『月影結界 第三部 永遠の守護者』イメージ画像 by SeaArt

月影結界 第三部 永遠の守護者

紹介「裏側の民」の脅威が現実世界に迫る中、陽一と美琴は最後の希望を託される。彼らは「夜明けの鴉」のリーダー・鴇田幸成との決戦に挑み、七つの鏡の欠片を集め「境界の鏡」を完成させなければならない。しかし、それは彼ら自身の大きな犠牲を伴うものだった。地球と月の境界が崩壊し始め、二つの世界の運命は彼らの決断にかかっている。幾千年を超えた魂の記憶が導く、愛と犠牲の物語が最終章を迎える。
ジャンル[SF]
文字数約37,000字

チャプター5 裏側の脅威

鏡の導き

迷宮の壁が軋む音が、古代の巨獣が目覚めるときのように響いた。天井から砂粒のような石屑が降り注ぎ、それは間もなく大雨となって二人の頭上に注ぐだろう。美琴みことは手のひらで鏡の欠片を強く握りしめた。その冷たさが彼女の手のひらを通して全身に伝わり、不思議と心を落ち着かせる。欠片は微かに青白い光を放ち、その光が壁の亀裂を照らし出していた。

「こっちよ」

美琴の声は、崩れゆく迷宮の中でも不思議と明瞭に響いた。彼女の後ろを陽一よういちが追う。彼の目は未だ音羽おとはの姿を探しているようだった。

「待て、音羽を追わなければ。あいつの目的がまだ…」陽一が言いかけたとき、美琴は振り返って彼の手首をきつく掴んだ。

「彼女を追っても無駄よ。今はここから出ることが先決だわ」

美琴の瞳には、陽一が今まで見たことのない強さがあった。まるで古い記憶の扉が開き、別の人格が彼女の中で目覚めたかのようだ。その目は月光のように冴えわたり、千年の歴史を見てきたような深みがあった。

天井から巨大な石材が落下し、二人が立っていた場所のわずか数メートル先に激突した。衝撃で床が揺れ、二人は思わず壁に体を寄せた。砂埃が舞い上がり、一瞬視界が遮られる。

「八尋、瓊瓊杵、天鳥船、神代の影よ、我を導きたまえ」

美琴の唇から滑るように流れ出した言葉は、彼女自身にも馴染みのないものだった。それでも言葉は自然と続き、まるで遠い記憶の海から引き上げられるように、次々と古い呪文が紡がれていった。

鏡の欠片の光が強まり、まるで太陽の一部を手に持っているかのように明るくなった。その光は迷宮の壁に反射し、一本の道を浮かび上がらせる。

「ついてきて」美琴は陽一の手を取り、光の道を辿って進み始めた。

陽一は混乱していた。龍馬りょうまの死、音羽の裏切り、そして目の前で起きていることすべてが現実とは思えなかった。それでも美琴の手の温もりは確かに実在した。それだけが彼を現実につなぎとめていた。

迷宮は彼らの背後で崩れ続けていた。まるで二人を飲み込もうとする巨大な獣の顎のように、壁が倒壊し、床が割れていく。それは現実の崩壊としか表現できないものだった。

「彼女は逃げた。彼女が解放しようとしていたものを知らない…」陽一は息を切らせながら言った。

美琴は走りながらも、陽一の方を一瞥した。彼女の顔には苦悩の色が浮かんでいた。告げなければならない真実と、それによって引き起こされるかもしれない混乱の間で揺れているようだった。しかし、この状況では真実を隠す時間はもうなかった。

「音羽が解放しようとしていたのは、単なる知識ではないわ」美琴は息を整えながら言った。「あれは『裏側の民』と呼ばれる存在。人間の恐怖や願望から生まれた精神エネルギー体よ」

彼らは狭い通路を抜け、少し広い空間に出た。そこで足を止めた美琴は、陽一の両肩をしっかりと掴み、真っ直ぐに彼の目を見た。

「彼らは何千年もの間、月の裏側に封印されてきた。でも今、その封印が崩れかけている」

陽一の頭には、月面で見た奇妙な光景、境界領域での記憶の断片、そして音羽の言葉が次々と蘇ってきた。それらが徐々に繋がり始め、一つの恐ろしい真実を形作っていく。

「それは…現実に干渉できるのか?」

「干渉するどころじゃないわ。彼らは人間の精神に寄生し、最終的には肉体をも乗っ取る。かつて地球上に栄えた文明は、この『裏側の民』によって内側から蝕まれ、崩壊していったの」

美琴の声には緊迫感があった。その瞳に映る恐怖は、単なる予測や推測からくるものではなく、実際に目にしたものからくる恐怖だった。それは彼女の前世の記憶からもたらされたものだろう。

「そして私たち、いや、正確には私と…あなた。私たちはこの闘いに何度も関わってきた」

美琴は言葉を選ぶように一瞬躊躇した。陽一の反応を窺いながら、彼女は続けた。

「私は『守護者』として封印を守る側だった。そして、陽一、あなたは…」

別の場所から大きな崩落音が響き、床が揺れた。二人はバランスを崩し、壁に背中をつけて支えを求めた。

「僕は?」

美琴は深呼吸をした。

「あなたは『破壊者』だった。『裏側の民』を解放しようとする側。あなたの魂は何度も転生を繰り返し、その度に封印を破ろうとしてきたの」

陽一の顔から血の気が引いた。彼の中に何かが呼応するのを感じた。それは彼の存在の最も深い部分、普段は意識することのない領域で目覚めつつあるものだった。

「僕が…破壊者?音羽が言っていたことは…」

「全て真実よ。でも、陽一、あなたは過去の魂の記憶に縛られる必要はないわ。今のあなたは科学者で、探求者。破壊者ではない」

美琴は陽一の頬に手を当てた。その温かさが彼を現実に引き戻す。

「前世の記憶は私たちの一部に過ぎないわ。それが全てじゃない」

陽一は美琴の言葉に救われる思いがした。けれど同時に、彼の内側では確かに何かが目覚めつつあった。音羽への共感、「裏側の民」への不思議な親近感。それらは全て彼の中の「破壊者」の名残なのだろうか。

迷宮の奥から、不気味な光の筋が伸びてきた。それは青白い蛇のようにうねりながら、二人に向かって這ってくる。

「何だ、あれは?」陽一は思わず後退った。

美琴の顔が緊張で強張った。

「『裏側の民』の触手よ。彼らはすでに境界領域に侵入し始めている」

彼女は鏡の欠片を高く掲げた。欠片から放たれる光が、不気味な青白い光と交差する。二つの光は互いに反発し合い、まるで生き物のように躍動していた。

「もう時間がないわ。月の鳥居へ急がなきゃ。そこからなら地球へ戻れる」

彼らは再び走り出した。迷宮は次第に崩壊の度合いを増し、まるで世界の終わりのような光景が広がっていた。壁に刻まれた文字や象徴が崩れ落ち、何千年も保存されてきた知識が砂と化していく。

陽一の頭の中では、科学者としての理性と「破壊者」としての本能が激しく対立していた。一方では全てを明らかにしたいという衝動、他方では人類を守りたいという願い。その両極の間で揺れる彼の心は、崩れゆく迷宮のようだった。

「美琴、僕は本当に…」

美琴は振り返らずに答えた。彼女の声は風のように柔らかく、しかし芯があった。

「あなたは今のあなた。それだけよ。過去は関係ない」

彼らの前に大きな門が現れた。それは月の表面に立つ鳥居の縮小版のようだった。門の向こう側には、淡い光の中に月面らしき風景が見えた。

美琴は鏡の欠片を門に向けて掲げた。欠片と門が共鳴し、光の弧を描き始める。

「行くわよ、陽一。信じて。あなたは今のあなた」

彼女の手を握り、陽一は深呼吸をした。過去が何であれ、今この瞬間、彼にできることは美琴を信じて前に進むことだけだった。彼らは共に、月の鳥居へと足を踏み入れた。

その瞬間、崩壊する迷宮の音は遠ざかり、二人を包み込んだのは宇宙の静寂と、月の無音の美しさだった。

再会

月面は牛乳の泡のように白く、足跡が永遠に残る場所だった。陽一と美琴は、月の鳥居から出てきた瞬間、宇宙服なしで月面に立っていることに気がついた。奇妙なことに、二人は普通に呼吸ができている。これが境界領域の余韻なのか、それとも鏡の欠片の力なのか、それは分からなかった。ただ、生きている。それだけが確かだった。

「基地に戻らなきゃ」美琴が言った。彼女の声は宇宙服のヘルメット通信のようにノイズが混じっていたが、不思議なことに陽一には明瞭に聞こえた。

遠くに見える月面基地は、灰色の砂の海に浮かぶ銀色の島のようだった。窓から漏れる光が、深い宇宙の闇の中で不自然なほどに明るく輝いている。しかし、その光は温かみがなく、どこか警戒すべきものに見えた。

二人は月の重力に身を任せながら、長い跳躍を繰り返して基地に向かった。まるで夢の中を歩いているような奇妙な浮遊感。陽一の頭の中では、科学者としての常識と目の前の非現実が激しく衝突していた。科学の理解を超えたこの状況を、彼の脳は何とか処理しようと必死だった。

「おかしい。支援クルーが動いている様子がないね」陽一は基地を注視しながら言った。「通常なら外部からの帰還を検知して、迎えの準備をしているはずだ」

美琴の表情が強張る。「夜明けの鴉」という言葉が、二人の間に暗雲のように漂った。

基地の外壁に到達すると、エアロックは予想通り作動していた。しかし中に入ると、そこには支援クルーの姿はなく、無人の通路が左右に伸びていた。壁に取り付けられた非常灯だけが、ゆっくりと赤く点滅し、不吉な予感を強めている。

「どうやら予感は当たっていたようね」美琴は小声で言った。彼女の声には怒りと恐れが混ざり合っていた。「支援クルーは…」

「気にするな」陽一は彼女の肩に触れ、ささやいた。「今は通信室に行くことだ。地球に警告を送らないと」

二人は壁に身を寄せながら、足音を殺して通路を進んだ。陽一の心臓が鼓動を早め、その音が基地中に響き渡っているような気がした。まるで彼の鼓動が「夜明けの鴉」のメンバーに居場所を知らせる信号のように。

角を曲がると、二人は黒装束の人影を発見した。背中を向けていたその人物は、黒いローブにフードを深く被り、右手には何かの装置を持っていた。明らかに「夜明けの鴉」のメンバーだった。

美琴は左手でそっと陽一を引き留め、右手の鏡の欠片を軽く掲げた。欠片からは微かな光が漏れ、それが曲がり角の壁に反射する。二人はその反射光の隙間から、先の様子を窺った。

黒装束の集団が、通信室の入り口を固めていた。最低でも五人。全員が同じ黒いローブを着て、腰には奇妙な形の装置を下げている。

「正面突破は無理ね」美琴は囁いた。「別のルートを探しましょう」

二人は別ルートを探して引き返したが、基地のあちこちから黒装束の人影が現れ始めた。彼らは何かを探しているように廊下を見回り、時折無線で連絡を取り合っている。その様子は、訓練された軍隊のように統制が取れていた。

「こっち」陽一は気配を感じて振り返り、美琴の手を引いて最も近い部屋のドアを開けた。それは医療室だった。白いベッドが整然と並び、壁には医療器具が掛けられている。中央には手術台が置かれ、その上の無影灯が静かに光を放っていた。

二人は息を潜め、扉の向こうの足音が遠ざかるのを待った。そのとき、部屋の奥から声が聞こえた。

「お待ちしていました、鷹宮たかみやさん、高嶺たかみねさん」

声の主は医療キャビネットの影から姿を現した。紫織しおり音羽だった。彼女の隣には初老の男性が立っていた。背が高く、端正な顔立ちの男性は、白髪交じりの黒髪を後ろでまとめていた。灰色のスーツは月面基地という環境には不釣り合いだったが、彼はまるでオフィスにいるかのように自然な佇まいだった。その眼差しには威厳と知性、そして何か底知れぬものが宿っていた。

鴇田幸成ときた ゆきなりです」男性は穏やかな声で自己紹介した。その声には不思議な説得力があり、聞く者を引き込む磁力があった。「JASPAの顧問であり、『夜明けの鴉』のリーダーでもあります。お二人とお会いできて光栄です」

陽一は緊張で身体が硬直するのを感じた。鴇田幸成—星野ほしのが警告していた男、音羽の上司、そして「夜明けの鴉」の真の指導者。彼の前に立つと、不思議な既視感があった。まるで何度も会ったことがあるような、しかし同時に初めて会う相手のような。

「支援クルーはどうした?」陽一は声を振り絞って尋ねた。

鴇田は微笑んだ。その笑顔には本物の温かみがあり、それが更に不気味だった。

「彼らは任務を終えて地球に帰りました。心配はいりません。我々は暴力を好みません」

「何を望んでいるの?」美琴が身構えながら問いかけた。彼女の手は鏡の欠片を強く握りしめている。

「協力です」鴇田は両手を広げた。その仕草は開かれた心を示すようでいて、どこか演出的だった。「我々は同じ目的を持っているはずです。人類の未来のために」

「人類を危険に晒す気か?」陽一は怒りを込めて言った。「裏側の民」を解放すれば、地球はどうなる?」

鴇田は陽一の言葉に驚いたように眉を上げたが、すぐに落ち着いた表情に戻った。彼は医療室の中央に歩み出て、手術台に手を置いた。

「裏側の民」。そう呼ぶのですね。私たちは『高次元存在』と呼んでいます。彼らは敵ではありません。むしろ、私たちの進化した姿なのです」彼は語り始めた。その声は深く、心に直接訴えかけるような響きを持っていた。「人類は長い間、肉体という牢獄に閉じ込められてきました。私たちの精神は無限の可能性を秘めているのに、この弱く、すぐに朽ちる肉体に束縛されている。しかし「高次元存在」は、その制約から解放された純粋な精神体です。彼らは時間にも空間にも縛られず、無限の知識と能力を持っています」

鴇田の言葉は、まるで詩のように流れるように続いた。その一語一語に力があり、聞く者の心に直接響く何かがあった。

「『夜明けの鴉』は何千年も前から存在し、月と地球の境界を研究してきました。古代の神官たちは、境界の向こう側に神々の世界があると信じていました。しかし現代の私たちは知っているのです。それは神々ではなく、我々自身の進化した姿だということを」

陽一は鴇田の言葉に、自分の内側から何かが応えるのを感じた。それは科学者としての好奇心を超えた、もっと根源的な衝動だった。知りたい。すべてを見たい。すべてを理解したい。その欲求は彼の血の中を流れ、細胞の一つ一つに染み渡っていくようだった。

鴇田はそんな陽一の表情を見逃さなかった。彼は一歩近づき、低い声で語りかけた。

「鷹宮さん、あなたは感じているでしょう?あなたの中にある何かが呼応しているのを。それは『破壊者』の記憶です。あなたの魂は何度も転生を繰り返し、その度に真実を求めてきました。境界の向こうに何があるのかを知りたいという願望。それはあなたの本質なのです」

陽一の頭の中で何かが揺らいだ。鴇田の言葉は彼の中の何かに触れ、眠っていた記憶を呼び覚ましつつあった。

「私は…」陽一は言葉に詰まった。彼の中の科学者と「破壊者」が激しく対立していた。

その時、美琴が陽一の前に立ちはだかった。彼女の目は月光のように冴え、鏡の欠片からは青白い光が放たれていた。

「陽一、あなたは前世の記憶に囚われてはいけない!」彼女の声は強く、震えていなかった。「あなたはあなた自身。過去世の記憶は、あなたのすべてではないわ」

美琴の姿は月の女神のように凛としていた。彼女の言葉は陽一の心に届き、鴇田の甘美な誘惑に対する防壁となった。

鴇田は微かに表情を曇らせたが、すぐに微笑を取り戻した。

「守護者は今も変わらないようですね。高嶺さん、あなたもいつか理解するでしょう。私たちは敵対するべきではないのです」

彼は医療キャビネットの中から何かを取り出した。それは美琴が持つものとよく似た鏡の欠片だった。しかしその色合いは美琴のものより濃く、どこか不穏な雰囲気を放っていた。

「これは七つの欠片のうちの一つ。私たちも長い間探し求めてきました。そして今、すべてが揃う時が来たのです」

静寂が部屋を満たした。四人は動かず、時間だけが流れていくようだった。その沈黙は、宇宙の真空のように重く、息苦しかった。

「さあ、一緒に新しい時代を切り開きましょう」鴇田は手を差し伸べた。「人類の真の姿へと進化する時が来たのです」

選択の狭間

医療室から基地制御室へと続く廊下は、透明なアクリルパネルで覆われていた。その向こうに広がる月の風景は、まるで異世界の絵画のように静かで美しかった。しかし、その静けさの中に潜む何かが、陽一の皮膚を這うような不安を生み出していた。

鴇田は先頭を歩き、その後ろを音羽が続いた。彼女の表情からは、もはや偽りの仮面が剥がれ落ち、本来の決意に満ちた顔つきになっていた。美琴と陽一は半ば導かれるように、二人の後を歩いていた。

制御室のドアが音もなく開くと、そこには最新鋭の機器が並ぶ広い空間が広がっていた。壁面には月面の様々な地点からの映像が映し出され、中央には三次元ホログラムで月の全体像が浮かび上がっていた。それは雲一つない日の満月のように完璧だったが、裏側に赤く点滅する異常点があった。

「見てください、鷹宮さん」鴇田は中央のホログラムに手をかざした。「月の裏側で何が起きているか。境界が薄くなっているんです。私たちの活動によってではなく、自然に」

陽一は科学者として魅了されながらホログラムに近づいた。赤い点滅は、彼が最初に検出した異常電磁波とまさに同じ場所だった。

鴇田はコンソールに向かって何かの操作を始めた。その指先は優雅なピアニストのように、確実に、しかし繊細にキーを打っていく。画面には複雑なデータと図形が次々と現れた。

「『夜明けの鴉』は千年以上にわたって、この瞬間を待ち望んできました」鴇田の声は穏やかだったが、その奥に興奮が潜んでいるのが感じられた。「境界が最も薄くなる瞬間。そこで七つの鏡の欠片を合わせれば、完全な融合が実現する」

彼は操作を中断し、陽一の方に向き直った。その目は深い井戸のように、見る者を吸い込む力があった。

「あなたは特別な存在です、鷹宮さん。単なる科学者ではない。あなたの魂は何度も転生を繰り返し、その度に『真実』を求めてきた。あなたは『破壊者』。それは否定的な意味ではなく、古い秩序を破り、新しい世界を創造する者という意味です」

鴇田は制御室の奥にある別の装置を指差した。それは月の石材で作られた台座に、六つの鏡の欠片が星形に配置されたものだった。中央には一つの空きがあり、七つ目の欠片を待っていた。

「あなたの記憶を完全に呼び覚ましましょう」鴇田は陽一に近づき、彼の肩に手を置いた。その接触は電流のように陽一の体内を走り抜けた。「あなたが前世で何を求め、何を知ろうとしていたのかを」

美琴が二人の間に割って入った。彼女の手には鏡の欠片があり、その表面が青白く輝いていた。

「陽一に触れないで!」彼女の声は強く、部屋に響き渡った。「あなたは彼を利用しようとしているだけ」

鴇田は後退することなく微笑んだ。

「利用?違います。私は彼の本質を呼び覚ましているだけです。守護者の血を引く者には理解できないかもしれませんが、知識は封印されるべきではない。進化は止められない」

美琴は鏡の欠片を掲げ、古い言葉で呪文を唱え始めた。欠片から放たれる光が陽一を包み込み、鴇田の影響から守ろうとするかのようだった。しかし、その光は徐々に弱まっていく。

「無駄ですよ」鴇田は静かに言った。「この基地は『夜明けの鴉』によって設計されました。ここでは守護者の力は制限されるのです」

美琴は苦しそうに表情を歪めながらも、諦めることなく呪文を続けた。しかし、彼女の力が弱まっていくのは明らかだった。

その時、突如として基地全体に警報音が鳴り響いた。赤いランプが点滅し、中央のホログラムが激しく乱れ始めた。

「何だ?」鴇田の表情が強張った。彼は急いでコンソールに戻り、データを確認する。

音羽も別のコンソールに駆け寄り、急いで状況を分析した。彼女の指先が素早くキーボードを叩く音が、警報音の合間に鋭く響いた。

「月面に異常な電磁波の嵐が発生しています」音羽の声は冷静さを保っていたが、その奥に驚きが混じっていた。「境界が急速に不安定化しています。これは…予想より早い」

鴇田の顔に焦りの色が浮かんだ。彼の端正な顔立ちが、一瞬歪んだように見えた。

「急ぐぞ、音羽」彼は命令した。「計画を前倒しだ。今すぐ七つの欠片を揃える必要がある」

音羽はうなずき、すぐに作業に取りかかった。彼女は別の装置を起動させ始め、基地のエネルギーを鏡の欠片が置かれた装置に集中させ始めた。

美琴はこの混乱に乗じて陽一の手を掴み、出口に向かって引っ張った。

「今よ、陽一。ここから出ましょう」彼女は小声で急かした。「彼らの言うことを信じちゃダメ。『裏側の民』は高次元存在なんかじゃない。彼らは寄生者、吸血鬼よ。私たちの恐怖や欲望をエネルギーにして、この世界に侵食してくる」

陽一は美琴を見つめた。彼女の目には真実があった。しかし同時に、彼の内側では別の声が響いていた。あらゆるものを知りたいという、抗いがたい欲求。世界の裏側を見たいという、消し去ることのできない渇望。

基地の振動が強まり、天井から小さな破片が落ち始めた。警報音は更に大きく、より緊急性を帯びたものへと変わっていた。

「我々の星にはいつも意志がある」陽一は突然、自分の声とも思えない古い言葉を口にした。「見よ、月は我々を呼んでいる」

美琴は驚いて陽一を見つめた。彼の目には異質な光が宿り、声色までもが変わっていた。

「陽一…」

しかし、陽一は美琴の手を振りほどいた。その動作には普段の彼にはない力強さがあった。

「本当の真実を知りたい」彼は言った。その声には決意と興奮が混じり合っていた。「美琴、僕はずっと宇宙の謎を追いかけてきた。もし『裏側の民』が本当に存在するなら、彼らと対話したい。本当の彼らの姿を、この目で見てみたい」

「騙されないで!」美琴は叫んだ。「あなたは科学者だわ。証拠のないことを信じる人じゃない」

「だからこそ確かめたいんだ」陽一は冷静に言った。「君の言う証拠も、鴇田の言うことも、自分の目で確かめる必要がある」

彼は美琴から離れ、鴇田の方へと歩み寄った。鴇田は満足げに微笑み、腕を広げて陽一を迎え入れた。

「正しい選択です」鴇田は言った。「さあ、共に新しい時代の幕を開けましょう」

美琴の顔から血の気が引いた。彼女の表情は絶望と失意に満ちていた。しかし、その奥には決意の炎も燃えていた。彼女は鏡の欠片を強く握りしめ、陽一と鴇田の後を追った。

「諦めないわ」彼女は唇を噛みながら呟いた。「陽一を取り戻す。絶対に」

基地の揺れは更に激しさを増し、制御室の機器からは火花が散り始めた。ホログラムの月は今や赤い光に覆われ、裏側からは異様な光が漏れ出しているように見えた。

「音羽、装置の準備はいいか?」鴇田が声を張り上げた。

「あと五分です」音羽は集中したまま答えた。「でも境界の不安定化が進んでいます。このままでは予測不能な事態に…」

「構わん。好機は一度きりだ」鴇田は陽一を装置の前に導いた。「鷹宮さん、あなたの力が必要です。『破壊者』としての力を解放してください」

陽一は六つの鏡の欠片を見つめた。その表面に映る自分の顔は、どこか別人のように感じられた。そこに映っているのは鷹宮陽一という天文学者ではなく、何千年もの歴史を持つ魂だった。

一方、地球の八咫烏神社では、雨宮清明あまみや きよあきが異変を感じ取っていた。奥の鳥居の前に正座した彼は、古い巻物を広げ、緊急の儀式の準備を整えていた。

「時が来た」彼は古めかしい言葉で呟いた。「月の影が揺れ動き、二つの世界の境が崩れ始めている」

清明の周りには若い神官たちが集まり、指示に従って祭具を配置していた。中央には水を張った大きな鉢が置かれ、その水面に月が映り込んでいた。しかし、その映像はどこか歪み、時折異質な色に染まるように見えた。

「守護者よ、しっかりせよ」清明は月に向かって祈るように言った。「破壊者を導き、彼の本心を呼び覚ませ」

月面基地に戻ると、陽一は鴇田の指示に従って六つの鏡の間に立っていた。彼の周りに青白い光の渦が形成され始め、部屋の重力さえも変化しているように感じられた。

「素晴らしい」鴇田は歓喜の表情で見守っていた。「あなたの魂が目覚めています」

美琴は部屋の端から、絶望的な表情で場面を見つめていた。しかし彼女の目には諦めではなく、新たな決意が宿り始めていた。鏡の欠片を胸に押し当て、彼女はもう一度、古い呪文を唱え始めた。それは守護者としての彼女の記憶からではなく、彼女自身の心の奥底から湧き上がる言葉だった。

「陽一…あなたは陽一よ」彼女の言葉は静かだったが、不思議な力を帯びていた。「誰でもない。あなた自身の心に従って」

裏側の民

基地を出た四人を迎えたのは、月面の絶対的な静寂だった。陽一は借り受けた宇宙服の中で、自分の呼吸音と鼓動だけを聞いていた。それは深海に潜ったダイバーのように、自分の生命の証を確認する唯一の手段だった。月面車に乗り込んだ彼らは、基地から離れ、月の裏側へと向かった。

車窓の外に広がる月面は、永遠に続く灰色の砂漠のようだった。クレーターが点在し、遠くには鋭利な山脈が黒いシルエットを描いている。地球は見えず、代わりに際限なく広がる漆黒の宇宙だけがあった。星々は大気の揺らぎなく、宝石のように冷たく輝いていた。

「あと十分ほどで到着します」音羽が運転席から告げた。彼女の声は通信機を通して、金属的な響きを伴って耳に届いた。

陽一は黙って窓の外を見つめていた。鴇田は彼の隣に座り、時折微笑みを浮かべながら何かを考えているようだった。後部座席には、どこからか現れた美琴が座っていた。彼女は最後の瞬間に月面車に飛び乗ったのだ。誰も彼女を追い出そうとはしなかった。それは彼女の存在が、この運命的な瞬間に必要だと全員が感じていたからかもしれない。

「あれだ」鴇田が前方を指さした。

月の地平線に、地球の建造物とは思えない構造物が姿を現した。それは月の岩盤と一体化したような巨大な建物で、表面は黒曜石のように光を吸収していた。その形状は幾何学的でありながらも有機的で、見る角度によって形が変わるように思えた。

月面車が近づくと、建物の一部が音もなく開き、内部へと続く道が現れた。音羽は慎重に車を中に入れ、気密室に停車した。空気が満たされると、宇宙服のヘルメットを外すよう指示があった。

内部は予想外に広く、天井は高くアーチ状になっていた。壁は金属ではなく、半透明の結晶のような素材で覆われており、その内側で青白い光が脈動しているように見えた。まるで生きている建物の中にいるような感覚だった。

「これが『夜明けの鴉』の聖域です」鴇田は誇らしげに言った。彼の声は空間に溶け込み、微かに反響した。「私たちは五十年以上前からこの施設を密かに建設してきました。JASPAの月面探査の陰で」

陽一は建物の構造に科学者としての好奇心を抱きながらも、同時に言い知れぬ不安を感じていた。この場所には彼の理解を超えた何かがあった。それは科学ではなく、もっと古く、もっと原始的な何かだった。

中央の広間に入ると、そこには巨大な装置が設置されていた。それは輪のような形状で、中央に球体が浮かんでいた。球体の周囲には七つの台座があり、そのうち六つには鏡の欠片が既に配置されていた。

「これが境界操作装置です」鴇田は陽一の肩に手を置いた。「月と地球の境界を制御し、二つの世界の壁を薄くすることができます。これを使えば、『裏側の民』と直接対話することも可能なのです」

音羽は装置のコンソールに向かい、システムを起動させ始めた。彼女の指先は正確に、しかし緊張感をもって操作パネルを叩いていた。

「準備ができました」彼女が鴇田に向かって頷いた。

鴇田は懐から最後の鏡の欠片を取り出し、陽一に手渡した。「最後の一片。これをあなたの手で配置してください」

陽一は欠片を受け取った。それは氷のように冷たく、同時に電気のようなエネルギーを帯びていた。彼はゆっくりと七つ目の台座に向かった。美琴が彼を止めようとしたが、鴇田が彼女の前に立ちはだかった。

「自分の目で確かめるんだ」陽一は美琴に言った。彼の声には科学者としての決意が込められていた。「真実を知るために」

彼は欠片を最後の台座に置いた。途端に七つの欠片が共鳴し、強烈な光を放ち始めた。中央の球体が回転し、その速度を増していく。部屋全体が振動し、壁の結晶が光の脈動を速めた。

「始まった」鴇田の顔は歓喜に満ち、まるで長年の夢が叶う瞬間を目の当たりにしているようだった。

天井から一筋の光が球体に向かって降り注ぎ、球体はさらに明るく輝き始めた。そして突然、球体の中から何かが現れ始めた。それは最初、霧のような形のない存在だったが、次第に人型に近い姿を取り始めた。

光と影が混ざり合い、輪郭の定まらない存在が部屋の中央に浮かび上がった。それは眩いばかりの美しさを持ち、見る者の心を魅了するような存在だった。色彩は絶えず変化し、虹色の光を放ちながら、まるで宇宙そのものの姿を映し出しているようだった。

「これが『裏側の民』」鴇田は畏敬の念を込めて言った。「いや、私たちの言葉で言えば『高次元存在』。人類の進化した姿です」

陽一はその存在に強く引き寄せられるのを感じた。まるで磁石に引かれる鉄粉のように、彼の精神はその光に向かって引き伸ばされていくようだった。それは恐怖ではなく、深い憧れの感覚。何かを取り戻すような、帰郷するような懐かしささえあった。

「美しい…」陽一は思わず呟いた。

鴇田は満足げに頷き、陽一の肩に手を置いた。

「これこそが私たちの真の姿なのです」彼の声は静かながらも情熱に満ちていた。「人類は肉体という制約の中で生きてきました。病気、老い、死。すべては肉体という牢獄に閉じ込められているからこそ経験する苦しみです。しかし、見てください。『高次元存在』は純粋な精神体として、そのような制約から完全に解放されているのです。彼らは時間にも空間にも縛られず、無限の知識と経験を持っています。私たちがこの境界を完全に開けば、人類はこの存在と融合し、新たな段階へと進化することができるのです」

陽一は息を呑んで、その存在を見つめていた。科学者としての彼の心は、この現象を理解しようと必死だった。しかし同時に、彼の内側では別の感覚も芽生えていた。この美しさの奥に潜む何か…違和感。

「私たちの文明は常に進化してきました」鴇田は続けた。「猿から人へ。原始人から現代人へ。そして次は、肉体から純粋精神への進化。これこそが私たちの運命です」

しかし、彼が話している間にも、空中に浮かぶ存在の姿が少しずつ変化し始めていた。その美しい光の中に、何か不穏な影が混じり始めたのだ。輪郭はより鋭く、より不定形になり、色彩も次第に濁っていった。

「何かがおかしい」音羽が操作パネルから顔を上げ、不安げに言った。「エネルギーパターンが変動しています」

陽一もその変化に気づいていた。最初は美しく感じられたその存在に、今は何か別の感情を抱き始めていた。まるで美しい仮面の下から、別の顔が覗き始めたかのように。

その時、部屋の入口から叫び声が響いた。

「陽一、騙されないで!」美琴の声だった。彼女は鴇田の隙を突いて前に出て、鏡の欠片を高く掲げていた。「それは幻影よ!本当の姿を見なさい!」

彼女の鏡の欠片から放たれた光が、空中の存在と交差した。突然、陽一の視界が変わった。まるでフィルターが外れたように、彼は「裏側の民」の真の姿を見ることができた。

それは美しい光の存在ではなかった。渦巻く闇と、無数の顔のような形相が絡み合い、中央には飢えたような大きな口が開いていた。その周囲には触手のような細い腕が無数に伸び、あらゆるものを掴もうとしているようだった。

「これが…本当の姿?」陽一は後退りながら呟いた。

美琴は彼の方へ駆け寄りながら叫んだ。「彼らは寄生者よ!人間の恐怖や欲望をエネルギーにして生きる存在。美しく見せているのは、私たちを誘い込むための罠なの!」

鴇田の表情が変わった。彼の顔には焦りと怒りが浮かんでいた。

「馬鹿な。これは単なる知覚の問題だ。人間の脳がこの高次元の存在を正しく解釈できないだけだ」

しかし陽一には真実が見えていた。「裏側の民」の本質が、ようやく彼の目に明らかになったのだ。それは人間の恐怖や願望が具現化した、飢えた精神寄生体だった。恐怖を消費し、欲望を燃料に、現実世界へと侵食しようとする何か。

「鴇田さん、彼らはあなたが思っているような存在じゃない」陽一は震える声で言った。「彼らは私たちを利用しようとしている」

「違う!」鴇田は怒りに震えながら叫んだ。「彼らは私に約束したんだ。力と知識を。人類を導く力を!」

その時、「裏側の民」の姿がさらに変化し、その触手のような腕が鴇田に向かって伸び始めた。鴇田は恐怖に目を見開きながらも、同時に恍惚とした表情を浮かべていた。まるで彼の内側では、別の対話が行われているかのように。

「彼らはあなたを操っているだけよ」美琴は言った。「あなたの野心を利用して、この世界への入口を開かせようとしているの」

陽一は「裏側の民」を見つめながら、自分の内側にも何かが呼応するのを感じていた。それは「破壊者」としての記憶なのか、それとも別の何かなのか。しかし今、彼には一つのことだけが明確だった。この存在を現実世界に解放してはならない。

「装置を止めないと」陽一は美琴に向かって言った。

彼らの間に「裏側の民」の影が濃くなり、部屋全体が不気味な光に包まれ始めた。壁の結晶が悲鳴を上げるように振動し、地面さえも揺れ始めていた。

決断の時

真実を知った陽一の心は、まるで強風に揺れる綱渡りの綱のように揺れ動いた。「裏側の民」の本当の姿を目の当たりにして、彼の科学者としての理性と、目の前の非合理な現実が激しく衝突していた。それは幻覚ではなく、虚構でもなく、紛れもない現実だった。人間の恐怖と欲望が具現化した、飢えた精神寄生体。その姿は美しさの仮面の下に隠された、世界を飲み込もうとする底なしの渇望だった。

「嘘だ、これは嘘だ!」鴇田の声が悲痛に部屋に響き渡った。彼の顔には焦りと混乱が交錯していた。まるで長年信じてきた神が、実は悪魔だったことを知ってしまった信者のように。「彼らは私に約束した。私たちを導くと。進化を助けると!」

鴇田は操作パネルに駆け寄り、震える手で何かのコードを入力し始めた。彼の指先は平常時の優雅さを失い、打ち間違えては修正するという不器用な動きを繰り返していた。

「鴇田さん、やめてください!」音羽が叫んだ。彼女の声には初めて、恐怖の色が混じっていた。「これは予定通りじゃありません。何かがおかしい!」

音羽の顔に浮かんだ戸惑いは、彼女自身も事態の進行に困惑していることを物語っていた。彼女のファサードが崩れ、本当の感情が顔を覗かせ始めていた。

「黙れ!」鴇田は叫んだ。「これは単なる過渡期だ。安定すれば…安定すれば彼らは約束通りに…」

彼の言葉は希望的観測に満ちていたが、現実はそれを裏切っていた。「裏側の民」は次第に実体化し、その触手のような腕が施設内の装置に絡みつき始めていた。まるで子供がおもちゃを奪い取るように、彼らは装置のスイッチやレバーをいじり始めた。

部屋の壁を覆う結晶が震え、亀裂が入り始めた。その隙間から漏れ出る光は、血のように赤く脈動していた。床も揺れ始め、遠くからは何かが壊れていく音が聞こえてきた。

「あなたは騙されていたの」美琴が鴇田に向かって言った。彼女の声は怒りというよりも、哀れみに近い感情を含んでいた。「彼らはあなたの野心を利用して、この世界への扉を開けさせようとしていただけ。彼らが欲しいのは支配者の座じゃなく、エサなのよ。私たちの恐怖と欲望というエサ」

美琴は鏡の欠片を高く掲げ、古い言葉で呪文を唱え始めた。それは彼女自身も意味を完全には理解していない言葉だったが、彼女の血と魂が記憶していた守護者の言葉だった。

「八咫鏡の欠片よ、我が祖より受け継ぎし守りの力よ、今こそ目覚めよ」

彼女の声は次第に力強さを増し、部屋の震動も音も打ち消すほどに響き渡った。鏡の欠片から放たれる光が彼女の周りに拡がり、やがて彼女の全身を包み込む光のオーラとなった。それは「裏側の民」の不気味な光とは対照的な、温かく澄んだ光だった。

陽一はその光景を目の当たりにして、自分の中の何かが呼応するのを感じた。それは「破壊者」としての記憶だったのか、それとも科学者としての好奇心だったのか。あるいは、もっと人間的な何か—美琴への思いだったのか。彼自身にもわからなかった。

彼の頭の中では、二つの声が激しく対立していた。一方は「知りたい」という飽くなき渇望、もう一方は「守りたい」という切実な願い。それは「破壊者」と「守護者」の対立ではなく、人間・鷹宮陽一の中の葛藤だった。

「陽一、助けて!」美琴の叫びが彼の思考を中断させた。

彼女は光のオーラで「裏側の民」を押しとどめようとしていたが、その力は徐々に弱まりつつあった。「裏側の民」の触手が彼女の光を貫こうと伸び、その先端が彼女の肌に触れようとしていた。

その瞬間、陽一の中で何かが決まった。それは「破壊者」でも「守護者」でもない、ただの人間としての決断だった。

「美琴!」彼は叫んだ。

陽一は鴇田の制止を振り切り、装置の制御パネルに向かって突進した。彼は科学者として、この装置の弱点を直感的に理解していた。主電源とバックアップ電源の接続部分。彼はそこを目指して走った。

「止まれ!」鴇田が彼の進路を遮ろうとしたが、陽一は巧みにかわした。

彼は制御パネルに到達すると、ためらうことなく主電源ケーブルを引き抜いた。しかし、バックアップシステムがすぐに起動する。陽一は周囲を見回し、非常用の消火器を見つけた。それを手に取り、バックアップ電源の接続部分に叩きつけた。

火花が散り、システムが停止する。装置の球体が回転を止め、七つの鏡の欠片の光が弱まっていく。

「やったぞ!」陽一は一瞬の安堵を覚えたが、それは束の間だった。

予想外のことが起こった。装置の停止により、逆に境界が不安定化したのだ。まるでダムの決壊のように、制御されていた力が一気に解放され始めた。部屋の壁がさらに激しく揺れ、天井から大きな破片が落ち始めた。

「何が起きてる?」陽一は混乱して美琴を見た。

美琴の表情には恐怖と理解が混在していた。「装置は境界を開くだけじゃなく、安定させる役割も果たしていたのよ。それを破壊したことで…」

彼女の言葉を遮るように、部屋の一角が崩れ落ちた。「裏側の民」は混乱の中、あらぬ方向に触手を伸ばし、より多くの破壊を引き起こしていた。

「愚か者め!」鴇田は怒りに震えていた。彼の顔は歪み、目は血走り、かつての優雅さは完全に失われていた。「何世紀もの計画が…何千年もの準備が…」

しかし彼の表情が、突然に冷静さを取り戻した。まるで別の人格が表面に浮かび上がったかのように。

「だが、これで終わりではない」彼は不気味な静けさで言った。「バックアッププランがある。これはただの始まりに過ぎない」

鴇田は音羽に視線を送った。彼女はうなずき、二人は出口へと走り出した。

「追いかけるぞ!」陽一は叫んだが、美琴は彼の腕を掴んだ。

「今は逃げるしかないわ」彼女の声は冷静だった。「この施設は崩壊する。彼らは後で追えるわ」

二人は出口に向かって走り出したが、「裏側の民」が彼らの前に立ちはだかった。それは以前より実体化し、より明確な形を取り始めていた。人間の輪郭を持ちながらも、その内側は常に変化し続ける影と光の渦だった。

「どうする?」陽一は息を切らせながら尋ねた。

美琴は自分の鏡の欠片を見つめた。それは以前より明るく輝いていた。

「私の力だけでは足りないわ」彼女は言った。「でも、あなたと一緒なら…」

彼女は陽一の手を取り、鏡の欠片を二人の間に置いた。不思議なことに、陽一は自分の中から何かが湧き上がるのを感じた。それは「破壊者」の力ではなく、もっと純粋な何か。彼の好奇心、真実を求める心、そして美琴を守りたいという気持ち。

二人の間で鏡の欠片が輝き始めた。その光は「裏側の民」を押しとどめ、一瞬の隙を作り出した。

「今よ!」美琴が叫んだ。

二人は「裏側の民」の合間を縫うように走り出した。施設はさらに激しく揺れ、崩壊は加速していた。彼らが月面車に飛び込んだ時、天井の大部分が崩落し始めていた。

「急いで!」陽一は叫んだ。

美琴は月面車のエンジンを始動させ、全速力で施設から脱出した。バックミラーには崩れ落ちる施設と、その廃墟から立ち上る奇妙な光の柱が映っていた。

「ここから出られても、まだ終わりじゃないわ」美琴は息を整えながら言った。「鴇田と音羽は地球に向かっているはず。そして彼らにはまだ、バックアッププランがある」

陽一は窓の外の風景を見つめながら、自分がしたことの重大さを噛みしめていた。彼は「破壊者」としての宿命を拒み、自らの選択で行動した。それが正しかったのかどうかはまだわからない。しかし彼は、その選択を後悔してはいなかった。

「地球に戻らなきゃ」彼は静かに言った。「でも、どうやって?」

月面の地平線の向こうに、かすかに基地の輪郭が見えてきた。しかし、そこに安全はないだろう。「夜明けの鴉」のメンバーたちが待ち構えているかもしれない。

二人の前には、不確かな未来しか見えなかった。しかし、彼らはそれに向かって進むしかなかった。月の静けさの中で、彼らの決意だけが確かなものとして存在していた。

チャプター6 二つの世界の架け橋

境界の崩壊

陽一と美琴は、崩壊する施設から必死の思いで逃げ出していた。「裏側の民」の影が彼らの足元を追いかけ、時折触手のような腕が伸びては二人の足首に絡みつこうとする。それは黒い水の中を泳いでいるような、重くぬかるんだ感覚だった。

「あそこだ!」陽一は遠くに見える小型帰還船を指差した。

それは卵を半分に割ったような形状の宇宙船で、月面に不時着した際に備えて各基地に配備されている緊急脱出用の乗り物だった。幸い、鴇田は急いでいたせいか、船のロックをかけておらず、ハッチは容易に開いた。

二人は息を切らせながら内部に滑り込み、急いでハッチを閉めた。陽一は操縦席に飛び込み、起動シーケンスを開始する。JASPAでの訓練で緊急帰還船の操作は習得していたが、実践は初めてだった。彼の指先が震えながらもコントロールパネルのボタンを押していく。

「急いで!」美琴が後部から叫んだ。「外を見て!」

窓の外では「裏側の民」の影が施設の残骸から湧き上がり、渦を巻くように広がっていた。それは暗黒の霧のようでありながら、どこか知性的な動きをしていた。

エンジンが始動し、船体が震えた。陽一は離陸プロトコルを省略し、最大推力で上昇を始めた。加速度に押しつけられた二人の体は座席に沈み込み、視界が一瞬グレーアウトする。しかし船は無事に月面を離れ、宇宙空間へと飛び出した。

振り返ると、そこには信じられない光景が広がっていた。月の裏側全体が、まるで巨大な傷口から血が滲むように、青白い光を放射していたのだ。それは地球の空に浮かぶ満月の何倍もの明るさで、宇宙空間を染め上げていた。

「境界が完全に崩れかけている」美琴の声は震えていた。彼女は鏡の欠片を握りしめ、その表面に映る光を見つめていた。「封印が解かれ、『裏側の民』が月から流れ出ている。このままでは地球にも…」

彼女の言葉は途中で途切れた。小型船のコンピューターが自動的に地球への帰還コースを計算し、エンジンが再点火する。彼らは月を背に、青い惑星へと向かい始めた。

宇宙空間の静寂の中、二人はしばらく無言だった。龍馬の死、音羽の裏切り、施設での恐怖の体験—あまりにも多くのことが短時間に起きすぎていた。陽一の頭の中では科学者としての分析と「破壊者」としての記憶が入り混じり、整理がつかない混沌が渦巻いていた。

「あれは何だったんだ?」やがて陽一が沈黙を破った。「あの施設は誰が…いつ建てたんだ?」

美琴は深い溜息をついた。彼女の顔には疲労の色が濃く出ていたが、その瞳は月光のように冴えていた。

「施設そのものは現代のものよ。でも、その場所は古くから特別な場所だった。月と地球の境界が最も薄い場所。古代の神官たちは、その場所に石の結界を築いていたの。その上に『夜明けの鴉』が施設を建てたのね」

彼女は鏡の欠片を見つめながら続けた。

「でも今は、その結界が崩れてしまった。私たちが装置を壊したことで、制御されていた境界が一気に崩壊し始めている。月と地球の間にあった壁が薄くなり、『裏側の民』が流れ込んでくる」

小型船の窓からは、徐々に大きくなる地球が見えていた。通常なら青く美しいはずの惑星だが、今、その大気には何か異質なものが混じっているように見えた。雲の模様が通常とは違う渦を巻き、特に夜の側の地表からは微かな青白い光が漏れ出しているようだった。

「地球にも変化が起きている」陽一は窓に顔を近づけて言った。「大気の動きが…まるで何かに操られているようだ」

美琴は鏡の欠片を両手で包み、瞑目した。その姿はまるで祈りを捧げる巫女のようだった。彼女の唇が古い言葉を紡ぎ始める。それは陽一には理解できない、しかし何かを呼び覚ますような響きを持つ言葉だった。

突然、鏡の欠片が強く発光し、その光が美琴の顔を青白く照らし出した。彼女の表情が変わり、まるで誰かと会話しているかのように見えた。

「清明さん」彼女は囁くように言った。「聞こえますか?」

陽一は驚いて美琴を見つめた。彼女は目を閉じたまま、清明との対話を続けていた。

「はい…私たちは今、地球に戻る途中です。月の封印が…」

彼女は一度言葉を切り、何かを聞いているようだった。そして再び話し始める。

「そうですか…ここでも始まっているんですね」

美琴の表情が次第に厳しさを増していく。そして彼女は目を開けた。その瞳には深い悲しみと決意が混在していた。

「清明さんと通信できたわ」彼女は陽一に言った。「地球側でも境界の崩壊が始まっているの。東京を中心に、各地で『裏側の民』による影響と思われる現象が報告されているわ」

「どんな現象だ?」

「人々が奇妙な幻覚を見始めている。ある者は突然、見えないはずの存在が見えるようになったと証言し、またある者は過去の記憶—前世の記憶かもしれない—に苦しめられているの。そして一部の人々は…『裏側の民』に憑依されたかのように行動し始めているわ」

美琴は窓の外の地球を見つめながら続けた。

「清明さんは八咫烏神社で緊急の儀式を執り行っている。でも、それだけでは長くは持たないと言っていた。私たち…特に私が持つ鏡の欠片が必要なのよ」

陽一は操縦装置を確認した。「あと一時間で地球の大気圏に到達する。だが、この状況では通常の着陸プロトコルは機能しないかもしれない」

「何が起きても、八咫烏神社に向かう必要があるわ」美琴は断固とした口調で言った。「そこでしか『裏側の民』を止められない」

船は自動航行システムに従い、地球に接近していった。しかし、大気圏との境界に近づくにつれ、異変が明確になってきた。大気中に青白い光の筋が走り、まるで巨大な神経系のように地表を覆っているのが見える。通常の気象パターンは乱れ、竜巻のような渦が各地に発生していた。

「これが『裏側の民』の影響か」陽一は声を潜めた。「物理法則さえも歪めている」

彼らの船は大気圏に突入し、激しい揺れに襲われた。シールドが真っ赤に焼け、船内温度が急上昇する。自動制御システムが警告音を鳴らし始めた。

「不安定すぎる!」陽一は叫び、手動操縦に切り替えた。「通常のルートじゃ着陸できない」

彼は訓練で習った緊急着陸プロトコルを思い出しながら、操縦桿を握りしめた。船は空気の乱流に翻弄されながらも、何とか地表へと降下していく。

「そこ!」美琴が窓の外を指差した。下方には暗い海と、灯りの点された都市の輪郭が見えていた。「東京湾だわ。できるだけ神社に近いところに降りて」

「無理だ」陽一は顔に汗を浮かべながら言った。「市街地では危険すぎる。湾内に不時着するしかない」

船は猛烈な勢いで降下し続け、東京湾の表面に激しく衝突した。衝撃で二人は前方に投げ出されたが、安全ベルトが彼らを座席に繋ぎとめていた。船体は海水に半分沈みながらも、何とか浮いていた。

「無事か?」陽一は美琴に声をかけた。

「なんとか」彼女は頷き、首筋を押さえながら答えた。「すぐに出ないと」

二人は急いで非常用装備を集め、ハッチを開けた。冷たい夜の海風が二人の顔を叩いた。船は湾内に浮かび、周囲には工業地帯の灯りが見えていた。

「なんとか泳ぎ着けそうな距離ね」美琴は言った。「でも急がないと…」

彼女の言葉は途切れた。夜空を見上げると、月が異様に明るく、その表面が波打つように動いていた。それはもはや地球の衛星というより、別の次元への窓のように見えた。

「鴇田と音羽も地球に戻っているはずだ」陽一は水中に身を沈めながら言った。「彼らにはバックアッププランがあるんだろう」

「間違いないわ」美琴も水に入り、懸命に岸を目指して泳ぎ始めた。「きっと『夜明けの鴉』の本拠地で最終計画を準備している。月側の封印が破れた今、地球側からも境界を完全に開こうとしているのよ」

「地球全体が『裏側の民』に飲み込まれるな」

二人は冷たい海水に身を委ねながら、必死に岸を目指した。空には不気味に輝く月が浮かび、その光は彼らの影を海面に長く引き伸ばしていた。

一方、別の帰還船が東京郊外の秘密施設に着陸していた。内部から現れたのは鴇田幸成と紫織音羽の姿だった。鴇田の白いスーツは月面での出来事ですっかり汚れ、彼の優雅さは失われていたが、その目には狂気に近い決意の光が宿っていた。

「急げ」鴇田は音羽に言った。「境界の崩壊は予想より早く進んでいる。最終儀式の準備をしろ」

音羽は黙って頷いた。彼女の表情は硬く、内面に葛藤を抱えているようだった。月で目撃した「裏側の民」の真の姿が、彼女の心に深い亀裂を生じさせていた。

二人を出迎えたのは、黒装束の「夜明けの鴉」のメンバーたちだった。彼らは敬意を表して頭を下げ、鴇田の指示を待った。

「最終計画を実行する」鴇田は厳かに宣言した。「東京各所の結界点を活性化し、中央神殿で境界開放の儀式を執り行う。高次元存在を迎え入れる時が来たのだ」

音羽は少し離れた位置に立ち、鴇田の姿を見つめていた。彼の言葉に応じて歓喜する「夜明けの鴉」のメンバーたち。しかし彼女の心には恐怖と疑念が渦巻いていた。

「あれは高次元存在なんかじゃない」彼女は心の中で呟いた。「ただの飢えた精神寄生体。私たちを利用しているだけ」

だが彼女は黙っていた。今はまだ時ではない。鴇田の真の目的が何であれ、彼を止める方法を見つける必要があった。そして、そのためには彼の計画をもっと知る必要がある。

「おい、紫織」鴇田が彼女を呼んだ。「何をぼんやりしている。準備を手伝え」

音羽は表情を引き締め、鴇田の後に続いた。彼女は内心の動揺を隠しながら、施設の奥へと進んでいった。内部には、かつて月面施設にあったものと同様の装置が設置されていた。しかし、それはより大規模で、より精巧なものだった。

「こちらの装置は完成品だ」鴇田は装置を愛おしげに眺めながら言った。「月のものは試作に過ぎなかった。これこそが私の真の傑作だ」

音羽は装置を見つめながら、密かに決意を固めていた。何があっても、この破滅的な計画は阻止されなければならない。陽一と美琴が生きていれば…いや、彼らは必ず生き延びているはずだ。そして彼らなら、この狂気を止められるかもしれない。

「時間はあと24時間」鴇田は装置のタイマーを確認しながら言った。「その時、二つの世界の境界は完全に開かれ、新たな時代が始まる」

分裂する現実

東京の街は、夢と現実が混ざり合ったような様相を呈していた。いつもなら夜の闇に埋もれるはずの建物の輪郭が、月からの異様な青白い光に照らされ、影が不自然に伸び縮みしている。道路を走る車のヘッドライトが、まるで生きているかのように瞬き、残像を引きずっていた。

陽一と美琴は湾岸から何とか内陸へと辿り着き、タクシーを拾った。しかし運転手は奇妙な様子で、バックミラー越しに何かを見るように虚空を見つめ、時折意味不明な言葉を呟いていた。

「おい、大丈夫か?」陽一が声をかけると、運転手は我に返ったように肩を震わせた。

「すみません…最近、変なものが見えるんです。道路の上に影が…そして声が聞こえて…」

彼の声は震え、視線は不安定に揺れていた。美琴は陽一に小さく頷きかけ、これが「裏側の民」の影響だということを無言で伝えた。

「八咫烏神社までお願いできますか?」美琴は優しく、しかし明確に指示した。

運転手は困惑したように眉をひそめたが、目的地を確認すると黙って車を発進させた。窓の外には異様な光景が広がっていた。歩道を行き交う人々の中には、まるで見えない何かと会話するように空中に向かって話しかける者、突然立ち止まって虚空を見つめる者、そして何かに取り憑かれたかのように奇妙な動きをする者もいた。

「現実が侵食されている」美琴は窓の外を見つめながら静かに言った。「『裏側の民』が人々の精神に干渉し始めている。最初は幻覚として現れ、次第に意識を支配していくの」

陽一は眉をひそめた。科学者として、彼はこの現象を理解したいと強く願っていた。しかし同時に、その答えを知ることへの恐れも感じていた。

「どうすれば止められる?」

美琴は鏡の欠片を握りしめながら答えた。「七つの欠片を集め、『境界の鏡』を完成させるしかないわ。それによって新たな封印を作り、二つの世界を再び分離する必要がある」

タクシーは郊外へと向かう幹線道路に入った。しかし交通は混乱し始めていた。ところどころで事故が起き、パトカーやレスキュー車のサイレンが鳴り響いていた。運転手はラジオをつけ、そこからは緊急放送が流れていた。

「各地で集団幻覚と思われる現象が報告されています。当局は原因について調査中ですが、現時点で明確な説明はありません。市民の皆様は不要不急の外出を控え…」

放送は突然ノイズに変わり、そこから異様な唸り声のようなものが聞こえた。運転手は慌ててラジオを消した。彼の額には冷や汗が浮かんでいた。

「すみません、ここまでにしてもらえますか」美琴が言った。交通渋滞はさらに酷くなっており、このままでは動けなくなる恐れがあった。

運転手は安堵の表情を浮かべ、路肩に車を寄せた。二人は料金を支払い、車を降りた。ここは郊外の住宅地と山間部の境界あたりで、八咫烏神社までは徒歩でもまだかなりの距離があった。

「歩くしかないな」陽一は言った。

二人が歩き始めると、周囲の風景がさらに異様さを増していった。木々の影が不自然に伸び、葉の擦れる音が囁きのように聞こえる。空を見上げると、月は以前より大きく、その表面はまるで液体のように揺らめいていた。

「あれは…」陽一が指差した先には、街灯の下に佇む人影があった。

影は振り返り、二人と目が合った。紫織音羽だった。彼女はいつものスーツ姿ではなく、カジュアルな黒のジャケットとパンツ姿だった。その顔には疲労の色が濃く、何かに追われているかのような緊張感が漂っていた。

「やっぱり生きていたのね」音羽は二人に近づきながら言った。その声には安堵と警戒が混じっていた。「鴇田は君たちは死んだと思っている。でも私は…そうじゃないと感じていた」

美琴は一歩前に出て、鏡の欠片を警戒するように構えた。「どうして私たちを探している?もう十分害を与えたでしょう?」

音羽は両手を上げ、抵抗する意思がないことを示した。「協力したいの。鴇田の計画を止めなきゃいけない」

「なぜ急に協力的に?」陽一は冷たく尋ねた。彼女の裏切りによって龍馬は命を落とし、彼ら自身も危機に瀕していた。

音羽は深く息を吐き、夜空を見上げた。月光が彼女の顔を照らし、その目には本物の恐怖と後悔が浮かんでいた。

「私は間違っていた」彼女は静かに言った。「『裏側の民』が高次元存在だと信じていた。彼らと共鳴することで人類が進化すると。でも真実を見てしまった。あれは単なる寄生虫よ。私たちの恐怖と欲望をエネルギーにして、この世界を食い尽くそうとしている。そして鴇田は…」

彼女は言葉を切り、両手で顔を覆った。その指の間から涙が漏れ出ていた。

「鴇田の本当の目的は何?」美琴は警戒を緩めずに尋ねた。

音羽は顔を上げ、二人を真っ直ぐに見つめた。

「彼は『裏側の民』の本当の姿を知っているのよ。最初から。彼は彼らを解放することで、自らがその支配者になろうとしている。『裏側の民』は彼に力を約束した。全人類の精神を支配する力を。それが彼の本当の野望。彼は今、東京郊外の秘密基地で最終計画を進めている。24時間以内に、地球側からも境界を完全に開こうとしているの」

彼女の言葉が終わると、三人の周りで風が強まり、木々が不自然に揺れ始めた。周囲の空気が重くなり、まるで誰かに見られているような感覚が三人を包み込んだ。

「私たちは八咫烏神社に向かっている」美琴は言った。彼女は音羽の言葉に疑念を抱きながらも、その真意を完全に否定することもできなかった。「清明さんなら、どうすればいいか分かるはず」

音羽は頷いた。「行きましょう。私にも鴇田の計画についての情報がある。それが役に立つかもしれない」

三人は前に進み始めたが、その時、背後から不気味な影が伸びてきた。振り返ると、そこには黒装束の人影が数人佇んでいた。彼らは鴉の仮面を着け、手には奇妙な形の武器を持っていた。

「『夜明けの鴉』!」音羽が息を呑んだ。「鴇田が送ってきたのね」

彼らは三人に向かって一斉に動き出した。その動きは通常の人間のものとは思えないほど素早く、まるで影そのものが動いているようだった。

「逃げて!」陽一は二人の女性の手を引いて横道に駆け込んだ。

黒装束の追手が迫る中、三人は森の方へと走った。しかし、逃げる途中で別の恐怖が彼らを待ち受けていた。木々の間から青白い霧のようなものが湧き上がり、人の形に凝縮していく。それは「裏側の民」だった。月面で見たのと同じ存在が、今や地球上にも現れ始めていたのだ。

「囲まれた!」美琴が叫んだ。

前方には「夜明けの鴉」のメンバー、後方には「裏側の民」の姿。三人は袋小路に追い込まれていた。美琴は鏡の欠片を掲げ、守護者としての力を呼び覚まそうとしたが、その光は弱々しく、「裏側の民」を押しとどめるには力不足だった。

「こうなったら…」陽一は低く呟いた。

彼の内側で何かが目覚めつつあった。それは月面で感じた力、自分の中に眠る「破壊者」としての記憶と能力。彼はそれを拒絶してきたが、今、愛する者を守るためにはそれを解放する必要があった。

「下がって」彼は美琴と音羽に言った。

陽一は両手を広げ、目を閉じた。彼の周りの空気が震え始め、風が渦を巻いていく。彼の肌から青白い光が漏れ出し、次第に強くなっていった。それは「裏側の民」の光と似ていながらも、より純粋で力強いものだった。

「表出せよ、境界の力」陽一は自分でも知らなかった言葉を口にした。

突然、彼の周りから衝撃波が放たれ、「夜明けの鴉」のメンバーたちは吹き飛ばされた。「裏側の民」も一瞬後退したが、すぐに再び迫ってきた。今度は彼らの形相がより明確になり、その中心に大きな口のような空洞が見えた。

陽一は再び力を解放した。今度はより集中して、「裏側の民」だけを狙い撃ちにする。彼の手から放たれた光が敵を貫き、霧のような体が散っていく。しかし不思議なことに、彼らは完全には消えず、ただ形を変えるだけだった。

「陽一!」美琴が叫んだ。

彼女が指差す方向を見ると、陽一自身の体が半透明になりかけていることに気がついた。さらに恐ろしいことに、彼の内側に「裏側の民」の影が見え始めていた。彼はこの力を使えば使うほど、自分自身が「裏側の民」に近づいていくことを感じた。

「力を抑えて!あなたを侵食している!」美琴は必死に叫んだ。

陽一は意識を集中し、解放した力を再び自分の内側に封じ込めようとした。それは泥沼から足を引き抜くような、重く苦しい作業だった。しかし、美琴の声に導かれ、彼は少しずつ自分自身を取り戻していった。

「間に合った…」陽一は震える声で言った。彼の体は再び完全な実体を取り戻したが、内側にはまだ異質なものが残っているのを感じた。「しかし、この力は…」

「あなたが『破壊者』としての能力に目覚めたのね」音羽が驚いた表情で言った。「でも気をつけて。その力は『裏側の民』と共鳴する。使いすぎると、あなた自身が彼らに飲み込まれてしまう」

美琴は陽一の腕を掴み、彼の目をしっかりと見つめた。「力を使うのはこれが最後にして。次に使えば、あなたは二度と戻れなくなるかもしれない」

陽一は美琴の言葉を重く受け止めながらも、自分が解放した力の感覚に戸惑っていた。それは恐ろしくもあり、同時に心地よくもあった。まるで長い間忘れていた自分の一部を取り戻したかのような感覚。

「行きましょう」音羽が二人を急かした。「『夜明けの鴉』も『裏側の民』も、すぐに戻ってくるわ」

三人は再び神社への道を急いだ。陽一の体内ではまだ「破壊者」の力が脈打っていた。それは使わなくても、彼の内側で少しずつ大きくなっていくように感じられた。彼は美琴の手を強く握り、自分自身の人間性にしがみつこうとした。

空を見上げると、月はさらに大きく、さらに異質なものになっていた。その表面は液体のように波打ち、時折奇妙な形が浮かび上がっては消えていく。二つの世界の境界は、刻一刻と薄くなりつつあった。

鏡と鳥居

八咫烏神社に辿り着いた時、夜はすでに深まっていた。空に浮かぶ月は、まるで夢の中で見る月のように不自然に大きく、その光は朝焼けのように赤みを帯びていた。神社への長い石段を上りながら、三人は周囲の異変を感じ取っていた。木々が奏でる音は通常の風の音ではなく、何かの言葉のように聞こえた。地面からは微かな振動が伝わり、空気そのものが重く、息がしづらいほどだった。

鳥居をくぐると、参道の両側の灯籠から青白い光が漏れていた。その光は月の光と共鳴するように脈動し、幽玄な雰囲気を醸し出していた。神社の境内は普段よりも広く感じられ、時間の流れが通常とは異なっているような錯覚を覚えた。

社務所から現れたのは雨宮清明だった。彼は白い装束に身を包み、腰には古びた鈴と五色の紐を下げていた。皺の刻まれた顔は疲労の色が濃かったが、その目は澄んでおり、強い意志の光を湛えていた。彼の周りには何重もの護符のような光の膜が見え隠れし、「裏側の民」の侵入を防いでいるようだった。

「無事だったか」清明は三人を見るなり、深い安堵の息をついた。特に美琴を見た時、彼の顔には父が娘を見るような温かさが浮かんだ。「心配していたぞ」

「何とか戻ってきました」美琴は疲れた笑顔を浮かべた。

清明は音羽の存在に気づいて目を細めたが、すぐに表情を和らげた。「古いしきたりでは、境界の危機には三つの役割が集うという。守護者、破壊者、そして翻訳者だ。来たるべき時のために」

社務所の中は、外とは対照的に静かで落ち着いた空間だった。しかし、壁には無数の護符が貼られ、中央には奇妙な輝きを放つ水盥が置かれていた。その水面には月が映り、実際の月よりも安定した姿で浮かんでいた。

「状況は?」陽一が尋ねた。

清明は水盥の前に正座し、三人にも同じようにするよう促した。彼は水面に手をかざすと、その映像が変化し、各地の混乱した様子が映し出された。幻覚に苦しむ人々、制御不能な自然現象、そして少しずつ増えていく「裏側の民」の姿。

「境界の崩壊は予想以上に早く進んでいる」清明の声は重々しかった。「このままでは二十四時間以内に、月と地球の境界は完全に崩れる。二つの世界が融合し、『裏側の民』が完全に解放される」

「それを防ぐには?」陽一が尋ねた。

清明は立ち上がり、奥の部屋へと三人を案内した。そこには小さな祭壇があり、その上に古びた木箱が置かれていた。彼はその蓋を開け、中から五つの鏡の欠片を取り出した。それぞれの欠片は美琴が持つものと同じような形状だが、微妙に異なる模様が刻まれていた。

「伝説の『境界の鏡』だ」清明は静かに言った。「古代より七つの欠片に分けられ、世界各地に隠されていた。私は長年の研究でこの五つを集めることができた。あと二つ。美琴の持つ欠片とあと一つが揃えば、鏡は完成する」

「あと一つは鴇田が持っている」音羽が口を挟んだ。「彼は東京郊外の秘密基地で最終計画を進めている。あと残り十八時間で、彼も同様に境界を開くための儀式を行うつもりよ」

清明の表情が厳しくなった。「それは阻止せねばならない。鴇田の目的は境界を開くことだが、我々の目的は反対に、境界を強化し、二つの世界を再び分離することだ」

美琴は自分の欠片を取り出し、他の五つと並べた。六つの欠片が互いに反応し、同調するように光を放った。

「これらを使って、どうするんですか?」美琴が尋ねた。

清明は奥の壁に掛けられた古い地図を指差した。そこには東京周辺の地図が描かれ、七つの場所が印されていた。それらの場所を線で結ぶと、複雑な幾何学模様が浮かび上がる。

「これは『封印の陣』と呼ばれるものだ」清明は説明した。「七つの力点に七つの欠片を配置し、同時に力を解放すれば、境界を再構築できる。しかし、それには七つ目の欠片が必要だ」

「私が取りに行きます」陽一は決意を込めて言った。「鴇田の基地に潜入し、最後の欠片を奪い取る」

「危険すぎるわ」美琴が心配そうに言った。「『裏側の民』の影響は強まっている。特にあなたは…」

彼女の言葉は途中で途切れたが、その意味は明らかだった。陽一の中の「破壊者」の力が、「裏側の民」と共鳴する危険性を懸念していたのだ。

「他に方法がない」陽一は静かに言った。「音羽は基地の内部構造を知っている。彼女と一緒なら、潜入は可能だ」

音羽は頷き、神社の庭に描かれた地図を使って、鴇田の本拠地の詳細を説明し始めた。それは東京郊外の廃工場のように見せかけた施設で、内部には最新鋭の装置と「夜明けの鴉」のメンバーが常駐していた。

「鴇田は中央祭壇で最終儀式の準備をしている」音羽は言った。「彼は最後の欠片を常に身につけているわ。それを奪うには、彼に直接近づく必要がある」

「でも、もしも儀式が始まったら?」美琴が尋ねた。

「それを防ぐためにも、急がなければ」陽一は言った。

美琴は自分の欠片を清明に渡し、「私は神社の奥の鳥居から境界領域にアクセスし、地球側から封印を強化する準備を始めます」と告げた。「あなたが最後の欠片を持ち帰ったら、すぐに儀式を始められるように」

清明はうなずき、美琴に古い巻物を手渡した。「これは儀式の手順だ。境界領域にいる間、このとおりに進めれば、一時的に封印を強化できる。それが欠片を取り戻す時間的猶予になるだろう」

彼らは神社の奥へと進み、かつて陽一と美琴が初めて訪れた時に見た古い鳥居の前に立った。月明かりの下、鳥居は以前よりも実体がなく、まるで霧の中に浮かんでいるように見えた。その向こう側には、通常なら森が続いているはずの場所に、月面のような風景が断片的に見えていた。境界が薄くなり、二つの世界が混ざり始めている証拠だった。

「時間がないな」陽一は声を潜めた。「すぐに出発する」

美琴は彼の手を取り、少し離れた場所に連れて行った。二人きりになると、彼女の表情は柔らかくなり、同時に心配の色も濃くなった。

「本当に行くの?他の方法を考えてみては?」彼女の声には抑えきれない不安があった。

陽一は彼女の顔をじっと見つめた。「他に方法はない。それに…」彼は自分の胸に手を当てた。「この中の力も、何かの役に立つはずだ」

「それが心配なの」美琴の目に涙が浮かんだ。「あなたの中の『破壊者』の力は、『裏側の民』と繋がっている。使えば使うほど、あなたは彼らに近づく。もしも取り込まれてしまったら…」

「大丈夫だ」陽一は彼女の肩に手を置いた。「僕は自分を見失わない。必ず戻ってくる」

美琴は唇を噛み、彼の顔を両手で包んだ。「あなたは『破壊者』でも『守護者』でもない。ただの陽一なのよ。それだけを忘れないで」

彼女はゆっくりと身を乗り出し、陽一の額に優しいキスをした。そのキスには祝福と祈りが込められていた。接触した瞬間、陽一の体内を温かい光が走り、「破壊者」の力が一時的に静まるのを感じた。

「守りの印よ」美琴は囁いた。「あなたが自分を見失わないように」

二人は別れを惜しみながらも、それぞれの使命に向かう決意を固めた。美琴は鳥居の前で儀式の準備を始め、陽一と音羽は神社を後にした。

社殿の方を振り返ると、そこには清明が立っていた。彼は両手を広げ、何かの言葉を唱えていた。空気が揺れ、神社全体を包む結界が強化されるのが見えた。しかし、それがどれほど持ちこたえられるかは不明だった。

「鴇田の基地までどれくらいかかる?」陽一は音羽に尋ねた。

「車で一時間弱」彼女は答えた。「でも、このままでは道路が使えない可能性が高いわ。あちこちで異変が起きている」

実際、彼らが神社の石段を降りていくと、麓の町では既に混乱が広がっていた。青白い光に照らされた道路には放置された車が並び、人々は混乱して走り回っていた。中には虚空に向かって叫ぶ者、地面にうずくまって震える者もいた。

「別の移動手段を考えないと」陽一は眉をひそめた。

「あそこ」音羽が指差した先には、まだエンジンのかかったままの警察のパトカーがあった。警官の姿はなく、無線からは断片的な報告が聞こえていた。

二人は躊躇なくパトカーに乗り込んだ。陽一がハンドルを握り、音羽は助手席から地図を広げた。彼らは街の混乱を縫うように走り出した。空を見上げると、月はますます異様な姿になり、その周りには奇妙な渦が形成されつつあった。

時間と空間が歪み始める世界の中で、二人はそれぞれの決意を胸に、未知の危険へと向かって走り出した。美琴の祝福の温もりが陽一の額にまだ残っていた。それは彼の内側の闇と光の狭間で、かすかな希望の灯火のように感じられた。

最後の欠片

東京郊外の森の中、廃工場のように見せかけた施設が佇んでいた。一見すると朽ちた産業の名残のようだが、近づくほどに違和感が増す。煙突からは煙ではなく、青白い靄が静かに立ち昇り、建物の周囲には高圧電流が流れる金網が巡らされていた。夜の闇に浮かび上がるその施設は、現代の魔術師の城のようだった。

「あれが『夜明けの鴉』の本拠地」音羽は囁くように告げた。彼女と陽一は森の縁から施設を見下ろしていた。彼女の顔は月明かりに青ざめ、表情には緊張と恐れが混在していた。「中央棟に鴇田がいるわ。もう儀式の準備は終わっているはず」

陽一は無言で施設を観察していた。彼の体内では「破壊者」の力が静かに蠢いていた。それは使われることを待ち望むウィスキーのように、喉の奥で熱く燃えていた。しかし同時に、美琴の額にしたキスが残した守りの印が、その力を抑え込んでいた。

「警備システムは?」彼はポケットに入れたペンライトを握りしめながら尋ねた。

「四重のセキュリティ」音羽は指を折りながら説明した。「外周の動体センサー、中庭のカメラ網、建物入口のバイオメトリック認証、そして内部の警報システム。でも…」彼女は片眉を上げた。「私の認証はまだ有効なはず。鴇田は私が裏切るとは思っていないわ」

彼らは森を抜け、施設の外周の死角を縫うように近づいていった。音羽は小型の電子機器を取り出し、動体センサーを一時的に無効化する。それは彼女が「夜明けの鴉」の一員だった頃に用意していた保険だった。

「なぜ鴇田に従っていたんだ?」陽一は金網を切断しながら尋ねた。

音羽の目が遠くを見つめるように細められた。「最初は好奇心だったわ。古代言語を解読する中で、私は『裏側の民』の存在を知った。彼らが約束する知識と力に魅せられて…」彼女は苦い笑みを浮かべた。「でも、本当の姿を見た今は、それが錯覚だったと分かる」

二人は施設の裏口に辿り着いた。音羽は自分のIDカードをかざし、指紋認証を済ませると、扉は軽い音を立てて開いた。内部は予想外に明るく、無機質な廊下が伸びていた。壁には奇妙な幾何学模様が刻まれ、それらは微かに脈動しているように見えた。

「中央ホールまで行かなきゃ」音羽は廊下の奥を指差した。「でも警備員が…」

二人は身を低くして前進した。時折、黒装束の警備員が交差点を通り過ぎる。彼らの動きは機械的で、目はどこか焦点が合っていないようだった。

「彼らは既に半分、『裏側の民』に侵されているわ」音羽が小さく呟いた。「自我はほとんど残っていない」

中央棟に近づくにつれ、空気中の違和感が強まった。まるで水中を歩いているような圧迫感があり、耳の奥で低い振動音が鳴り続けていた。陽一の頭痛が強まり、彼の中の「破壊者」の力が反応して脈打ち始めた。

「ここだ」音羽が大きな二重扉の前で立ち止まった。「中央ホール。鴇田はあの中で儀式を準備している」

扉の小窓から覗くと、広大な空間が広がっていた。かつての工場のメインフロアを改造したその場所は、高い天井と広い床面積を持っていた。床には巨大な魔法陣のような図形が描かれ、その中心には何かが立っていた。

「あれは…」陽一は息を呑んだ。

中央に立っていたのは、黒曜石のような素材で作られた鳥居だった。それは八咫烏神社のものと酷似していながら、どこか異質な佇まいを持っていた。鳥居の周りには数十人の「夜明けの鴉」のメンバーが円を描くように座り、低い唱和を続けていた。そして鳥居の前に立っていたのは鴇田幸成だった。

彼は白い儀式用の衣装に身を包み、両手を広げていた。胸元には鎖で繋がれた最後の鏡の欠片が光っていた。その光は不自然に強く、鴇田の顔を下から照らし出し、不気味な陰影を作り出していた。

「準備はいいか」陽一は音羽に言った。「俺が鴇田の気を引きつける。その間に儀式を妨害して」

音羽はうなずいたが、表情には不安が浮かんでいた。「でも、あなたの『破壊者』の力は…」

「大丈夫だ」陽一は額を軽く触った。そこにはまだ美琴の守りの印が残っていた。「限界まで使わないようにする」

陽一は深く息を吸い込み、扉を開いた。緊張と決意が入り混じった複雑な感情を抱えながら、彼は中央ホールに足を踏み入れた。

その瞬間、けたたましい警報音が鳴り響いた。

「ようこそ、鷹宮陽一君」鴇田の声が警報音の上から響いた。彼は優雅に振り返り、微笑んだ。「そして紫織音羽。君の裏切りは予想していたよ。本来の役割を忘れた『翻訳者』よ」

「罠だったのか」陽一は音羽に目配せし、前に出た。「逃げろ、音羽!」

音羽は躊躇したが、そこに黒装束の警備員たちが両側から現れ、彼らを取り囲み始めた。

「世界が変わる瞬間に立ち会うがいい」鴇田は両手を広げた。彼の後ろの鳥居が青白く発光し始めた。「人類の次なる進化の瞬間をね」

陽一は内側から力が湧き上がるのを感じた。もはや抑える時ではない。彼は美琴の警告を思い出しながらも、「破壊者」の力を解放し始めた。

「表出せよ」彼は低く呟いた。

彼の体から青白い光が漏れ出し、周囲の空気が震え始めた。警備員たちが一斉に彼に向かって飛びかかってきたが、陽一の周りに形成された力の場が彼らを弾き飛ばした。

「音羽、先に行け!」陽一は叫んだ。「鳥居を止めるんだ!」

音羽は一瞬躊躇したが、すぐに決断して混乱に紛れて鳥居に向かって走り出した。陽一は残りの警備員たちと対峙した。彼の力は次第に強まり、体から発せられる光は部屋全体を照らすほどになっていた。

しかし、力を使うほどに、彼の内側では異変が起きていた。頭の中に異質な声が聞こえ始め、視界の端に黒い影がちらつく。それは「裏側の民」の意識が彼の内側に侵食し始めている証だった。

「来い!」陽一は叫んだ。

彼は力を集中させ、前方に衝撃波を放った。警備員たちは吹き飛び、中には壁に激突して動かなくなる者もいた。しかし、その攻撃の後、陽一の視界が一瞬歪んだ。彼の手が半透明になり、その奥に「裏側の民」の黒い影が見え隠れしていた。

「まだだ…」陽一は自分自身に言い聞かせるように呟いた。「まだ自分を保てる」

彼は鴇田に向かって進み始めた。一方、音羽は儀式の魔法陣に近づき、その一部を乱し始めていた。鴇田はそれに気づき、怒りの表情を浮かべた。

「愚か者め!何千年もの準備を台無しにするつもりか!」

鴇田の手から黒い霧のようなものが放たれ、音羽に向かって飛んでいった。彼女は間一髪で身をかわしたが、魔法陣を乱す作業は中断せざるを得なかった。

陽一は鴇田との距離を詰めた。彼の周りの空気は歪み、時折「破壊者」としての過去の記憶がフラッシュバックのように現れては消えた。古代の都市、戦い、そして何度も繰り返された敗北と復活。

「お前たち守護者は、人類の進化を恐れている」鴇田は陽一に向かって言った。彼の声は冷静さを保っていたが、目には狂気の色が宿っていた。「高次元存在との融合こそが、我々の運命だ。この欠片で全てが決まる」

彼は胸元の鏡の欠片を掲げた。七つの欠片の中で最後の一つ。それは他のものよりも光が強く、まるで生命を持つかのように脈動していた。

「それさえあれば世界は一変する」鴇田は高らかに宣言した。「人類は肉体という牢獄から解放され、純粋な精神体として進化する。そして私がその世界の支配者となる!」

陽一は鴇田の目を見つめた。そこには確かに信念があり、それは歪んでいても一つの真実だった。人類の進化を願うその心は、どこかで陽一の内なる「破壊者」と共鳴していた。

「違う」陽一は力を振り絞って言った。「お前が解放しようとしているのは進化ではない。侵略だ。『裏側の民』は我々を利用しているだけだ」

「貴様に何が分かる!」鴇田の顔が歪んだ。「私は見たのだ!彼らが約束してくれた未来を!」

彼の体からも黒い霧が噴出し、それは陽一の青白い光と衝突した。二つの力がぶつかり合い、中央ホール全体が振動し始めた。天井から破片が落ち、床には亀裂が走った。

「私も見た」陽一は言った。彼の声は次第に変化し、「破壊者」の古い響きが混じり始めた。「幾度も繰り返された過去を。彼らは常に我々を裏切ってきた。お前も例外ではない」

二人の衝突は激しさを増し、光と闇のエネルギーが渦を巻いた。陽一の体は次第に「裏側の民」の影響を受け、部分的に透明化し始めていた。彼は美琴の守りの印を頼りに、自分自身の意識を必死に保っていた。

最後の力を振り絞り、陽一は前方に突進した。鴇田の周りの黒い霧の壁を突き破り、彼に体当たりをした。二人は床に倒れ、激しく転がり合った。

その混乱の中、陽一は鴇田の胸元の欠片に手を伸ばした。鴇田も必死に抵抗し、彼の手から黒い霧が陽一の顔を覆った。陽一の呼吸が止まり、体が痙攣した。「裏側の民」の力が彼の内側に直接侵食しようとしていた。

「無駄だ」鴇田は勝ち誇ったように笑った。「もはや君の体は半分『裏側の民』のものだ。あと少しで完全に彼らに飲み込まれる」

しかし、陽一の意識はまだ残っていた。彼は美琴の顔を思い浮かべ、彼女の言葉を心の中で反芻した。「あなたは『破壊者』でも『守護者』でもない。ただの陽一なのよ」

その思いが、彼に最後の力を与えた。

「俺は…俺だ!」

陽一は鴇田の胸元に手を伸ばし、鏡の欠片を掴んだ。欠片が彼の手に触れた瞬間、激しい光が放たれ、二人の間に爆発的なエネルギーが生じた。鴇田は吹き飛ばされ、壁に激突した。

陽一は最後の欠片を手に握りしめた。しかし、その勝利は短い喜びしかもたらさなかった。彼の胸に鋭い痛みが走った。見下ろすと、そこには黒い刃が突き刺さっていた。鴇田が最後の抵抗として投げつけたものだろう。

「陽一!」音羽の叫び声が聞こえた。

彼女は急いで駆け寄り、陽一を支えた。彼の体から青白い光が消え、代わりに血が床に滴り始めた。

「欠片を…」陽一は弱々しく言った。「美琴のところへ…」

音羽は欠片を自分のポケットに滑り込ませ、陽一の体を引きずるようにして出口に向かった。周囲は混乱に陥り、「夜明けの鴉」のメンバーたちは指示を失って右往左往していた。

「ん…」鴇田が壁の下から弱々しく動き出した。彼の顔は血に染まっていたが、目はまだ憎悪の炎を燃やしていた。「逃がさん…」

しかし彼が立ち上がる前に、天井の一部が崩落し、彼の上に降り注いだ。建物全体が崩壊し始めていた。

「急いで!」音羽は陽一を引きずりながら出口を目指した。

彼らの後ろでは中央ホールが崩れ落ち、「夜明けの鴉」の本拠地は瓦礫と化していった。最後の欠片を手に、彼らは命からがら外へと脱出した。

陽一の意識は次第に薄れていった。彼の胸の傷からは血が流れ続け、その命は風前の灯火のようだった。しかし彼の手には、しっかりと最後の欠片が握られていた。

「美琴…」彼は意識を失う直前に呟いた。「待っていてくれ…」

二つの月

満月は異様な大きさで夜空に浮かんでいた。その表面はもはや静かな衛星のものではなく、液体のように揺らめき、青白い光を放っていた。八咫烏神社の境内に、その光が降り注ぐ。木々の影は歪み、風が運ぶ音は人の囁きのようだった。

美琴は神社の奥の鳥居の前で、儀式の準備を進めていた。彼女の額には汗が浮かび、手は細かく震えていた。周囲には六つの鏡の欠片が円を描くように配置され、その中心にはまだ空の台座があった。最後の一片を待っているようだった。

社務所では、若い巫女たちが懸命に護符を書き、清明の指示に従って結界を強化していた。彼らの顔には疲労と恐怖が刻まれていたが、それでも使命を全うしようという決意も見て取れた。

突然、神社の入り口から車のエンジン音が聞こえた。美琴は我を忘れたように駆け出した。期待と恐怖が入り混じる複雑な感情を抱えながら、彼女は石段を降りていく。

タクシーのドアが開き、そこから音羽が現れた。彼女は血に染まった服で、顔は泥と汗で汚れていた。そして、彼女の腕の中には陽一の命のない重みが抱えられていた。彼の胸元からは血が滴り、顔は青白く、目は閉じられていた。

「陽一!」美琴の叫びは夜の静けさを引き裂いた。

彼女は駆け寄り、陽一の顔に触れた。その肌は冷たく、息は弱々しかった。しかし彼の右手はしっかりと握られており、その中に最後の鏡の欠片が収められていた。

「彼は…」音羽の声は震えていた。「鴇田との戦いで致命傷を…でも最後の欠片を奪い取った」

二人は力を合わせて陽一を神社へと運んだ。社務所に入ると、清明が急いで近づいてきた。彼の顔には深い悲しみが浮かんだが、すぐに決然とした表情に戻った。

「急ぎましょう」彼は簡潔に言った。「彼の命も、そして世界の命運も時間との勝負です」

陽一は社務所の中央に敷かれた布団に寝かされた。彼の胸の傷は一見して致命的だった。「裏側の民」の黒い力が傷口から染み出し、その周囲の肌を灰色に変色させていた。

美琴は彼の冷たい手を握り、涙を抑えることができなかった。「陽一…お願い、死なないで…」

その時、陽一の目が微かに開いた。焦点の定まらない瞳が、美琴を探すように動く。

「み…こと…」その声は風のようにかすかだった。「欠片は…」

「ここにあるわ」美琴は彼の握りしめた手を開き、血で汚れた最後の欠片を取り出した。「あなたがやったのね。命がけで…」

陽一はかすかに微笑んだ。その笑顔は彼が「破壊者」でも何でもなく、ただの鷹宮陽一であることを示していた。

「急ぎましょう」清明が言った。「満月が天頂に達するまであと一時間しかありません」

美琴は欠片を握りしめ、立ち上がった。「儀式を始めましょう」

社務所から奥の鳥居へ、四人は静かに移動した。若い巫女たちが陽一を担架に乗せて運び、美琴はその横を歩いた。彼女の心は決意と悲しみの間で揺れていた。

鳥居の前に到着すると、既に周囲には異変が起きていた。鳥居の向こう側には、通常なら森が続いているはずの場所に、月面のような風景が見え隠れしていた。二つの世界の境界が崩れ、互いに侵食し合っているのだ。

「これは…」美琴は息を呑んだ。

清明はうなずいた。「境界の崩壊は既に臨界点に達しています」彼は最後の欠片を受け取り、既に配置された六つと共に円を完成させた。「このままでは、封印を修復しても手遅れになる可能性があります」

陽一は担架から目を開け、弱々しく周囲を見回した。彼の意識はまだそこにあったが、その命は風前の灯火だった。

「どうすれば…」美琴は尋ねた。彼女の声は震えていたが、その目には揺るぎない決意があった。

清明は深い溜息をつき、老いた手で長い白髪をなでつけた。「唯一の方法は『分離儀式』です」彼の声は厳かだった。「それは月と地球の境界を完全に分離させ、二つの世界を別々の次元に置く方法。物理的な月と、精神世界の月を分けるのです」

「それで『裏側の民』を封じ込められる?」音羽が問いかけた。

「はい」清明はうなずいた。「『裏側の民』は精神世界の月に封じ込められ、現実世界は安定を取り戻すでしょう。しかし…」彼は言葉を切り、悲しげに目を伏せた。「そのためには『境界の守護者』が必要です。その役目を担う者は、二つの世界の狭間に永遠に存在することになる。つまり…この世界から消える」

美琴は一瞬考え込み、そして静かに言った。「私がやります」

「いや…」弱々しい声が聞こえた。陽一が担架の上で体を起こそうとしていた。「俺も…行く」

「陽一!」美琴は彼の側に駆け寄った。「あなたは傷ついている。安静にして」

陽一は彼女の手を掴んだ。その握力は弱かったが、意志の強さは伝わってきた。「美琴…俺たちは何度も生まれ変わって…この瞬間のために…ここにいる」彼の目に力が戻り始めていた。「一人じゃダメだ…二人で行こう」

美琴の目に涙が溢れた。彼女は陽一の言葉の真意を理解していた。彼らの魂は何千年もの間、守護者と破壊者として対立してきた。しかし今、初めて二人は共に同じ目的のために立ち上がろうとしていた。

「『共犠』…」清明が呟いた。「守護者と破壊者が共に境界の守護者となる古い儀式。伝説にはあったが、実際に行われたことはない」

「できますか?」美琴は清明に尋ねた。

清明は考え込み、そして頷いた。「準備を始めましょう」

満月が天頂に近づくにつれ、神社全体の空気が変化していった。風は止み、木々は動きを止め、まるで世界そのものが息を潜めているようだった。清明は白い装束に身を包み、鈴と護符を手に儀式の準備を整えた。

美琴は陽一の傍らに座り、最後の時間を共に過ごした。二人の間に言葉は少なかったが、その沈黙は多くを語っていた。彼らの出会いから今までの全てが、この瞬間のためだったかのように思えた。

「心配だとか、怖いとか…そういう感情はないの?」美琴は静かに尋ねた。

陽一はかすかに微笑んだ。「もちろんある。でも…」彼は彼女の顔をじっと見つめた。「君と一緒なら、どこへでも行ける気がする」

時が近づいた。清明の指示で、陽一は担架から降ろされ、美琴の助けを借りて鳥居の前に立った。彼の足はまだ弱々しかったが、何かが彼に力を与えているようだった。七つの鏡の欠片が円を描き、その中心に二人は立った。

「準備はいいですか?」清明が尋ねた。

二人は無言で頷いた。音羽も彼らの側に立ち、「翻訳者」としての役割を果たす準備をした。

満月が天頂に達した瞬間、清明は古い言葉で祝詞を唱え始めた。その言葉は人間のものともつかない、何千年もの歴史を持つ古代の響きだった。七つの欠片が輝き始め、互いに光の糸で繋がっていく。まるで糸を紡ぐように、光は織り上がり、やがて一枚の鏡の形を形成し始めた。

「境界の鏡」美琴は畏敬の念を込めて囁いた。

完成した鏡は清明の手に移され、彼はそれを鳥居に向けた。鏡が反射する月の光が鳥居に注がれると、鳥居の内側が変化し始めた。森の風景は消え、代わりに無限の空間が広がっているように見えた。それは月でも地球でもない、二つの世界の間の領域だった。

「行くべき時が来た」清明は二人に告げた。「境界の守護者となる準備はできていますか?」

美琴と陽一は互いを見つめ、そして手を取り合った。陽一の顔色はまだ悪かったが、彼の目には決意の光があった。彼は最後の力を振り絞って立ち上がり、美琴と共に鳥居に向かって一歩を踏み出した。

「ありがとう…そしてさようなら」美琴は清明と音羽に向かって言った。「これが私たちの運命だったのね」

鳥居に近づくにつれ、二人の体が変化し始めた。まず、輪郭が曖昧になり、光を通すようになった。そして次第に半透明になり、その内側から青白い光が漏れ出していった。それは「裏側の民」の光とは全く異なる、温かく純粋な光だった。

「美琴…」陽一が囁いた。「怖くない?」

「あなたが隣にいるから」彼女は微笑んだ。

二人は手を取り合ったまま、鳥居の中へと一歩、また一歩と進んでいった。彼らの体は次第に現実世界から消え去り、境界の世界へと移行していく。最後に残ったのは、二人の手が重なり合う姿だけだった。そして、それさえも光となって消えた。

瞬間、強烈な光が鳥居から放たれ、神社全体を包み込んだ。清明と音羽は目を守るために腕で顔を覆った。光が収まると、鳥居の向こう側には再び森の風景が見えていた。しかし、それは完全に元通りではなかった。何かが根本的に変わっていた。

空を見上げると、月は元の姿に戻りつつあった。その表面はもはや液体のように揺らめくことはなく、静かに夜空に浮かんでいた。しかし、注意深く見ると、そこには微かな二重の像が見えた。物理的な月と、その向こう側に透けて見える別の月。

「成功したのですね」音羽は静かに言った。

清明は無言で頷いた。彼の目には涙が光っていた。「彼らは今、境界の守護者として、二つの世界の間に存在している。そして『裏側の民』は精神世界の月に封じ込められた」

儀式が終わると、神社はかつての静けさを取り戻した。木々は再び風に揺れ、虫の声が聞こえ始めた。世界は安定を取り戻したのだ。しかし、その代償は大きかった。

一年後の満月の夜、八咫烏神社の鳥居の前に一人の少女が立っていた。九歳になる篝彩葉かがり あやはは、清明の孫娘で、美琴と同じような霊感を持つ子だった。彼女は小柄で、長い黒髪が風に揺れていた。白い巫女服を着た彼女は、月を見上げながら微笑んでいた。

「おじさん、おばさん、また会いに来たよ」彼女は柔らかく呟いた。

月の表面に、一瞬何かが映り込んだように見えた。それは二人の人影、手を繋いだままこちらを見つめている姿だった。彩葉だけにしか見えない光景。

彼女は小さな手を開いた。そこには小さな鏡の欠片があった。それは七つの欠片のどれとも違う、新しい欠片だった。境界の世界から送られてきたメッセージ。

「大丈夫、ちゃんと守るから」彩葉は欠片を胸に抱きながら約束した。「おじさんとおばさんが教えてくれた通りに」

彼女が振り返ると、神社の入り口には清明と音羽が立っていた。音羽は今や巫女の装束を身につけ、「翻訳者」としての新たな役割を担っていた。清明は穏やかな笑顔で彩葉を見守っていた。

二つの月の物語は終わりを迎えたわけではなかった。むしろ、新たな物語が始まったばかりだった。陽一と美琴が作り出した新しい境界を、次の世代が守り継いでいく。そして月の向こう側で、二人は永遠に手を取り合い、二つの世界を見守り続けるのだった。

彩葉は最後にもう一度、月を見上げた。「またね」と小さく手を振り、神社の石段を降り始めた。月光が彼女の後ろ姿を照らし、その影は長く神社の石畳に伸びていた。まるで、もう一人誰かが彼女と共に歩いているかのように。

夜風が吹き、木々が静かに囁いた。その音は人の声のようでもあり、また違うようでもあった。物語は終わりと始まりの狭間で、新たな一章へと静かに移ろうとしていた。

丸い月は変わらず夜空に浮かび、その光は変わらず地上を照らしていたが、その本質は永遠に変わってしまった。表と裏、光と影、現実と幻想。それらの境界を守る二人の魂は、幾千年の時を超えて、ようやく共に在ることを許された。

そして世界は、静かに息づいていた。

<完>

作成日:2025/03/01

編集者コメント

第一部第二部、第三部の三部構成の第三部です。全体で10万字ほど、長くなりすぎたので分割したものです。

プロットを整理した段階では6万字ほどになりそう、二部構成になるかな?と思っていたのですが、想定以上に長文になりました。Claudeはひとつのチャットに入る文字量(プロンプト+応答)の上限があって、無料版はこれがすごく小さくて、物語を書かせる用途には不向き。でも課金するとこの上限を上げることができるということで、今回は課金して初めての作品。で、わーすごいこんなに長く引っ張ることができるんだーと感動してたんですが、第二部まで書き終わったところで上限に引っかかってしまいました。第三部は、新しいチャットを立てて、プロット等をあらためて理解させ直して、書かせたものなんですが、文体の匂いが若干変わってしまった感じがします。端的に言えば第一部~第二部よりも、第三部のほうがヘタです。うーん、第一部~第二部と同じトーンで書いてほしいなと思いながらも、「同じトーン」を正しく伝える術がない。こういうときどうしたらいいんでしょうかね。

とりあえず、ひとつのチャットで息が続くサイズの小説を、もう少し鍛錬します。

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