべてはキミの実験の結果だ」
弦は男の言葉に震えた。彼の説明は、弦自身の仮説と一致していた。しかし、それを別の誰かの口から聞くことで、状況の深刻さがより鮮明になった。
「では、私はどうすれば元の世界に戻れるのだろう?」
弦の問いに、男は笑みを浮かべた。それは親切というよりは、何かを知っている者特有の微笑だった。
「まず、『元の世界』とは何かを考える必要があるね。キミにとって『元の世界』とは何だい?」
弦は考え込んだ。彼にとっての「元の世界」。それは香月のいない世界。高嶺明日香がいる世界。研究予算の削減に直面している世界。そして、ダージリンを訪れたことのない世界。
「私が最初に意識していた世界だ」
弦はようやく答えた。しかし、その言葉を口にした瞬間、彼は不確かさを感じた。本当にそれが「元の世界」なのだろうか。もしかすると、彼は既に何度も世界間を移動していて、彼が「元の世界」と思っているものも、単なる通過点に過ぎないのかもしれない。
男はその不確かさを見抜いたかのように、微笑んだ。
「猫の舌はね、時間をなめてるんだよ」
男はそう言って、実験装置のモニターに映る波形を指さした。「この波形が『猫の舌』と呼ばれる理由は、単にその形状だけではない。それは時間そのものを『味わう』存在だからだ」
弦は眉をひそめた。男の言葉は詩的で曖昧だった。しかし、同時に彼の心の奥底に何かが響いた。量子状態は、観測されるまですべての可能性を持つ。それは言わば、すべての時間軸を同時に存在させる状態。「猫の舌」パターンは、その時間の味わいを表現しているのかもしれない。
「どういう意味だ?」
弦は問いただした。男は茶葉を実験装置から遠ざけ、再びポケットの箱に戻した。
「人間の意識は、時間を直線的に進むものと理解している。過去から現在、そして未来へ。しかし、量子の世界では、すべての時間が同時に存在する。『猫の舌』パターンは、その同時性を維持したまま観測を行う方法を示している」
男は窓際に歩み寄った。外はまだ暗かったが、東の空が少しずつ明るくなり始めていた。
「そして、キミの実験はその同時性をキミの意識世界にまで拡張してしまった。キミは『すべての時間を同時に体験する』存在になりつつある」
弦は男の言葉に震えた。それは彼の体験を説明していた。異なる世界間の移動。香月との生活。ダージリンの記憶。高嶺明日香の消失。すべては、時間の同時性の体験だったのかもしれない。
「では、どうすれば元に戻れるのだろう?」
弦は再び問いかけた。実験装置の振動音が大きくなり、モニターの光はさらに強くなった。研究室全体が青白い光に包まれ、物体の輪郭が不鮮明になり始めていた。
男は弦を見つめ、静かに言った。
「ダージリンの記憶が鍵だ」
弦は困惑した表情を浮かべた。「ダージリンの記憶?しかし、私はダージリンに行ったことがない」
「行っていない世界もあれば、行った世界もある」
男は意味深に言った。「キミの意識の中には、『ダージリンで真理子と過ごした』という記憶の断片がある。その記憶は、キミが体験していないが、『別のキミ』が体験したものだ」
弦は頭の中で、茶園の光景、真理子の姿、そして彼女との対話を思い出した。それは確かに彼の記憶だったが、同時に彼の記憶ではなかった。
「その記憶にアクセスし、『なぜそれが重要なのか』を理解すれば、キミは元の場所に戻る方法を見つけられるだろう」
男はそう言って、研究室のドアに向かって歩き始めた。弦は彼を引き止めようとした。
「待ってくれ!もっと詳しく教えてほしい」
しかし、男は立ち止まらなかった。彼はドアに手をかけ、振り返った。彼の姿はすでに半透明になっていた。まるで霧のように、彼の存在が薄れていくようだった。
「時間は線ではなく、点の集合だ。キミはその点の間を移動している。正しい点を選べば、キミの求める場所に戻れる」
男の声も、彼の姿と同様に薄れつつあった。
「しかし、どうやって正しい点を選べばいいのだ?」
弦は叫んだ。実験装置の振動音はさらに大きくなり、「猫の舌」パターンは画面から飛び出し、空中に浮かぶように見えた。
「キミの心が知っている」
それが男の最後の言葉だった。彼はドアを開け、廊下の闇の中に消えていった。しかし奇妙なことに、ドアは開いた状態で留まっていた。そして、ドアの向こうは廊下ではなく、無限に広がる暗闇だった。
弦はドアの方を見つめていたが、すぐに実験装置に注意を向けた。「猫の舌」パターンは今や三次元的な形状となり、研究室の空間を支配していた。それは光のように輝き、音のように振動し、香りのように漂っていた。
弦は男の言葉を反芻した。「ダージリンの記憶が鍵だ」。しかし、その記憶のどの部分が重要なのか。真理子との対話?茶園の風景?それとも、ダージリンティーの香り?
実験装置のモニターが突然明滅し始めた。「猫の舌」パターンが不安定になり、形状が崩れ始める。弦は急いでキーボードを打ち、パラメータを調整しようとした。しかし、装置は彼の指示に応答しなかった。
「ダージリンの記憶…」
弦は呟きながら、ポケットから茶葉の袋を取り出した。彼はそれを開け、茶葉の香りを深く吸い込んだ。香りが彼の意識を包み込み、彼の記憶の中の何かを刺激した。ダージリンの丘。真理子との対話。そして…
実験装置が突然、強烈な光を放った。弦は目を閉じざるを得なかった。光が収まると、彼はゆっくりと目を開けた。
そして彼は見た。
研究室全体が変容していた。壁や機器は半透明になり、その向こうには無数の光の点が見えた。それは星のようでもあり、窓のようでもあった。そして、その一つ一つが異なる世界、異なる時間を示しているようだった。
弦はようやく理解した。男の言う「点の集合」とは、これらの光点のことだったのだ。そして彼は今、それらの間を移動できる状態にあった。
彼は深く息を吸い込み、茶葉の香りを再び嗅いだ。そして彼の心の中で、記憶の断片が繋がり始めた。ダージリンの丘で真理子が語ったこと。彼女が消える前に言った言葉。「境界の向こうで会いましょう」。
弦の前には、無数の光点が広がっていた。そして彼は、自分が選ぶべき点がどれなのかを探し始めた。
第11章
弦の視界全体を埋め尽くす光の点々。それは夜空の星のようでもあり、雨に濡れた街の窓明かりのようでもあった。そのすべてが彼に何かを語りかけているかのようだった。どの点を選べばいいのか。どの世界が「彼の世界」なのか。
弦はダージリンの茶葉の香りを再び嗅ぎ、記憶の中を探った。真理子との対話。茶園の風景。彼女が消える前に言った言葉。「境界の向こうで会いましょう」。しかし、その「境界」とは何なのか。
混乱と疲労が弦の思考を曇らせていた。彼は実験装置のコンソールに両手をついて身を支え、目を閉じた。
「弦さん」
優しい女性の声が彼の耳に届いた。その声は、遠くからの呼びかけのようでもあり、すぐ傍からの囁きのようでもあった。弦はゆっくりと目を開け、声の方向に顔を向けた。
そこには香月が立っていた。
彼女は白いワンピースを身にまとい、その姿は研究室の青白い光の中で、幻のように浮かび上がっていた。彼女の長い黒髪は肩に流れ、その瞳は弦を優しく見つめていた。彼女の立ち姿には、以前のような日常的な存在感とは違う、どこか超越的な雰囲気があった。
「香月…」
弦は彼女の名を呼んだ。それは半ば安堵であり、半ば疑問だった。なぜ彼女がここにいるのか。どうやって研究室に入ってきたのか。
香月は微笑み、弦に近づいた。彼女の動きには重さがなく、まるで彼女の足が床に触れていないかのようだった。
「ついに会えましたね、弦さん」
彼女の声は柔らかく、しかし妙に明瞭だった。研究室の振動音や機械の唸りを通り抜けて、直接弦の心に届くかのようだった。
「どうしてここに?」
弦は困惑したまま尋ねた。香月は弦のすぐ前に立ち、彼の頬に手を添えた。彼女の手は温かく、しかし同時に不思議な軽さがあった。
「あなたを連れ戻しに来たの」
彼女の言葉に、弦は眉をひそめた。
「連れ戻す?どこへ?」
香月は悲しげに微笑んだ。その表情には、深い愛情と切ない後悔が混ざり合っていた。
「現実の世界へ。弦さん、あなたは今、現実にはいないの」
弦は彼女の言葉を理解しようとして、頭の中で反芻した。現実にいない?それはどういう意味なのか。彼は周囲を見回した。研究室、実験装置、そして無数の光の点々。これらはすべて現実ではないのか。
「何を言っているんだ?」
香月は弦の手を取り、実験装置から離れるように促した。彼女の眼差しは真摯で、その中には何かを伝えようとする強い意志が宿っていた。
「弦さん、聞いてください。あなたは今、昏睡状態にあるの。病院のベッドで眠っているの」
弦は彼女の言葉に、思わず笑い出しそうになった。しかし、香月の表情があまりに真剣で、彼は笑うことができなかった。
「何を言っているんだ、香月。私はここにいる。触れるし、見えるし、聞こえる。これが現実だ」
香月は首を横に振った。彼女の目には涙が光っていた。
「それはあなたの脳が作り出した現実よ。2ヶ月前、あなたはダージリンへの研究旅行から戻る途中で事故に遭ったの。飛行機の着陸時のトラブルで…」
香月の声が震えた。その言葉を口にすることが、彼女にとって苦痛であるかのように。
「私はダージリンなんて行ったことがない」
弦は反射的に否定した。しかし、同時に彼の頭の中には、茶園の風景が鮮明に浮かんでいた。真理子との対話。国際量子物理学会での議論。これらの記憶は、彼が「持っていない」はずの記憶だった。
「行ったのよ、弦さん。あなたは量子もつれの非局所性に関する論文を発表するために、ダージリンを訪れたの。そして、そこで真理子さんに再会した」
弦の心臓が跳ねた。彼は真理子の名前を香月に話したことはなかった。少なくとも、彼の記憶ではそうだった。
「真理子を知っているのか?」
「ええ、あなたの学生時代の恋人でしょう。彼女も物理学者で、ダージリンの会議で講演していたの。あなたは私に何度も彼女のことを話してくれました」
弦は混乱していた。彼の頭の中で、複数の記憶が交錯していた。彼が知る自分自身の記憶。そして、彼がアクセスできなかった「別の自分」の記憶。
「香月、それは本当なのか?」
彼女は力強く頷いた。
「事故の後、あなたは東京の病院に運ばれ、それ以来昏睡状態にあるの。医師たちはあなたの脳に異常はないと言います。ただ、目覚めないだけ。でも、あなたの脳波は非常に活発で、まるで何かと通信しているかのようだと…」
香月の言葉は、弦の頭の中で反響した。昏睡状態。脳波。通信。それらの単語が、彼の科学者としての思考を刺激した。
「脳内の量子効果…」
弦は呟いた。もし彼の意識が実際には病院のベッドにある肉体に属していて、今体験していることがすべて脳内の現象だとしたら?そして、その脳内で量子効果が起きているとしたら?
「そう、医師たちはそのように考えているわ。あなたの脳内で量子的な意識現象が起きているのではないかと。あなたの研究テーマが量子もつれだったことも関係しているのかもしれないと言っていたわ」
弦は窓際に歩み寄った。窓の外には、無数の光の点々が広がっていた。それらは彼の意識が作り出した可能性の風景だったのか。彼の脳内で起きている量子的な重ね合わせ状態の表現だったのか。
「でも、それが本当だとして…私がどうやって目覚めればいいのかわからない」
香月は弦の背後に立ち、彼の肩に手を置いた。
「だから私が来たの。あなたの意識を現実の肉体に引き戻すために」
弦は振り返り、彼女の目を見つめた。「どうやって?」
「あなたは量子状態の観測に関する研究をしていたわね。観測者が量子状態を決定づけるという理論。今、あなたの意識は量子的な重ね合わせ状態にある。すべての可能性が同時に存在している状態。あなたが必要としているのは、観測者なの」
弦はその理論に頷いた。量子状態は観測されるまで不確定で、観測した瞬間に一つの状態に収束する。もし彼の意識が量子的な重ね合わせ状態にあるなら、観測者によってその状態が固定される必要があった。
「そして、その観測者が君なのか?」
香月は微笑んだ。「私たちは婚約しているのよ、弦さん。あなたの一番近くにいる存在。あなたと強くつながっている存在。だから、私があなたの意識を観測することができるの」
弦は香月の言葉に、胸が締め付けられる思いがした。彼は香月と婚約していた。それは彼がアクセスできなかった記憶の一部だったのか。そして今、彼女がここにいる。彼の意識を現実に引き戻すために。
「では…どうすればいい?」
香月は弦の両手を取り、優しく握った。
「まず、あなたは真実を受け入れる必要があるわ。あなたが今体験しているのは、脳内で起きている量子的な意識現象なのだということを」
弦は深く息を吸い込んだ。彼の感覚はすべて現実的だった。研究室の冷たい空気、機械の振動、香月の手の温もり。しかし、もし彼女の言うことが本当なら、これらはすべて彼の脳が作り出した幻想に過ぎなかった。
「そして、次に?」
「次に、あなたは正しい『点』を選ぶ必要があるわ。さっきの男の人が言っていたように」
弦は驚いた。「君は彼を見たのか?」
香月は頷いた。「私はあなたの意識の一部として存在しているから、あなたが見たものを共有しているわ。彼が言っていた『点の集合』。それらは、あなたの意識が持つ可能性の集合体よ。あなたは正しい点を選び、そこに意識を集中させる必要があるの」
弦は窓の外の光の点々を見つめた。どの点が「正しい点」なのか。どの可能性が彼を現実の世界に戻してくれるのか。
「どうやって正しい点を見つけるんだ?」
香月は弦の顔を両手で包み、目を見つめた。
「ダージリンの記憶を辿るの。あの男の人が言っていたように、それが鍵。あなたがダージリンで何を体験し、何を感じ、そして何を決断したのか。それがあなたの意識を正しい『点』に導くわ」
弦は目を閉じ、ダージリンの記憶に集中した。茶園。会議。真理子との再会。彼らの会話。そして…
「私は選択をした」
弦はゆっくりと言った。記憶の断片が繋がり始めていた。
「そう、あなたは選択をしたの。真理子さんと過去に戻るか、それとも私と未来に進むか」
香月の声には、わずかな痛みが混じっていた。弦は目を開け、彼女を見つめた。彼女の目には涙が光っていた。
「そして私は…」
「あなたは私を選んだの」
彼女の言葉は、弦の心に深く沈み込んだ。彼は選択をしたのだ。過去ではなく未来を。そして、その選択が彼を今の状況に導いたのかもしれない。
「香月、僕は…」
弦が言いかけたとき、研究室全体が突然揺れ始めた。壁や天井が波打ち、床も不安定になった。実験装置のモニターが明滅し、「猫の舌」パターンが激しく脈動し始めた。
「時間がないわ」
香月は焦りの色を浮かべた。「あなたの意識が不安定になっている。早く決断しなければ」
弦は研究室の窓を見た。外の光の点々も不安定に明滅していた。彼は選択をしなければならなかった。どの点が彼を現実に戻してくれるのか。どの記憶が鍵となるのか。
香月は弦の手を取り、窓に近づけた。
「私が導くわ。一緒に探しましょう」
彼女の手に導かれ、弦は無数の光の中から一つの点を探し始めた。そこがどこであれ、それが彼の「現実」であり、彼が戻るべき場所なのだと、彼は理解し始めていた。
第12章
弦の心の中で、香月の言葉が反響した。昏睡状態。病院のベッド。脳内の量子現象。あまりにも荒唐無稽な説明だった。しかし同時に、彼が体験した不可解な出来事—世界の変容、明日香の消失、真理子との対話—を説明するには、むしろ理にかなっていた。
研究室は依然として不安定で、壁や床は水面のように波打ち、実験装置から発せられる青白い光は明滅を繰り返していた。窓の外に広がる無数の光点も、まるで嵐の中の灯台の光のように揺らめいていた。
「信じられない」
弦は首を横に振った。科学者としての彼の思考は、証拠なしに仮説を受け入れることを拒んでいた。彼の感覚は、今この瞬間の現実性を主張していた。研究室の空気の冷たさ、実験装置の振動音、香月の手の温もり。これらがすべて幻想だとは思えなかった。
「証拠が欲しいの?」
香月は弦の表情を見抜いたかのように言った。彼女の目には、どこか悲しげな理解の色が浮かんでいた。まるで彼の反応を予測していたかのように。
「ええ、証拠があるわ」
彼女は弦の手を取り、研究室の隅に向かって歩き始めた。それは弦がほとんど注意を払わなかった場所で、普段は掃除用具や予備の機材が置かれている一角だった。しかし今、そこには彼が記憶にない物体があった。
全身が映る大きな鏡。
その鏡は古めかしい木製のフレームに囲まれ、まるで西洋の古城から持ち出されたような風格があった。弦は眉をひそめた。この鏡が研究室にあったという記憶はない。少なくとも、彼の世界では。
「これは…?」
弦は言いかけたが、香月は彼を鏡の前に立たせた。彼女自身は少し後ろに下がり、弦の肩に手を置いた。
「よく見て」
彼女の声は柔らかく、しかし強い意志を秘めていた。弦は言われるまま、鏡を見つめた。
最初、彼は自分の姿を見た。疲れた表情、乱れた髪、白いラボコート。しかし、次の瞬間、鏡の表面が霧がかったように曇り始めた。弦は目を細め、より鮮明に見ようとした。
霧が晴れるように、鏡の中の映像が変わっていった。そこに映っていたのは、もはや研究室に立つ彼の姿ではなかった。
病院のベッドに横たわる人物。
白い病院のガウンを着て、複数の医療機器に繋がれている。顔は青白く、目は閉じられている。しかし、その人物が弦自身であることは明らかだった。
弦の心臓が早鐘を打った。彼は息を飲み、一歩後ずさりした。
「これは…」
言葉が喉に詰まった。
「あなたよ、弦さん」
香月の声が彼の背後から聞こえた。「東京総合病院の集中治療室で眠っているあなた」
弦は鏡に映る自分自身の姿を、震える目で見つめた。医療機器のモニターには、心拍数や血圧などの数値が表示されていた。点滴の袋からは細い管が伸び、彼の腕に繋がっていた。窓からは東京の街並みが見え、空はうっすらと夕焼けに染まっていた。
あまりにも鮮明で、あまりにも現実的だった。
「これは…トリックか何かか?」
弦は震える声で言った。科学者としての彼の思考は、まだこの現実を受け入れることを拒んでいた。
「トリックではないわ」
香月の声は悲しみを帯びていた。「これが現実よ。あなたの意識が作り出した世界ではない、本当の現実」
「それを証明できるのか?」
弦は振り返り、香月を見た。彼女の目には涙が光っていた。
「自分で確かめてみて」
彼女は鏡を指さした。「手を伸ばして」
弦はゆっくりと鏡に向き直り、恐る恐る手を伸ばした。彼は鏡の中の病院のベッドに横たわる自分の姿が、まるで幻のように消えてしまうのではないかと恐れていた。
しかし、鏡の中の映像は変わらなかった。病室。医療機器。眠る彼自身。それらはすべて鮮明なままだった。
そして、弦は奇妙なことに気づいた。
鏡の中の彼も、同じように手を伸ばしていた。
病院のベッドに横たわっていたはずの彼が、ベッドから上半身を起こし、鏡の方向に向かって手を伸ばしていた。その動きは弦自身の動きと完全に一致していた。
「おかしい…」
弦は腕を下ろした。鏡の中の彼も同様に腕を下ろした。彼は首を傾げた。鏡の中の彼も首を傾げた。
「これはどういう…」
弦は混乱していた。香月が言うように、もし鏡の中が「現実」なら、彼がベッドから起き上がり、自分と同じ動きをするはずがない。鏡はただの鏡であり、彼の姿を反射しているだけなのではないか。
「よく見て」
香月は再び言った。「詳細に」
弦は鏡に映る病室の風景をより注意深く観察した。ベッドサイドの小さなテーブル。その上に置かれた花瓶。窓辺のカーテン。そして、部屋の隅に見える椅子。
そこに香月が座っていた。鏡の中の香月は、彼の背後に立っている香月と同じ白いワンピースを着ていた。しかし、その表情は異なっていた。鏡の中の香月は疲れた表情で、本を読みながら時折眠る弦に視線を投げかけていた。
「二人の私がいる…」
弦は呟いた。背後の香月は彼の肩に手を置いたまま、鏡の中の香月は椅子に座っていた。これはどういうことなのか。
「これは鏡ではないのね」
背後の香月が言った。「窓よ。あなたの意識と現実世界を繋ぐ窓」
弦は震える手を再び鏡に伸ばした。鏡の中の弦も手を伸ばした。二人の指先が鏡の表面で触れ合うはずだった。
しかし、指先が鏡に触れた瞬間、弦は奇妙な感覚に襲われた。
鏡の表面は固体ではなかった。それは水のように柔らかく、しかし粘性があり、彼の指を受け入れるようだった。弦は驚いて手を引こうとしたが、鏡の表面が彼の指をわずかに引き止め、そして離したように感じた。
「なんだ…これは…」
弦は震える声で言った。彼は再び手を伸ばし、今度は指全体を鏡の表面に当てた。同じ感覚だった。鏡は水のように波打ち、彼の手を受け入れようとしていた。
「これが道なの」
香月が言った。「あなたが現実に戻る道」
弦は香月を見た。彼女の目には決意の色が浮かんでいた。
「私を信じて」
彼女の言葉には、深い愛情が込められていた。弦は再び鏡を見つめた。鏡の表面は今、より活発に波打ち始めていた。まるで生命を持つかのように。その波紋は、彼がよく知る「猫の舌」パターンを形作っていた。
中央が高く盛り上がり、左右に緩やかに下降していく形。それは彼の研究の核心、そして彼の体験の核心でもあった。
弦は深く息を吸い込み、決意を固めた。彼は片手全体を鏡に当てた。鏡は液体のように彼の手を飲み込み、そして彼の腕へと広がっていった。それは冷たくもなく、熱くもなく、ただ奇妙な感覚だった。まるで異なる次元の物質に触れているかのような。
「先に行くわ」
香月が弦の耳元で囁いた。彼女は弦の横に立ち、自分も鏡に手を伸ばした。鏡は彼女の手も同様に受け入れた。彼女は弦に微笑みかけ、そして一歩前に踏み出した。
彼女の体は鏡に吸い込まれていった。まず手、次に腕、そして肩、頭、胴体。彼女は振り返り、弦に手を差し伸べた。
「来て」
彼女の声は遠くからのものに聞こえた。弦は恐怖と好奇心が入り混じった感情を抱きながら、彼女の手を取った。
鏡の表面が彼の体を包み込み始めた。それは冷たい水に飛び込むような感覚ではなく、むしろ重力のない空間に浮かぶような、不思議な感覚だった。彼の視界は一瞬、霧がかったようになり、耳の中で奇妙な音が響いた。
そして、彼は鏡の向こう側へと引き込まれていった。
鏡の表面が「猫の舌」パターンを描きながら波打ち、弦の意識を吸い込んでいく。彼は香月の手を強く握りしめた。彼女の手は確かな存在として彼を導いていた。
弦の視界が歪み、研究室の光景が溶けていくように見えた。実験装置、窓の外の光点、すべてが霧の中に消えていった。代わりに、新たな光景が彼の前に展開され始めた。
病室の壁。医療機器のモニター。窓から見える東京の街並み。
そして、彼自身の体。病院のベッドに横たわる彼自身の体。
弦は呼吸をするのに苦労していた。まるで長い間息を止めていたかのように。彼の意識は今、二つの場所に同時に存在しているようだった。研究室に立つ彼自身と、病院のベッドに横たわる彼自身。
「もう少し」
香月の声が彼を導いた。「あなたの体に戻るの。意識を集中して」
弦は目を閉じ、全神経を病院のベッドに横たわる自分自身に集中させた。彼の意識は糸のように伸び、二つの世界をつなぐ橋となった。
鏡の表面は彼を完全に飲み込み、彼の体全体が液体の中を通過するような感覚に包まれた。しかし、それは不快ではなかった。むしろ、長い旅から帰還するような、安堵感さえあった。
「弦さん」
香月の声が遠くから近づいてきた。「戻ってきて」
弦は最後に、研究室の風景を振り返った。彼が過ごした不思議な量子の迷宮。それは彼の想像の産物だったのか、それとも別の次元の現実だったのか。彼にはもうわからなかった。
ただ、彼の意識が徐々に「現実」へと引き戻されていくのを感じていた。鏡の表面が閉じていき、「猫の舌」パターンが最後の一振動を描いて静まり返った。
そして、弦の意識は完全に鏡の向こう側へと吸い込まれていった。
第13章
最初に弦が感じたのは、不在だった。
重力の不在。音の不在。匂いの不在。境界の不在。
彼は目を開いた。あるいは、既に開いていたのかもしれない。どちらにせよ、彼の視界には際限なく広がる白い空間が広がっていた。床と思われる面に彼は立っていたが、それは単なる錯覚かもしれなかった。天井は存在せず、壁もない。水平線と思しき境目もなかった。あらゆる方向に、無限の白さだけが続いていた。
「ここは…」
弦は声に出して言った。その声は空間に溶け込むのではなく、むしろ結晶化するように明瞭に響いた。エコーはなく、しかし声は消えることもなかった。まるで彼の言葉が空間の一部になったかのようだった。
「量子の領域と現実の領域の間よ」
男の声が弦の背後から聞こえた。弦は振り返った。
そこには、研究室に現れた灰色のスーツの男が立っていた。年齢は40代に見えるが、実際にはいくつなのか判断できない雰囲気を漂わせている。平凡な風貌だが、その眼差しには宇宙の深淵を見つめてきたような深遠さがあった。
「あなたは…」
弦は言いかけて、言葉を切った。男の名前を尋ねることが、この状況では的外れな質問に思えた。
「観測者」
男は自らをそう名乗った。その言葉には、弦が理解する以上の意味が込められているように聞こえた。それは単なる役割ではなく、存在の本質を表していた。
「観測者?」
弦は問い返した。彼は量子力学における「観測者」の概念を知っていた。量子状態は観測によって確定する。観測されるまで、すべての可能性が同時に存在する。観測者は単なる傍観者ではなく、現実を確定させる存在だ。
「そう」
男は静かに頷いた。「私はこのレベルの現実を観測し、必要に応じて調整する存在だ」
弦の周囲の白い空間が、わずかに脈動するように見えた。まるで生きているかのように。
「このレベルの現実?」
「現実には層がある」
男は手を広げ、その動きに合わせて白い空間に波紋が広がった。「物理的現実、精神的現実、量子的現実。すべては層を成し、複雑に絡み合っている。通常、これらの層は適切に分離されている。しかし、時に...干渉が起きる」
弦は男の言葉を咀嚼した。彼の科学者としての思考は、この概念を理解しようと奮闘していた。
「私の実験が…干渉を引き起こしたのか」
それは質問ではなく、確認だった。男は静かに頷いた。
「君の『猫の舌』実験は、量子観測の限界を超えてしまった。私はそれを見過ごすことができず、介入せざるを得なかった」
男は二、三歩前進した。彼の足が白い「床」に触れるたびに、微かな波紋が広がった。あたかも液体の上を歩いているかのように。
「介入…香月と明日香を通して?」
「彼女たちは干渉の結果生まれた存在だ。別の言い方をすれば、彼女たちは君の現実の異なる層の一部だった」
弦の額に皺が寄った。「よく理解できない」
男は穏やかに笑みを浮かべた。それは教師が熱心な生徒に向ける笑顔のようだった。
「説明しよう。君の『猫の舌』実験は、量子状態の観測に関する根本的な発見だった。通常、観測は量子の可能性を一つに固定する。しかし、君の実験は観測後も量子の『開かれた状態』を維持する方法を発見した」
弦は前のめりになった。これは彼が探し求めていた答えだった。
「その『開かれた状態』が、量子と現実の境界を溶かし始めた」
男は続けた。「君の意識は、複数の可能性が重なり合った状態に置かれた。香月との婚約生活、明日香との研究、真理子との過去、そして病院のベッド。それらはすべて、異なる層の現実だった」
弦の頭の中で、パズルのピースが噛み合い始めた。彼の体験したすべての不可解な出来事が、この枠組みの中で意味を持ち始めていた。
「しかし、なぜ私の実験が…そんな結果を」
「それは君の研究対象が『観測』自体だったからだ」
男は弦の目を真っ直ぐに見つめた。「観測に関する実験が、観測の法則自体を変えてしまった。それは予期せぬ再帰的効果を生み出した」
弦は思わず笑いそうになった。彼の実験が宇宙の基本法則を書き換えるとは。しかし、彼の体験したことを考えれば、それは荒唐無稽な説明ではなかった。
「では、猫の舌の形状は…」
「時間の味わいの視覚的表現だ」
男は弦の言葉を先取りした。「猫の舌は時間の流れを味わう。異なる時間軸の味を識別する。君の実験は、その形状を通じて時間の同時性を具現化した」
弦は男の言葉を反芻した。それは詩的で謎めいていたが、奇妙なことに理解できた。量子状態の同時性が、時間の同時性と結びついている。彼の意識が複数の時間軸を同時に体験したのは、彼の実験が時間の固定性を解放してしまったからかもしれない。
「私の実験は量子と現実の境界を溶かし、複数の現実が重なり合う状態を作り出してしまった…」
弦は自らの言葉で状況を整理した。男は満足げに頷いた。
「正確に言えば、君の意識が複数の現実を同時に体験できる状態を作り出した。これは危険なことだ。人間の脳は、そのような経験を処理するようには設計されていない」
弦はこの白い空間を見回した。「では、ここは…」
「中立地帯だ。私が創り出した場所。君の意識が選択を行うための空間」
白い空間が再び脈動した。今度はより強く、より明確に。弦は一瞬、この空間が彼の心拍と同期しているように感じた。
「選択?」
「そう。君はどの現実に戻るのかを選ばなければならない」
弦は男の言葉に衝撃を受けた。「戻る?私は病院のベッドにいるのではないのか?」
男は首を横に振った。「それは一つの可能性にすぎない。香月が見せた現実も、君が最初に認識していた研究室の現実も、真理子とのダージリンの記憶も、すべては等しく『現実』だ。それらは異なる層に存在するが、どれも同等に実在している」
弦は混乱し始めた。彼はずっと「元の世界に戻る」ことを目指していた。しかし今、男は彼に「どの世界に戻るか」を選べと言っている。それはまるで、自分の人生を選び直せと言われているようなものだった。
「私はどうやって選べばいいのだろう…」
弦の声は空間に溶け込んでいった。男は彼に近づき、肩に手を置いた。その手の感触は確かなもので、この白い空間の中で初めて弦が感じた物理的な接触だった。
「君の心は既に知っている」
男はそう言って、白い空間の一角を指差した。その方向を見ると、白さの中に微かな色彩の点が浮かび上がっていた。それは徐々に大きくなり、窓のように開いていった。
「あれは…」
弦は言葉を失った。その「窓」に映っていたのは、彼が体験したさまざまな現実のシーンだった。研究室での実験。404号室での香月との生活。ダージリンでの真理子との対話。病院のベッドでの眠り。それらは万華鏡のように混ざり合い、そして分離していった。
「すべての可能性が君の前にある」
男は静かに言った。「どれを選んでも良い。しかし、選ばなければならない。さもなければ、君の意識はこの狭間で永遠に彷徨うことになる」
弦は「窓」に映る映像に魅了されていた。それぞれの現実には、それぞれの喜びと苦しみがあった。それぞれの可能性には、それぞれの代償と報酬があった。
「なぜ私がこのような状況に?」
弦は男を見つめた。「なぜ他の誰かでなく、私が?」
男は微笑んだ。その笑顔には、古代の叡智と子供のような好奇心が同居していた。
「偶然と必然の交差点だ。君の知的好奇心、君の実験の偶然性、そして宇宙の法則が時折見せる柔軟性。それらが重なり合った結果だ」
弦は納得できなかったが、これ以上の説明を求めることも無意味だと感じた。今、彼が直面している選択の方が重要だった。
「どの現実も『正しい』のか?」
「正しいも間違いもない」
男は答えた。「ただ異なるだけだ。どれを選んでも、君はその現実の中で生きることになる。そしてその選択は、他の可能性を閉じることになる」
弦の前に広がる「窓」はさらに鮮明になり、複数の映像に分かれ始めた。まるで彼の選択肢を視覚化するかのように。
「時間はある」
男は弦の肩から手を離した。「よく考えて選びなさい」
弦は「窓」の前に立ち、映し出される様々な現実を見つめた。研究室での高嶺明日香との研究。予算削減の危機に直面し、「猫の舌」パターンの謎を追求する日々。それは彼が最初に認識していた「現実」だった。
香月との生活。結婚を控え、安定した研究環境で働く日々。彼女の温かさと優しさに包まれた世界。それは彼が体験した「別の現実」だった。
ダージリンでの記憶。真理子との再会と別れ。選択の岐路に立った過去。それは彼がアクセスできなかった「記憶の現実」だった。
そして、病院のベッド。昏睡状態から目覚めるかもしれない未来。香月が待つ世界。それは彼が直面した「最後の現実」だった。
どれを選べばいいのか。弦の心は揺れていた。彼は科学者として、客観的な真実を追求してきた。しかし今、彼は主観的な選択を迫られていた。「正しい」答えはなく、ただ彼の選択があるだけ。
白い空間は彼の思考に呼応するように、わずかに色彩を変えた。それは彼の感情の波を反映しているようだった。男は後退し、弦に選択の空間を与えた。
弦は深く息を吸い込んだ。彼は選ばなければならなかった。どの現実に戻るのか。どの人生を生きるのか。
第14章
無限の白さの中で、時間の概念は意味をなさなかった。弦がどれくらいの間、可能性の窓を見つめていたのか、彼自身にも分からなかった。それは数分だったかもしれないし、数時間、あるいは数年だったかもしれない。白い空間の中では、時計も心臓の鼓動も、時間を測る確かな手段ではなかった。
「決められないのか?」
男の声が静かに響いた。彼は弦の後ろに立ち、両手を背中で組んでいた。その姿は、まるで美術館で絵画を鑑賞する批評家のようだった。
「簡単な選択ではない」
弦は窓から視線を離さずに答えた。窓に映る現実は、彼の心の揺れに反応するかのように、微妙に形を変えていた。研究室の風景が鮮明になったかと思えば、次の瞬間には香月との生活の風景が前面に出てくる。ダージリンの丘が見え、そして消える。病院のベッドが現れ、そして霞む。
「選択は常に難しい」
男は弦の横に立ち、共に窓を見つめた。「それが人間の条件だ。選択することで、人は自分自身を定義する」
弦は深くため息をついた。科学者として、彼は常に客観的な真実を追求してきた。しかし今、彼は主観的な選択を迫られていた。どの現実が「真実」なのか、それを決めるのは彼自身だった。
「もう一つの選択肢もある」
男の声は穏やかだったが、その言葉は空間に波紋を広げた。弦は男を見つめた。男の目には、星の光のような輝きがあった。
「どういう意味だ?」
「君はここに留まることもできる」
男はそう言って、白い空間を手で示した。「量子の狭間。可能性の交差点。ここなら、君はすべての現実を同時に観察することができる。すべての可能性を体験することができる」
弦の心が高鳴った。すべての可能性を同時に観察する。それは科学者としての彼の究極の夢ではないか。宇宙の真理を、その全体像において理解する可能性。
「私も…観測者になれるのか」
男は弦の理解の速さに微笑んだ。「そう。君も観測者になれる。量子の狭間に留まり、無限の可能性を持つ存在に」
弦は白い空間を見回した。この場所は最初、彼にとって異質で不安を感じさせるものだった。しかし今、その無限の可能性に魅了されていた。ここにいれば、彼はすべての答えを見つけることができるかもしれない。量子物理学の最深部の謎を解き明かすことができるかもしれない。
「しかし、代償もある」
男は弦の思考を読み取ったかのように続けた。「ここに留まれば、君は一つの現実に根を下ろすことはできない。愛することも、失うことも、真の意味で『生きる』こともできない。君は観察者となり、参加者ではなくなる」
弦の胸に痛みが走った。科学の真理を追求する代わりに、人間としての体験を手放すこと。それは彼が望むことだろうか。
「選択肢は二つ」
男は弦の目を見つめた。「量子の狭間に留まり、無限の可能性を持つ『観測者』になるか、元の世界に戻るか」
弦は窓に映る現実を再び見つめた。それぞれの現実には、それぞれの彼が存在していた。研究室の弦。香月と共に生きる弦。ダージリンで選択を迫られる弦。病院のベッドで眠る弦。どれが「本当の彼」なのだろうか。
「元の世界とはどれだ?」
弦は男に問いかけた。男は微笑み、弦の肩に手を置いた。
「それを選ぶのもキミだ」
その言葉は、弦の心に深く沈み込んだ。彼自身が自分の現実を選ぶのだ。彼自身が自分の真実を定義するのだ。それは哲学的な問いであると同時に、極めて個人的な選択だった。
弦は窓から離れ、白い空間の中を歩き始めた。彼の足音は存在せず、彼の影も落ちなかった。この無重力のような場所で、彼は自分の思考だけを頼りに決断を下さなければならなかった。
「私は科学者だ」
弦は声に出して言った。「真理を追求することが、私の人生だった」
男は黙って彼を見つめていた。弦は続けた。
「観測者になれば、すべての答えを知ることができる。すべての謎を解き明かすことができる」
彼の声は白い空間に響き、そして吸収されていった。
「しかし、それは本当に『私』なのだろうか」
弦は立ち止まり、自分自身に問いかけた。科学者としての彼は真理を求めてきた。しかし、人間としての彼は何を求めてきたのだろうか。
彼は再び窓に近づいた。今、窓には四つの鮮明な映像が並んで映っていた。四つの可能性。四つの人生。
研究室での弦は、「猫の舌」パターンの謎に取り組んでいた。その目には情熱と探究心が宿っていた。それは確かに「彼」の一部だった。
香月と共に生きる弦は、安定と愛情の中で研究を続けていた。彼の目には穏やかな満足感があった。それも「彼」の一部だった。
ダージリンの弦は、真理子との別れの岐路に立っていた。彼の目には苦悩と決断の色があった。それもまた「彼」だった。
病院のベッドで眠る弦は、意識の境界線上にあった。彼の体は弱々しく見えたが、その存在は確かだった。それも「彼」だった。
「すべてが私だ」
弦は呟いた。「しかし、どれが本当の私なのか」
男は彼の傍らに立ち、静かに言った。「すべての可能性の中から、一つを選ぶこと。それが『本当の自分』を定義することだ」
弦は深く息を吸い込んだ。彼の心の中で、ある考えが形を取り始めていた。
「本当の自分がいる場所」
彼はゆっくりとその言葉を口にした。「それが私の戻るべき場所だ」
男は頷いた。「では、その場所はどこだ?」
弦は窓に映る四つの現実を見つめた。それぞれに彼の一部があった。しかし、彼の心は一つの答えに向かっていた。
「私は…」
弦は言いかけて、言葉を切った。彼は目を閉じた。答えは外側ではなく、内側にあった。彼の心の中に。彼の存在の核心に。
彼が目を開けたとき、彼の目には決意の色が宿っていた。
「私はもう決めた」
弦は男を見つめた。男の目には、知っていたという色が浮かんでいた。
「判断は下したようだな」
男は弦の表情を見て言った。その声には、わずかな満足感が混じっていた。
「私は戻る」
弦は言った。「本当の自分がいる場所に」
男は微笑んだ。それは師が弟子の成長を見守るような笑顔だった。
「選択は?」
男は問いかけた。弦は窓に映る四つの現実の一つを指差した。
「あれが私の場所だ」
窓の中の映像が鮮明になり、他の可能性は徐々に霞んでいった。男は頷き、弦の肩に手を置いた。
「良い選択だ」
男の声には、本心からの賛同が込められていた。「その現実の中で、君は真の意味で『生きる』ことができるだろう」
弦は選んだ現実を見つめた。その映像は今、窓全体を占めていた。他の可能性は消え、ただ一つの道だけが残っていた。彼が選んだ道。彼が本当の自分だと感じる道。
「行く準備はできたか?」
男は静かに尋ねた。弦は深く息を吸い込み、覚悟を決めた。
「準備はできている」
男は弦の前に立ち、両手を彼の肩に置いた。二人の目が合った。男の瞳の中に、弦は無数の星が瞬くのを見た。まるで宇宙全体がその中に映っているかのように。
「行きなさい」
男はそう言って、弦を窓の方へと優しく押した。弦は窓に近づき、その表面が水のように波打つのを見た。それは鏡と同じ現象だった。彼の手が窓に触れると、それは液体のように彼の指を受け入れた。
「さようなら」
弦は振り返り、男に別れを告げた。男は一歩後ろに下がり、弦に道を譲った。
「さようならではない」
男は微笑んだ。「また会うだろう。次に君が選択の岐路に立つとき」
弦はその言葉の意味を考える暇もなく、窓に身を委ねた。彼の体は液体の中に溶け込むように、選んだ現実の中に吸い込まれていった。
白い空間が彼の視界から消え、彼の選んだ現実の色彩と音と匂いが、彼の感覚を満たし始めた。弦は自分の選択を信じ、未知なる未来へと一歩を踏み出した。
第15章
弦は窓に身を委ねた。彼の体は、水中に落ちた墨のように、現実の中に拡散していった。彼の意識は一度、完全な闇の中に沈み込んだ。そこには何もなかった。音も光も、感覚も思考も。ただ存在だけがあった。
そして、彼は目を閉じた。
それは奇妙な感覚だった。すでに闇の中にいるのに、さらに目を閉じるという行為。しかし、その瞬間、何かが変わった。闇の中に、かすかな色彩が生まれた。それは彼の意識の奥底から湧き上がってくる記憶の色だった。
最初に訪れたのは香りだった。
微かな、しかし確かなダージリンティーの香り。若葉の緑の香り、土の湿り気を含んだ香り、そして太陽に温められた茶葉の甘く芳醇な香り。それは弦の記憶の中で最も鮮明な感覚だった。
香りは記憶を運んでくる。
弦は、自分がかつて忘れていた記憶の海に潜り込んでいった。それは彼がアクセスできなかった記憶、あるいは意図的に閉じ込めていた記憶だった。しかし今、その記憶の扉が開かれていた。
学生時代。彼が二十二歳の時。博士課程一年目の春。大学のプログラムで、インドのダージリン地方を訪れたときのこと。
記憶は鮮明さを増していった。
ヒマラヤ山脈の麓に広がる茶園。起伏ある丘陵地帯に、整然と並ぶ茶樹。風が吹くと、その緑の海が波打つように揺れる光景。遠くには雪を頂いた山々が連なり、空は青く、雲は白く、空気は冷たく澄んでいた。
そして、彼の隣には真理子がいた。
黒い長い髪が風に揺れる。彼女は薄い青のワンピースを着て、首に白いスカーフを巻いていた。彼女の横顔は、山の稜線のように美しく、その瞳は遠くを見つめ、何かを夢見るように輝いていた。
「きれいね」
彼女の声が弦の記憶の中で蘇った。それは風鈴のように澄んだ声だった。弦は頷いていた。確かに美しい風景だった。しかし彼の目は、風景よりも彼女を見ていた。
二人は丘の上に立っていた。茶園を見下ろすその場所は、観光客向けの小さな展望台で、木製のベンチが置かれていた。二人はそこに腰掛け、持参したダージリンティーを飲みながら、遠くの山々を眺めていた。
「私ね、将来は量子物理を研究したいの」
真理子は突然言った。彼女の声には決意が込められていた。弦は驚いて彼女を見た。
「そうなのか?てっきり考古学を専攻すると思っていた」
彼女は小さく笑った。その笑顔は、彼の心を温かくした。
「みんなそう思うの。だって私、過去の遺物や古代文明に興味があるって言ってたから。でも、本当に知りたいのは、時間の本質なの」
彼女はカップを両手で包み、その温かさを感じているようだった。
「時間の本質?」
弦は興味を持って尋ねた。物理学専攻の彼にとって、それは魅力的なテーマだった。
「ええ。考古学は過去を掘り起こす学問でしょう?でも私は、なぜ過去が『過去』なのか、なぜ私たちは一方向にしか時間を体験できないのか、そういうことに興味があるの」
彼女の言葉に、弦の心は強く共鳴した。彼自身も時間の非対称性に関心を持っていた。物理法則のほとんどは時間に対して対称なのに、なぜ私たちの体験する時間は一方向なのか。それは物理学の大きな謎の一つだった。
「量子力学が答えを持っていると思うの」
真理子は続けた。「量子状態は観測されるまで確定しない。それは時間の流れとどう関係しているのかしら」
弦は彼女の洞察力に感銘を受けた。彼女は文系学部の学生だったが、その思考は鋭く、深かった。
「一緒に研究しないか?」
弦は思わず言った。その言葉は彼の心の奥底から湧き上がってきたものだった。真理子は驚いたように彼を見た。その瞳に、弦は何かの光を見た気がした。
「本当に?」
「ああ。僕は量子もつれの研究をしている。時間の非対称性とも関係がある。君の視点があれば、新しい発見があるかもしれない」
真理子の顔に、明るい笑顔が広がった。それは朝日のように、弦の心を照らした。
「素敵ね。一緒に宇宙の謎を解き明かすのは」
二人はダージリンティーを飲みながら、未来の研究について語り合った。量子もつれ、時間の本質、観測の役割。会話は弾み、時間はあっという間に過ぎていった。太陽が西に傾き始め、茶園は金色に染まっていった。
「私たち、これからどうなるのかしら」
真理子は突然、静かに言った。その言葉には二重の意味があった。彼らの研究の行方と、二人の関係の行方。弦はその両方を理解した。
「わからない」
弦は正直に答えた。「でも、それを一緒に見つけていきたい」
彼の言葉に、真理子は優しく微笑んだ。彼女の手が、弦の手に触れた。その温かさが、彼の心に深く沈み込んでいった。
時は流れ、二人は日本に帰国した。真理子は予定通り物理学科に転科し、弦と同じ研究室で量子物理を学び始めた。二人は研究パートナーとして、そして恋人として、日々を過ごした。彼らの論文は注目を集め、二人の将来は明るく見えた。
しかし、運命は時に残酷だ。
三年目の冬、真理子は重い病に倒れた。診断は悪性脳腫瘍。手術は成功したが、彼女は長期の治療を余儀なくされた。弦は彼女の傍らにいて、研究を続けることを約束した。彼らは一緒に闘った。病気と、そして時間と。
ある雨の日、病院のベッドで、真理子は弦に言った。
「私たちの研究、続けてね」
弦は必死で頷いた。「もちろんだ。君が回復したら、また一緒に」
真理子は悲しげに微笑んだ。「私はもう長くないわ」
「そんなことはない!」
弦は叫んだ。しかし、彼の心は真実を知っていた。医師たちの表情が、検査結果が、すべてを物語っていた。
「私ね、思うの」
真理子は弦の手を握りながら言った。「時間は線じゃなくて、点の集合なのかもしれない。そして私たちは、その点の間を移動しているだけなのかも」
弦は彼女の言葉を心に刻んだ。それは彼らの研究の核心に迫る洞察だった。
「もし私がいなくなっても、いつか別の点で、私たちはまた会えるわ」
彼女の声は弱かったが、その目は強い光を放っていた。
それから一ヶ月後、真理子は静かに息を引き取った。春の訪れを告げる桜のつぼみが膨らみ始めた日だった。弦は彼女の死を受け入れることができなかった。彼は研究に没頭し、真理子との約束を果たそうとした。しかし、彼の心には大きな穴が開いていた。
時は流れ、弦は真理子との記憶を心の奥深くに封印した。あまりにも痛みが大きかったから。彼は自分が選んだ道、科学の道を進んだ。准教授となり、量子もつれの研究を続けた。そして、彼は「猫の舌」パターンを発見した。
それは真理子の言葉の証明だった。時間は点の集合で、私たちはその間を移動している。彼の実験は、その移動を可能にする扉を開いてしまった。
記憶の中で、弦は再びダージリンの丘に立っていた。真理子は彼の横におり、彼女の手は彼の手を握っていた。茶園は夕日に染まり、空は紫色になり始めていた。
「私たちは、もう一度選択できるのね」
記憶の中の真理子が言った。それは過去の記憶ではなく、弦の意識が作り出した対話だった。しかし、その声は確かに彼女のものだった。
「そうだな」
弦は応えた。「僕は選択をした。本当の自分がいる場所を選んだ」
「それはどこ?」
真理子の問いに、弦はゆっくりと目を開いた。記憶の中のダージリンの丘が、彼の意識から薄れていった。代わりに、新たな現実が彼の前に姿を現し始めた。それは彼が選んだ世界。彼が本当の自分だと感じる場所。
彼は深く息を吸い込んだ。その肺に満ちたのは、懐かしくも新鮮な空気だった。そして彼の鼻腔には、微かなダージリンティーの香りが残っていた。
第16章
光が最初だった。まばゆい、白い光。弦の意識がゆっくりと浮上するにつれ、その光は形を取り始めた。長方形の蛍光灯。その輪郭がぼんやりと見えてきた。彼は瞬きをして目を慣らそうとした。まぶたは重く、砂が詰まったように感じられた。
次に音が戻ってきた。規則的な電子音。ピッ、ピッ、ピッ。心拍モニターの音だとわかるまでに、少し時間がかかった。その音に混じって、他の音が聞こえ始めた。廊下を行き交う足音。遠くで交わされる会話。窓の外から聞こえる車のエンジン音。
そして匂い。消毒液の鋭い香り。病院特有の清潔だが無機質な空気。しかし、その下に別の香りがあった。微かな花の香り。そして、ダージリンティーの芳醇な香り。
「弦さん?」
女性の声が彼の耳に届いた。弦は声のする方向に頭を向けようとしたが、首の筋肉が思うように動かなかった。代わりに、彼の視界に女性の顔が入ってきた。長い黒髪、優しい瞳、心配に満ちた表情。香月だった。
「弦さん、聞こえる?」
彼女の声には、希望と不安が混ざり合っていた。弦はかすかに頷こうとした。その小さな動きに、香月の目が大きく開いた。
「目を覚ましたのね!」
彼女の声は震えていた。弦はもう一度瞬きをした。今度は、より意識的に。それが彼の「はい」という返事だった。
「お医者さんを呼んでくる!」
香月は立ち上がり、部屋を出ていった。彼女の足音が廊下に消えていく。弦は一人残され、天井を見つめた。白いタイルの天井。どこにでもある病院の天井。彼はここがどこなのか、なぜ自分がここにいるのか、記憶を辿ろうとした。
断片的な記憶が浮かんでは消えた。ダージリンの丘。研究室の実験装置。「猫の舌」パターン。香月との生活。明日香の消失。すべてが現実であり、同時に夢のようだった。
しばらくして、部屋のドアが開き、複数の足音が聞こえた。弦は視線を動かそうとした。香月が戻ってきていた。彼女の隣には白衣を着た医師、そして—驚いたことに—高嶺明日香の姿があった。
「篠原先生!」
明日香の声には安堵が満ちていた。彼女の目は赤く、泣いていたのかもしれなかった。彼女はいつもの研究室での姿とは違い、カジュアルな服装をしていた。紺色のブラウスに黒のパンツ。普段の知的な印象はそのままに、より柔らかな雰囲気を醸し出していた。
「篠原さん、私は佐藤医師です」
医師が弦のベッドサイドに近づいた。「少し検査をさせてください」
医師は懐中電灯を取り出し、弦の瞳孔を確認した。次に、彼の手を握り、「握り返してください」と指示した。弦は力を込めようとしたが、筋肉は思うように動かなかった。わずかな圧力をかけるのが精一杯だった。
「良い反応です」
医師は満足げに言った。「篠原さん、あなたは約2ヶ月間昏睡状態にありました。筋力の低下は避けられません。これからリハビリが必要になりますが、意識がはっきりしているのは非常に良い兆候です」
弦は混乱していた。2ヶ月間?彼の意識の中では、それは数日間の出来事に過ぎなかった。彼は喉を鳴らそうとした。声を出したかった。
「水…」
かすれた声だったが、確かに彼の声だった。香月が素早く動き、小さなプラスチックカップに水を注ぎ、ストローを彼の唇に近づけた。弦は少しずつ水を飲んだ。冷たい水が乾いた喉を潤し、僅かな安堵をもたらした。
「何が…」
彼は言いかけて止まった。話すのはまだ難しかった。
「飛行機事故よ」
香月が優しく説明した。「ダージリンから東京に戻る途中、着陸時にトラブルがあって。あなたは頭を強く打ったの」
ダージリン。その言葉が弦の記憶を刺激した。彼は確かにダージリンを訪れていた。国際量子物理学会議に参加するために。そして、そこで…
「真理子…」
彼は思わず名前を口にした。香月の表情が一瞬、こわばった。彼女は明日香と視線を交わした。
「真理子さんも同じ飛行機に乗っていたわ」
香月が静かに言った。「彼女は軽傷で済んだの。あなたのお見舞いにも何度か来てくれたわ」
弦の心に安堵が広がった。真理子は無事だった。彼の記憶の中で、彼女は病気で亡くなっていた。しかし、それは別の現実、あるいは彼の昏睡状態が作り出した夢だったのかもしれない。
「みなさん、篠原さんはまだ疲れやすい状態です」
医師が声をかけた。「長い会話は避けて、休ませてあげてください」
香月と明日香は頷いた。医師は簡単な説明を残して部屋を出た。弦のバイタルサインは安定しており、これからさらなる検査とリハビリが必要だということだった。
部屋には弦と二人の女性だけが残された。香月は弦のベッドサイドに座り、彼の手を握った。彼女の手は温かく、確かだった。
「心配したのよ」
彼女の声は震えていた。「もう二度と目を覚まさないんじゃないかって…」
弦は彼女の手を握り返そうとした。彼の指はかすかに動いただけだったが、香月はそれを感じ取り、微笑んだ。
「研究は…」
弦は尋ねた。彼の頭の中には、「猫の舌」パターンの理論が鮮明に残っていた。昏睡状態の間、彼の意識は別の世界を旅していたのかもしれないが、その中で彼は重要な発見をしていた。量子状態の観測に関する根本的な洞察。それは彼の研究を一変させる可能性を秘めていた。
「研究室は大丈夫よ」
明日香が答えた。「私が先生の実験データを整理し、継続しています。大河内教授も心配してくださって、研究予算も確保されています」
弦は安心した。彼の研究は継続されていた。彼が戻れる場所があった。
「ノート…鉛筆…」
彼は言った。二人の女性は不思議そうな顔を見合わせた。
「今は休んだ方が…」
香月が言いかけたが、弦は頭を振った。それは小さな動きだったが、彼の意志の強さを示していた。
「重要な…アイデア…」
明日香が理解したように目を見開いた。彼女はバッグから小さなノートと鉛筆を取り出し、弦に渡した。彼の手はまだ弱く、しっかりと握ることができなかった。明日香は彼を助けるように、ノートをベッドテーブルの上に置き、鉛筆を彼の指の間に挟んだ。
弦は力を振り絞って鉛筆を動かし始めた。最初は震える線に過ぎなかったが、徐々に形が現れてきた。波形。中央が盛り上がり、左右に緩やかに下降していく形。「猫の舌」パターン。そして、その周りに方程式が書かれていった。
明日香は息を飲んだ。彼女は書かれた方程式を理解できるほど知識があった。そして、その理論の革新性を感じ取れるだけの洞察力も持っていた。
「これは…素晴らしいわ」
彼女は畏敬の念を込めて言った。「量子観測に関する全く新しいアプローチですね」
弦は微かに微笑んだ。彼の昏睡状態での体験は、単なる夢ではなかった。彼の意識は量子の領域を探索し、新たな理解を持ち帰っていたのだ。「猫の舌」パターンは、時間と空間と意識の境界に関する革命的な洞察を提供していた。
「理論を…完成させる…」
弦は言った。声はまだ弱かったが、その瞳には強い決意が宿っていた。
香月は弦の頬に触れた。彼女の指は優しく、彼の肌を撫でた。
「まずは回復に専念して」
彼女は言った。「それから一緒に研究を再開しましょう」
弦は頷いた。彼は疲れを感じ始めていた。短い会話と、わずかな記述でさえ、彼の体力を消耗させていた。彼の瞼が重くなっていくのを感じた。
「休んで」
香月が囁いた。「私たちはここにいるから」
弦は再び目を閉じた。しかし、今度は恐れることなく。彼は戻ってくるべき場所を選んだのだ。香月と明日香がいる世界。彼の研究が続けられる世界。そして、真理子も生きている世界。彼の意識は平和な眠りに落ちていった。
しかし、彼の頭の中では、「猫の舌」パターンがまだ脈動していた。量子の状態が観測後も「開かれた状態」を維持するという理論。それは宇宙の理解を変える可能性を秘めていた。そして弦は、それを現実の世界に持ち帰ることに成功したのだ。
窓の外では、春の日差しが病室に差し込んでいた。新しい季節、新しい始まりの予感。弦の人生も、今また新たな章を開こうとしていた。
第17章
リハビリは辛かった。筋肉が萎縮し、最初は自分の体が自分のものではないような感覚だった。弦はベッドから車椅子へ、車椅子から歩行器へ、そして歩行器から杖へと、一歩ずつ進んでいった。医師たちは彼の回復の速さに驚いていた。それは彼の強い意志によるものだと言った。しかし弦は知っていた。彼を前進させているのは、「猫の舌理論」を完成させたいという情熱だった。
退院から六ヶ月後、弦は完全に研究生活に戻っていた。大学は彼のために特別な研究室を用意し、助教として高嶺明日香を正式に配属した。彼女は弦の昏睡中も研究を続け、彼のノートを整理していた。二人の協力関係は以前よりも強固になっていた。
弦の書き記した「猫の舌理論」は、量子力学の分野に新しい風を吹き込んだ。それは量子状態の観測に関する根本的な再考を促すものだった。通常、量子状態は観測によって一つの状態に収束する。シュレーディンガーの猫は、箱を開けた瞬間に生きているか死んでいるかが決まる。しかし、弦の理論は、特定の条件下では観測後も量子の「開かれた状態」を維持できることを示していた。
「これは、量子コンピュータの設計に革命をもたらす可能性があります」
ある朝、明日香は興奮した様子で言った。彼女は夜通し計算を続け、弦の理論の応用可能性を探っていた。
「現在の量子コンピュータは量子状態の不安定さに悩まされています。デコヒーレンスが大きな壁になっている。でも、先生の理論を応用すれば、量子状態を安定させたまま操作できるかもしれない」
弦は頷いた。彼の心の中には、明日香が言及していない別の可能性も浮かんでいた。「猫の舌理論」は単に量子コンピュータの改良に留まらず、現実の境界そのものを操作する可能性を秘めていた。彼の昏睡中の体験—複数の現実を同時に認識すること—それは理論上、再現可能かもしれなかった。
しかし、その可能性については、弦は慎重だった。自分の体験を科学的に説明することは難しく、そしてそれが真実だとしても、現実の境界を人為的に操作することの倫理的問題は計り知れないものがあった。
彼は研究に没頭したが、個人の生活も進展していた。香月との関係は、彼の事故と回復の過程を経て、より深いものとなっていた。彼女は彼の看病に献身し、彼の研究を理解しようと努めていた。そして、彼の退院から一年後、二人は結婚することに決めた。
結婚式の朝、弦は早く目を覚ました。陽光が障子紙を通して柔らかく部屋を照らしていた。彼は布団から起き上がり、窓辺に立った。二人が選んだのは、東京郊外の古い日本家屋を改装した結婚式場だった。庭には手入れの行き届いた日本庭園があり、池には錦鯉が悠々と泳いでいた。
弦は深く息を吸い込んだ。春の空気は新鮮で、桜の香りを含んでいた。今日は彼の新しい人生の始まりの日だった。科学者としての彼の人生は既に新たな軌道に乗っていた。「猫の舌理論」の発表は学会で大きな反響を呼び、世界中の物理学者が彼の研究に注目していた。そして今日、個人としての彼の人生も新しい章を迎えようとしていた。
彼は庭に下りてみることにした。結婚式の準備はまだ始まっておらず、庭は静寂に包まれていた。朝露が草木を潤し、太陽の光に輝いていた。弦はゆっくりと石畳の小道を歩いた。杖は必要なくなっていたが、長い散歩をするときはまだ心許なかった。
彼が池のほとりに立ったとき、水面に映る自分の姿を見つめた。昏睡から目覚めてから、彼は時々、自分が本当に「ここ」にいるのか疑問に思うことがあった。あの白い空間で彼が選んだ世界。それは本当に「現実」なのだろうか。それとも彼はまだ、量子の狭間をさまよっているのだろうか。
「現実とは何か」
弦は静かに呟いた。彼の「猫の舌理論」は、その問いに科学的な切り口から挑戦するものだった。現実は観測によって確定するが、その確定のプロセスは従来考えられていたよりも柔軟だ。観測者と被観測者の関係は、より複雑で相互的なものかもしれない。
そんなことを考えていると、池の向こう側の茂みが揺れ、一匹の猫が現れた。白と黒のまだらの毛皮を持ち、黄緑色の瞳を持つ猫。弦は息を飲んだ。彼の昏睡中の「夢」に現れた猫と酷似していたからだ。
猫は弦をじっと見つめていた。その瞳には、通常の動物には見られない知性が宿っているように見えた。弦は動かずに猫を見返した。二人の間に奇妙な理解が流れているような感覚があった。
そして、猫は舌を出した。
弦の心臓が跳ねた。猫の舌は、通常の猫の舌とは明らかに異なっていた。それは奇妙な波形を描いていた。中央部分が高く盛り上がり、左右に緩やかに下降していく形。「猫の舌」パターンそのものだった。
幻覚か。弦は目を擦った。しかし、再び見たときも、猫はそこにいた。そして、その舌は依然として彼の理論の核心を体現するかのような形状を保っていた。
猫は一瞬、弦を見つめたまま動かなかった。そして突然、身を翻し、茂みの中に消えていった。弦は思わず追いかけようとしたが、足を踏み出した瞬間、声が彼を呼び止めた。
「弦さん、そんなところにいたのね」
香月の声だった。弦は振り返った。彼女は既に準備を始めており、軽装ながらも美しく装っていた。彼女の髪は半ば上げられ、朝の光に艶やかに輝いていた。
「何か見つけたの?」
彼女は弦が見つめていた茂みの方を見た。弦は一瞬、猫のことを話すべきか迷った。しかし、どう説明すればいいのだろう。「自分の理論を体現した舌を持つ猫がいた」とでも言うべきか。それは科学者としての彼の信頼性に関わる問題だった。
「いや、何でもない」
弦は微笑んで答えた。「少し緊張していたから、朝の空気を吸いに来ただけだ」
香月は彼の腕に手を回した。彼女の温もりが、弦の心を安定させた。
「今日という日を待っていたわ」
彼女は静かに言った。弦は頷き、彼女の手を握った。
「僕も同じだ」
彼は心からそう思っていた。香月との未来。それは彼が選んだ道だった。どの現実が「真実」なのかという哲学的な問いは、今この瞬間には重要ではなかった。彼はここにいる。この現実に。そして、彼はそれを大切にしたいと思った。
二人は庭から館内へと戻っていった。結婚式の準備が本格的に始まり、招待客も次々と到着し始めていた。大河内教授、研究室の同僚たち、そして—弦の胸が少し締め付けられた—真理子の姿もあった。彼女は微笑みながら弦と香月に祝福の言葉を述べた。彼女の目には、かすかな寂しさがあったが、それは純粋な祝福の気持ちで覆われていた。
式は伝統的な神前式で執り行われた。弦と香月は白と黒の装束をまとい、親族や友人たちの見守る中、固い誓いを交わした。式の間、弦の心は穏やかだった。彼の選択は正しかったのだと、彼は感じていた。
披露宴も和やかな雰囲気で進んだ。大河内教授の少し長すぎるスピーチ、研究室の若手たちによる少し大胆すぎる余興、そして明日香による感動的な祝辞。すべてが完璧だった。
夕暮れ時、披露宴も終盤に差し掛かったとき、弦は少し席を外し、再び庭に出た。西日が池の水面を黄金色に染め、影が長く伸びていた。彼は深く息を吸い込んだ。
「新しい始まりだ」
彼は自分自身に言い聞かせるように呟いた。個人としても、科学者としても、彼の人生は新たな地平に向かって進んでいた。「猫の舌理論」は、単なる理論的興味を超え、実用化への道を進み始めていた。量子コンピュータの新設計、安全な量子暗号、そして—まだ誰にも明かしていないが—現実の境界を探索する技術。
弦は空を見上げた。夕暮れの空には、既に数個の星が輝き始めていた。あの白い空間で「観測者」と名乗った男の言葉が蘇ってきた。「時間は線ではなく、点の集合だ」。彼の理論は、その言葉を科学的に裏付けるものだった。
池の向こう側、茂みの陰に、再び動きがあった。弦の目は、自然とその方向に引き寄せられた。
猫がいた。同じ猫だ。それは弦を見つめ、そして再び舌を出した。「猫の舌」パターンが再び現れた。
今度は幻ではない、と弦は確信した。この猫は何らかの形で、彼の理論と、彼の体験と、そして彼の選択と繋がっていた。それは偶然ではなく、意味のある出現だった。
「弦さん、みんなが待ってるわよ」
香月の声が彼の背後から聞こえた。弦は振り返り、妻となった女性に笑顔を向けた。彼女は美しく、強く、そして彼を理解しようとしてくれる人だった。
「すぐに行くよ」
弦は言い、再び池の方を見た。猫はもういなかった。しかし、彼はそれが実在したことを知っていた。現実の境界は、彼が考えるより薄く、柔軟なものなのかもしれない。そして彼の「猫の舌理論」は、その境界を探索し、理解し、そして時に越える鍵となるものだった。
弦は香月に近づき、彼女の手を取った。二人は肩を寄せ合い、館内へと歩いていった。新たな人生が、今始まったばかりだった。
第18章(エピローグ)
五年の歳月が過ぎていた。
スイス、ジュネーブ。国際理論物理学会の大講堂は、世界中から集まった物理学者たちで埋め尽くされていた。会場に漂う緊張と期待が、まるで空気を帯電させているようだった。この日のメインスピーカーは、「猫の舌理論」の創始者、篠原弦だった。
「猫の舌理論」は、発表から五年の間に量子物理学の常識を覆した。初めは懐疑的な反応も多かったが、実験結果が次々と弦の理論を裏付け、今では新しい量子パラダイムの中心的存在となっていた。量子コンピュータは桁違いの処理能力を獲得し、量子暗号は絶対的な安全性を実現した。そして、まだ実験段階ではあるが、「現実干渉技術」も開発が進んでいた。
講演の時間が近づいていた。舞台裏で、弦は水を一口飲み、深呼吸をした。彼の横には、今は共同研究者となった高嶺明日香がいた。彼女は弦のノートに最後の確認を入れていた。
「本番に弱いんですから」
明日香は弦の緊張を察して、小さく笑った。彼女の研究者としての評価も高まり、今では「猫の舌理論」の応用研究の第一人者として知られていた。
「今日は特別だからな」
弦は微笑みながら答えた。この講演には、彼のキャリアの集大成とも言える新理論の発表が含まれていた。「量子観測の相対性理論」と名付けられたその理論は、観測者と被観測者の関係性を根本から問い直すものだった。
客席では、最前列に香月の姿があった。彼女の隣には、二人の三歳になる娘・波音が座っていた。波音は小さな手に子供用の双眼鏡を持ち、父親が登場するのを心待ちにしていた。
「そろそろです」
明日香が時計を見て言った。弦は頷き、講演用の資料を最終確認した。
「行こう」
彼は言い、深く息を吸い込んだ。舞台に上がる瞬間、いつも彼は不思議な感覚に襲われた。まるで異なる現実への扉を開けるかのような感覚。それはあの体験以来、彼の中に残り続けていた感覚だった。
舞台に立つと、大きな拍手が彼を迎えた。弦は聴衆に向かって軽く頭を下げ、マイクの前に立った。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
彼の声は落ち着いており、自信に満ちていた。五年前、病院のベッドから目覚めたばかりの彼からは想像もできないほどの変化だった。
講演は予定通り進んだ。弦は「猫の舌理論」の基礎から始め、これまでの応用研究の成果を紹介し、そして新たな「量子観測の相対性理論」へと話を進めていった。聴衆は彼の言葉に聞き入り、時に驚きの声を上げ、熱心にメモを取っていた。
「量子状態は観測されるまで不確定だと言われています」
弦は説明を続けた。「しかし私たちの研究は、『観測』という行為自体もまた相対的であることを示しています。観測者と被観測者の境界は、私たちが考えるほど明確ではありません」
彼はスクリーンに複雑な方程式を映し出した。それは「猫の舌」パターンを基にした、新しい量子観測モデルだった。
「この方程式が示すように、観測者の意識状態もまた量子的な重ね合わせを持ちうるのです。そして、その重ね合わせは現実の認識に直接的な影響を与えます」
弦の言葉に、会場は静まり返った。彼は続けた。
「これは哲学的な問いにも繋がります。『現実とは何か』『意識とは何か』。私たちの理論は、これらの問いに科学的なアプローチを提供するものです」
彼の声は会場全体に響き渡り、その言葉一つ一つが聴衆の心に刻まれていくようだった。彼は講演の山場に差し掛かり、最新の実験結果を紹介し始めた。
しかし、次の言葉を発しようとしたとき、彼の目が聴衆の一角に釘付けになった。
そこには「観測者」と名乗った男が座っていた。グレーのスーツを着た、平凡な風貌の男。しかし、その眼差しには星の輝きがあった。弦が見つめ返すと、男は微笑み、小さく頷いた。そして、彼の手にあったダージリンティーのカップを少し持ち上げ、弦に向かって敬意を表するように掲げてみせた。
弦の心臓が跳ねた。彼はほんの一瞬、言葉を失った。会場は彼の沈黙に気づき、小さなざわめきが起こった。
「篠原先生?」
明日香の心配そうな声が袖から聞こえた。弦は我に返り、笑顔を浮かべた。
「失礼しました」
彼は言い、講演を再開した。彼の視線が再び男の座席に向けられたとき、そこに男の姿はなかった。空席だった。あたかも最初から誰もいなかったかのように。
講演は大成功のうちに終わった。質疑応答でも鋭い質問に的確に答え、聴衆からの拍手は鳴り止まなかった。後日、この講演は「量子物理学の新時代を開いた歴史的瞬間」と評されることになる。
舞台を降りた弦を、香月と波音が待っていた。波音は小さな腕を広げて父親に飛びついた。
「パパ、すごかった!」
彼女は言った。本当に理解していたかどうかは疑わしかったが、その純粋な賞賛は弦の心を温かくした。
「ありがとう」
彼は娘を抱き上げ、香月に微笑みかけた。香月の目には誇りの色が浮かんでいた。
「素晴らしい講演だったわ」
彼女は言い、弦の頬にキスをした。「でも、途中で少し固まっていたわね。何かあったの?」
弦は一瞬、迷った。彼は「観測者」の男について、香月に話したことはなかった。昏睡中の体験、白い空間での選択、現実間の移動。それらは彼だけの秘密だった。
「ちょっと、昔のことを思い出しただけだよ」
彼は答え、娘の髪を優しく撫でた。それは嘘ではなかった。
その夜、パーティの後、弦は一人ホテルの部屋に戻った。香月と波音は別の部屋で既に眠りについていた。明日は家族でスイスの湖畔を訪れる予定だった。学会の公式日程が終わり、ようやく彼らの小さな休暇が始まる。
弦はベッドに座り、手元の小さな缶を開けた。それは彼がいつも持ち歩いている、古いダージリンティーの缶だった。缶からは芳醇な茶葉の香りが立ち上った。彼はその香りを深く吸い込んだ。
彼は今でも自問することがある。自分はどの現実に戻ってきたのだろうか。あの白い空間で彼が選んだ世界は、本当に「彼の世界」なのだろうか。ときに彼は、自分の記憶と他者の記憶の間にわずかな齟齬を感じることがある。まるで彼が異なる現実の記憶を持っているかのように。
しかし、それは重要なのだろうか。彼は香月を愛し、彼女も彼を愛している。波音は彼らの愛の結晶だ。彼の研究は人類の科学的理解を前進させている。そして時々、庭に現れる白黒まだらの猫は、彼だけに「猫の舌」を見せる。
彼は窓際に立ち、ジュネーブの夜景を眺めた。星空が湖面に反射し、幻想的な光景を作り出していた。彼は自分が理解していることを再確認した。
量子の世界では、観測するまですべての可能性が共存している。
そして、彼の理論が示したように、現実と意識の境界は私たちが考えるほど明確ではない。彼の「猫の舌理論」は、その境界を探求し、時に越える方法を提供するものだった。
弦は深く息を吸い込み、缶を閉じた。明日、彼は家族と一日を過ごす。そして、東京に戻ったら、また研究を続ける。彼の研究室の机の上には今も、このダージリンティーの缶と同じものが置かれている。それは彼の旅の始まりであり、道標であり、そして証拠でもあった。
彼は最後にもう一度、窓の外を見た。ふと、湖の向こう岸に立つ一人の男の姿が目に入った。距離が遠すぎて顔は分からなかったが、弦は誰だか分かった。男はこちらを見ていたが、弦が気づいたことを察したのか、小さく手を振り、そして闇の中に溶けていった。
弦は微笑んだ。彼は独り言のように、しかし確かな信念を込めて言った。
「すべての可能性は、どこかで実現している」
それは科学者としての彼の確信であり、一人の人間としての彼の希望でもあった。彼は窓を閉め、明日への準備をするために部屋の電気を消した。
闇の中で、彼はダージリンの香りをもう一度嗅いだ。その香りは彼を過去へと連れていき、同時に未来への扉を開いているようだった。すべての時間、すべての可能性が、この瞬間に共存している。弦はついに理解していた。
彼は真の観測者となったのだ。
<完>
作成日:2025/03/07
編集者コメント
前編、後編からなります。前編はこちら。
「特定の条件下では観測後も量子の「開かれた状態」を維持できる」とか、意味はわからないながらも、なんかそれっぽい理論があって、ついつい読んでしまいます。うまく書けています。エピローグの置き方もいいね。