『パラレル・ティータイム 前編:猫の舌が描く波形』イメージ画像 by SeaArt

パラレル・ティータイム 前編:猫の舌が描く波形

紹介東京の私立大学で量子物理学を研究する篠原弦は、実験中に「猫の舌」型の不可解な波形パターンを発見する。既存の理論では説明できないその現象を追究するうち、弦の周囲で奇妙な変化が起き始める。見知らぬ婚約者の出現、研究室の変容、そして彼を追いかける謎の猫。ダージリンティーの香りと共に訪れる眩暈の先に、弦を待ち受けるのは自らの存在すら揺るがす量子の謎だった。
ジャンル[SF][心理ドラマ][サスペンス]
文字数約35,000字

第一部:異常現象の発見

第1章

研究室の蛍光灯が、微かに耳障りな音を立てて明滅した。篠原弦しのはら げんはその音に眉をひそめ、視線を測定器から離さずに右手で額の汗を拭った。三月というのに、閉め切った研究室は蒸し暑かった。空調の設定温度は彼の好みではなく、精密機器に最適な温度だった。研究に身を捧げる者の小さな犠牲のひとつ。

「もう一度だけ」

弦は自分自身に言い聞かせるように呟いた。もう深夜零時を回っているはずだ。だが、時計を確認する余裕すら惜しいほど、目の前のスクリーンに映し出された波形に心を奪われていた。

量子もつれ──二つの粒子が距離に関係なく瞬時に影響を及ぼし合う現象──の新たな応用実験は、すでに三週間続いていた。通常ならとうに結果をまとめる段階に入っているはずだった。ところが今夜、測定器が突如として予測不能な異常値を出し始めたのだ。

スクリーンに表示された波形は、理論値からかけ離れていた。それは起伏に富み、中央部分が高く盛り上がり、左右に緩やかに下降していく。まるで猫が舌を出したような形状だった。

「これは何なんだ……」

弦は測定器の設定を再確認した。入力パラメータ、キャリブレーション、すべて正常だ。彼はキーボードを叩き、データの再解析を指示した。結果は変わらない。

窓の外は闇に包まれていた。研究棟のこの階には、もう弦以外に人の気配はなかった。静寂が支配する夜の研究室で、彼は孤独に浸りながら未知の現象と対峙していた。それはある種の至福でもあった。世界で自分だけが、この瞬間、この奇妙な波形を見ているという事実。

弦は椅子から立ち上がり、狭い研究室内を行き来し始めた。壁際に並ぶ本棚には、量子力学の教科書や論文が隙間なく並んでいる。床には段ボール箱や書類の山が不規則に点在し、その間を縫うように彼は歩いた。歩きながら考えることで、時に思考の糸がほどけることがあった。

「量子もつれの基本的な性質から考えれば、こんな波形は出るはずがない……」

弦は立ち止まり、スクリーンを振り返った。波形は依然としてそこにあり、その異常さを主張するかのように点滅している。まるで生命を持ったかのように。

彼の脳裏に、学部生の頃に読んだシュレーディンガーの猫の思考実験が蘇った。箱の中の猫は生きているのか死んでいるのか。量子力学によれば、観測するまでは両方の状態が重なり合っている──重ね合わせの状態だ。

スクリーンに表示された波形は、まさに猫の舌の形をしていた。それは偶然なのか、あるいは何か意味があるのか。

弦は再び椅子に腰を下ろし、データを保存した。彼の指先が震えているのは、疲労のせいか、それとも興奮のせいなのか判断できなかった。

「明日、高嶺たかねさんに見てもらおう」

助教の高嶺明日香あすかは鋭い洞察力の持ち主だ。彼女なら、この異常な波形に何らかの見解を示してくれるだろう。弦は目を閉じ、深く息を吸った。視界の裏側に、あの波形が焼き付いて離れなかった。

翌朝、弦は寝坊した。目を覚ますと、すでに朝の九時を回っていた。アパートの天井を見つめながら、昨夜の異常な波形が夢ではなかったことを確認するように、彼は目を何度か瞬かせた。

弦は歯を磨きながら、窓の外を眺めた。灰色の雲が低く垂れ込め、春とは思えない肌寒さだった。咽の奥に感じる乾きは、昨晩の徹夜の後遺症だろう。

シャワーを浴び、簡単な朝食──トーストとインスタントコーヒー──を摂った後、彼は大学へ向かった。通勤時の電車は、いつものように混雑していた。しかし今日は、周囲の喧騒が彼の意識に届かなかった。頭の中は昨夜の波形でいっぱいだった。

大学に着くと、弦は直接研究室へ向かった。ドアを開けると、高嶺明日香がすでにデスクで作業をしていた。黒縁の眼鏡をかけ、知的な雰囲気のショートヘアが彼女の特徴だった。今日も機能性を重視したネイビーのパンツスーツを身につけている。

「おはようございます、篠原先生」

明日香は作業の手を止め、弦に挨拶した。その表情には、いつもの冷静さの中に僅かな好奇心が混じっていた。彼女の鋭い目は、弦の疲れた様子を見逃さなかったようだ。

「ああ、おはよう。少し遅くなってしまった」

弦は返事をしながら、自分のデスクに向かった。ノートパソコンを立ち上げる間も、昨夜のデータにアクセスするのが待ち遠しくてたまらなかった。

「昨夜はまた徹夜だったんですか?」

明日香の声には心配が滲んでいた。

「ああ、まあ……少し興味深い現象に出くわしてね」

弦は曖昧に答えた。あの波形の説明をどこから始めれば良いのか、まだ整理できていなかったからだ。

「何か発見があったんですか?」

彼女は椅子を回転させ、弦の方を向いた。その瞳には好奇心が宿っていた。この若い助教は、弦の研究を心から尊敬しているようだった。

「うん、見てもらいたいものがある。昨夜の実験中に、予想外の波形が出てね」

弦はパソコンを操作しながら答えた。昨夜のデータファイルを開き、スクリーンに波形を表示させた。

「これを見てくれ」

明日香は席を立ち、弦のデスクに近づいた。スクリーンに映し出された波形を見た彼女の目が、わずかに見開かれた。

「これは……通常の量子もつれでは考えられない波形ですね」

彼女は眉を寄せ、画面に集中した。弦はその反応に安堵した。少なくとも、彼が昨夜見たものは幻覚ではなかったのだ。

「そうだ。まるで猫の舌のような形をしているだろう?」

明日香は頷いた。「確かに……でも、こんな波形が出るなんて。パラメータの設定は確認しましたか?」

「もちろん。何度もチェックした。機器の故障も考えられるが……」

弦は言いかけて止まった。この波形に意味があるのか、単なるノイズなのか。まだ判断できなかった。しかし、科学者としての直感は彼に囁きかけていた。これは意味のある現象だと。

「再現性を確認する必要がありますね」

明日香は冷静に提案した。「今日の午後、一緒に実験をやり直しましょうか」

弦は頷いた。彼女の提案は理に適っていた。科学の基本は再現性だ。一度きりの現象では、何も証明できない。

「そうしよう。ありがとう」

彼はパソコンの画面から視線を外し、窓の外を見た。雨が降り始めていた。滴が窓ガラスを伝う様子は、昨夜の波形を連想させた。

明日香が自分のデスクに戻り、弦は再びパソコンの画面に向き合った。彼は波形データをさらに詳しく分析しようとしたが、集中力が途切れた。昨夜の不眠と、この奇妙な発見による興奮が、疲労となって押し寄せてきた。

弦は深く息を吸い、目を閉じた。瞼の裏には、あの猫の舌のような波形が踊っていた。それは量子の世界からの何らかのメッセージなのか、それとも単なる機械のエラーなのか。

午後の実験が、その答えを導き出してくれることを願いながら、弦は静かに目を開けた。研究室の窓を打つ雨音が、彼の鼓動と重なり合うように響いていた。

第2章

実験は一週間続いた。しかし、あの猫の舌のような波形はまるで気まぐれな猫そのもののように、不規則に出現しては消えた。捉えようとすれば逃げ、忘れかけた頃に再び姿を現す。そんな繰り返しだった。

「今日こそは」

弦はそう呟きながら、測定器のパラメータを微調整した。春の陽射しが研究室の窓から射し込み、測定機器の金属部分に反射して小さな光の点を壁に作り出していた。窓辺に置かれたポトスの葉が、そよ風に揺れるたびに、その光の点も揺れ動いた。

「篠原先生、これでもう三十六回目です」

高嶺明日香は、データを記録しながら淡々と言った。彼女の声には疲労が滲んでいた。明日香は弦の研究に対する情熱を理解し、尊重していた。だが、一週間連続の深夜実験は、彼女の体力にも限界を感じさせるものだった。

「わかっている。だが、あの波形には何か意味があるはずだ」

弦は眼鏡を押し上げながら答えた。フレームの下には、疲労で赤くなった目が見えた。彼の白いワイシャツは、もう何日も着替えていないようで、袖口にはコーヒーのシミが付いていた。

「もちろんです。でも、データが示すのは、その波形が完全にランダムに出現するということです。何らかのパターンがあるとすれば、もう見つかっているはずですが…」

明日香は慎重に言葉を選んだ。彼女は弦の研究を否定したいわけではなかった。ただ、事実を直視する必要があると感じていた。彼女は立ち上がり、窓際に歩み寄った。研究棟の窓からは、キャンパスを行き交う学生たちの姿が小さく見えた。日常の光景。それは今、二人がこの部屋で追い求めているものとは、あまりにかけ離れていた。

「科学の歴史は、偶然の発見で満ちている。フレミングがペニシリンを発見したのも偶然だったし、レントゲンがX線を発見したのも…」

弦は言いかけて、自分の言葉に疑問を抱いた。それらの「偶然」の発見には、必ず観測できる現象があった。しかし今回の場合、その現象自体が捉えられないのだ。

「悪いけど、コーヒーを入れてくるよ。君も飲む?」

弦は立ち上がり、疲れた体を伸ばした。背骨がポキポキと音を立てるのが自分でもわかった。

「いえ、結構です。私はお茶を持ってきていますので」

明日香は微笑んで答えた。彼女の机の上には、小さな魔法瓶が置かれていた。

弦が部屋を出て行った後、明日香はふと立ち上がり、弦のデスクに近づいた。スクリーンには、これまでの実験結果がグラフ表示されていた。どのグラフも、あの特徴的な「猫の舌」の波形が見られるのは、ほんの一瞬であることを示していた。それは量子の世界の特性なのか、それとも単なる測定エラーなのか。

彼女は深く息を吸い、窓際に戻った。窓ガラスに映る自分の姿を見つめた。いつもより少し憔悴しているように見える。

弦が戻ってきたとき、彼の表情は一瞬で明日香の胸に不安を植え付けた。彼のコーヒーカップを握る手は、わずかに震えていた。

「どうしたんですか?」

大河内おおこうち教授から呼び出しを受けた。今すぐ行ってこなければならない」

弦は言いながら、机の上の書類を整理し始めた。しかし、その動きはいつもの几帳面さを欠いていた。まるで、悪い知らせを予感しているかのように。

「なんでしょうか…」

明日香は尋ねたが、その答えは既に薄々理解していた。大学の研究予算は年々削減されており、業績を出せないプロジェクトは真っ先に見直しの対象となる。そして今、彼らのプロジェクトは目に見える成果を出せていなかった。

「行ってきます」

弦はそう言い残し、研究室を後にした。扉が閉まる音は、妙に重々しく響いた。

大河内教授の研究室は、弦のそれとは対照的だった。整然と並べられた本棚、磨き上げられた木製の机、そして壁に飾られた数々の表彰状や記念写真。すべてが大河内教授の長年の実績と権威を物語っていた。

大河内教授自身も、その部屋にふさわしい風格を備えていた。威厳のある体格に白髪交じりの短髪、常に上質なスーツを着こなしている。その姿は、大学という小さな王国における支配者を思わせた。

「篠原君、座りたまえ」

大河内教授の声は、研究室の静けさを破った。弦は促されるままに、教授の机の前の椅子に腰を下ろした。

「何かございましたか、教授」

弦は丁寧に尋ねた。しかし、彼の心臓は不安で早鐘を打っていた。

「うむ。実は大学の研究予算の件だ。理事会から各研究室に予算削減の方針が伝えられている。特に、成果の出ていないプロジェクトは…」

大河内教授は言葉を濁した。しかし、その意図するところは明らかだった。

「私たちのプロジェクトは成果を出していないわけではありません。新たな現象を発見しつつあります」

弦は必死に反論した。しかし、自分の言葉が空虚に響くのを感じた。一週間もの集中実験でさえ、再現性のある結果を得られていないのだから。

「篠原君、君の研究熱心さは評価している。だが、大学は慈善事業ではない。投資に対するリターンを求める。それが厳しい現実だ」

大河内教授は椅子に深く腰掛け、両手を組んだ。彼の表情には、かすかな同情の色が見えた。

「あとどれくらいの猶予がありますか」

「一週間だ。来週の理事会で最終決定される。それまでに成果があれば…」

大河内教授は言葉を切った。

「わかりました。必ず成果を出します」

弦は立ち上がり、深々と頭を下げた。しかし、彼の内側では激しい動揺が渦巻いていた。たった一週間で、あの捉えどころのない現象を科学的に証明できるのか。

「期待しているよ、篠原君」

大河内教授の言葉を背に、弦は研究室を後にした。廊下の窓から見える夕焼けは、まるで時間が燃え尽きていくかのように赤く染まっていた。

「一週間ですか…」

明日香の声には、ショックが滲んでいた。弦が大河内教授との会話を伝えると、彼女の表情は曇った。

「ああ。それまでに何らかの成果を出さなければ、プロジェクトは打ち切りだ」

弦は疲れた声で答えた。研究室のデスクに山積みになった資料と、モニターに表示されたグラフを見ながら、彼は深く考え込んだ。

「どうすれば…」

明日香の問いに、弦は答えなかった。彼の頭の中では、可能性のある実験方法がめまぐるしく浮かんでは消えていた。

「今日はもう遅い。明日から新たな実験計画を立て直そう」

弦はそう言いながら、明日香を見つめた。彼女の目には疲労と不安が浮かんでいた。

「わかりました。お休みなさい、篠原先生。明日また…」

明日香は小さく微笑み、研究室を後にした。扉が閉まると、弦は深いため息をついた。あの波形には確かに意味がある。彼はそう信じていた。しかし、科学の世界で「信じる」ということが、どれほど無力なものか。証明できないことは、存在しないことと同義なのだ。

弦は眼鏡を外し、目を閉じた。瞼の裏には、あの猫の舌の波形が浮かんでいた。それは彼の直感を刺激し、何かを伝えようとしているかのようだった。

その夜、弦は研究室に残ることを決めた。明日香を帰らせた後、彼は実験装置を再セットし、新たなアプローチを試みた。もし量子のもつれが異なる次元や現実に影響を与えているのなら、その条件を特定できるはずだ。

深夜の研究室は、昼間とは違う顔を見せる。静寂が支配し、窓の外の暗闇は、ガラス越しに弦を見つめているかのようだった。研究棟のほとんどの部屋は暗く、ただ彼の研究室の明かりだけが、孤独に輝いていた。

弦は机に向かい、量子もつれに関する論文を再読し始めた。基本に立ち返ることで、新たな視点が得られるかもしれない。彼の視線が論文の一節に留まった。

「量子の状態は、観測するまで決定されない。」

シュレーディンガーの猫の思考実験。観測されるまで、猫は生きているとも死んでいるとも言えない状態にある。

「観測…」

弦は言葉を反芻した。もし彼らの実験装置が、量子の状態を観測することで、特定の状態に固定してしまっているとしたら?もし「猫の舌」の波形が、観測される前の自然な状態を一瞬だけ捉えているのだとしたら?

彼は急いで実験装置に向かい、観測のタイミングを変更した。通常より極めて短い間隔で観測を行うようプログラムを修正した。もし量子の状態が観測によって変化するのなら、観測の間隔を短くすることで、その変化の瞬間を捉えられるかもしれない。

「頼む、出てくれ…」

弦は呟きながら、実験を開始した。測定器からはかすかな振動音が聞こえる。モニターには、リアルタイムで波形が描かれていく。最初は通常の波形が続いた。しかし、プログラムの変更から約二十分後、突然スクリーンに異変が現れた。

波形が乱れ始め、まるで何かに干渉されたように形状が変化した。そして、その中心部分が盛り上がり、見慣れた「猫の舌」の形を取り始めた。

「来た…!」

弦は息を飲んだ。波形は安定せず、揺れ動いていたが、明らかにあの特徴的なパターンを示していた。彼は急いでデータを記録し、解析プログラムを走らせた。

数分後、結果が画面に表示された。波形は確かに量子もつれの特性を示していたが、既存の理論では説明できない部分があった。まるで、別の次元からの干渉を受けているかのようだった。

「これは…」

弦は言葉を失った。彼の目の前には、量子物理学の常識を覆す可能性を秘めたデータが広がっていた。しかし、それは同時に新たな謎も提示していた。なぜこの現象が不規則に発生するのか。どのような条件下で観測できるのか。

彼は徹夜で実験とデータ解析を続けた。窓の外が白み始めた頃、弦はようやく鍵となるパターンを見つけ出した。「猫の舌」の波形は、特定の時間帯に集中して出現する傾向があったのだ。深夜零時から午前二時の間に。まるで、時間そのものが波形の出現条件になっているかのように。

弦は疲労で重くなった頭を机に預けた。彼の脳裏には、今夜の発見が鮮明に焼き付いていた。これで大河内教授に報告できる成果ができた。プロジェクトは続行できるだろう。しかし、それよりも重要なのは、彼が科学の新たな地平に足を踏み入れたかもしれないという事実だった。

「明日香さんに見せなければ…」

弦はそう思いながら、徐々に意識が遠のいていった。研究室の窓から差し込む朝日が、彼の疲れ切った顔を金色に染めていた。

第3章

弦は測定器の調整に集中していた。モニターには「猫の舌」の波形がわずかに姿を現し始めていた。昨夜発見したパターン通り、深夜零時を回ったあたりから波形の出現頻度が上がっていた。彼の指先はキーボードの上で躊躇なく動き、データを記録していく。

「あと少しだ」

弦は眉間に皺を寄せながら、測定器のパラメータを微調整した。波形は徐々に安定し始め、あの特徴的な「猫の舌」の形が明確になってきた。彼は息を飲み、画面に釘付けになった。この瞬間を何日も待ち続けていたのだ。

研究室の空気は冷え切っていた。深夜の研究棟は空調が最低限に抑えられ、弦の吐く息が微かに白く見えた。彼の目の前には、半分空になったコーヒーカップが置かれている。冷めきったコーヒーは、もはや彼の疲労を癒す力を失っていた。

モニターの青白い光が弦の顔を照らし、彼の瞳に映る波形は、まるで生き物のように跳ねていた。それは量子の世界からの使者のようで、弦はその動きに魅入られていた。

その時だった。

突然、研究室の灯りが消え、周囲が闇に包まれた。

「何だ!?」

弦は驚きの声を上げた。しかし、その声は研究室の壁に吸い込まれるように消えていった。数秒後、非常灯だけが弱々しく点き、研究室を赤みがかった薄暗い光で照らし出した。

弦は立ち上がり、実験機器を確認しようとした。しかし、その瞬間、彼の体を激しい眩暈が襲った。まるで床が波打つように揺れ、彼の視界が歪んだ。それは酷い乗り物酔いのような感覚だったが、より激しく、より根源的なものだった。

「う…っ」

耳の奥深くから高い音が鳴り始めた。それは徐々に大きくなり、やがて彼の頭蓋骨全体を振動させるような轟音に変わっていった。弦は両手で耳を塞いだが、音は内側から湧き上がってくるもので、遮ることはできなかった。

彼の視界が狭まり始め、周囲が暗いトンネルの向こう側に遠ざかっていくような感覚に襲われた。研究室の壁も、実験装置も、すべてが彼から離れていった。最後に彼が見たのは、非常灯の赤い光に照らされた、測定器のモニターだった。そこには完璧な「猫の舌」の波形が表示されていた。

そして、弦の意識は完全に暗闇に飲み込まれた。

まぶたの裏に光を感じる。

弦は徐々に意識を取り戻した。頭には鈍い痛みがあったが、さっきまでの激しい眩暈や耳鳴りは消えていた。彼はゆっくりと目を開けた。

まばゆい朝の光が研究室に溢れていた。窓から射し込む陽の光は、床に明るい四角形を作り出し、その中には細かな埃が舞っていた。弦は机にうつ伏せになったまま、しばらくその光景を眺めていた。

「朝...か」

彼はゆっくりと体を起こした。椅子に深く座り、首の凝りをほぐすために首を左右に振った。停電はいつの間にか復旧していたようだ。研究室の照明は点いており、空調も通常通り作動していた。

「何時だろう」

弦は腕時計を確認した。午前七時を少し回ったところだった。彼は眉をひそめた。停電が起きたのは確か真夜中のことだ。そこから朝まで、彼は意識を失っていたのだろうか。

彼は立ち上がり、窓際に歩み寄った。キャンパスには既に学生たちの姿が見え、日常の風景が広がっていた。弦は深く息を吸い込んだ。朝の空気は清々しく、彼の頭をすっきりとさせた。

しかし、何かが違和感を感じさせた。

彼は振り返り、研究室を見渡した。いつもの研究室なのに、微妙に何かが違う。本棚の位置が少しずれているように見える。壁に掛けられた周期表のポスターも、昨日より少し右に寄っているような気がした。そして、机の上の物品も...

「あれ?」

弦は自分のデスクに近づいた。いつもなら、使い古したコーヒーマグが置いてあるはずの場所に、見慣れない缶が置かれていた。それはダージリンティーの缶だった。深い紺色の缶に金色の文字で「DARJEELING TEA」と印刷されている。

弦は缶を手に取った。軽く振ると、中には確かに茶葉が入っているようだった。彼は眉をひそめた。自分はコーヒー派のはずだ。朝食に欠かせないものといえば、濃いめのブラックコーヒーだった。ダージリンどころか、紅茶そのものにあまり興味を持ったことがなかった。

「何でこんなものが...」

弦は困惑した表情で缶を机に戻した。そして、さらに違和感を覚える発見をした。机の引き出しには、簡易的な茶葉用のフィルターと、使い古された湯飲みが入っていた。どちらも彼のものではなかった。

それどころか、デスクの配置も微妙に変わっていた。論文や参考書の積み上げ方が、彼の記憶と異なっていた。まるで、誰かが彼の机を使っていたかのようだった。いや、正確には、彼のような誰かが。

弦は頭を振った。疲労のせいで混乱しているのだろう。昨夜の停電と奇妙な体験は、彼の記憶に影響を与えたのかもしれない。しかし、その説明では納得できない部分もあった。なぜ彼の好みが変わっているように見えるのか。なぜダージリンティーなのか。

彼はパソコンの電源を入れ、昨夜記録したデータを確認しようとした。ログイン画面が表示され、彼はいつものようにパスワードを入力した。

「アクセスが拒否されました」

画面にそのメッセージが表示された。弦は驚いて再度パスワードを入力したが、結果は同じだった。彼のアカウントにアクセスできない。

「どうなってるんだ...」

彼は慎重にキーボードを見つめ、もう一度パスワードを入力した。しかし、三度目の試行も失敗した。弦の不安は増していった。何か重大なことが起きている。それは明らかだった。

その時、研究室のドアが開く音がした。

「おはようございます、篠原先生。今日も早いですね」

高嶺明日香の声だった。弦は振り返り、彼女を見た。明日香は普段と変わらない姿だった。知的な印象のショートヘア、機能性重視のスーツ。しかし、彼女の手には見慣れないものがあった。

「それは...」

弦は彼女が持っていたものを指さした。それは小さな紙袋で、表には「THE DARJEELING TEA COMPANY」というロゴが印刷されていた。

「ああ、これですか?」明日香は微笑んだ。「先生がいつも飲んでいるダージリンの新しい茶葉です。昨日、先生が在庫切れだとおっしゃっていたので、私の行きつけの店で買ってきました」

弦は言葉を失った。彼女の言葉は、彼の認識と完全に矛盾していた。彼はコーヒー派だった。ダージリンティーなど飲んだことすらなかった。そして、昨日彼女とそんな会話をした覚えもない。

「あの...ありがとう」

弦は混乱したまま答えた。明日香に違和感を悟られないよう、表情を取り繕った。

「どういたしまして。あ、そうそう、昨日の実験データですが、面白い結果が出ていましたね」

明日香はそう言いながら、自分のデスクに向かった。彼女の言葉に、弦は思わず聞き返した。

「どんな結果だ?」

「波形のことです。確かに異常値が出ていましたが、先生が言っていた通り、量子情報の転送効率に関連していそうですね」

彼女の説明は、弦の知る実験結果とは全く異なっていた。彼が追求していたのは「猫の舌」の波形であり、量子情報の転送効率については二次的な関心事でしかなかった。

弦は頭の中で状況を整理しようとした。可能性は二つある。一つは、彼自身の記憶に問題があるということ。長時間の実験による疲労と、昨夜の奇妙な体験が彼の記憶を狂わせているのかもしれない。もう一つの可能性は...

「この世界が違う」

その考えは突飛すぎて、彼自身でさえ信じられなかった。しかし、量子物理学者として、彼は多世界解釈を知っていた。観測されていない量子の状態は、すべての可能性が共存している。観測することで、その可能性の一つが「現実」として固定される。理論上は、異なる可能性が実現した「別の世界」が無数に存在しうる。

彼は自分の手のひらを見つめた。それは確かに彼自身の手だった。しかし、この研究室は彼の知る研究室と微妙に異なり、そしてこの世界の「篠原弦」はダージリンティーを好むようだった。

弦は窓際に歩み寄り、外の景色を眺めた。キャンパスの風景は変わらない。建物も、木々も、行き交う学生たちも、彼の記憶通りだった。しかし、それでも何かが違う。色調が少し違うような、空気の密度が異なるような、そんな捉えがたい違和感があった。

彼は研究室の机に戻り、ダージリンティーの缶を再び手に取った。缶を開けると、茶葉の芳醇な香りが鼻をくすぐった。それは彼にとって見知らぬ香りのはずだった。しかし、どこか懐かしさを感じる香りでもあった。

弦は缶をゆっくりと閉め、デスクに戻した。彼はパソコンの画面を見つめ、再びパスワードを試してみた。しかし、やはりアクセスは拒否された。この世界の「彼」は、別のパスワードを使っているようだった。

「篠原先生、大丈夫ですか?顔色が悪いようですが...」

明日香の声に、弦は我に返った。彼女は心配そうに彼を見ていた。

「ああ、少し疲れているだけだ。昨夜の実験で...」

弦は言いかけて、言葉を切った。昨夜のことを彼女に話しても、恐らく理解されないだろう。この世界の「彼」との違いを説明するのは不可能だった。

「そうですか。無理はなさらないでください」

明日香は優しく言った。彼女の声には、いつもの冷静さに加えて、わずかな心配の色が混じっていた。

弦は微笑みを返し、椅子に腰掛けた。彼の心は複雑な感情で満ちていた。恐怖、困惑、そして奇妙なことに、好奇心。量子物理学者として、彼は理論上の可能性を実際に体験しているのかもしれない。そう考えると、彼の科学者としての魂が震えた。

彼はダージリンティーの缶に手を伸ばし、もう一度開けてみた。芳醇な香りが再び立ち込めた。それは彼にとって新しい世界への入り口の香りだった。

第二部:現実のゆらぎ

第4章

午前十時を過ぎた頃、弦は一度アパートに戻ることにした。明日香に「少し体調が優れないから」と伝え、研究室を後にした。本来なら、昨夜の実験結果を詳細に分析すべきところだったが、パソコンにアクセスできないこともあり、まずは状況を整理する必要があった。

大学の正門を出ると、春の柔らかな日差しが弦の頬を撫でた。風は桜の花びらの香りを運んでいた。普段、彼はこうした自然の変化にほとんど関心を払わなかった。量子の理論や実験に意識が集中して、季節の移ろいを感じる余裕などなかったのだ。しかし今日は違った。周囲の風景が彼の記憶と合致しているかどうか、一つひとつ確認せずにはいられなかった。

「おかしい…」

弦は通学路の途中で足を止めた。いつもならそこにあるはずの古本屋が、喫茶店に変わっていた。「珈琲と紅茶の店 カイロス」。白い壁に青いドアの、小さな喫茶店だ。弦は眉をひそめた。彼がこの道を通るのは毎日のことだ。新しい店ができたなら気づくはずだった。しかも「カイロス」とは、ギリシャ語で「決定的な瞬間」を意味する。量子の観測に関わる彼には、偶然にしては意味深すぎる名前だった。

弦は立ち止まり、その店を眺めた。窓ガラス越しに見える店内は、落ち着いた雰囲気で、数人の客が思い思いの時間を過ごしていた。

「この店、いつからあるんだ…」

自問しながら、彼は歩を進めた。さらに進むと、新しい違和感が彼を襲った。交差点の角にある薬局が、彼の記憶と異なる場所にあった。確かに昨日まで、薬局は通りの反対側にあったはずなのに。

弦の頭の中で、現実認識が揺らぎ始めた。彼は歩く速度を上げた。早くアパートに戻り、自分の住空間が少なくとも記憶通りであることを確かめたかった。

しかし、アパートへの道すがら、さらに違和感は積み重なっていった。道路の舗装の模様が違う。街路樹の配置が微妙に異なる。看板の色調や店の名前など、細部に至るまで、彼の記憶とは少しずつズレていた。まるで彼が知る世界を誰かが真似て作ったものの、細部までは再現できなかったかのようだった。

弦のアパートは、大学から徒歩15分ほどの場所にあった。5階建ての、ごく普通の賃貸マンションだ。彼の部屋は3階の角部屋で、窓からは街並みが見渡せた。彼は息を整えながら建物の前に立ち、その外観を確認した。建物自体は記憶通りだった。しかし、昨日まで茶色だったはずの郵便ポストが、今日は深緑色になっていた。

「錯覚かな…」

弦は首を振り、エントランスの鍵を開けて中に入った。彼はエレベーターに乗り、3階のボタンを押した。エレベーターが上昇する間、彼は壁に凭れかかり、目を閉じた。頭の中で、昨日までの記憶と今日の現実が交錯していた。

「ピンポン」

エレベーターの到着音とともに扉が開き、弦は廊下に足を踏み出した。彼の部屋は廊下の一番奥、304号室だった。彼は鍵を取り出し、ドアの鍵穴に差し込んだ。

「あれ?」

鍵が入らない。

弦は困惑して鍵を見つめた。間違いなく彼のアパートの鍵だ。しかし、鍵穴にはまらない。彼は部屋番号を確認した。304号室。間違いない。

その時、となりの部屋のドアが開き、年配の女性が顔を出した。

「あら、どうしたの?」

その女性は弦を見て首を傾げた。

「すみません、鍵が合わなくて…」

弦は困惑したまま答えた。女性は彼を怪訝な表情で見た。

「あなた、この部屋に住んでるの?」

「はい、篠原です。304号室に住んでいますが…」

女性はさらに眉をひそめた。

「おかしいわね。304号室には中村さん夫婦が住んでるはずよ。あなたの部屋は…」

女性は口ごもった。彼女も混乱しているようだった。

「あの、失礼ですが、私の部屋はどこだと?」

弦は丁寧に尋ねた。女性は少し考え込み、それから小さな声で答えた。

「たしか…404号室じゃなかったかしら」

弦は愕然とした。404号室。一階上の、この部屋の真上の部屋番号だ。彼は頭を振った。

「ありがとうございます。確認してみます」

彼は女性に軽く頭を下げ、再びエレベーターに向かった。頭の中は混乱でいっぱいだった。自分の部屋を間違えるはずがない。彼は几帳面な性格で、特に自分の居場所については絶対に間違えることはなかった。

エレベーターで4階に上がり、404号室の前に立った時、弦は深く息を吸い込んだ。手の中の鍵を見つめ、ゆっくりと鍵穴に差し込んだ。

カチリ。

鍵が合った。

弦はドアを開け、中に入った。そこは確かに彼の部屋だった。しかし、いつもと同じではなかった。家具の配置が微妙に違い、壁に掛けられた絵も彼の記憶とは異なるものだった。そして部屋の隅には、彼が覚えのない観葉植物が置かれていた。

弦は茫然と部屋の中央に立ち尽くした。これが彼の部屋であることは間違いない。彼の本、彼の服、彼の研究資料。しかし、それらの配置や状態は、彼の記憶とはわずかに異なっていた。まるで誰かが彼の部屋を再現しようとしたものの、細部までは把握していなかったかのようだった。

彼はリビングのソファに腰を下ろし、頭を抱えた。何が起きているのか。これは夢なのか、それとも彼の記憶に問題があるのか。あるいは、もっと根本的な現実の歪みなのか。

時計が11時を指した。弦は時間を確認し、再び立ち上がった。混乱していても、彼はまだ研究者だった。大河内教授からの予算削減の通達を考えれば、長時間研究室を留守にするわけにはいかない。彼は部屋を後にし、再び大学へと向かった。

研究室に戻ると、高嶺明日香は集中して作業をしていた。彼女はパソコンの画面に映るデータを凝視し、時折メモを取っていた。弦が入室しても、彼女はすぐには気づかなかった。

「戻ったよ」

弦の声に、明日香は我に返ったように顔を上げた。

「あ、篠原先生。お帰りなさい。体調はいかがですか?」

「ああ、少し良くなった」

弦は曖昧に答えた。実際には、彼の混乱は深まるばかりだった。

「良かったです。あ、そうそう、昨日の実験データ、面白い傾向が見えてきました」

明日香は明るく言った。彼女はパソコンの画面を弦の方に向け、データグラフを指さした。

「ここと、ここをご覧ください。量子もつれの状態が特定の時間帯に安定していて、情報の転送効率が向上しています」

弦はグラフを見て驚いた。そこには確かに彼が発見した「猫の舌」の波形があったが、彼女の解釈は彼のものとは全く異なっていた。彼が「異常な現象」と捉えていたものを、彼女は「効率向上」と見ていたのだ。

「これは…」

弦は言葉に詰まった。彼女の解釈は論理的に筋が通っているようだった。しかし、それは彼の知る実験の目的とは異なっていた。

「先生が理論立てされた通りですね。量子もつれの状態が安定する時間帯を特定できれば、量子コンピュータの処理効率を大幅に向上させることができます」

明日香は興奮気味に説明した。彼女の目は輝いていた。

「そうだな…」

弦は曖昧に返事をした。彼には明日香の言葉が理解できなかった。彼は量子コンピュータの効率向上のための実験をしていたわけではなかった。彼の関心は、量子もつれによって生じる「猫の舌」パターンの謎を解明することだった。

「あの、高嶺さん」

弦は慎重に尋ねた。「私たちのプロジェクトの目的は、何だったっけ?」

明日香は奇妙な表情で弦を見た。彼女の目には混乱と心配が浮かんでいた。

「先生?それは量子コンピュータの処理効率向上のための研究ですよ。先生が理論を構築され、私がデータ分析を担当しています。それに、この研究は大河内教授も高く評価していて、予算も十分確保されていますし…」

彼女の言葉に、弦は心の中で震えた。彼の記憶では、研究予算は危機に瀕していた。大河内教授からの通達は厳しいものだった。しかしこの世界では、状況は全く異なるようだった。

「そうだったな。すまない、少し混乱していて…」

弦は頭を抑えた。明日香は心配そうに彼を見つめていた。

「大丈夫ですか?ダージリンを入れましょうか?先生、実験中はいつもダージリンを飲んでいらっしゃいましたよね」

その言葉に、弦は思わず顔を上げた。

「ダージリン?」

「はい、先生のお気に入りのダージリンです。先生はいつも『ダージリンの香りが脳を活性化させる』とおっしゃっていました。実験中には必ず飲んでいらっしゃいましたよ」

明日香は微笑みながら立ち上がり、棚から湯飲みを取り出した。彼女は電気ポットのお湯を注ぎ、弦の机に置かれていたダージリンの缶を手に取った。

「今日は新しい茶葉を持ってきましたから、試してみましょう」

彼女は手際よく茶葉をフィルターに入れ、お湯を注いだ。すぐに研究室には、芳醇なダージリンの香りが広がった。明日香は湯飲みを弦の前に置いた。

「どうぞ、気分が落ち着くと思います」

弦は湯飲みを見つめた。立ち上る湯気の中に、彼の知らない自分の姿が揺らいでいるかのようだった。彼はゆっくりと湯飲みを手に取り、香りを嗅いだ。

芳醇で深みのある香り。彼の知らない、しかし奇妙に懐かしい香り。

「ありがとう」

弦は湯飲みを口元に運び、少しずつ紅茶を口に含んだ。その瞬間、彼の味覚に全く新しい風味が広がった。彼はコーヒー派で、紅茶をこれほど意識して味わったことはなかった。しかし、このダージリンの味は、まるで彼の体が記憶しているかのように感じられた。

「どうですか?」

明日香は尋ねた。彼女の表情には期待が浮かんでいた。

「いつも通り、美味しいね」

弦はそう答えた。彼は困惑していた。しかし同時に、この状況を理解しようという科学者としての好奇心も湧き上がっていた。

彼は湯飲みを置き、再びパソコンの画面に目を移した。そこに表示されたデータは、確かに彼の知る「猫の舌」パターンを含んでいた。しかし、それは全く異なる文脈で解釈されていた。

弦は静かに息を吸い込んだ。彼はこの奇妙な状況を受け入れる必要があった。少なくとも、それを理解するまでは。

「高嶺さん、もう一度データを詳しく見せてもらえないか」

彼は穏やかに言った。明日香は嬉しそうに頷き、データ画面を彼の方に向けた。

弦は集中して画面を見つめた。彼の頭の中では、二つの世界のデータが交錯していた。どちらが正しいのか、あるいはどちらも正しいのか、彼にはまだわからなかった。ただ一つ確かなのは、彼がもはや自分が知っていると思っていた世界にいないという事実だけだった。

第5章

その日、弦は通常より早く研究室を後にした。実験データを見ながら明日香と議論する中で、彼女が言及する事実の数々が、彼の記憶と完全に食い違うことが明らかになっていった。彼女によれば、彼らのプロジェクトは順調に進んでおり、大河内教授からの評価も高く、予算削減などとは無縁の状況だという。

研究棟を出る時、空は灰色の雲に覆われていた。雨の予感がした。弦は足早に駅へ向かい、電車に乗り込んだ。車内は、夕方の通勤ラッシュで混雑していた。彼は窓際の手すりに掴まり、ゆれる車窓の景色を眺めた。

見慣れた街並みが流れていく。しかし、彼の目には微妙な違和感があった。ある看板の色が違う。交差点の信号機の位置が少しずれている。そんな小さな差異の集積が、彼の不安を増幅させていった。

アパートの最寄り駅に着くと、彼は深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺に染み渡る。彼は既に404号室が自分の部屋であることを受け入れていた。しかし、そこに戻ることへの不安は拭えなかった。あの部屋には、彼の知らない自分の痕跡があった。それを目の当たりにすることは、自分の存在そのものを問い直すことに等しかった。

マンションのエントランスに着いたとき、小雨が降り始めていた。弦は少し濡れた髪を手で梳きながら、エレベーターのボタンを押した。

4階に着き、廊下を歩いていると、404号室のドアの前で足が止まった。ドアの向こうから料理の香りが漂ってきた。香ばしい醤油の香りと、かすかにハーブの香り。彼は眉をひそめた。部屋に誰かいるのだろうか。管理人が点検に入っているのかもしれない。

弦は鍵を取り出し、ドアを開けた。

「お帰り、弦さん」

明るい女性の声が彼を迎えた。弦は玄関に立ち尽くした。リビングから姿を現したのは、彼が見たこともない女性だった。

長い黒髪が優美に肩に落ち、やわらかな笑顔が彼に向けられている。白いブラウスに紺色のスカート姿で、首元にはシンプルなパールのネックレスが光っていた。その立ち姿は、まるで凛とした白樺の木のようだった。

「あの…誰…」

弦は困惑したまま、言葉を絞り出した。女性は一瞬、戸惑いの表情を見せたが、すぐに微笑んだ。

「もう、冗談はやめてよ。香月かづきだよ。疲れてるの?」

彼女は自然な仕草で近づき、弦の肩に手を置いた。その手の感触は確かに実在していた。幻ではない。

「香月…」

弦はその名前を繰り返した。彼の脳裏には、そんな名前の女性との記憶がなかった。

「ねえ、大丈夫?顔色が悪いわよ」

彼女—香月と名乗る女性—は心配そうに弦の顔を覗き込んだ。彼女の目は温かみのある茶色で、その中に本物の心配の色が浮かんでいた。

「ちょっと、疲れているだけだ」

弦は言葉を選びながら答えた。状況を把握するためには、まず冷静にならなければならない。

「そう。無理しないでね。晩御飯、もうすぐできるわ。今日はあなたの好きなハーブチキンよ」

香月はそう言いながら、キッチンに戻っていった。弦はおそるおそる玄関を上がり、リビングに足を踏み入れた。そこは確かに彼の部屋だった。しかし、随所に見知らぬ女性の存在を示す物があった。ソファの上にはクッション、テーブルの上には花瓶と季節の花。壁には二人で写った写真が飾られていた。

弦は足取りが不安定になるのを感じた。彼はソファに腰を下ろし、壁に飾られた写真を見つめた。そこには確かに彼自身と、今キッチンにいる香月が写っていた。二人は笑顔で、京都らしき観光地で寄り添っていた。しかし、彼にはそんな記憶がなかった。

「もうすぐできるから、少し待っててね」

キッチンから香月の声が聞こえた。弦はできるだけ自然に返事をした。

「ああ、ありがとう」

彼は頭を抱えた。何が起きているのか。これは現実なのか、それとも複雑な幻覚なのか。彼は科学者として、論理的な説明を求めた。量子の世界では、観測されるまですべての可能性が存在する。もし彼が何らかの形で「観測」の境界を超えてしまったとしたら…

「あ、そうそう」

香月がキッチンから顔を出した。「明日の夜は、式場の最終確認があるんだったわね。六時に待ち合わせでいいかしら?」

「式場…?」

弦は思わず聞き返した。香月は少し不思議そうな表情を浮かべた。

「そうよ、結婚式場。もう来月だもの」

弦の心臓が大きく跳ねた。結婚式。来月。彼と香月の。彼は無言で頷くことしかできなかった。

「カレンダーに書いておいたから、忘れないでね」

香月はそう言って、再びキッチンに戻った。弦は立ち上がり、壁に掛けられたカレンダーに近づいた。そこには確かに、翌日の日付に「18:00 式場最終確認」と書かれていた。その先の日付を見ると、来月の第三土曜日に「結婚式」と大きく記されていた。

弦はカレンダーを見つめたまま、動けなくなった。彼は独身だった。少なくとも、彼の知る世界では。彼は研究に没頭するあまり、恋愛にはほとんど関心を払ってこなかった。それなのに、この世界では彼には婚約者がいて、来月には結婚式を控えているというのか。

「弦さん、ダージリン入れたわよ」

香月がティーポットとカップを持ってリビングに現れた。彼女の手つきは優雅で、ポットからカップへ紅茶を注ぐ様子は、まるで小さな芸術のようだった。

「ああ、ありがとう」

弦は言いながら、ダージリンティーのカップを受け取った。今日研究室で飲んだのと同じ香りがした。彼は少し口をつけた。

「美味しい」

彼は正直に言った。香月は満足そうに微笑んだ。

「あなたの好みがわかってるつもりよ。ダージリンは二煎目が一番美味しいって、いつも言ってるもの」

彼女の言葉に、弦は言葉を失った。この女性は、彼の好みや習慣を熟知していた。少なくとも、この世界の「彼」の好みを。弦は混乱していた。彼の頭の中で、現実と非現実の境界が曖昧になっていった。

「ねえ、本当に大丈夫?何か心配事でもあるの?」

香月が優しく尋ねた。彼女の声には、本物の思いやりが溢れていた。弦は言葉に詰まった。彼女に真実を話すべきか。自分は別の世界から来た人間で、彼女のことは全く知らないなどと。そんなことを言えば、彼女は彼を狂人だと思うだろう。

「少し、研究のことで思い悩んでいるんだ」

弦は曖昧に答えた。それは嘘ではなかった。

「そう…無理しないでね」

香月は弦の手を優しく握った。彼女の手は暖かく、柔らかかった。弦はその感触に、奇妙な安心感を覚えた。

「少し、外の空気を吸ってくる」

弦は立ち上がった。彼は考える時間が必要だった。香月からの温かさに、彼の混乱はさらに深まっていた。

「でも、もうすぐ夕食よ?」

「すぐに戻るから」

弦はそう言って、玄関へ向かった。香月は少し不安げな表情を浮かべたが、それ以上は言わなかった。

「気をつけてね」

彼女の声を背に、弦はアパートを出た。

外は雨が上がり、湿った空気が漂っていた。夕暮れの空は、わずかに紫がかった青色に染まっていた。弦はマンションの前の小さな公園に向かった。そこには木製のベンチがあり、彼はそこに腰を下ろした。

頭の中は混乱でいっぱいだった。昨日までの世界と、今日の世界。どちらが現実なのか。もし量子の観測が現実を固定するなら、彼は観測されていない状態に迷い込んでしまったのだろうか。あるいは、彼自身が「観測者」になってしまったのか。

彼は深くため息をついた。冷たい空気が肺に染み入る。現実感を取り戻そうとしたが、すべてが夢のようだった。しかし同時に、すべてがあまりにも鮮明だった。

湿った芝生の香り。風に揺れる葉の音。遠くから聞こえる車の音。すべてが生々しく、現実的だった。

ふと、弦の足元に影が落ちた。彼が見下ろすと、一匹の猫がいた。白と黒のまだらの毛皮を持ち、黄緑色の瞳で彼を見上げていた。

「どうした?迷子か?」

弦は猫に話しかけた。猫はただ彼を見つめ、しっぽを小さく動かした。弦は少し身を乗り出し、手を伸ばした。猫は警戒することなく、彼の手に鼻を近づけた。

「君は誰に飼われてるんだ?」

弦は猫の首輪を探したが、見当たらなかった。野良猫なのだろうか。しかし、人に慣れた様子を見ると、飼い猫のようでもあった。

猫は突然、彼の足元から離れ、公園の奥へと歩き始めた。数歩進むと、振り返って弦を見た。まるで「ついてきて」と言っているかのようだった。

弦は好奇心に駆られて立ち上がり、猫の後を追った。猫は公園を抜け、小さな路地へと入っていった。弦はその姿を見失わないよう、足早に進んだ。

路地を抜けると、小さな空き地に出た。周囲には古い木造の家々が立ち並び、夕暮れの影が長く伸びていた。猫はその空き地の中央で立ち止まり、再び弦を見上げた。

弦はその場に立ち尽くした。猫の黄緑色の瞳が、夕日の光を受けて金色に輝いていた。猫は静かに座り、彼をじっと見つめていた。

そして、不思議なことが起きた。

猫がゆっくりと舌を出した。

弦の目が見開かれた。猫の舌は、通常の猫の舌とは明らかに異なっていた。それは奇妙な波形を描いていた。中央部分が高く盛り上がり、左右に緩やかに下降していく形。弦は息を飲んだ。それは紛れもなく、彼が実験で観測していた「猫の舌」パターンと同じ波形だった。

「まさか…」

弦は震える声で呟いた。猫は舌を引っ込め、再び彼を見つめた。その目には、人間のような知性が宿っているように見えた。

弦はポケットから携帯電話を取り出し、猫の写真を撮ろうとした。しかし、猫は素早く身をひるがえし、近くの塀を飛び越えて姿を消した。

「待って!」

弦は猫を追いかけようとしたが、すでに遅かった。猫の姿は闇に溶け込むように消えていた。彼は立ち尽くし、今見たものが幻覚だったのかと疑った。しかし、あの舌の形は鮮明に彼の脳裏に焼き付いていた。それはまさに彼が研究していた量子パターンそのものだった。

弦はゆっくりとアパートへの道を歩き始めた。頭の中では様々な思考が渦巻いていた。猫の舌の形状。量子のパターン。香月の存在。すべてが繋がっているようで、しかし彼にはその糸を解きほぐす力がなかった。

アパートに戻る途中、彼は何度も振り返った。あの猫がまだ彼を追っているのではないかと思って。しかし、薄暗い道には彼の影だけが伸びていた。

マンションのエントランスに戻ったとき、弦は深く息を吸い込んだ。彼は404号室に戻り、香月と向き合わなければならない。彼にとって見知らぬ女性だが、この世界では彼の婚約者である女性と。

彼はエレベーターのボタンを押した。香月のことを考えると、奇妙な感情が胸に広がった。彼女は優しく、思いやりがあり、彼の好みを知り尽くしていた。そんな女性が自分の婚約者だという現実は、恐ろしいほど魅力的だった。

エレベーターのドアが開き、弦は中に足を踏み入れた。4階のボタンを押しながら、彼は考えた。この世界が現実なのか、幻なのか。そして、どちらが彼にとって「正しい」世界なのか。

ドアが閉まる直前、彼はエレベーターホールの隅に、あの猫が座っているのを見た気がした。しかし、それが実際に見たものなのか、彼の想像なのか、もはや判断できなかった。

第6章

朝、弦はアパートを出た。香月は既に仕事に出かけたようで、リビングにはメモが残されていた。「今夜は遅くなるから、先に食べていてね。冷蔵庫に夕食を入れておいたわ。愛してる。香月より」

弦はメモを手に取り、しばらく眺めていた。「愛してる」という言葉が、まるで異国の言葉のように感じられた。彼がこの世界に来てから二日が経っていた。その間、彼は香月との奇妙な同居生活を続けていた。彼女は彼の好みや習慣を熟知しており、彼が違和感を抱えていることに気づきながらも、優しく見守ってくれていた。

昨夜、彼は猫のことを香月に話した。しかし彼女は「この辺りにそんな猫はいない」と首を傾げた。彼が描いた舌の形状を見せると、「面白い形ね」と言っただけだった。彼女には、その形状が持つ意味がわからなかったのだ。

弦は通勤電車の中で、窓の外を眺めていた。朝の陽光が車窓を通して差し込み、彼の顔を明るく照らしている。しかし彼の心は、その光とは裏腹に暗い混乱に包まれていた。

どうすれば元の世界に戻れるのか。そもそも「元の世界」とは何なのか。ここが「現実」で、彼の記憶している世界が錯覚だったのかもしれない。弦は頭を振った。そんなはずはない。彼の記憶は鮮明だった。研究室での実験、大河内教授からの予算削減の通達、そして彼が独身であるという記憶。

電車が大学の最寄り駅に着くと、弦は人混みに紛れて降りた。駅から大学までの道のりは、彼が毎日通っていた見慣れた風景だった。木々の緑、道路の舗装、駅前の小さな喫茶店。すべてが彼の記憶と一致していた。しかし、昨日発見したように、細部には微妙な違いがあった。

研究棟に到着すると、弦は直接研究室へと向かった。早朝だったため、廊下はまだ静まり返っていた。彼の足音だけが、空虚な空間に響いていた。

研究室に入ると、すでに高嶺明日香の姿があった。彼女は昨日と同じネイビーのスーツを着て、パソコンの前で作業をしていた。彼女の横顔は朝の光に照らされ、彼女の眼鏡に小さな光の点が反射していた。

「おはよう、高嶺さん」

弦が声をかけると、明日香は振り返った。彼女の目には少し驚きの色が浮かんでいた。

「篠原先生、おはようございます。今日はずいぶん早いですね」

「ああ、少し考えることがあってね」

弦は自分のデスクに向かいながら答えた。机の上には、昨日と同じダージリンティーの缶があった。彼はその缶を手に取り、中を確認した。香月が詰めてくれたらしい新しい茶葉が入っていた。

「実は、量子もつれについて再検討したいことがあるんだ」

弦は椅子に腰掛けながら言った。明日香は彼の方を向き、関心を示した。

「どのようなことでしょうか?」

弦は言葉を選びながら話し始めた。彼女に全てを打ち明けるつもりはなかった。それは彼女を混乱させるだけだろう。しかし、理論的な観点からの議論は可能かもしれない。

「量子の観測について考えているんだ。我々が量子状態を観測すると、その状態が固定されるという基本原理がある。シュレーディンガーの猫の思考実験のように」

明日香は頷いた。「はい、量子力学の基本ですね」

「そう。でも考えてみてほしい。もし観測する『私たち』自身も量子系の一部だとしたら?」

弦は熱を込めて続けた。「つまり、観測者と被観測者の境界が曖昧になり、観測者自身の認識世界にまで量子効果が及ぶとしたら?」

明日香は眉を寄せた。彼女の表情に困惑の色が浮かんだ。

「それは…多世界解釈に近い考え方でしょうか?」

「ある意味ではそうだが、もっと根本的なことを考えているんだ」

弦は立ち上がり、ホワイトボードに向かった。彼はマーカーを取り、図を描き始めた。量子もつれの状態を表す波形、そして「猫の舌」パターンを。

「我々の認識する現実も、量子的に重ね合わせの状態にあるとしたら。そして、ある条件下でその重ね合わせが崩れ、異なる『現実』の間を行き来することが可能になるとしたら」

明日香はしばらく黙って弦の図を眺めていた。彼女の目には懸念の色が浮かんでいた。

「先生、失礼ですが…少し無理をされているのではないでしょうか?」

彼女の声は優しかったが、その言葉は弦の胸に小さな痛みを与えた。

「どういう意味だ?」

「最近、先生はずいぶん疲れていらっしゃるように見えます。結婚の準備もあって、プレッシャーを感じていらっしゃるのではないかと…」

弦は言葉を失った。彼女は彼が結婚を控えていることを知っていた。この世界での「彼」の生活を、彼女は当然のように知っていたのだ。

「いや、そうじゃない」

弦は少し強い口調で否定した。「これは純粋に理論的な問題だ。実験で観測した『猫の舌』パターンが、現実の認識に影響を与える可能性について考えているんだ」

明日香は心配そうに弦を見つめていた。彼女の目には同情と懸念が混ざり合っていた。

「先生、あの波形パターンは量子情報の転送効率に関わるものですよね?それがなぜ現実認識に影響するのでしょうか?」

弦は言葉に詰まった。彼女の理解している実験の目的と、彼の追求している謎は異なっていた。彼はホワイトボードに描いた図を見つめながら、言葉を探した。

「理論的な可能性として考えているだけだ」

彼はようやくそう言った。明日香はまだ納得していないようだったが、それ以上は追及しなかった。

「わかりました。でも、少し休息を取られることをお勧めします。結婚式まであと一ヶ月もないのに、疲労で倒れてしまったら大変ですから」

明日香の言葉には本当の思いやりがあった。弦はため息をつき、ホワイトボードのマーカーを置いた。

「ありがとう。少し考えすぎたのかもしれない」

その後、二人は通常の研究作業に戻った。弦は昨日のデータを再確認し、明日香はレポートの作成を続けた。表面上は平静を装っていたが、弦の内側では混乱の嵐が吹き荒れていた。彼はこの世界に閉じ込められてしまったのだろうか。元の世界に戻る道はあるのだろうか。

昼食時、明日香は学内の食堂に行くと言って研究室を出た。弦は一人残り、静かな時間を利用して自分の状況を整理しようとした。彼はノートを取り出し、これまでの出来事を時系列で書き出した。

「電力消失」→「強烈な眩暈と耳鳴り」→「意識喪失」→「別の世界へ」

弦は自分の書いた言葉を見つめた。科学者である彼にとって、これは荒唐無稽な物語のようだった。しかし、彼が今体験していることは紛れもない現実だった。

彼はさらに、元の世界と現在の世界の相違点をリストアップした。

「コーヒー派→ダージリン愛好家」
「独身→婚約者あり(香月)」
「研究予算削減の危機→順調な研究状況」
「304号室→404号室」

これらの相違点には、何か共通のパターンがあるのだろうか。彼は頭を抱えた。思考が堂々巡りを始めていた。

午後、明日香が戻ってきた時、弦は彼女に再び話しかけた。

「高嶺さん、一つ聞きたいことがある」

明日香は作業の手を止め、弦の方を向いた。

「何でしょうか?」

「私が量子もつれの実験を始めたのはいつからだったっけ?」

彼女は少し考え込んだ後、答えた。

「確か去年の秋からだったと思います。先生がダージリン地方の国際会議から戻られてからですね」

弦の心臓が跳ねた。「ダージリン地方?」

「はい、インドのダージリンで開催された量子物理学会議です。先生はそこで基調講演をされ、その後、研究の方向性を量子情報の転送効率に変更されました」

弦は言葉を失った。彼の記憶には、ダージリンへの訪問などなかった。彼は国際会議に参加したことはあるが、ダージリンではなく、スイスのジュネーブだった。

「そうだったな」

弦は曖昧に返事をした。明日香は少し首を傾げたが、それ以上は何も言わなかった。

夕方になり、研究室の窓からは夕日が差し込んでいた。赤く染まった空が、どこか終末的な雰囲気を醸し出していた。明日香はまだデスクで作業を続けていた。弦は何度も時計を見た。家に帰れば香月が待っているはずだが、彼にはまだ彼女と向き合う心の準備ができていなかった。

「今日は遅くまで残るよ」

弦は明日香に声をかけた。「君も無理しないで、先に帰っていいよ」

明日香は弦を見て、小さく首を横に振った。

「私も少し残ります。先生と同じデータを見ておきたいので」

弦は肩をすくめた。彼女の勤勉さは、どの世界でも変わらないようだった。

時間が過ぎていき、研究棟の他の部屋の明かりが次々と消えていった。研究室の窓からは、暗闇に沈む大学のキャンパスが見えた。時計は午後九時を指していた。

弦は疲れた目をこすりながら、データ画面から視線を外した。明日香はまだ集中して作業を続けていた。彼女の横顔は、デスクランプの光に照らされ、穏やかな輪郭を描いていた。

「少し休憩しないか?」

弦が声をかけると、明日香はハッとしたように顔を上げた。まるで深い思考から引き戻されたかのようだった。

「あ、はい」

彼女は眼鏡を外し、目元をそっと押さえた。疲れているようだった。

「お茶でも入れようか」

弦は立ち上がり、電気ポットの方へ歩いた。彼はダージリンティーの缶を開け、茶葉をティーポットに入れた。お湯を注ぐと、芳醇な香りが立ち込めた。この香りにも、彼は少しずつ慣れてきていた。

彼がカップを二つ用意していると、背後で明日香の声がした。

「先生、本当にここにいらっしゃるのですか?」

その声音に、弦は振り返った。明日香は立ち上がり、彼をじっと見つめていた。彼女の目には、これまで見たことのない奇妙な光が宿っていた。

「どういう意味だ?」

弦は戸惑いながら尋ねた。明日香の表情は、どこか遠い場所を見ているようだった。

「先生、あなたは本当はここにいないの」

彼女の声は、まるで別の人物のものであるかのように変わっていた。それは弦の知る明日香の声ではなかった。

「何を言っているんだ?」

弦は一歩、彼女に近づいた。明日香の姿がわずかに揺らいだように見えた。まるで水面に映った像のように。

「あなたは境界を越えてしまった。元の場所に戻らなければ…」

明日香の言葉は、部屋の空気に溶けていくように薄くなっていった。そして次の瞬間、信じられないことが起きた。

彼女の姿が、目の前から消えたのだ。

まるでテレビの電源が切れたように、彼女の存在が突然、空間から抜け落ちた。彼女がいた場所には、何もなかった。デスクの上のノートパソコン、メモ帳、ペン。すべてがそのままだった。しかし、明日香だけがいなくなっていた。

弦は震える足で彼女のデスクに近づいた。彼は自分の目を疑った。人間が突然消えるなど、物理法則に反している。しかし、彼の目の前で確かにそれは起きたのだ。

彼は声をかけてみた。「高嶺さん?」

返事はなかった。研究室は深い沈黙に包まれた。弦の頭の中で、明日香の最後の言葉が繰り返し響いた。

「あなたは本当はここにいないの」
「あなたは境界を越えてしまった」
「元の場所に戻らなければ…」

弦は震える手で携帯電話を取り出し、明日香の番号に電話をかけた。呼び出し音が鳴り続けたが、誰も出なかった。彼は研究室の隅々まで探したが、彼女の姿はなかった。

窓の外は完全な闇に覆われていた。部屋の照明が弦の姿を映し出し、孤独な影を壁に落としていた。彼は茫然と立ち尽くした。

明日香の言葉は、彼の状況を示唆していたのだろうか。彼は本当にここにいないのか。彼は「境界を越えてしまった」のか。そして「元の場所に戻らなければ」ならないのか。

弦は再びダージリンティーの缶を見つめた。その香りが、何か重要な手がかりを隠しているような気がした。

そして彼は、この現実が壊れ始めていることを直感的に理解した。明日香の消失は、その最初の兆候に過ぎないのかもしれない。彼は早急に行動を起こさなければならなかった。元の世界に戻る方法を見つけなければならなかった。

彼は荷物をまとめ、研究室を後にした。廊下は暗く、彼の足音だけが空虚に響いた。彼は振り返り、研究室のドアを見た。そこには彼と明日香の名前が書かれたプレートがあった。しかし、彼が目を凝らして見ると、明日香の名前が薄れつつあるように見えた。

「一体、何が起きているんだ…」

弦は呟きながら、暗い廊下を歩き去った。

第三部:量子の迷宮

第7章

大学のキャンパスを出た瞬間、雨が降り始めた。最初は小雨だったが、すぐに本降りとなり、弦の肩を濡らした。彼は走り出した。研究室での出来事が、まだ頭の中で反復されていた。高嶺明日香の奇妙な言葉。そして、彼女の姿が突如として消えた瞬間。

雨は彼の顔を叩き、髪を濡らした。冷たい水滴が首筋を伝って背中へと流れていく。しかし弦は、その物理的な感覚に安心した。これが現実だという証拠だった。少なくとも、彼の身体は確かに「ここ」に存在している。

駅に向かう途中、弦は何度も振り返った。誰かに追われているような、見られているような奇妙な感覚があった。しかし雨に煙る街灯の下には、彼以外の人影はなかった。いや、一瞬、遠くの暗がりに猫のような影を見たような気がしたが、すぐに視界から消えた。

駅のプラットフォームは閑散としていた。終電間近だったからだろう。弦は雨に濡れた髪を手で払いながら、ベンチに腰掛けた。彼の頭の中では、思考がめまぐるしく交錯していた。

「高嶺さんは消えた」
「彼女は『あなたは本当はここにいない』と言った」
「『境界を越えてしまった』と言った」
「『元の場所に戻らなければ』と言った」

これらの言葉は何を意味するのか。弦は冷たく湿った手で頬を擦った。彼は量子物理学者だ。現実は観測によって決定されるという原理を理解している。だが、それが彼自身の体験にまで及ぶとは。

電車が駅に滑り込んできた。弦は立ち上がり、開いたドアから車内に入った。車内は彼一人だけだった。窓ガラスに映る自分の姿が、どこか別人のように感じられた。憔悴した顔、乱れた髪、そして不安に満ちた目。それは彼なのか、それとも別の「弦」なのか。

「自分は本当にここにいるのか」

弦は窓ガラスに映る自分の姿に問いかけた。その問いに、映った像は答えなかった。ただ、電車の揺れに合わせて揺らめくだけだった。

マンションの最寄り駅に着くと、雨はさらに激しさを増していた。弦は駅から走った。彼の心臓は、走ることによる物理的な鼓動と、精神的な不安によって激しく脈打っていた。

マンションのエントランスに到着すると、彼は一瞬立ち止まった。今日はどの部屋に帰るべきなのか。この世界では404号室が彼の部屋だった。しかし、明日香の消失は、この世界自体が不安定になっていることを示唆していた。

弦はエレベーターのボタンを押した。扉が開き、彼は中に入った。手が4階のボタンに伸びたが、一瞬躊躇した後、3階のボタンを押した。元の世界への道筋を探るためには、すべての可能性を検証する必要があった。

エレベーターが3階で止まり、弦は廊下に足を踏み出した。304号室の前に立ち、胸の鼓動を感じながら、ポケットから鍵を取り出した。彼は深呼吸し、鍵を鍵穴に差し込んだ。

カチリ。

鍵が合った。

弦は驚きと安堵の入り混じった感情に襲われた。ドアが開き、彼はおそるおそる中に入った。

「香月?」

返事はなかった。部屋の中は暗く、静まり返っていた。弦は電気のスイッチを入れた。明かりがつくと同時に、彼の目は部屋の様子を捉えた。そして、彼は言葉を失った。

部屋は彼が知っている「元の世界」の配置に戻っていた。シンプルな家具、積み上げられた本や論文、壁に掛けられた量子力学の図表。すべてが彼の記憶通りだった。香月の痕跡は一切なかった。ソファに置かれていたクッション、テーブルの上の花瓶、壁に飾られていた二人の写真。それらはすべて消えていた。

まるで香月という人物が存在しなかったかのように。

弦は震える足でリビングに進み、周囲を見渡した。部屋は確かに彼の部屋だったが、同時に微妙な違和感も感じた。書棚の本の並び順、デスクの上のペンの位置、カーテンの色。細部に至るまで確認すると、それらは彼の記憶と完全に一致しているわけではなかった。

「ここはどこなんだ…」

弦は呟いた。彼の声が空虚に響いた。

彼はキッチンに向かった。冷蔵庫を開けると、そこには彼が普段買い置きする食材が並んでいた。牛乳、卵、野菜。しかし香月が言っていた「夕食」の痕跡はなかった。

弦は再びリビングに戻った。ソファに腰掛け、頭を抱えた。彼の心臓は早鐘を打ち、呼吸は浅くなっていた。これがパニック発作の始まりなのか、それとも単なる疲労の極致なのか、彼には判断できなかった。

「落ち着け…論理的に考えるんだ…」

弦は自分に言い聞かせた。しかし、彼の経験していることは、論理で説明できるものなのだろうか。

「日記を探そう」

彼は立ち上がり、デスクに向かった。自分の書いた日記があれば、この世界の「彼」の記憶を辿れるかもしれない。デスクの引き出しを開けると、確かにそこには彼のノートがあった。彼はそれを取り出し、ページをめくった。

中身を見て、弦は再び言葉を失った。ノートには彼の筆跡で書かれた研究メモがあったが、内容は彼の記憶にはないものだった。量子情報の転送効率に関する計算式や、未知の実験結果の記録。そして、ダージリンで開かれた国際会議のメモ。

「僕はダージリンに行ったことがないはずだ…」

弦は混乱の中で呟いた。しかし、ノートには彼がダージリンで過ごした日々の記録が詳細に記されていた。会議の内容、出会った研究者たち、そして…

真理子まりこ…?」

一つの名前が彼の目に飛び込んできた。「真理子と山腹の茶園を訪れる。彼女はサリーが似合う。」そんな一文があった。弦は首を振った。真理子という名前の女性を知らなかった。少なくとも、彼の記憶の中には。

デスクの上を見渡すと、彼の目は一つの物体に釘付けになった。見覚えのないダージリンティーの缶があった。それは研究室にあったものとは異なり、古びていて、表面は擦り切れていた。まるで長年、大切に使われてきたかのようだった。

弦はそっと手を伸ばし、缶を手に取った。缶は予想以上に重かった。彼は蓋を開けようとしたが、一瞬躊躇した。この缶を開けることで、何かが変わるという予感があった。しかし、彼は知る必要があった。真実を、この世界の謎を。

ゆっくりと弦は缶の蓋を開けた。

瞬間、部屋中に強烈なダージリンの香りが広がった。しかし、それは彼が研究室や404号室で嗅いだダージリンの香りとは明らかに違っていた。より濃厚で芳醇で、ほとんど官能的とも言える香りだった。

その香りを吸い込んだ瞬間、弦の頭に激しい眩暈が襲いかかった。彼は缶を取り落とし、茶葉が床に散らばった。部屋が回転し始め, 壁や天井、床の区別がつかなくなった。彼は何かにつかまろうとしたが、手は宙を切った。

「う…っ」

耳鳴りが始まり、その音は次第に大きくなっていった。まるで頭蓋骨の内側から響く、高い周波数の音。それは彼の意識を攪拌し、思考を砕いていった。

弦は床に膝をついた。視界が狭まり、周囲が暗いトンネルの向こう側に遠ざかっていくような感覚に襲われた。それは研究室で電力が落ちた夜に体験したのと同じ感覚だった。

「また…起きる…」

彼の言葉は宙に溶けていった。床に散らばった茶葉が、彼の目には猫の舌の形に見えた。その形は波打ち、まるで生きているかのように動いていた。

部屋の空間が歪み始めた。壁は液体のように波打ち、天井は遠ざかっていった。弦の意識は現実からすり抜けていくように薄れていった。彼は記憶の断片にしがみついた。研究室、明日香、香月、そして自分自身。しかし、それらの記憶もやがて霧のように薄れていった。

最後に彼の網膜に焼き付いたのは、床に散らばった茶葉の中から立ち上がるような霧の形だった。それは猫のシルエットに見え、瞬間、その「猫」は彼を見つめ、舌を出した。

そして、弦の意識は完全に闇に落ちていった。

彼の体は304号室の床に横たわったまま、しかし彼の意識は別の場所へと運ばれていった。それは時間でも空間でもない次元を超えた移動だった。彼の存在そのものが、量子もつれの波形に沿って、異なる現実へと流れていった。

ダージリンの香りが彼を包み込み、意識の海の中で彼を運んでいった。その海の底には、彼の知らない記憶が眠っていた。そして彼は、その記憶の海に沈んでいった。

部屋には静寂だけが残された。床に散らばった茶葉が、窓から射し込む月明かりに照らされて淡く光っていた。その光景は誰の目にも入らなかった。ただ一つ、窓の外に座り込んだ猫だけが、その様子を見つめていた。

第8章

香りが先にやってきた。

弦の意識は、まだ闇の中に漂っていた。しかし、その闇の中に、一筋の香りが絹糸のように伸びてきた。湿った土の香り、高山の空気のかすかな冷たさ、そして、決して忘れることのできない、新鮮な茶葉の香り。

その香りは、彼の意識の周りを包み込み、導くように引っ張っていった。弦は抵抗せずに、その牽引力に身を委ねた。彼は流れていく。光のない海の中を、潮流に乗って漂うクラゲのように。

やがて、かすかな光が見えてきた。最初はただの点だったが、徐々に大きくなり、形を持ち始めた。弦はその光に向かって進んでいった。あるいは、光の方が彼に近づいてきたのかもしれない。空間と時間の概念は、ここでは意味をなさなかった。

突然、鮮烈な光が彼を包み込んだ。弦は目を閉じた。そして、再び開いた時、彼は別の場所にいた。

丘の上にある茶園。

青々とした茶樹が、波のように重なり合いながら、果てしなく続いている。風が吹くと、その葉は海面のように揺れ動いた。弦は自分が石畳の小道に立っていることに気づいた。小道は茶園を抜け、遠くの木造の建物へと続いていた。

空は透き通るような青さで、わずかに浮かぶ白い雲が、まるで時間が止まったかのようにゆっくりと動いていた。弦は深く息を吸い込んだ。空気は清冽で、茶葉の香りが鼻腔を満たした。それは彼のアパートで開けた缶から漂ってきた香りと同じだった。

「ここは…」

弦は声に出して言った。彼の声は風に乗って遠くまで運ばれていくようだった。彼はゆっくりと周囲を見回した。茶園の向こうには雪を頂いた山々が見え、その雄大さに彼は言葉を失った。

「ダージリン…」

彼はその場所の名前を口にした。彼はここに来たことがないはずだった。しかし、風景はどこか懐かしく感じられた。まるで古いアルバムの写真を見ているような感覚。実際に体験したことはないが、どこかで見たことがあるような。

「弦さん、何してるの?早く来てよ!」

女性の声が彼の背後から聞こえた。弦は振り返った。

そこには若い女性が立っていた。二十歳前後だろうか。彼女は薄い桃色のサリーを身にまとい、長い黒髪は肩に流れ落ちていた。彼女の顔は、古代の彫刻家が理想とした均整の取れた美しさを持っていた。そして、その瞳は、弦の心を見透かすような鋭さと深さを持っていた。

「真理子…」

弦は思わず彼女の名前を口にした。それは彼の日記に書かれていた名前だった。しかし、なぜ彼は彼女を知っているのだろうか。なぜ彼女の名前が、自然と口から出てきたのだろうか。

真理子と呼ばれた女性は、弦に向かって微笑んだ。その笑顔は、朝日のように温かく、純粋だった。

「何ぼんやりしてるの?ティーハウスに行くんでしょ?」

彼女は弦の腕を取り、茶園を通る小道を歩き始めた。弦は困惑しながらも、彼女に導かれるまま歩いた。二人の足元では、石畳が規則的なリズムを刻んでいた。左右に広がる茶樹は、明るい緑色の海を形作っていた。

「ねえ、さっきの議論どう思った?ホセイン教授のあの論法には、ちょっと驚いたわ」

真理子は弦の反応を待たずに話し続けた。彼女の声は、風鈴のように澄んでいた。弦は彼女の言葉の意味を理解しようとしたが、文脈がつかめなかった。

「あの、真理子…」

弦は彼女を呼び止めようとした。しかし、彼女は止まらなかった。まるで彼の声が聞こえていないかのように、彼女は茶園の小道を軽やかに歩き続けた。

「ホセイン教授ったら、量子もつれの非局所性について、あんな古典的な解釈をするなんてね。でも、弦さんの反論はとても論理的で素晴らしかったわ。きっとあなたの論文は、次の学会で注目を集めるわよ」

弦は混乱していた。ホセイン教授?学会?論文?彼はそのような記憶を持っていなかった。しかし、同時に、彼の脳裏にはぼんやりとした記憶の断片が浮かんでいた。大きな会議室、熱い議論、そして真理子の隣に座っていた自分。

「待って、真理子」

弦は足を止め、彼女の腕を掴んだ。真理子もようやく立ち止まり、弦を見上げた。彼女の瞳は、茶園の緑を映し出していた。

「どうしたの、弦さん?顔色が悪いわよ」

彼女の声には心配が滲んでいた。弦は言葉を探した。彼は何から説明すればいいのだろうか。自分がここにいるはずがないこと?自分が彼女を知らないはずなのに、どこか懐かしく感じること?

「僕は…真理子、僕はここにいるはずがないんだ」

弦はようやく言葉にした。真理子は首を傾げた。風が吹き、彼女の髪が頬に触れた。

「何を言ってるの?私たちは国際量子物理学会に出席するために、ここダージリンに来たのよ。忘れたの?」

弦は頭を振った。「いや、そうじゃない。僕は…僕の記憶では、ここに来たことはない。君とも会ったことがない。少なくとも、僕の意識の中では」

真理子の表情が変わった。彼女の目に、わずかな悲しみの色が浮かんだ。

「弦さん…あなたは今、どこから来たの?」

その質問は、弦の心に直接響いた。彼女は何かを知っているようだった。

「僕は…東京の研究室から。量子もつれの実験中に、奇妙な波形を発見して、そして…」

弦は言葉を切った。真理子の表情がさらに変化していた。彼女の目は、悲しみと共に、何か深い理解を示していた。

「猫の舌の形をした波形ね」

弦の心臓が跳ねた。彼女はどうして知っているのだろう。

「そう、その通りだ。君はそれを知っているのか?」

真理子はゆっくりと頷いた。彼女の目には、今や確かな知識の光が宿っていた。

「あなたは境界を越えてしまったのね。そして、あなたの意識は、あなたの知らない記憶の世界に入り込んでしまった」

弦は彼女の言葉に震えた。それは明日香が言ったことと同じだった。「あなたは境界を越えてしまった」

「どういう意味だ?」

真理子は弦の手を取った。彼女の手は温かく、しかし少し震えていた。

「この世界は、あなたの記憶の一部よ。しかし、あなたの意識が知らない記憶。あなたの中にあるけれど、あなたがアクセスできなかった記憶の欠片」

彼女の声は、風の中でかすかに震えていた。弦は混乱していた。

「僕の記憶?でも、僕はここに来たことがない。君とも会ったことがない」

真理子は悲しげに微笑んだ。

「あなたの言う『僕』は、そうかもしれないわ。でも、あなたの中には、別の『弦』も存在するの。別の選択をし、別の道を歩んだ『弦』の記憶が」

弦は言葉を失った。多世界解釈。量子状態の観測によって分岐した無数の世界。そして、それぞれの世界には、異なる選択をした自分自身が存在する。彼はその理論を知っていた。しかし、それを実際に体験するなど、考えもしなかった。

「では、ここは…」

「ここは、あなたがダージリンを訪れた世界の記憶よ。あなたと私が出会い、量子物理学について議論し、そして…」

真理子は言葉を切った。彼女の目には、懐かしさと悲しみが混ざり合っていた。

「そして?」

弦は促した。彼は知る必要があった。この記憶の欠片が、彼の現状にどう関わっているのかを。

真理子は深く息を吸い込んだ。風が強くなり、茶樹は一斉に波打った。空の色が変わり始め、青から紫へ、そして赤みを帯びてきた。まるで夕暮れが一気に進行しているかのようだった。

「そして、私たちは愛し合ったの」

彼女の言葉は、風の中でかすかに響いた。弦の心に、奇妙な痛みが走った。記憶にはないはずの感情が、彼の中で鮮やかに蘇ってきた。真理子との出会い、議論、笑い、そして…愛。

「しかし、あなたは選択をしたわ。研究を優先する道を。そして私は…私の道を行った」

真理子の声には後悔の色が濃かった。弦は彼女をしっかりと見つめた。彼女の姿が、わずかに揺らいでいるように見えた。まるで熱気の中の蜃気楼のように。

「真理子、僕は理解できない。なぜ僕はここにいるんだ?どうすれば元の世界に戻れるんだ?」

弦の声には焦りが混じっていた。真理子は哀しげに微笑んだ。彼女の姿はさらに不鮮明になり、彼女の背後の風景が透けて見え始めていた。

「あなたは来てはいけない場所に来てしまったのよ、弦さん」

彼女の声も薄れ始めていた。

「待って、真理子!どういう意味だ?」

弦は彼女を掴もうとしたが、手は宙を切った。真理子の姿は、霧のように薄くなっていった。

「記憶の狭間は危険よ。あなたの意識が分断されてしまう。元の世界に戻って…」

彼女の最後の言葉は、風に溶けていった。真理子の姿は完全に消え、そこには茶園の風景だけが残された。しかし、その風景も歪み始めていた。色は褪せ、形は曖昧になっていった。

「真理子!」

弦は叫んだが、返事はなかった。彼の周りの世界は、水彩画に水が垂れたように、色と形が混ざり合い始めた。彼は立っていることができなくなり、膝をついた。茶園の地面は、砂のように彼の指の間からすり抜けていった。

世界は溶解していった。色彩は渦を巻き、音は反響し、香りは濃厚になりすぎて、ほとんど窒息しそうになった。弦は目を閉じた。彼の意識も、この世界と共に溶けていくように感じられた。

最後に彼が聞いたのは、真理子の声だった。それはかすかだったが、確かに彼の耳に届いた。

「境界の向こうで会いましょう」

そして、すべては闇に溶けていった。

第9章

弦は暗闇の中で目を開いた。

最初、彼は自分がどこにいるのかわからなかった。周囲は完全な闇に包まれており、彼は宙に浮いているような感覚だった。しかし、次第に感覚が戻ってきた。冷たい床の感触。背中の痛み。そして、鼻腔をくすぐるかすかなダージリンの香り。

彼はゆっくりと体を起こした。頭に鈍い痛みがあった。まるで長い熱病から目覚めたような、体の芯まで疲れ切った感覚。彼は手探りで周囲を確かめた。彼は床に横たわっていた。そして、その床は散らばった茶葉で覆われていた。

「304号室…」

彼は自分の位置を認識した。彼がダージリンティーの缶を開け、異変が起きた場所。彼は立ち上がろうとしたが、体がまだ言うことを聞かなかった。彼は壁に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。

窓の外は、まだ夜だった。星明かりが窓から差し込み、部屋をかすかに照らしていた。弦は時計を見た。午前三時。彼が意識を失ってから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。

彼は部屋の電気をつけた。明るい光が突然部屋を満たし、彼は目を細めた。部屋は彼が倒れる前と同じだった。床に散らばった茶葉、開いたままのノート、そして彼の混乱した思考を物語るかのように散らかったデスク。

弦は窓際に歩み寄り、夜景を眺めた。街の明かりが点々と光り、遠くには東京タワーのシルエットが見えた。すべてが現実的で、鮮明だった。彼は深く息を吸い込んだ。

彼の頭の中では、真理子との対話が反響していた。「あなたの中には、別の『弦』も存在するの。別の選択をし、別の道を歩んだ『弦』の記憶が」

弦は額を窓ガラスに押し当てた。冷たい感触が、彼の思考を整理するのを助けた。

量子力学の基本原理。観測されるまで、量子の状態はすべての可能性を持つ。観測された瞬間に、その可能性の一つが「現実」として固定される。しかし、多世界解釈によれば、観測によって固定されなかった可能性も、別の世界では実現している。

別の選択をした自分。別の道を歩んだ自分。弦はその考えに目を見開いた。

「もし、私の実験が量子状態の観測の境界を曖昧にし、異なる世界間の壁を薄くしてしまったとしたら…」

弦は思考を整理しようとした。彼が発見した「猫の舌」パターンは、量子もつれの特殊な状態を示していた。通常、量子状態の観測は、その状態を一つに固定する。しかし、もしそのパターンが、観測後も量子の重ね合わせ状態を保持する方法を示していたとしたら?

弦は急いでノートを取り、計算を始めた。彼が実験で設定したパラメータ、観測のタイミング、そして得られた波形。すべてを再検討した。そして、彼は一つの可能性に辿り着いた。

「猫の舌」パターンは、量子もつれが特定の条件下で、観測後も「開かれた状態」を維持することを示していた。通常、観測によって「閉じられる」はずの量子の可能性が、開かれたままになっている。そしてその「開かれた状態」が、異なる世界間の境界を曖昧にしているのではないか。

弦は立ち上がり、部屋を行ったり来たりした。彼の心臓は早鐘を打っていた。もし彼の仮説が正しければ、彼は量子状態の観測に関する根本的な発見をしたことになる。しかし同時に、彼自身がその実験の「被験者」となり、異なる現実の間を揺れ動いているのかもしれない。

「高嶺さんの消失…香月の出現…ダージリンの記憶…」

すべては繋がっていた。彼の実験が、彼自身の認識世界に影響を及ぼしていたのだ。

弦は決断した。研究室に戻り、実験を再現する必要があった。もし彼の仮説が正しければ、実験パラメータを調整することで、量子状態の「閉じ方」をコントロールできるはずだ。そして、それが彼を元の世界に戻す鍵になるかもしれない。

彼は急いで服を着替え、必要なものをバッグに詰めた。ノート、計算結果、そして—一瞬躊躇した後—床から拾い集めたダージリンの茶葉を小さな袋に入れた。

外は静かな夜だった。月明かりに照らされた街並みは、どこか非現実的な美しさを持っていた。弦は急ぎ足で駅に向かった。終電はとうに過ぎていたが、タクシーを拾えるかもしれない。

幸運なことに、深夜営業のコンビニの前でタクシーを見つけることができた。弦は乗り込み、大学の名前を告げた。運転手は眠そうな目で彼を見たが、特に質問することなく、車を発進させた。

弦は窓の外の風景を見ながら、自分の理論をさらに深めた。もし異なる世界間の境界が曖昧になっているなら、彼が体験している現実は、複数の可能性が重なり合った状態なのかもしれない。独身の彼、香月と婚約している彼、そして真理子と出会った彼。すべてが同時に存在し、彼の意識がその間を揺れ動いている。

タクシーが大学の正門に到着したとき、東の空がわずかに明るくなり始めていた。弦は料金を支払い、急ぎ足で研究棟に向かった。あまりに早朝だったため、守衛すらいなかった。彼は自分のIDカードで建物に入り、エレベーターで研究室のある階に上がった。

廊下は静まり返っていた。蛍光灯の一部だけが薄暗く点灯し、廊下に長い影を落としていた。弦は研究室のドアの前に立ち、深く息を吸い込んだ。ドアには彼の名前が書かれたプレートがあった。そして、その下には「高嶺明日香」の名前も。彼が最後に見た時、その名前は薄れかけていたが、今は鮮明に見えた。

弦はドアを開けた。研究室は暗く、静かだった。彼は明かりをつけ、実験装置のある作業台に向かった。すべてが彼が最初の世界で見たままの状態だった。明日香の消失前の配置。

彼は実験装置の電源を入れ、パラメータを設定し始めた。彼の指は素早くキーボードを打ち、モニターには数値とグラフが表示されていった。彼は「猫の舌」パターンを再現するための条件を入力した。量子もつれの状態、観測のタイミング、そして特に重要なのは、観測の「開き方」と「閉じ方」に関するパラメータだった。

「量子の観測者効果を逆転させる…」

弦は自分の仮説を口にした。通常、観測は量子の可能性を一つに固定する。しかし、特定の条件下では、観測後も量子の「開かれた状態」を維持できるのではないか。そして、その状態が異なる世界間の境界を曖昧にしている。

彼がポケットから取り出したダージリンの茶葉を、実験装置の近くに置いた。それは彼が世界間を移動する際の「アンカー」となるかもしれない。彼は深く息を吸い込み、実験を開始した。

モニターには複雑な波形が描き出され始めた。最初は通常の波形だったが、彼が入力したパラメータに従って、徐々に形が変化していった。弦は息を止めながら、その変化を見守った。

「来い…」

彼は呟いた。そして、ついに波形が変化し始めた。中央部分が盛り上がり、左右に緩やかに下降していく形。まさに「猫の舌」パターンだった。

弦は素早く追加のパラメータを入力した。彼は波形を安定させ、その状態を維持する必要があった。彼の理論によれば、波形が安定すれば、彼は量子状態の「閉じ方」をコントロールし、自分の意識を元の世界に戻せるかもしれない。

実験装置からかすかな振動音が聞こえ始めた。通常ではありえない反応だった。弦は一瞬躊躇したが、実験を続けることにした。モニターの波形は完全に「猫の舌」パターンを形成し、安定していた。

室温が急激に下がったように感じた。弦の息は白い霧となって見えた。モニターの光が強くなり、研究室全体を青白い光で照らし出した。弦は実験装置に近づき、最終的なパラメータを入力しようとした。

その時、彼は背後で物音を聞いた。

振り返ると、研究室のドアが開いていた。そして、その向こうには一人の男が立っていた。見知らぬ男だった。

男は40代に見える平凡な風貌で、灰色のスーツを着ていた。しかし、その眼光は鋭く、まるで弦の内側まで見通しているかのようだった。

「君が境界を壊してしまったんだね」

男は静かに言った。彼の声は深く、落ち着いていた。しかし、その言葉は弦の心に響いた。

「あなたは誰だ?」

弦は問いかけた。しかし、彼の心の中には、すでに答えがあった。この男は、彼の実験によって開かれた境界の向こう側から来たのだ。

「それは重要じゃない」

男は微笑みながら答えた。彼は研究室に足を踏み入れ、実験装置に近づいてきた。

「重要なのは、君がしようとしていることだ。本当にそれが正しい選択なのかい?」

弦はその問いに答える前に、実験装置のモニターを見た。「猫の舌」パターンは今、かつてないほど鮮明に表示されていた。そして、それは彼に選択を迫っていた。

<完>

作成日:2025/03/07

編集者コメント

前編、後編からなります。後編はこちら

Claude 3.7 Sonnetによる作品です。やはり3.7 Sonnetの文章力には舌を巻きます。物語の先が気になる、読ませる力があります。

「量子力学」「猫の舌」「ダージリン」の3つのキーワードを与えて、これで小説を書いてくれというオーダーしたものです。それでこんな物語を生成するなんてすごくないですか? 「シュレーディンガーの猫」の例えが出てくるような物語って、「ああそういうやつね」という感じも醸すものですが、この枠組みのなかでは「面白い」と言っていいと思います。

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