Shadow Sister - 影翳る双生
チャプター1 失われた20年
5月の風が優しく店の木製ドアを揺らし、小さな鈴が軽やかな音を立てた。神代凛子は、カウンターに肘をついて、窓の外の並木道をぼんやりと眺めていた。彼女の視線は、青々とした葉の揺れに伴って、遠く過去の記憶を呼び起こす。20年前、まだ麗子がいた頃の、あの夏の日。凛子は目を閉じると、鮮明な光景が脳裏に蘇る。あのときの麗子の笑顔は、まるで昨日のことのように残っている。だが、今やその笑顔はただの幻影となり、彼女の中で時間の流れに飲み込まれていた。
ふと目の前に広がる現実に戻ると、店内は穏やかな静けさに包まれていた。客の姿はほとんどなく、静寂の中でページをめくる音だけが聞こえる。凛子は新刊コーナーに目を向け、先ほど届いた本を棚に並べようと立ち上がった。背後から聞こえる微かな足音に、ふと振り返る。
「おはよう、凛子さん。」
入ってきたのは、いつも朝一番に訪れる常連の松田だった。彼はいつものようにゆったりとした歩調で店内を見回し、新刊の棚に向かってきた。
「おはようございます、松田さん。今日はどんな本をお探しですか?」
凛子は軽く微笑んで尋ねたが、松田は無言で本を手に取る。彼は常に無口な男だったが、店に通い続けてもう数年になる。彼がここにいるだけで、店の空気は少し温かくなるような気がした。松田がその場に座り込み、手に取った本をじっと読み始めると、再び店内は静寂に包まれた。
凛子は手にした新刊を整理しながら、自然と心がまた過去へと引き戻される。妹・麗子が突然いなくなったあの日から、彼女はずっと心にぽっかりと空いた穴を抱えて生きてきた。麗子は当時、ただの少女だった。天真爛漫で、明るく、自由を愛していた。その自由さが時には危うさにも感じられたが、まさかあの日を最後に彼女が戻らないとは、誰も思わなかった。
「麗子、今どこにいるのだろう…」そう心の中で問いかけることが、凛子の日常となって久しい。
ガラス越しに見る外の景色は変わらず、時間だけが無情に過ぎていく。時折、凛子は自分が店を守り続ける意味を問いかけることがあるが、それでもこの場所が彼女にとっての拠り所であることは間違いなかった。父母から引き継いだこの「神代書店」は、凛子にとって唯一の変わらない場所であり、彼女自身の一部でもあった。
午後も深まり、外が少しずつ暗くなり始める頃、勇輝が仕事帰りに顔を出した。彼は疲れた表情をしていたが、どこか安堵の色が感じられる。凛子にとって、彼の帰りを待つこの瞬間が、1日の中で最も安心できるひとときだった。
「ただいま、凛子。」
勇輝は店に入るとすぐ、彼女に向かって軽く笑みを見せた。
「お疲れ様。今日も忙しかった?」
凛子は背伸びをしながら棚から新刊を並べ終え、彼に向き直った。勇輝は疲れているにもかかわらず、凛子の手からその疲れを感じ取ることができたのか、ふっと笑った。
「まあ、いつものことさ。でも、君がいるこの場所に戻ってくると、ほっとするんだよ。」
その言葉に凛子は微笑み、二人はしばらく何気ない会話を交わした。彼の存在が、彼女にとってどれほどの安らぎであるかを、凛子はいつも感じていた。
店を閉める時間が近づき、二人で片付けを始めたそのとき、カウンターの向こう側でドアの鈴が再び鳴り響いた。見ると、一人の女性が入ってきた。彼女は少し不安げな表情をしており、明らかにこの店には初めて来たようだった。どこか疲れ切った様子で、だがその瞳には鋭い光が宿っていた。
「いらっしゃいませ。お探しの本があれば、どうぞ。」
凛子はいつも通りの丁寧な挨拶をしながら、女性を観察した。彼女は黒いジャケットを着ており、その下に白いブラウスが見え隠れしていた。シンプルでありながらも洗練された印象を与えるが、その顔には深い疲れが刻まれていた。
「ええ、実は…失踪者に関する本を探しているんです。」
その言葉が凛子の胸に突き刺さる。まるで、彼女の中の傷口が再び開かれたような感覚がした。失踪者。麗子のことを思い出さずにはいられなかった。
「失踪者…ですか?」
声が震えないように努めたが、その言葉の重みは凛子の内側に強烈に響いていた。彼女は一瞬、過去に引き戻されそうになるが、すぐに自分を取り戻す。
「ええ。私の友人が数ヶ月前から行方不明で…。色々と調べているんですが、どの本を読んでも手がかりが見つからなくて…。」
女性の声は低く、かすかに震えていた。彼女が探しているのは、本当に本だけではないのだろう。凛子は静かにうなずき、店の奥の棚へと歩み寄った。失踪に関する本がいくつかあることを思い出し、それらを取り出す。
「こちらの本が、もしかしたら役に立つかもしれません。専門的な知識や、失踪者に関する過去の事件について書かれているものです。」
本を差し出すと、女性は一瞬それを見つめ、深くため息をついた。
「ありがとうございます…」
彼女は本を受け取り、凛子に深く頭を下げた。その姿を見つめながら、凛子の心には様々な感情が渦巻いていた。
夜が静かに降りてきた頃、神代凛子はリビングのソファに腰を下ろしていた。勇輝は隣で新聞を読み、時計の針は夜の10時を指している。普段と変わらぬ、穏やかな夜の時間。窓の外には星が瞬き、街のざわめきは遠くでかすかに聞こえるだけだ。
その時、不意に電話が鳴り響いた。
家の中に響く電話の音は、夜の静寂を切り裂くように耳に刺さった。凛子はふと眉をひそめ、時計を見上げた。こんな時間に電話がかかってくることは滅多にない。特に彼女の生活は、家族と数人の親しい友人を除けば、ほとんど変わらぬ日々が続いているのだ。少しの緊張を感じつつ、彼女はソファから立ち上がり、受話器を手に取った。
「はい、神代です。」
その瞬間、凛子の耳に届いたのは、か細く震える声だった。懐かしさと同時に、言い知れぬ恐怖が胸にこみ上げる。
「…お姉ちゃん?」
凛子の全身が凍りついた。脳裏に響いたその声は、20年の時を超えたかのように鮮明だった。彼女の妹、麗子の声だった。20年前に忽然と姿を消した麗子が、いま、電話越しに凛子に語りかけている。
「麗子…?」
凛子は言葉を詰まらせながら、その名前を口にした。まるで夢を見ているかのようだった。いや、これは現実なのだろうか。手に持った受話器がどんどん重くなるように感じ、膝が震え始めた。頭の中で渦巻く疑問や感情が、一度に溢れ出し、まとまらない。
「お姉ちゃん、助けて…。私、何も思い出せないの…。気がついたら、知らない場所で目が覚めて…。それからずっと、どうしていいのかわからない…。」
麗子の声は弱々しく、まるで自分が誰であるかさえわからないように聞こえた。20年間、どこにいたのか。なぜ今、突然現れたのか。凛子は答えを求めたい気持ちでいっぱいだったが、麗子の言葉がすべてを混乱させた。
「記憶が…ないの?」
凛子は口を開いたものの、声が震えているのが自分でもわかる。20年間という長い歳月の中で、どこかで麗子が幸せに暮らしていることを願っていた。その希望は今、音を立てて崩れ去ろうとしている。
「そう、何も思い出せないの。自分が誰なのか、どこから来たのか、全然わからない。ただ、お姉ちゃんのことだけが頭に浮かんで…だから、電話したの。」
麗子の声には混乱と不安が溢れていた。凛子の心臓は激しく鼓動し、息が詰まるような感覚に襲われた。20年という月日が、一瞬で巻き戻されるような錯覚に囚われる。
「どこにいるの?今すぐ迎えに行くから。」
凛子は慌てて言葉を吐き出した。しかし、麗子の返答は予想以上に曖昧だった。
「わからない…ただ、暗い場所で…人の声もないし、周りには何もないの。助けて、お姉ちゃん。怖いの…。」
電話越しに聞こえる麗子の震える声に、凛子はますます不安を募らせた。何が起きているのか、彼女には全くわからなかった。だが、一つだけ確信できることがあった。妹が助けを必要としている。それだけは、どんな状況でも見逃せない事実だった。
勇輝がふと新聞をたたんで、凛子の表情を見つめた。その目には不安と疑念が浮かんでいた。彼は静かに立ち上がり、凛子の手から受話器を取る。
「俺が話す。冷静にいよう。」
彼は、どんなときでも感情に流されない男だった。その落ち着いた声は、凛子の心を少しだけ落ち着かせた。
「麗子さん、君は今どこにいるかわからないと言っているが、周囲に何か手がかりになるようなものはないか?建物の外観、音、匂い、何でもいい。どんな小さなことでも、俺たちにとっては重要だ。」
勇輝の質問は的確だった。だが、電話の向こうから返ってきたのは、短い沈黙と、再び震える声だけだった。
「本当に何もないの…。ただ暗くて、静かで…。怖い…。」
凛子は再び電話を奪い返したい衝動に駆られたが、勇輝は静かに首を振って、それを制止した。彼は受話器を耳に押し当て、麗子にもう少し何か思い出せないか、再度優しく促した。しかし、返ってくるのは同じ答えだった。
「わかった。俺たちはすぐに助けに行くから、今はできるだけ落ち着いて待ってくれ。絶対に見つけ出すから。」
勇輝はそう言い残し、電話を切った。彼はしばらくの間、無言で凛子の方を見つめていた。その目には、彼女が見たことのない深い思慮と不安が漂っていた。
「冷静になれ。麗子がどうして今、突然現れたのか、考えなければならない。感情だけで動いてはダメだ。」
凛子は彼の言葉にうなずいたが、その胸の中は嵐のようだった。20年間の空白が、今一気に埋められようとしている。しかし、それがどんな結末をもたらすのかは、まだ見えない。
翌朝、凛子は親友の月城真琴に連絡を取った。真琴は昔からの友人で、彼女にとって最も信頼できる存在だった。何度も悩んだ末、ようやく彼女に電話をかけた時、凛子は心の中に少しだけ安堵を感じた。
「もしもし、真琴?少し相談したいことがあるの…。」
電話の向こうで、真琴の落ち着いた声が返ってきた。
「何があったの、凛子?こんな朝早くに電話をかけてくるなんて、珍しいじゃない。」
凛子は、昨夜の出来事を静かに語り始めた。話している間、何度も言葉を詰まらせたが、真琴はじっと耳を傾けていた。
「それで、麗子が記憶を失っていると言ってたの?場所もわからないし、手がかりもない?」
凛子は力なくうなずき、深いため息をついた。
「そうなの。どこにいるのかも、何もわからない。ただ、彼女が助けを求めているのは確か。どうしたらいいのか、全然わからなくて…。あの子を失うのが怖い。」
真琴はしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。
「まずは、彼女が本当にどこにいるのかを確認することが大事ね。それに、記憶喪失のこともあるなら、専門家の力を借りた方がいい。精神科の先生を紹介できるけど、どう?」
凛子は少し戸惑った。精神科医という言葉が、何か大げさな響きを持って感じられたからだ。しかし、真琴の言葉には確かに一理あった。麗子の記憶喪失が本当に深刻なら、専門的なケアが必要だろう。
「お願い…紹介してもらえる?」
「もちろん。私も一緒に行くから、心配しないで。」
その言葉に、凛子は少しだけ気持ちが軽くなった。真琴の存在が、彼女にとって大きな支えになっていたのだ。
「ありがとう、真琴。本当に感謝してる。」
「何言ってるの。友達でしょ。困ったときは助け合うものよ。」
電話を切った後、凛子は一瞬だけ窓の外を見つめた。朝の光が差し込むリビングに、昨夜の暗闇とは違う穏やかな雰囲気が広がっていた。しかし、その穏やかさの中に、彼女の心には依然として深い不安が残っていた。
麗子が戻ってきた。しかし、その帰還が意味するものは、まだ誰にもわからない。
神代凛子は、駅前のカフェの窓際の席に座り、外を行き交う人々をぼんやりと眺めていた。5月下旬、早くも初夏の気配が漂う昼下がりだ。空はどこまでも青く、陽射しは柔らかいが、少しだけ蒸し暑さを伴っていた。カフェのガラス越しに見える駅前広場は、ランチタイムを過ぎたばかりで、まだ人通りが途絶えていない。子どもを連れた母親、仕事帰りのサラリーマン、観光客らしき外国人、様々な人が足早に行き交っていた。
凛子は緊張していた。20年ぶりに再会する妹、麗子が駅に到着する時間が近づいていたからだ。麗子からの突然の電話があって以来、彼女の姿を見るまで信じがたい気持ちが続いていた。まるで夢を見ているかのようだ。しかし、今日こそその現実を受け入れるべき日だと、自分に言い聞かせていた。
「どうして、こんなに緊張しているんだろう…」
凛子は胸の内で自嘲気味に呟く。麗子は自分の妹だ、かつては何でも話し合えた間柄だった。それが、たった20年の間にこんなにも遠く感じる存在になるなんて、想像もしなかった。駅に着く時間はもうすぐ。凛子は手元のスマートフォンを見つめ、時計の針を確認する。麗子の記憶はまだ曖昧なままだが、彼女がどんな状態で現れるのか、それすらも凛子には未知数だった。
ふと、カフェの自動ドアが開き、軽い風が吹き込んできた。その風が運んできたのは、遠くから凛子の名を呼ぶ声だった。顔を上げると、そこに立っていたのは、まるで時間が巻き戻されたかのような麗子の姿だった。
「凛子、お姉ちゃん!」
凛子の息は一瞬止まった。麗子は、まるで昔の彼女そのものだった。肩まで伸びた黒髪、整った顔立ち、凛子にとても似た優雅な輪郭。だが、その目には、どこかぼんやりとした曇りがかかっている。それが、記憶を失ったという彼女の証拠なのかもしれない、と凛子は思った。
「麗子…本当に、麗子なの?」
言葉を絞り出すように凛子が呟いた。麗子は笑みを浮かべて、少しだけ肩をすくめた。
「うん、そうだよ。覚えてないことがたくさんあるけど、私は麗子。お姉ちゃん、会えて嬉しい。」
その瞬間、凛子の心には安堵と同時に違和感が生じた。確かに彼女は麗子だ。その顔、声、仕草、どれもが20年前の麗子と変わらない。しかし、彼女の存在全体が、どこか蜃気楼のような、不安定な現実感を伴っていた。それが何であるか、凛子にはまだ説明できなかった。
二人は静かにカフェの席に着いた。カウンターの奥から漂うコーヒーの香りが、ほんの少し緊張を和らげる。麗子は凛子をじっと見つめていたが、凛子の方が先に口を開いた。
「記憶が曖昧だって言ってたけど、どんな感じなの?具体的に何か覚えていることがある?」
麗子は少し考え込むように視線を落とし、しばらくしてからゆっくりと答えた。
「うん、どう説明すればいいのか分からないんだけど…思い出せることもあるけど、それが自分の記憶なのか、誰かから聞いた話なのか、よくわからないの。例えば、私たちが子どもの頃に一緒に遊んだことはぼんやりと覚えてる。でも、私がどこで何をしていたか、その間のことが全然思い出せないの。」
麗子の言葉は、まるでガラスの器がひび割れていくように脆く感じられた。彼女自身が、自分の記憶に触れるたびに崩れていくようだった。それを聞く凛子も、心の中で何かが崩れていく感覚を覚えていた。妹が目の前にいるという事実は、思い描いていた再会の喜びとは異なり、むしろ深い哀しみを伴っていた。
「それでも、こうしてまた会えたんだから、一歩ずつゆっくりやっていけばいいと思う。記憶は少しずつ戻るかもしれないし、もし戻らなくても、私たちはまた姉妹として一緒にやっていける。そう信じてる。」
凛子は自分自身に言い聞かせるように、静かにそう言った。麗子の記憶が戻るかどうかはわからないが、今はただ彼女を受け入れることが大切だと感じていた。
麗子は凛子の言葉に微笑みながら頷いた。その笑顔は美しく、温かい。しかし、やはりどこか空虚だった。
「ありがとう、お姉ちゃん。私もそうしたい。全部を思い出せなくても、また一緒に過ごせるなら、それだけで十分だよ。」
その瞬間、ウェイトレスが二人のテーブルにやってきて、注文したアイスコーヒーとレモネードを運んできた。ウェイトレスがトレイを置くとき、麗子がふと手を伸ばして軽く触れた。
「ありがとう。」
麗子の言葉は何気ないもので、ウェイトレスも軽く笑みを返した。だが、その直後、ウェイトレスの顔が急に曇り始めた。顔色が青ざめ、まるで立っているのがやっとのような状態に見えた。彼女は額に手を当て、ふらりと後退しながら、何かを言おうとしたが、言葉が出なかった。次の瞬間、彼女はその場に倒れ込んだ。
カフェの中は一瞬、凍りついたように静まり返った。周りの客が一斉に立ち上がり、驚いた様子で彼女を見下ろしている。凛子は瞬時に麗子の方を振り返った。彼女の顔には何の表情も浮かんでいなかった。ただ静かにその光景を見つめているだけだった。まるで、何かが起こることを最初から知っていたかのように。
凛子は混乱と不安を感じながらも、急いで立ち上がり、ウェイトレスに駆け寄った。他の客も次々に集まり、店内は一気に騒然となった。店員が救急車を呼ぶために慌てて電話をかける姿が視界に入ったが、凛子の思考はぼんやりと霧の中に沈み込んでいた。
麗子は静かに座ったまま、何も言わなかった。その姿が、凛子にはまるで別の存在に見えた。20年前の妹ではなく、何かが変わってしまった――いや、何かが取り憑いているような感覚。彼女の中に潜む暗い影。それが何かは、まだ凛子にはわからなかった。
その日、カフェを出るとき、麗子はいつも通りの微笑みを浮かべていたが、凛子の胸には一抹の不安が根強く残っていた。そして、それは今後の日々が、ただの再会だけでは終わらないことを予感させていた。
神代凛子の自宅のリビングルームには、歓迎会を前にした静かな空気が漂っていた。窓の外からは5月の柔らかな夕暮れが差し込み、リビングの明かりと外の景色が絶妙なバランスで溶け合っている。まるで、二つの異なる時間軸が一つの場所に存在しているかのようだ。だが、その静寂の中に漂う微かな緊張感を、凛子はずっと感じていた。
今日は、妹・麗子の帰還を祝う小さな歓迎会が行われる。招待されたのは、凛子の夫・勇輝と、友人の真琴、そして近所に住む主婦の青柳美咲。日常の生活の一部に戻ってきたはずの麗子が、この特別な日の中心にいるのは当然のことだった。しかし、その「当然」が凛子にとってはどこか不自然に感じられていた。再会の瞬間から感じていた違和感は、この歓迎会の準備を進める中で徐々に膨らんでいった。
「お姉ちゃん、準備は終わった?」
麗子が明るい声で尋ねる。彼女はキッチンのカウンター越しに微笑みながら、まるで何事もなかったかのように立っていた。肩までの黒髪は艶やかで、カジュアルなデニムのワンピースが彼女の柔らかな雰囲気を一層引き立てていた。その姿は、20年前の麗子そのもので、変わらないはずの何かが、かえって凛子の心をざわつかせていた。
「ええ、あとは飲み物を出すだけよ。」
凛子は努めて平静を装い、短く返事をした。だが、心の奥底では何かが叫んでいる。彼女が何者であれ、目の前の麗子は確かに「妹」ではあるが、どこか遠い存在に感じられた。それはまるで、自分がよく知っている場所に突然別の時間軸が紛れ込んだかのような感覚だった。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。凛子がドアを開けると、夫の勇輝が仕事から帰宅し、続いて真琴と美咲がやってきた。真琴は小柄で華奢な女性で、いつもながらにシンプルで控えめなファッションを纏っている。髪は肩にかかるほどの長さで、控えめにまとめてあった。対照的に美咲は、上品な白いワンピースにネックレスを合わせ、丁寧に化粧を施している。外見からも自信に満ちた雰囲気が伝わってきた。
「凛子さん、今日は本当に楽しみにしてたのよ。麗子さんが帰ってきたなんて、信じられないわ。」
美咲は軽く微笑みながらそう言って、麗子の方に目を向けた。麗子はすかさず立ち上がり、友人たちに向かって明るく挨拶をした。彼女の動きにはまったくの自然さがあり、その魅力は部屋中に広がるかのようだった。勇輝も真琴も、麗子に向かって温かい視線を送っていた。
「本当に麗子さん、変わらないね。驚いちゃった。再会する日をずっと待ってたよ。」
真琴が感慨深げに語ると、麗子は笑顔で頷いた。その笑顔は、柔らかく人を惹きつけるような何かがあった。それはまるで、夏の夕暮れに突然訪れる涼しい風のように、一瞬で場の空気を変えてしまう。
「ありがとう、私もみんなに会えて嬉しいわ。長い間、どこにいたのか、何をしていたのか、あまり覚えていないけど…こうしてまた一緒にいられるだけで十分よ。」
麗子の言葉には、何か含みがあるように聞こえたが、その魅力的な表情の裏に隠された何かを探る余地は与えられなかった。美咲は、麗子に向かって微笑みながら近づき、彼女の手を軽く取った。
「麗子さん、少しお話ししない?凛子さんにはいつもお世話になってるし、いろいろお聞きしたいことがあるの。」
美咲は優雅にそう言うと、麗子を連れてリビングの隅へ移動した。凛子はその様子を眺めながら、胸に不安が広がるのを感じた。何かが違う、何かがずれている。しかし、それが何であるかはまだ掴めなかった。
美咲と麗子が談笑している間、凛子は勇輝や真琴と会話を続けようとしたが、その言葉はどこか上の空だった。彼女の注意は常に麗子の方に向かっていた。美咲と麗子の二人は、まるで旧知の仲であるかのように親しげに話し、時折、美咲がうなずきながら麗子の言葉に聞き入っている。その光景は、どこか異様なまでに自然で、しかし同時に異質なものでもあった。
やがて、美咲が一歩退いて麗子の顔をじっと見つめると、その目には何かが宿ったように感じられた。それは、冷たい光のようなものだった。その瞬間、美咲は凛子の方に視線を向け、冷ややかな目つきでじっと見つめた。先ほどまでの親しげな笑顔は完全に消え去り、代わりにどこか敵意に満ちた視線が送られていた。
凛子はその視線に凍りつくような恐怖を感じた。どうして美咲が突然そんな態度を取るのか、理由がわからなかった。彼女は何も言わずにリビングの壁に寄りかかり、その冷たい視線をじっと耐えていたが、その瞬間、何かが決定的に変わったことを感じ取った。
「麗子さん、なんだか不思議な人ね。」
美咲が麗子と別れた後、軽く微笑みながらそう言ったが、その微笑みはどこか鋭利なものを隠しているかのようだった。凛子は彼女の言葉にどう反応していいかわからず、ただ曖昧に頷くだけだった。
歓迎会が終わり、客たちが帰る時間が近づいてきたころ、真琴が静かに凛子に近づいてきた。彼女の顔には、先ほどまでの和やかさが完全に消え去り、深刻な表情が浮かんでいた。
「凛子さん、ちょっと話があるの。」
真琴は凛子の腕を軽く引き、二人きりの場所へ移動した。彼女の目は、明らかに何か重要なことを伝えたがっているようだった。周りの誰にも聞かれたくない内容であることは明白だった。
「何?どうしたの?」
凛子は困惑しながらも、真琴の深刻な表情にただならぬものを感じた。真琴は一息つき、小さな声で囁いた。
「麗子さん、ちょっと変じゃない?私…何かがおかしいと思うの。さっき彼女と話してたとき、言葉には出せないけど、何か違和感があったのよ。まるで…彼女の中に別の何かがいるような…そんな感じ。」
真琴の言葉は凛子の心に鋭く突き刺さった。彼女も同じ違和感をずっと抱えていたが、それを言葉にすることができなかった。妹を疑う自分が信じられず、その感覚を抑え込んでいたのだ。しかし、真琴の告白を聞いたことで、その抑え込んでいた感覚が一気に溢れ出した。
「私も、何か変だと思ってた。でも、それが何なのか、まだわからないの…」
凛子は震える声で答えた。
チャプター2 蝕まれる日常
六月初旬の空気は、湿り気を帯び始めた夏の予兆を孕んでいた。神代書店の古びた扉を開けると、ひんやりとした室内の空気が迎えてくれる。木製の棚からは古い紙とインクの香りが漂い、静かな音楽が低く流れていた。この場所は凛子にとって、いつも穏やかな安心感を与えてくれる場所だった。少なくとも、これまではそうだった。
妹の麗子がこの書店で働き始めてから、客足が急に増え始めた。それは驚くべきことだった。麗子は接客に非常に長けており、まるで魔法でも使っているかのように自然に人々を惹きつけていた。彼女の笑顔は太陽の光のように柔らかく温かで、彼女と話すだけで客たちは心を奪われていく。その魅力には、説明がつかないほどの力があった。しかし、その魅力が増すにつれ、凛子の心には小さな棘が生えるような違和感が次第に大きくなっていった。
「麗子さん、今日は何かおすすめの本ありますか?」
常連客の大学生、佐伯翔太がレジにやってきた。彼はいつも少し内向的で、どちらかというと無口な性格だった。だが、麗子と話す時だけは妙に積極的で、饒舌になる。翔太は短めの髪にシンプルなTシャツとジーンズという、特に目立たない外見の若者だが、彼の目には常に何かしらの知的な輝きが宿っていた。しかし、この日彼が見せた姿は、いつもの彼とは全く違うものだった。
「翔太くん、今日はちょっと面白い推理小説が入ったの。きっと気に入ると思うわ。」
麗子は翔太に微笑みかけながら、一冊の本を手に取った。その仕草は美しく、まるで長年の友人に対して自然に行うようなものだった。しかし、その一瞬に凛子は違和感を覚えた。麗子が放つ空気には、何かしら不穏なものが混ざっているように感じたのだ。だが、その正体は見つからない。目に見えない雲のように、ぼんやりと彼女の周りを覆っているだけだった。
「そうなんですか?ぜひ見てみます!」
翔太は目を輝かせ、麗子に近づいた。いつもなら彼はあまり感情を外に出さないが、今の彼はまるで別人のように興奮しているようだった。麗子の手から本を受け取りながら、翔太は彼女に目を合わせた。その瞬間、凛子は翔太の視線に何か奇妙なものを感じた。それは、単なる興味や好意を超えたもの、何かもっと強烈で制御不能な感情の渦のようなものだった。
麗子と翔太が話している間、凛子はレジカウンターの後ろからその様子をじっと見つめていた。まるで外界から切り離された透明な壁の中にいるような感覚が襲ってきた。自分だけがこの場から孤立しているような、冷たい孤独感が心の中に広がる。
麗子は翔太に向かって微笑み続け、彼もその微笑みに応える。だが、そのやり取りが進むにつれて、翔太の態度が徐々に変わり始めた。それは目に見える形で、確実に変わっていった。彼の笑顔は次第に不自然なものへと変わり、目つきが鋭くなり、話す声に緊張感が増してきた。
「麗子さん、あなたって本当にすごい人ですね…まるで僕の心を読んでいるみたいです。」
その言葉は一見すると賞賛のように聞こえるが、その奥底にはどこか執拗なものが感じられた。凛子はぞっとし、レジのカウンター越しに彼らのやり取りを見守った。何かが起きているのは明らかだったが、それが何なのかはまだわからなかった。
翔太はさらに麗子に近づき、彼女の目をじっと見つめた。その目にはもう普通の興味や好意はなく、どこか狂気のような輝きが混ざっていた。麗子は一瞬、微かに眉をひそめたが、すぐにいつもの優しい微笑みに戻った。
「翔太くん、そんなこと言われると照れちゃうわ。」
麗子は軽く笑いながら言ったが、その笑顔の裏には何か冷たいものが感じられた。凛子はその一瞬の変化を見逃さなかった。それは、まるで人形が一瞬だけ魂を失ったかのような、冷たく無機質な表情だった。
その時、凛子は一歩前に進み、翔太に声をかけようとした。しかし、彼女が言葉を発する前に、翔太は急に振り返り、凛子を鋭く睨みつけた。その目はまるで、凛子が自分の邪魔をしているかのように、敵意に満ちていた。
「何だよ、神代さん。邪魔しないでくれよ。」
翔太の言葉は冷たく、凍りつくような響きがあった。いつもの彼からは想像もつかないほど攻撃的な態度だった。凛子は一瞬、言葉を失った。彼がなぜ急にそんな態度を取るのか、理解できなかった。
「翔太くん…どうしたの?何かあった?」
凛子は戸惑いながら尋ねたが、彼の表情は変わらないままだった。彼の目には、以前の優しさや親しみは完全に消え去っていた。代わりに、冷酷さと何かしらの憎悪が混ざり合った奇妙な感情が浮かんでいた。
「別に何もないよ。ただ、あなたには関係ないことだからさ。黙っててくれ。」
翔太は低く呟き、再び麗子の方に向き直った。彼の背中には、以前の彼にはなかった威圧感が漂っていた。凛子はその場に立ち尽くし、どうすればいいのかわからなかった。彼の豹変ぶりはあまりにも突然で、あまりにも理解不能だった。
麗子は微笑みながら凛子に向かって一瞬だけ視線を送ったが、その目には何か冷ややかなものが感じられた。それはまるで、凛子に「これ以上口を出すな」と言っているかのようだった。その視線に凛子は寒気を感じ、思わず一歩後ずさりした。
その後、翔太は麗子と何事もなかったかのように会話を続け、本を購入して店を出て行った。だが、凛子の心には冷たい不安が残ったままだった。翔太の変貌、そして麗子のあの冷たい視線。それらが意味するものは何なのか、凛子にはまだ理解できていなかったが、何かが確実に変わり始めているのを感じていた。
店内に戻った後、凛子は自分の胸の内に広がる不安を抑え込もうとしたが、それはまるで黒い霧のように、彼女の心に張り付いて離れなかった。
夜は深まり、家の中には静寂が広がっていた。時計の針が午前二時を指し示す頃、凛子は寝室のベッドで浅い眠りの中を漂っていた。家の静けさに耳を澄ませると、遠くから何かが聞こえてくる。声だ。低く押し殺した声が、リビングの方から微かに漏れていた。半分眠っている頭がその音に反応し、体が自然と動いた。凛子はそっとベッドを抜け出し、音のする方へと足を運んだ。
リビングの扉に耳を当てると、勇輝の声が聞こえてくる。彼は、仕事で遅くなったはずだ。今夜もまた、深夜まで残業だったと言っていた。しかし、その声に交じってもう一つ、聞き覚えのある声が聞こえた。麗子だ。なぜ彼女がこんな時間に起きているのだろう。彼女の声は、あまりに親密で、凛子の胸の中にひどく不快な感情を呼び起こした。
「それで、どうだったの?仕事は順調?」
麗子の声が甘く響く。どこか挑発的な響きが含まれているように思えた。勇輝がため息をつき、何かを言ったが、凛子にはその言葉がはっきりと聞き取れなかった。ただ、その口調はいつもの勇輝とは違い、柔らかく、少し浮ついているように感じた。
「まあ、ぼちぼちってところかな。でも君と話すと、なんだか肩の力が抜けるよ。」
凛子の心臓がドキリと跳ねた。まるで自分がその場にいるかのような錯覚を覚えるほど、二人の会話は親密さを醸し出していた。まるで、自分の存在がこの家から排除されたかのような感覚が襲いかかってきた。凛子はその場から離れたくなったが、足が動かない。まるで、床に縛り付けられたかのように立ち尽くしていた。
翌朝、リビングは普段と変わらぬ日常を取り戻していた。凛子はいつも通り朝食の準備をし、勇輝が出勤する前に軽く会話を交わそうとした。だが、昨夜の出来事が心の奥に深く刺さっているせいで、彼女の態度はどこか硬く、ぎこちないものになっていた。
「昨日、遅くまで起きてたのね。麗子と何か話してた?」
凛子は、自然を装おうとしたが、その声は微かに震えていた。勇輝は一瞬動きを止め、彼女の方を見た。その視線には軽い戸惑いが浮かんでいたが、すぐに冷たい表情へと変わった。
「別に、ただの世間話だよ。お前、何をそんなに気にしてるんだ?」
その言い方は、苛立ちを隠すことなく露わにしていた。凛子はその瞬間、自分の中で何かが壊れる音を聞いたように感じた。勇輝の反応は予想していたものではあったが、実際に彼の言葉を聞いた瞬間、胸に広がる痛みは想像以上に鋭かった。
「そんな言い方しないで。私は、ただ気になって…」
「気にする必要なんかないだろ?麗子はお前の妹だし、俺たちが話すくらい普通のことだろ。」
勇輝の声は一層硬くなり、その瞳には冷たい光が宿っていた。凛子は、その瞳を直視することができなかった。自分が何か間違ったことをしたのだろうか、と自問する。しかし、昨夜の二人の親密な空気は、どう考えても普通ではなかった。彼女の胸に沸き起こる違和感は、そう簡単に拭い去れるものではない。
「でも、昨夜の会話は…」
凛子が何か言おうとした瞬間、勇輝が椅子を音を立てて引き、立ち上がった。その動作は怒りを隠すことなく、鋭く、冷たかった。
「いい加減にしてくれ、凛子。お前、そんな風に疑ってばかりじゃ俺だって疲れる。今日は早めに出るから、もうこれ以上この話はするな。」
勇輝はそのまま、無言でキッチンを離れ、玄関へと向かった。凛子はその後ろ姿をただ見送るしかなかった。何かを言いたかったが、言葉が喉の奥で詰まり、出てこなかった。玄関のドアが閉まる音が響くと、部屋の中には一層の静けさが訪れた。
凛子は深く息を吐き、胸の中でくすぶる不安と苛立ちを抑え込もうとした。だが、それは簡単なことではなかった。勇輝との間にできた亀裂は、日常の中に静かに広がり始めていた。
その日の夕方、凛子はいつも通り書店で仕事をしていた。頭の片隅にはまだ、勇輝とのあの言い合いが残っており、心の中は落ち着かなかった。店の中に並ぶ本の背表紙が妙に無機質に見え、彼女の指先はどこか震えていた。
「いらっしゃいませ。」
店の扉が開き、一人の女性が入ってきた。凛子はその女性を一瞬見て、記憶が呼び戻される。以前にもこの店に来たことのある客だ。黒髪を肩の下まで伸ばし、薄いグレーのトレンチコートを羽織ったその姿は、どこか不安げで焦りを感じさせるものだった。
「失踪者の本を…」
彼女は前回と同じ本を探しているようだった。だが、その言葉はかすれ、どこか迷いが含まれている。凛子は一歩近づこうとしたが、その瞬間、麗子がさっと彼女の前に立ちはだかった。
「すみませんが、今日はその本はもう在庫切れなんです。またの機会にお願いします。」
麗子の言葉は、驚くほど冷静で、しかも少し厳しいものだった。凛子はその場で固まった。何かがおかしい。麗子は明らかにこの女性を避けようとしている。そして、その動作はあまりにも自然で、あまりにも計画的に見えた。
女性はそのまま、何も言わずに店を出て行った。その後ろ姿は寂しげで、まるで何か大切なものを失ったかのようだった。
凛子は、麗子の方を見つめた。麗子は平然とした顔で、再びカウンターに戻る。その一連の動作に隠されたものは何なのか、凛子にはまだ理解できなかったが、確実に何かがこの店の中で動き始めているのを感じ取っていた。
「麗子、さっきの人…」
「何でもないわ。気にしないで。」
麗子は微笑んで言ったが、その笑顔には何か隠された冷たさが漂っていた。
真琴のオフィスは、ビルの八階にある小さな一室だった。窓からは、都会の喧騒が静かに遠ざかっていく様子が見える。午後の光が、部屋の中を穏やかに照らし出し、パソコンの画面に映る数字やグラフを淡く映し出している。コンクリートとガラスの冷たい世界に、彼女のオフィスだけが静謐で、まるで時間が止まっているかのように感じられた。
その部屋の一角に、真琴は深く考え込むように椅子に腰掛けていた。目の前には凛子が座っている。彼女はしばらく無言だったが、ついに口を開いた。
「麗子のことなんだけど……彼女の行動が最近、変なのよ。まるで何かを隠しているみたいで……それに、勇輝との関係もぎこちなくなってきた。」
凛子の声はどこか頼りなげで、彼女自身が自分の言葉に確信を持てないでいるようだった。彼女の指が膝の上で緊張したように動き、目の前にいる真琴に訴えるかのような表情を浮かべていた。
真琴は、パソコンから視線を外し、凛子を見つめた。その目には冷静な光が宿っていたが、そこには凛子への同情と理解が含まれている。しばらくの間、何かを計るように彼女の顔をじっと見つめ、やがて口を開いた。
「社会的操作という言葉を聞いたことはある?」
凛子は少し首をかしげた。「ええ、言葉だけは……でも、それが具体的にどういうものかはよくわからないわ。」
真琴は短く息を吐き、ゆっくりと話し始めた。
「社会的操作とは、人を自分の思い通りに動かすために、巧妙に仕組まれた行動パターンのことだ。言葉や態度、周囲の状況を利用して、人の判断力を鈍らせたり、自信を揺るがせたりする。そしてその結果、操る側の思い通りに動かされてしまう。」
凛子の眉が寄った。「麗子が……そんなことを?」
「そう簡単に断言することはできないけれど、彼女の行動にはそうした兆候があるのよ。彼女の接客の仕方や、あなたや勇輝さんとの関係の変化を見る限り、何か背後に計画があるように思えるの。」
真琴はそう言うと、机の上にある資料を手に取り、何かを調べ始めた。彼女の動きは一貫して冷静で、手際が良い。凛子は、その手元を不安げに見つめながら、心の中で何かが少しずつ形を成していくのを感じていた。
「彼女の過去について調べる必要があるわね。少なくとも、この20年の間に何があったのかを突き止める必要がある。行動の変化は必ず、過去のどこかにヒントがあるはずだから。」
凛子はその言葉に小さく頷いた。「でも、そんなことできるの?」
「時間はかかるけど、不可能ではないわ。今の時代、ネット上に多くの情報が出回っているし、必要なら他の手段もある。」真琴は言葉を続けた。「ただ、もう一つ気になることがあるの。」
「何?」
「失踪者という言葉、聞いたことはある?」
凛子は一瞬、息を呑んだ。あの女性客が探していた本のことだ。店で何度かそのタイトルを聞いたことがあるが、何故その本が真琴の口から出てくるのか、理解できなかった。
「それって、あの女性が探していた本のこと?あの人、何度も書店に来てたけど、麗子が追い返したわ。」
「そう、その本のことよ。最近、私のオフィスにもその本についての問い合わせがあった。電話だったんだけど、女性の声だったわ。まるで何かに追われているかのような切迫感があって、失踪者についてどうしても知りたいと。」
真琴の顔に一瞬、険しい表情が浮かんだ。「その時は、深く考えずに、調べてみるとだけ答えたけど、今になってそのことが妙に気になっているの。」
凛子は言葉を失い、しばらくの間、黙っていた。真琴のオフィスの窓の外では、陽光がゆっくりと変わり始め、午後の影が伸びていく。時の流れは無情に進み、彼女たちの前に新たな謎が広がっていた。
「じゃあ、その本を探してみるの?」
「そうね、でもまずは麗子についての調査が優先よ。彼女が何を隠しているのか、それを突き止めることが先決だわ。」
真琴の冷静な口調の中には、確固たる決意が感じられた。それは、真実を追求する者の覚悟であり、同時に凛子を守ろうとする強い意志でもあった。
数日が過ぎ、真琴の調査は着実に進展していた。ネット上での情報収集だけでなく、彼女の人脈を駆使して、麗子の過去についての詳細なデータを手に入れようとしていた。しかし、麗子の行動パターンはあまりにも慎重で、その全貌を掴むにはまだ時間がかかりそうだった。
凛子は、真琴のオフィスに度々足を運び、調査の進捗を確認していた。オフィスの中は静かで、真琴のパソコンのキーボードを叩く音だけが響いている。その音は、まるで謎を解き明かすためのリズムのように感じられた。
ある日、真琴がパソコンの画面から目を離し、電話に手を伸ばした。画面に表示された番号は非通知だった。少しの間、真琴はそれを見つめたが、やがて受話器を取り、静かに「はい」と応じた。
「失踪者の本について、お聞きしたいのですが……」
電話の向こうから、女性の声が聞こえてきた。それは、あの時の電話と同じ声だった。真琴は眉をひそめ、受話器を握りしめた。その声には再び、切迫感が漂っていた。
「その本についての詳細は、まだ調べているところです。もう少し時間がかかるかもしれませんが……」
「急いでいるんです、時間がないんです……お願いです、何でもいいので、情報を教えてください。」
その声は、ますます焦りを帯びていた。真琴は一瞬躊躇したが、冷静さを保ちながら応答した。
「わかりました。可能な限り、情報を集めてお伝えします。ですが、今はこれ以上は……」
電話の向こうの女性は何か言いたげだったが、すぐに電話は切れた。真琴はしばらくの間、受話器を持ったまま立ち尽くしていた。何かが、確実に動き始めている。その不穏な気配が、静かにオフィスの中に漂っていた。
「どうしたの?」凛子が心配そうに尋ねた。
真琴は受話器を置き、ゆっくりと彼女を見つめた。
「また失踪者の本についての電話よ。この本には何か、私たちがまだ知らない重大な秘密が隠されているのかもしれない。」
凛子は再び胸に広がる不安を感じた。彼女の周囲で起こっているすべての出来事が、少しずつ一つの点に向かって収束しているように思えた。それが、何を意味するのかはまだわからない。ただ、一つだけ確かなことは――彼女たちはこれからさらに深い謎に巻き込まれていくのだということだった。
6月下旬、午後の陽射しは柔らかく公園の木々の葉を金色に染めていた。風は心地よく、わずかな涼しさを運んでくる。まばらに点在するベンチには、子供連れの母親たちや、一人で静かに読書をする年配の男性が見受けられる。凛子は、公園の入り口近くの噴水の前で美咲を待っていた。美咲から急に連絡があり、どうしても会って話したいと言われたのだ。
「何か大事な話なんだろうか……」
不安が胸の奥で静かに蠢いていた。美咲とは最近あまり連絡を取っていなかったし、何か深刻なことでも起こったのかもしれない。凛子は周囲を見回しながら、ベンチに腰掛ける。木漏れ日が地面に揺れながら映り、風が葉を擦り抜ける音が遠くで聞こえる。自然の音が、まるで時間の流れを引き伸ばしているかのようだった。
ふと、彼女の視線の先に、薄手のカーディガンを羽織った美咲の姿が現れた。細身のジーンズに白いブラウス、髪は肩の下まで伸びていて、風に少し乱れている。いつもきちんとした印象の彼女が、どこか疲れているように見えた。その目には明らかな疲労と、深い悩みが宿っている。
美咲が近づいてくると、凛子は立ち上がり、軽く微笑んだ。「久しぶりだね、美咲。」
「凛子……来てくれてありがとう。」美咲の声はかすかに震えていた。彼女はどこか無理に微笑んでいるように見えたが、その微笑みの奥には押し殺された感情が隠れているのがわかる。彼女はそのまま凛子の隣に座り込み、小さく溜息をついた。
しばらくの沈黙が流れた。周囲の風景や人々のざわめきが、二人の間の緊張感を少しだけ和らげていたが、美咲は何かを言おうとして、それを飲み込んでいるように見えた。
「どうしたの?何かあったの?」凛子が優しく問いかけると、美咲は突然目を伏せ、声を詰まらせた。
「凛子……どうして、私はこんな目に遭うんだろう……」彼女の声は弱々しく、涙がこみ上げてきているのが感じられた。
凛子は美咲の顔を見つめた。彼女の瞳は湿り、まつげに涙が浮かんでいた。その涙が、一滴、彼女の頬を伝ってこぼれ落ちると、ようやく美咲は言葉を続けた。
「麗子が……私の夫を奪ったのよ。」
その言葉は、まるで空気を切り裂くような衝撃をもたらした。凛子は一瞬、言葉を失い、ただ美咲の表情を見つめるしかなかった。信じられないという思いが彼女の中で渦巻く。麗子が美咲の夫を寝取った?そんなことが現実に起こりうるのか。
「本当なの、美咲……?」
美咲は深く頷き、泣き崩れそうな顔で凛子を見た。「最初は信じられなかった。でも、少しずつ……証拠が出てきたの。彼の態度が変わり始めて、私に冷たくなって、夜遅く帰ってくることが増えた。怪しいなって思って彼の携帯を見たら、麗子とのメッセージが……」
その瞬間、涙が溢れ出し、美咲は両手で顔を覆った。彼女の肩が震えている。凛子は戸惑いながらも、美咲の隣に座り、そっと肩に手を置いた。慰めの言葉が見つからない。麗子がそんなことをするなんて、凛子には全く想像もつかなかった。麗子とは長い付き合いがあるが、彼女は常に落ち着いていて、自分の感情を抑制できる人物だった。それが、友人の夫を寝取るなどということが本当にあるのだろうか。
「美咲……麗子がそんなことを?」
「わからないわ、どうして……どうして彼女が私を裏切るのか……」美咲の声は細く、震えていた。「私には何もないのよ。夫も、信じていた友人も、全部失ったの……」
美咲の言葉に凛子はどう返せばいいのか分からなかった。彼女の胸の中で、何かがひりつくように痛んでいる。何か言わなくてはと思いながらも、彼女自身もまた麗子の行動に戸惑っていた。そんなことをする人間だったのだろうか?それとも、美咲の誤解なのだろうか?凛子の頭の中では疑念が渦巻き、言葉が喉の奥でつっかえる。
しかし、突然、美咲の態度が変わった。
「でも、全部あなたのせいなのよ!」美咲は急に顔を上げ、凛子に鋭い視線を向けた。
凛子は驚きのあまり、言葉が出なかった。「何を言っているの、美咲……?」
「あなたが彼女をかばっているからよ!あなたが、麗子に全部教えたんじゃないの?彼女に私たちの関係を壊すための道を教えたんでしょ!」
美咲の言葉は、鋭く、凛子の心に突き刺さった。彼女は驚きと混乱で頭がいっぱいだった。美咲の態度は、先ほどまでの悲嘆に暮れていた姿とはまるで別人のようだ。何かが彼女を突き動かし、理性を失わせているのかもしれない。
「待って、美咲……私は何もしていない。あなたを裏切るつもりなんてなかった。そんなこと考えもしなかった……」
「嘘よ!みんな私を裏切っている!あなたも、麗子も、勇輝も……みんな私から全てを奪っていくのよ!」
美咲の声はどこか狂気じみていた。彼女の顔は紅潮し、その目は怒りと悲しみで燃えている。凛子は、その視線を受けながら、冷たい恐怖が背筋を這い上がってくるのを感じた。美咲がこんな風に凛子を責め立てるとは思いもしなかった。
「美咲、お願い、冷静になって……」
凛子は震える声で言ったが、その言葉は美咲には届かなかった。彼女は立ち上がり、背を向けて歩き始めた。その背中は怒りに満ちており、まるで彼女が周囲のすべてに反抗しているかのようだった。
凛子はその後ろ姿を呆然と見つめ、ただ座り込んだまま動けなかった。美咲が去った後、彼女の心には不安と混乱が残されたままだ。どうしてこんなことになったのか、何が起こっているのか、全てが霧の中にあるように感じた。
その帰り道、凛子は奇妙な気配を感じていた。美咲と別れてから、公園の出口に向かう途中で、誰かが彼女の後をつけているような気がしたのだ。振り返っても、誰もいない。しかし、背後にまとわりつくような視線が絶えず感じられた。
歩道を歩く足音が、自分のものとは違うリズムで響いてくる。
チャプター3 崩壊する絆
神代書店の店内は、湿気を含んだ夏の空気が外の熱気を遮断し、どこか重苦しい静寂が漂っていた。薄暗い蛍光灯の光が、古びた書棚をぼんやりと照らし、その中に身を潜めるように凛子は立っていた。カウンターの後ろ、微かに埃っぽい紙の香りが漂うこの場所は、彼女の居場所だった。しかし、その安定した日常が、今まさに揺らぎ始めていた。
ドアベルが小さく鳴り響く音とともに、店の入り口から背の高い男が入ってきた。黒いスーツに、無表情のまま鋭い目をした彼が、一歩一歩確実に店内を進む。刑事だ、と直感的に凛子は思った。その堂々とした歩き方、どこか周囲を制圧するような気配が、すでにその役割を物語っていた。
「失礼します。鳳雅人と申します。少しお話を伺いたいのですが」
その低く落ち着いた声が、店の静寂をさらに強調したように響き渡った。鳳雅人は、年の頃四十代、鋭い顔立ちに、冷静さを滲ませた瞳を持っている。彼の存在は、まるでこの静かな空間に突如現れた異物のようだった。凛子は、自然と息を詰めた。まるで自分自身が何か悪いことをしたのではないかと疑われているかのような感覚に襲われる。
「凛子さんですか?」
「はい、そうです……どうかされましたか?」
声が思った以上にか細く響いた。心臓の鼓動が速くなり、手が少し震えているのを感じる。彼が何を言おうとしているのか、嫌な予感がしていた。
「実は、先日からあなたのご友人、美咲さんのご主人、悠人さんが行方不明になっているとの報告を受けておりまして。何か心当たりがあれば、ぜひお聞かせ願いたいと思いまして」
鳳がその言葉を発した瞬間、凛子の体が固まった。美咲の夫、悠人が失踪?数日前、美咲はいつも通りの調子でここに立ち寄り、少し疲れた様子を見せながらも、何か特別なことを話していたわけではない。ただ、彼女の言葉の端々に、どこかしら曖昧な不安が垣間見えていた。それが、まさか夫の失踪に繋がるとは夢にも思わなかった。
「悠人さんが……失踪?それは……」凛子は、思わず言葉を詰まらせた。頭の中で必死に美咲とのやり取りを思い返すが、どうしても手がかりになるような情報は浮かんでこない。
その時、カウンターの向こうから妹の麗子が現れた。彼女は凛子と違い、いつも冷静でどんな時でも対応を間違えない性格だ。凛子が動揺しているのを一瞥すると、すぐに彼女は間に入って、しっかりとした声で鳳に尋ねた。
「警察の方でしたら、まずは身分証を見せていただけますか?突然、失踪の話をされても、何の説明もなしでは信じられません」
麗子の毅然とした態度は、場の緊張を少し和らげた。彼女は、いつもこうだ。どんなに不安な状況でも、冷静さを失わず、周囲に安心感を与える。それが、凛子とは対照的であり、彼女が頼りにしている部分でもあった。
鳳は無言でポケットから身分証を取り出し、麗子に差し出す。麗子はそれを確認し、ようやく少し表情を緩めた。
「ありがとうございます。では、お話を伺いましょう」
店内は、さらに重苦しい沈黙に包まれた。鳳は、カウンター越しにゆっくりと話を続けた。「悠人さんが最後に確認されたのは五日前。それ以降、連絡が途絶えており、何か事件に巻き込まれている可能性があるかもしれません。ご友人である美咲さんも、彼の行方に関して何も分からず、非常に心配しています。何か心当たりはありませんか?」
凛子は何も答えることができなかった。美咲の顔が脳裏に浮かぶ。彼女が少し疲れた様子で話していたあの日のことを思い出すが、具体的な手がかりになるようなことは何もない。ただ、その不安げな表情が、今となっては意味深なものに思えた。
「美咲は、悠人さんがいなくなったことに何か言っていましたか?」鳳の質問が、彼女の心の中に深く突き刺さる。
「いえ……特に何も。彼女、いつも通りでした。ただ、少し疲れていたような気もしますが……」凛子は、戸惑いながら答えた。美咲が何かを隠しているのではないか、そんな疑念が今さらながら湧き上がってくる。
その後、鳳はもう少し質問を続け、特に新しい情報を得られなかったようで静かに立ち去っていった。凛子は、麗子に深く息を吐いた。
「どうして、こんなことに……」
麗子は冷静に凛子を見つめながら言った。「大丈夫よ。何か分かったらまた連絡が来るはず。私たちができることは限られてるわ」
その夜、凛子は眠れなかった。ベッドに横たわっていると、美咲の顔が繰り返し頭に浮かぶ。あの不安げな表情は、何を意味していたのだろう。悠人がいなくなったことで、彼女はどれほど動揺しているのだろうか。そんな思いに駆られながらも、深夜の静寂はますます凛子の心を重くさせていく。
そんな時、突然、電話が鳴った。時計を見ると、もう夜の十一時を過ぎている。驚きながらも、凛子は慌てて受話器を取った。
「もしもし?」
「凛子……」美咲の声が震えていた。「悠人が、戻ってきたの……」
その言葉に、凛子は安堵と戸惑いが入り混じった感情を抱いた。「本当に?それは良かった!でも、どうして急に?」
「分からないの。何も説明もなく、ただ……帰ってきただけなの」
「美咲、大丈夫?それ、どういうこと?」
「分からないのよ。ただ、彼が帰ってきた。それだけで、今はもう……」
美咲の声はどこか上の空のようで、凛子はその違和感に気づいた。しかし、言葉を続けることができなかった。電話はそのまま切られ、凛子はただ呆然と受話器を握りしめていた。
翌日、神代書店に美咲が現れた時、彼女はまるで昨日の電話のことなどなかったかのように振る舞っていた。凛子が悠人について問いかけると、美咲は驚いた顔をして言った。
「失踪?悠人が?そんなこと、ないわよ。彼はちゃんと家にいるもの」
その言葉に凛子は目を疑った。「でも、昨日、あなたが電話で――」
「え?何のこと?」美咲は笑いながら、何も知らないという態度を崩さなかった。
その異常な状況に、凛子は寒気を感じた。彼女の頭の中で、何かがおかしいという感覚が広がり、現実と虚構が入り混じる。どうして、美咲がそんなことを言うのか。あの電話の意味は一体何だったのか。
物語は、これからどのように展開していくのか。凛子は、その先に待つ真実を見極めることができるのだろうか。心の奥底で湧き上がる不安が、彼女の胸を締め付けていた。
神代書店の窓際に置かれた古い木製のカウンターの上で、凛子は淡々と書類を整理していた。外は真夏の午後、灼熱の陽光がアスファルトをじりじりと焦がしている。風はなく、蒸し暑さがじんわりと体にまとわりつくようだった。街の喧騒は遠く、書店の中は静寂が支配している。その静けさが心地よく、凛子はいつものように黙々と作業を進めていた。
ふと、カウンターの上に置いてあった携帯が振動し、音もなく画面が点灯した。凛子は一瞬手を止め、スマートフォンを手に取った。表示された名前に、彼女の胸はざわついた。「真琴」。彼女とは長年の友人であり、かつ信頼できる存在だ。しかし、その真琴がこの時間に連絡をしてくることは珍しい。胸の奥に不安が広がるのを感じつつ、彼女は急いで画面をタップした。
「もしもし、真琴?どうしたの?」
返答は、なかった。ただ息が荒い音が微かに聞こえるだけだった。緊張感が一気に凛子を包み込み、心臓の鼓動が速くなる。
「真琴、大丈夫?何かあったの?」
依然として応答はない。凛子は数秒間、耳を澄ませたが、すぐに電話が切れた。まるで途切れる寸前に何か言おうとしたような、かすかな声が耳に残る。それは不安を掻き立てるには十分なもので、彼女はすぐに動き出した。
「麗子、ちょっと出かけるわ。真琴が……様子がおかしいの」
店内の奥から現れた妹の麗子は、一瞬眉をひそめたが、すぐに頷いた。「気をつけてね、何かあったら連絡して」
凛子は頷き、バッグを手に取り、店を後にした。外に出た瞬間、熱気が彼女を包み込んだが、そんなことを気にしている余裕はない。真琴のオフィスは、店から車で数分のところにあった。彼女は焦りを感じながらも、冷静さを保とうと努めた。
オフィスのビルに到着すると、エレベーターのボタンを何度も押し、早く動けと心の中で叫びながらその到着を待った。エレベーターのドアが開くと、凛子はその中に飛び込むようにして真琴のフロアに向かった。
廊下に出ると、静まり返ったオフィスのドアが凛子を迎えた。彼女は一瞬ためらったが、思い切ってドアを開けた。そこに広がっていた光景は、彼女の息を詰まらせた。
真琴が、意識を失ってデスクのそばに倒れていた。薄暗い部屋に差し込む夕方の光が、彼女の無防備な姿を静かに照らしている。凛子は恐怖に駆られながらも、すぐに駆け寄り、その体に触れた。冷たい汗が彼女の額に浮かんでおり、肌は蒼白だ。
「真琴、しっかりして!」
だが、返答はなかった。彼女の体を揺さぶっても反応がなく、その呼吸が浅いことに気づいた時、凛子はすぐに携帯を取り出し、救急車を呼んだ。焦りと恐怖が渦巻く中で、彼女は真琴の手を握りしめ、どうか助かってほしいと心の中で祈ることしかできなかった。
数分後、救急隊が到着し、真琴は担架に乗せられて運び出された。凛子はその後ろを追いかけるようにして、病院へと向かった。真琴の姿が遠ざかっていくのを見つめながら、彼女の心には不安が増していくばかりだった。
病院に到着すると、すぐに真琴は緊急治療室に運ばれた。凛子は待合室で、何もできずに座っていた。病院の冷たい空気が、彼女の肌に突き刺さるように感じられる。時間の感覚が曖昧になる中、頭の中で様々な考えが駆け巡っていた。何が起きたのか?なぜ真琴は倒れたのか?
不安をかき立てるその疑問が、凛子の胸に重くのしかかっていた。その時、思い出したのは真琴のオフィスの光景だった。彼女が倒れていたデスクの上には、何かの資料が散らばっていたことを思い出した。その一部には「失踪者」という文字が見えていた。彼女は何かを調査していたのだろうか?悠人の失踪との関連があるのかもしれない。だが、そんなことを考えても、答えは出なかった。ただ漠然とした不安が増していくばかりだった。
「凛子!」
その声に、彼女は顔を上げた。麗子が、息を切らしながら病院に駆けつけていた。凛子は、妹の姿を見てようやく少し安堵した。
「麗子……真琴が……」
「大丈夫、大丈夫よ」麗子は凛子の手を握り、優しく語りかけた。「きっと助かるわ。今は医者に任せるしかないのよ」
麗子の言葉は冷静で、どこか現実的な響きを持っていた。それでも、その声には優しさが込められており、凛子はそれに救われる思いがした。だが、不安は完全には消えなかった。真琴が助かるかどうか、それはまだ誰にも分からない。
二人が座っていると、病院の廊下に担当医が現れた。白衣を着た中年の医師は、冷静な表情を浮かべながらも、その目には何か緊迫感が滲んでいた。
「神代さん、ご家族ですか?」医師は静かに問いかけた。
「いいえ、友人です。でも、彼女の状態はどうなんですか?」凛子は声を震わせながら尋ねた。
医師は一瞬、言葉を選ぶようにしてから静かに答えた。「彼女の容態が急変しました。今、全力で治療していますが、予断を許さない状況です」
その言葉が凛子の胸に鋭く突き刺さる。世界が揺らぎ、何もかもが遠く感じられた。
図書館の薄暗い書庫の中で、凛子は無数の新聞記事が詰まったマイクロフィルムのリールを巻き戻していた。スクリーンに映し出される20年前の新聞紙面は、どこか古びた香りを漂わせるような感覚を伴って凛子の心に入り込んでくる。7月の静かな午後、外ではセミが盛大に鳴き立て、暑さがじりじりと建物の壁を焼いているが、図書館の内部は涼しさと湿気が絶妙なバランスで保たれていた。
「響野詩織」とその名が初めて凛子の目に飛び込んできたとき、彼女の心は一瞬凍りついたように感じた。連続殺人犯。その肩書きだけでも十分に凶悪だが、詳細を読み進めるうちに、凛子の胸の奥に不安がじわじわと広がっていくのを感じた。
「響野詩織、29歳、独身。被害者はすべて彼女の身近な関係者であり、親しい友人や家族が中心だった。犯行の動機は解明されていないが、手口は一貫して巧妙で、相手に疑いを抱かせないまま意識を失わせ、毒を使って命を奪ったという……」
凛子はその文章を何度も読み返し、心の中で繰り返した。響野詩織が使ったというその手口が、まるで麗子の行動に重なるように感じられたからだ。麗子が何をしているのかは、これまで凛子にとってはぼんやりとした疑念でしかなかったが、この新聞記事がその疑念に形を与えたように思えた。手口の類似性が偶然であればいいのだが、心のどこかで凛子はそれがただの偶然ではないと感じていた。
スクリーンの前にじっと座り続ける凛子の背後では、図書館の冷房の風が微かに流れていた。古い紙の匂いと、静かな空気が彼女を包み込む中、周囲の人々はただ黙々と自分の作業に没頭している。まるでこの空間だけが、外界の現実から切り離された特別な場所であるかのように、凛子はそこにいる間だけ時間の流れが止まったような感覚を抱いていた。
彼女は震える手でメモを取ることも忘れ、ただスクリーンに映し出された過去の記録に目を凝らし続けた。20年前に何があったのか、そして真琴がその失踪者について何を調べていたのか。そのすべてが一つの糸で繋がり始めているように思えた。しかし、彼女の心には未だ見えないピースがいくつも散らばっている。真琴が発見した真実は何だったのか。なぜ彼女は倒れたのか。そして、その背後には麗子が関与しているのだろうか?
突然、彼女の背後で音がした。図書館の静けさを破るように、微かに足音が聞こえたのだ。凛子はその瞬間、体を硬直させた。背筋を駆け上るような緊張感が彼女を襲う。振り返ることを躊躇する一方で、どうしても気になってしまうその感覚。彼女はゆっくりと椅子を引き、後ろを振り向いた。
そこには誰もいなかった。だが、彼女は確かに感じた。視線が、背後から自分に向けられていることを。
心臓が激しく鼓動し始め、凛子は急いで机の上にあった荷物をまとめ始めた。冷静を装おうとしても、その焦りは隠しきれない。頭の中では、さっきの新聞記事と麗子の顔が何度も交差する。何かが迫っている。それが直感として強く響いていた。
図書館の外に出た凛子は、すぐに周囲を見回した。街はいつも通りで、特に変わった様子はない。しかし、その日差しの下で照らされる風景がどこか歪んで見えるのは、彼女の心の中にある不安がそうさせているのだろうか。彼女は足早に歩き始めた。
だが、その背後に感じる視線は消えなかった。誰かがついてきている。そう確信した瞬間、凛子は無意識に速度を上げた。早足が次第に走りへと変わり、彼女は目の前の道を無我夢中で駆け抜けた。通り過ぎる車の音、道行く人々の視線、すべてが遠く感じられ、ただその視線から逃げ出すことだけに集中していた。
やがて、狭い路地に入り込んだ凛子は、そこでようやく足を止めた。息を切らし、胸を押さえながら周囲を確認する。追跡者の姿は見えない。だが、心臓の鼓動はまだ速いままだ。何かが確実に、彼女の周りで動いているのだ。
その時、背後から声が聞こえた。
「危ないわよ」
凛子は驚いて振り返った。そこに立っていたのは、見知らぬ女性だった。年齢は30代半ばくらい、肩までの髪をすっきりと整え、白いシャツとジーンズというシンプルな格好をしていた。彼女の顔には緊張感が漂い、その目は真剣な光を放っていた。
「あなたは……誰?」
凛子は息を整えながら問いかけた。だが、女性は答えずに一歩前に出た。
「今、あなたの周りが危険に包まれている。気づいているでしょう?」
その言葉に、凛子の心はさらに混乱した。何を言っているのか、彼女にはまるで理解できなかった。しかし、その女性の目が本気で何かを伝えようとしていることだけは確かだった。
「あなた……何を知っているの?」
女性は口を一瞬閉じ、深く息をついてから続けた。「ここでは詳しくは話せない。とにかく、麗子には気をつけて。彼女は普通じゃないわ」
凛子はその言葉を飲み込むのに時間がかかった。麗子が危険だと?自分の妹が?しかし、その女性の表情には嘘偽りは感じられなかった。彼女は何か知っているのだ。
「どういうこと?麗子が……何を?」
その質問に対する答えは、すぐには返ってこなかった。女性は周囲を警戒するように見回し、再び口を開いた。「詳しいことは言えないけど、あなたが知るべきことは、真琴が調べていたことと麗子が関係しているってこと。そして、今、あなたも狙われている」
凛子の心は一瞬、凍りついたようだった。追いかけてきた視線、そしてこの突然の警告。それらが一つの線で繋がり始めた瞬間、彼女の中で何かがはっきりとした。
リビングの窓から差し込む夕陽が、部屋全体を淡いオレンジ色に染めていた。凛子はソファに座り、勇輝をじっと見つめていた。彼は窓際で腕を組み、まるでその場から一歩でも退けばすべてが崩れ落ちるかのように身動きをしなかった。彼女がこれから口にすることが、どれほどの衝撃を彼に与えるかは想像に難くなかった。
だが、ここで黙っていては何も変わらない。それだけは分かっていた。
「勇輝、話があるの」
その声は、かすかな震えを含んでいた。勇輝は視線を外へ向けたまま返事をした。「何だ?」
凛子は深呼吸し、胸の奥から不安を押し込めるように言葉を吐き出した。「真琴が調べていたこと、そして彼女が倒れたこと。その原因を見つけたの」
勇輝は振り返り、眉をひそめた。「原因?どういうことだ?」
凛子はその顔にある戸惑いを無視し、続けた。「真琴が調べていた失踪者事件、それと20年前の連続殺人犯、響野詩織……。すべてが繋がっているのよ。そして、麗子が……」
彼女は言葉を一瞬詰まらせた。自分がこれから口にすることが信じてもらえないかもしれない。その恐怖が、喉を締め付けていた。しかし、これ以上逃げるわけにはいかなかった。
「麗子がその事件と関係しているかもしれないの」
その瞬間、勇輝の表情が凍りついた。沈黙が重く空気を包み込み、彼の目が鋭く凛子を捉えた。
「何を言ってるんだ、凛子?」
「本当に、そう思うの。麗子の行動が……響野詩織の犯行手口と似ているの。偶然とは思えない。彼女は、何かを隠している。そう確信しているの」
勇輝は大きく息を吸い込み、手を強く握りしめた。「凛子、どうかしてるんじゃないか?麗子が連続殺人犯だなんて……あり得ないだろ。お前は疲れているんだ、精神的に追い詰められてる。そんなことを考えるのはおかしい」
凛子は震える声で返した。「私は、そんなに狂ってない。真琴が危険にさらされているのよ!それに、あの女が私に警告してきた。『麗子に気をつけろ』って」
「警告?誰だよ、その女は?そんな話、信用できるのか?」勇輝の声が強まる。
「分からない。でも、その女が言ったことが、全て合っていたの。だから、無視できないのよ……」
「凛子、もうやめろ!」勇輝の声が響き、部屋全体を支配した。「お前が言っていることは狂ってる。麗子がお前の妹だって忘れたのか?彼女はそんな人間じゃない!」
「でも……」凛子は言いかけたが、言葉が続かない。目の前の勇輝の怒りが、まるで壁のように彼女の言葉を跳ね返しているように感じた。
「いいか、凛子。俺はお前が心配なんだよ」勇輝の声は少し落ち着きを取り戻したが、その冷たさは消えない。「お前はあまりにも感情的になりすぎてる。真琴のことも心配だし、仕事だって忙しい。そんな中で、何でもかんでも疑い始めているんじゃないか?それが原因で、お前の頭が回らなくなっているんだよ」
凛子は震える手で膝を掴み、勇輝の言葉を受け止めた。彼の心配は分かる。自分でも、ここ数日の出来事に追い詰められていることは感じていた。だが、今感じているこの強烈な直感を無視することはできなかった。
「でも、もし私が正しかったら……どうするの?」彼女は小さな声で問うた。
勇輝は深い息をつき、視線を逸らした。「もう疲れたよ、凛子。これ以上、こんな話に付き合っていられない」
その言葉は、凛子の心に鋭く突き刺さった。勇輝が諦めた。彼女を信じてくれなかった。凛子は立ち上がり、勇輝に向かって叫びたくなったが、その言葉は喉に引っかかって出てこない。
「じゃあ、どうするの……?」
その一言に勇輝は答えず、ただ荷物をまとめ始めた。
「どこに行くの?」凛子は問いかけたが、勇輝は背を向けたまま答えなかった。
玄関に向かう彼の背中が、夕日の光に照らされている。まるで、二人の関係が今この瞬間、静かに終わりを迎えているかのように感じた。
ドアが閉まる音が響き、凛子はその場に立ち尽くした。鼓動の音だけが静かなリビングに響いている。家の中にあるすべての音が消え去り、ただ静寂が重くのしかかっていた。
時間がどれほど経ったのか分からない。凛子はソファに座り込み、ぼんやりと目の前の風景を見つめていた。何も変わらない部屋。けれど、その部屋は一瞬にして凛子の居場所ではなくなったかのように感じた。
ふと、玄関のチャイムが鳴った。凛子は一瞬、勇輝が戻ってきたのだと思い、駆け寄ろうとしたが、その足が止まった。あの背中を見送った後で、彼が戻ってくるはずがない。
彼女は意を決してドアを開けた。
そこに立っていたのは、麗子だった。
「凛子、大丈夫?」麗子は優しい声で言った。彼女の笑顔は、凛子がいつも見慣れた妹のものだ。だが、今日のその笑顔はどこか冷たいものが含まれているように感じた。
「麗子……どうしてここに?」凛子は戸惑いながら尋ねた。
「ちょうど近くに用事があってね、立ち寄ったの。顔色が悪いみたいだけど、何かあったの?」麗子はまるで凛子の心を見透かすように問いかけた。
凛子は答えられなかった。何をどう説明すればいいのかもわからなかった。だが、麗子のその穏やかな顔を見ているうちに、次第に涙が溢れてきた。
「勇輝が……出て行ったの」凛子は小さな声で告げた。
麗子は凛子を優しく抱きしめた。「そんなこと、気にしないで。きっと、時間が経てばまた戻ってくるわよ」
麗子のその言葉は温かかったが、彼女の腕に包まれる中で、凛子は再びあの冷たい視線を感じた。それは優しさの裏に隠された何か——冷酷で、計算された何かが存在しているように思えた。だが、それが何であるのか、凛子にはまだはっきりと理解できなかった。
麗子は凛子を少し引き離し、彼女の目を見つめた。「大丈夫、私がいるから」
その目は深く暗い闇を持っていたが、同時に微かな光も含んでいる。まるで全てを知り尽くしたような瞳の中で、凛子はその奥底に眠る真実を感じ取ることができなかった。
チャプター4 真実への接近
蝉の声が頭上で幾層にも重なり、夏の陽射しが大学キャンパスを白く照らしていた。目の前の建物は長年の時を経て、少し色あせたレンガ造りの壁が特徴的だ。凛子はその前で立ち止まり、額に滲んだ汗を手の甲で拭った。
佐伯翔太は、ここにいるはずだ。どこかに隠れているか、あるいは既に待っているのかもしれない。彼の足取りを追い、数日間張り込んでようやく見つけたこの場所。心臓が早鐘を打つのを抑えつけ、凛子は深呼吸をする。「今度こそ、話を聞かなければ。」自分にそう言い聞かせ、建物の中へと足を踏み入れた。
薄暗い廊下を抜けて、ガラス張りのドアの向こうに中庭が見える。その向こうに、佐伯翔太の姿があった。彼は木陰に立ち、手に持ったスマートフォンをじっと見つめている。その横顔は、何かを耐えるように固く閉ざされていた。凛子は一瞬、声をかけるのをためらったが、これ以上引き返すことはできないと決心し、一歩踏み出した。
「佐伯さん」
凛子の声が静かな中庭に響いた。翔太は一瞬驚いたように顔を上げたが、すぐにその表情は険しくなる。彼はスマートフォンをポケットにしまい、振り返ることなく「俺に何の用だ?」と短く言った。その冷ややかな声に、凛子の胸は少し痛んだが、ここで引き下がるわけにはいかない。
「あなたに話を聞きたくて来ました。麗子さんについて、知っていることを教えてほしいんです。」
翔太はその言葉を聞くと、一瞬だけ瞳に苦悩がよぎった。しかしそれもすぐに消え、彼は唇を引き締めた。「俺は関係ない。彼女とはもう関わりたくないんだ。」
凛子はさらに一歩前に出た。「でも、あなたは麗子さんに恋をしていた。そうでしょう?」
その言葉が、彼の防御を崩したのかもしれない。翔太は少しの間、言葉を失い、ただ地面を見つめていた。風が木々を揺らし、蝉の声が一瞬途切れる。静寂の中で、翔太はゆっくりと口を開いた。
「……ああ、そうだよ。俺は彼女に惹かれてた。でも、それが間違いだったんだ。彼女は……普通の人間じゃない。あんな美しい顔の裏に、何か恐ろしいものが潜んでいる。」
翔太の声は低く、震えていた。彼はまるで自分自身と戦っているかのように、拳を強く握りしめた。その姿は、ただの青年ではない、何か深い闇に触れてしまった者のようだった。
「最初は、ただ魅力的な女性だと思ってた。自信があって、他の誰よりも輝いて見えた。だけど……それが罠だったんだ。彼女が誰かなんて、本当は俺もわからない。ただ、ある日気づいたんだ。彼女の目が、俺を見ている目じゃないってことに。」
凛子は翔太の言葉をじっと聞いていた。彼の話は断片的でありながらも、その背後にある恐怖が伝わってくる。彼が語る麗子という女性は、もはや一人の人間ではなく、何か異質な存在に思えた。
「響野詩織……その名前を知っている?」
その名前に、翔太の表情がさらに険しくなった。彼は凛子の目をまっすぐに見つめ、喉を鳴らして飲み込むように言った。「知っている。けど、あいつが本当に詩織かどうかなんて、わからない。ただ、俺はもう近づけない。あいつに何かを見られるのが怖いんだ。」
翔太の目は怯えに満ちていた。それはただの恋愛のもつれではなく、もっと深い、底知れぬ恐怖が彼を支配しているようだった。凛子はそれを見て、一瞬言葉を失った。翔太が抱えるものは、彼女が思っていた以上に重く、そして危険なものだったのだろうか。
「彼女が何をしたの?」
凛子は問いかけた。その声はかすかに震えていたが、彼の答えを聞かずにはいられなかった。翔太は少しの間、凛子を見つめ、そしてふと目をそらした。
「……俺には言えない。話したところで、何かが変わるわけじゃないんだ。ただ……もう遅い。」
その瞬間、翔太の顔が歪み、彼は突然胸を押さえた。苦痛に満ちた表情が彼の顔を覆い、体が大きく震え出す。凛子は驚いて彼に駆け寄った。
「大丈夫!?どうしたの!」
だが翔太は苦しげに息を吐き、言葉にならない呻き声を漏らすだけだった。彼の体が崩れ落ちる寸前、凛子は携帯を取り出し、急いで救急車を呼んだ。心臓が激しく鼓動し、汗が背中を伝う。
数分後、救急車のサイレンが遠くから聞こえてきた。それが近づくまでの時間が、永遠のように感じられた。翔太は地面に倒れ、意識を失いかけていた。彼の顔色は蒼白で、額には冷たい汗がにじんでいる。凛子は彼の手を握りしめ、「しっかりして」と何度も呼びかけたが、翔太の返事はなかった。
救急隊員が駆けつけ、翔太をストレッチャーに乗せて運び出すまでの一部始終が、凛子の目の前でスローモーションのように展開された。彼女はただ、何もできずに立ち尽くしていた。翔太の証言から浮かび上がった「麗子」という人物の恐ろしさ。そして彼が抱えていた恐怖。その全てが、彼女の心に重くのしかかった。
響野詩織……その名前が、頭の中で何度も反響する。果たして麗子は本当に詩織なのか? そして、もしそれが事実だとしたら、一体何が起こっているのか?
凛子は、その場に立ち尽くし、心の中で自問自答を繰り返した。このまま、真実に辿り着けるのだろうか? それとも、自分も翔太のように、何か恐ろしいものに巻き込まれていくのだろうか。
夏の太陽は、何もなかったかのように依然として照りつけていた。
薄曇りの日だった。窓から差し込む光は柔らかく、しかしどこか冷たさを感じさせた。警察署の廊下は独特の静けさに包まれ、重たい空気が漂っている。凛子はその静けさの中、足音を殺して鳳刑事の執務室の前に立っていた。
手には、翔太から聞いた話をもとに集めた証拠の束が握られている。だが、その重さ以上に、彼女の胸の中にのしかかっているのは、鳳刑事に自分の話をどう伝えるべきかという迷いだった。証拠があったとしても、今の状況はあまりにも奇妙で、非現実的だと自分でも感じていた。果たして彼が真剣に取り合ってくれるだろうか?
「すみません、鳳刑事はいますか?」
受付の女性に声をかけると、彼女は無表情に頷き、奥の扉を指差した。凛子は軽く頭を下げてから、深呼吸を一つし、その扉を開けた。
執務室に入ると、机に座って書類を整理している鳳刑事が目に入った。彼は五十代後半の男性で、薄くなりかけた髪を短く刈り、眼鏡の奥から鋭い目つきでこちらを見た。頬は少しこけていて、その鋭さが一層強調されているようだった。制服ではなく、ダークグレーのスーツに身を包んだ彼は、冷静さと力強さを同時に漂わせていた。
「鳳刑事、少しお時間をいただけますか?」
凛子が言うと、彼は一瞬だけ視線を外し、時計をちらりと見た。迷いもなく「いいだろう、座ってくれ」と短く返事をし、机の向かい側を示した。凛子は言われた通り、椅子に腰を下ろした。
「で、どういう話だ?」
鳳は書類を片付けることなく、そのまま凛子を見据えた。その目には、何か冷たいものが宿っている。彼は長年の捜査経験からか、どんな相談にも冷静さを保つ男のようだった。
凛子は一瞬、言葉を失いかけたが、覚悟を決めて持ってきた資料を机に置いた。証拠の束を一枚ずつ並べ、翔太の証言や写真を説明しながら、彼女が知っている限りの事実を伝えた。
「……つまり、この麗子という女性が、二十年前の響野詩織という名前で活動していた可能性がある、ということです」
鳳刑事は眉を寄せ、無言のまま書類を手に取った。彼の眼鏡の奥の目は、情報を冷静に分析するかのように動いている。凛子はじっと彼の動きを見守り、心の中で何度も繰り返し「信じてくれ」と祈るような気持ちだった。警察に頼るしかないという焦りが、彼女の体中を突き動かしていた。
しばらくの沈黙の後、鳳が口を開いた。
「……ふむ。確かに、いくつかの点で不自然だな。だが、これだけではまだ決定的な証拠にはならない。君の言う『響野詩織』がどういった人物なのか、その詳細がわからない以上、現時点ではただの憶測に過ぎん」
彼の声には、まだどこか懐疑的な響きがあった。それも当然だ、と凛子は思った。こんな話、簡単に信じられるものではない。しかし、彼の言葉の中に確かな興味も感じ取れた。
「……確かに、私もまだ全てを知っているわけではありません。でも、彼女がただの人間ではないことは、佐伯翔太さんの証言から明らかです。彼は麗子に深く関わった結果、何かに怯えていました。彼の証言がもし本当だとすれば、麗子という人物は、普通の感情や常識では理解できない存在なのかもしれません」
凛子は自分の言葉がどこまで説得力を持っているのか、わからなくなってきた。彼女自身も、話しているうちに現実離れした内容に対する疑念を感じていた。しかし、翔太の証言の迫真さを目の当たりにした今、その違和感を無視することはできなかった。
鳳は腕を組んでしばらく考え込んだ後、ふと立ち上がり、背後の書棚に向かった。そこには古い事件ファイルがぎっしりと並べられている。彼は一冊のファイルを引き抜き、机に戻ってきた。
「響野詩織……確かに、二十年前にこの名前は聞いたことがある。事件性のある人物として捜査対象になっていたこともあるんだ」
そう言って、ファイルを開きながら、彼は続けた。
「詩織は『理想の家族』を作ることに執着していた。彼女は、自分が望む『完璧な家族』を得るために、被害者の人格を奪っていたらしい。当時の捜査記録によると、詩織に関わった人々は次々と彼女に感情的に支配され、最終的には彼女の操り人形のような状態になっていたという」
凛子はその言葉を聞いて背筋が凍りついた。麗子の異常な支配欲と、詩織の事件の共通点が鮮明に浮かび上がる。彼女の胸の中で、恐怖と焦燥が交錯し始めた。
「では、麗子が響野詩織そのものだという可能性が高い、ということですか?」
鳳はゆっくりと頷いた。
「可能性は十分にある。だが、詩織がその後どうなったのか、まだ確証は得られていない。当時の事件ファイルにも、詩織の行方については記載されていないんだ。もしかしたら彼女は姿を消し、別の名前で生き続けているのかもしれん」
彼は淡々と話しているが、その声にはどこか重いものが感じられた。彼もまた、この事件がただの犯罪とは異なるものであることを認識しているのだろう。
「もし、麗子が詩織だとしたら、何が起こるんでしょうか?」
凛子の問いに、鳳は一瞬言葉を詰まらせたように見えた。彼は短く息を吐き出し、少し言葉を選ぶようにしてから答えた。
「それは……わからない。だが、詩織が二十年前にやったことを考えると、今回も同じような結果になる可能性が高い。麗子に接触した者たちがどうなるかは、想像に難くない。翔太のように、精神的に壊されていくか、もっと酷いことになるかもしれん」
凛子は鳳の言葉を聞きながら、翔太の苦しんだ顔を思い浮かべた。彼が感じた恐怖が、今自分の中にも広がっていくようだった。しかし、それでも凛子は諦めることができなかった。
「……鳳刑事、どうすればいいんでしょうか? 私には何ができるのか、もうわからなくなってきました」
鳳は一瞬だけ彼女を見つめた。その視線には、若干の哀れみが感じられたが、彼はすぐに表情を引き締めた。
「まずは、麗子=響野詩織説の裏を取ることが先決だ。このままではただの憶測に過ぎない。詩織の過去を徹底的に洗い直し、麗子が何者なのかを突き止める。そして、彼女に接触した者たちの証言を集め、より具体的な証拠を得るしかないだろう」
彼の言葉には確かな決意があった。凛子もまた、それを聞いて少しだけ気が楽になった。彼が本気で動き始めるなら、道が見えるかもしれない。
「わかりました。どうか、私も協力させてください」
凛子が力強く言うと、鳳は静かに頷き、ファイルを閉じた。
「いいだろう。君の力が必要だ」
その瞬間、二人の間に小さな絆が生まれた気がした。
病院の廊下は、昼下がりの薄明るい光が窓から淡く射し込み、白いタイルの床をさらに無機質に見せていた。凛子はその冷たい空気を全身で感じながら、真琴の病室のドアの前に立っていた。手に汗がにじんでいるのがわかる。ドアノブに手をかけ、彼女は一瞬ためらった。真琴が目を覚ましたという連絡を受けたとき、安心したのと同時に、不安が押し寄せてきた。
真琴は何を覚えているのだろう? 何を伝えるべきか、そして、何が語られるのか。心の中で疑問が渦巻いている。扉の向こうには、あの静かな微笑みを浮かべる友人がいるはずだった。だが、その微笑みはもう失われてしまっているかもしれない。
凛子はそっと扉を開けた。病室の中は薄暗く、窓辺には小さなカーテンが静かに揺れている。真琴はベッドの上に横たわり、薄いシーツをかけられていた。彼女の顔はまだ少し青ざめており、呼吸は浅く静かだったが、目はしっかりと開かれていた。凛子が入ってくると、その目が彼女を捉えた。
「……凛子?」
真琴の声はかすかに震えていたが、確かに意識は戻っていた。凛子は安堵のため息を漏らし、ベッドの横に歩み寄った。
「真琴、良かった。目が覚めたんだね」
彼女の言葉は自然に出たものだったが、その奥には自分でも気づかないほどの感情が詰まっていた。喜び、安堵、そして恐怖。友人が無事であるという事実に感謝しつつも、同時に、これから話すべき内容が頭をよぎる。自分の家族に何が起ころうとしているのか、真琴の記憶の中にその答えがあるかもしれない。
真琴は少し顔をしかめ、まるで頭の中に霧がかかっているかのように目を細めた。
「……変な夢を見ていたような気がする。でも、それが夢なのか現実なのか、よくわからないんだ」
凛子はベッドの端に腰を下ろし、真琴の手にそっと触れた。その手はまだ冷たく、彼女の体が完全に回復していないことを感じさせた。
「どんな夢だったの?」
その質問に、真琴はしばらく沈黙した。目を閉じ、記憶を探るように顔をしかめる。その表情は痛々しく、凛子は口を閉ざしたまま彼女を見守った。やがて、真琴は静かに話し始めた。
「麗子……がいたの。彼女は、まるで家族のように優しく微笑んでいた。でも、その笑顔がどんどん歪んでいって……私は逃げようとしたけど、どうしても逃げられなくて」
その言葉を聞いた瞬間、凛子の心臓が強く鼓動を打った。麗子が真琴の夢の中に現れたということ。それは単なる悪夢ではない、もっと深い何かを示しているのではないか。彼女の家族に何かが迫っているという不安が、凛子の心に重くのしかかる。
「麗子は何を言っていたの?」
凛子はなるべく冷静を装いながら問いかけた。真琴は、少しずつ言葉を紡ぎ出すように、続けた。
「彼女は、『理想の家族』を作りたいって言ってた。私たち全員を、その家族の一部にするつもりなんだって……最初は、普通に聞こえたの。でも、彼女の言う『家族』って、普通の家族じゃない。人の心を奪って、自分のものにしてしまう、そんな感じがした」
その言葉を聞いた瞬間、凛子の背筋に寒気が走った。真琴の語る麗子の「理想の家族」計画は、すでに彼女自身や周囲の人々に深刻な影響を及ぼしていたのだ。麗子が自分たちに何をしようとしているのか、その全貌が少しずつ見え始めていた。
「真琴、あなたは何か覚えてるの? 具体的に、彼女が何を計画しているのか?」
凛子の声には焦りがにじみ出ていた。真琴は少しだけ目を閉じ、深呼吸をした。記憶の断片を手繰り寄せるように、ゆっくりと口を開いた。
「……凛子、気をつけて。彼女はあなたの家族を狙っている。あなたの家族を、自分の『理想の家族』にしようとしているんだ。麗子は……それが全ての鍵だと言っていた」
その瞬間、凛子の体は固まった。自分の家族が狙われている——その言葉は、頭の中で何度も繰り返され、現実感を伴って迫ってきた。何かが動き出している。麗子の手が、彼女の最も大切なものに伸びているのだ。
「どうしよう……」
凛子の声は、かすかに震えていた。自分一人ではどうしようもない現実が、目の前に迫っていた。真琴が覚えていることが全てでないとしても、その警告は十分すぎるほどの重さを持っていた。
その時、病室のドアが静かに開いた。凛子は反射的に顔を上げたが、すぐにその場の空気が凍りつくのを感じた。入ってきたのは、麗子だった。彼女はいつもの穏やかな笑顔を浮かべながら、静かに室内に足を踏み入れた。だが、その笑顔の奥には何か冷たいものが隠れているようだった。
「お久しぶりね、凛子さん。それに、真琴さんも。お元気そうで何よりだわ」
麗子の声は穏やかで、まるで久しぶりに友人に会ったかのように自然だった。しかし、その場にいる全員が、その裏に潜む異常な何かを感じ取っていた。凛子は咄嗟に身を硬直させ、真琴の方を見やった。だが、真琴は次の瞬間、驚くべき行動に出た。
「……誰?」
真琴は麗子を見つめ、まるで初対面の相手を見るかのように呟いた。その表情には、何の感情も浮かんでいない。凛子は驚きと困惑の入り混じった感情を押し殺しながら、真琴の意図を悟った。彼女は、記憶喪失を装っているのだ。
麗子の目が鋭く細まった。彼女はゆっくりと真琴のベッドに近づき、その目は鋭くも冷ややかだった。まるで真琴の内側を見透かそうとしているかのようだった。
「真琴さん、覚えていないのかしら? 私たちは以前、随分と長い時間を共に過ごしたのよ」
麗子の言葉には疑念が含まれていた。凛子は心の中で祈るように、真琴がこの場を乗り切れることを願った。しかし、麗子の冷たい視線は決して簡単には逃れられないものだった。
真琴は一瞬目を泳がせたが、そのまま首をかしげて続けた。
「ごめんなさい、本当に……覚えていないの」
凛子は内心震えながらも、その場の緊迫感を全身で感じ取っていた。麗子の視線はますます鋭くなり、その冷たい目が真琴の中に何かを見つけようとしていた。
凛子がその廃工場に足を踏み入れたのは、黄昏時、空にわずかに残る夕焼けが赤い尾を引いていた頃だった。周囲の空気はひどく重く、何かがすぐにでも崩れそうな予感が漂っていた。工場の古びた鉄扉は錆び付き、まるで過去に閉じ込められた時間そのもののように凛子を待っていた。静かに、凛子はドアを押した。かすかな音を立てて、扉はゆっくりと開いた。
中に入ると、薄暗い空間が広がっていた。天井からぶら下がる古いランプはすでに役目を終え、周囲の埃と鉄錆の臭いが鼻をついた。床はコンクリートがところどころ剥がれ、荒れた地面がむき出しになっている。窓からはかすかに月の光が差し込み、影を作り出していた。
「ここで待っている」
匿名の手紙にはそう書かれていた。誰からのものなのか、手紙に署名はなかった。ただ、その文面には切迫感と危機感が滲んでおり、凛子は無視できなかった。家族を守るためなら、どんな危険でも踏み込まざるを得ない——その決意が、彼女をこの場に導いたのだ。
静寂が辺りを包み込む。唯一聞こえるのは、彼女の靴底がコンクリートを踏む音だけだった。その足音すらも異様に大きく響く。凛子はふと立ち止まり、周囲に目を凝らした。そこで、工場の奥からかすかな気配が感じられた。何者かがいる——そう直感した瞬間、彼女の背筋に冷たいものが走った。
「あなたが凛子さんね」
低く抑えた声が、影の中から響いた。凛子は振り返る。そこに立っていたのは、一人の女性だった。年齢は凛子と同じくらいか、やや年上だろうか。黒いレザーのジャケットを羽織り、ボルドー色のスカーフを首に巻いている。肩にかかるショートボブの髪は冷たい風になびいていた。彼女の瞳は暗く、そこには何か深い闇を感じさせるものがあった。
「あなたは?」
凛子は警戒しながら問いかけた。女性は少し微笑み、冷たい笑みを浮かべた。
「風間玲香よ。響野詩織の元共犯者、そして今は彼女の計画を止めるために動いている者」
玲香の名前に凛子の脳裏に閃くものがあった。響野詩織の名前と共に思い出されたのは、かつての事件。彼女が主導したいくつかの奇妙な家族崇拝のプロジェクト。それが「理想の家族」計画という形で今も進行しているというのか。凛子は、緊張と不安が入り混じる胸の中で、どう反応するべきかを探った。
「響野詩織の……共犯者? 一体どういうこと?」
玲香は軽くため息をつき、静かに周囲を見渡した後、低い声で話し始めた。
「詩織は、かつて私と共に一つの理想を追い求めていた。それは、完全で無垢な家族を作り上げるという狂気じみた夢。でも、彼女の理想は次第に歪んでいった。完璧さを追求するあまり、現実との間に大きなギャップが生まれ、やがて彼女はその狂気に囚われてしまった。私たちが最初に描いていたものとは、全く別の恐ろしい計画に変貌していったの」
玲香の言葉は淡々としていたが、その裏には深い苦悩が隠されていた。彼女は何かを失い、そして何かを取り戻そうとしている。それが凛子には直感的にわかった。
「でも、どうして私をここに呼び出したの? 私に何ができるの?」
玲香は鋭い目を凛子に向け、冷静な口調で答えた。
「詩織を止められるのは、あなただけだからよ。彼女があなたの家族を狙っていることは知っているでしょう? 彼女にとって、あなたの家族は彼女の『理想の家族』計画の最後のピースなの」
その言葉に、凛子の体は再び硬直した。麗子が言っていたことが、今現実として目の前に突きつけられている。家族が狙われているという恐怖は、理論的な理解ではなく、深い直感として凛子の胸に突き刺さっていた。
「詩織を止める……でも、どうやって?」
玲香は静かにポケットから一つの封筒を取り出し、凛子に差し出した。封筒は古びていて、ところどころ黄ばんでいた。それを見た瞬間、凛子は何か重たいものを感じた。
「これが証拠よ。詩織の計画全てを明らかにするためのもの。あなたがこれを持って、警察に行けば、彼女の行動は止められるかもしれない。だが、それでも彼女の影響力は強い。簡単なことではないわ」
凛子は封筒を手に取った。中には数枚の書類と写真が入っているようだったが、その内容を確かめることなく、彼女は玲香の目を見つめた。玲香の瞳には、何か決意めいたものがあった。
「詩織はもう、私の手には負えない存在になった。私たちがかつて描いた理想は、もう彼女の中では意味をなしていない。ただの狂気の産物になってしまった。だから、止められるのは、外からの力しかない。私にはできない。けれど、あなたにはまだその力が残っている」
玲香の声は静かだったが、その一言一言は凛子の胸に深く響いた。彼女が今、何をしなければならないのかが、はっきりと分かり始めていた。だが、その時だった——。
突然、後ろから鋭い足音が響いた。凛子は反射的に振り返ったが、その瞬間、玲香が一瞬にして動いた。彼女は凛子をかばうように前に立ちふさがり、その直後に乾いた銃声が響いた。
「玲香!」
凛子は叫んだが、玲香は静かに倒れ込んだ。彼女の身体からは鮮血が流れ出し、床に広がっていく。玲香は苦しげに息を切らしながら、凛子に視線を送った。
「逃げて……詩織は、まだ……止まらない……」
玲香の声は次第に小さくなり、凛子の目の前でその意識は途絶えた。凛子はその場に崩れ落ちた。身体は震え、冷たい汗が背中を伝った。目の前の光景が信じられない現実として彼女の心を打った。
誰が襲撃者なのか、なぜ玲香が命を落とさなければならなかったのか——何もわからない。ただ、彼女が命をかけて託した証拠品だけが、今凛子の手に残っていた。
チャプター5 絆の行方
薄暗い照明が、凛子のリビングルームに静かに落ちていた。どこかしら湿っぽく、秋の気配が忍び寄る9月初旬の夜。窓からは微かに夜風が入り込み、冷たい気配を運んでくる。だが、室内は異様に温かく、まるで何かが今にも沸騰しそうな、重たい空気に満ちていた。
テーブルの上には、凛子が心を込めて作った最後の晩餐が並んでいる。焼きたての鶏肉、秋の野菜のグリル、淡いスープ、それに赤ワイン。食器は整然と並べられ、まるで舞台の小道具のようだ。だが、この静かな食卓は、これから訪れる嵐の前触れに過ぎなかった。
「本当に、美味しそうだね、凛子さん」と、麗子が微笑んで言った。彼女は卓越した美しさを持つ女性だ。黒いドレスに身を包み、短く切り揃えられた髪は、その艶やかな黒さが光を吸い込むようだ。化粧も完璧で、唇には深い紅が引かれている。その顔には何の感情も読み取れない。まるで仮面のように冷たい。
「ありがとう、麗子さん」と凛子は微笑み返したが、その目は冷静に麗子を見据えていた。凛子の髪は肩にかかる程度で、シンプルな白いブラウスにグレーのスカートという、控えめながらも品のある装い。彼女の表情は穏やかだが、その瞳には深い決意が宿っている。手元に置かれたワインボトルを、彼女はゆっくりと持ち上げた。
勇輝はその場の雰囲気をどこか居心地悪そうにしていた。ワインを飲むたびに視線をさまよわせ、テーブルの下で足を組み替えたりしていた。彼の服装はカジュアルなジャケットとジーンズだが、その表情には一種の焦燥感が漂っていた。何かが起こるという予感は、彼の胸の中でくすぶっていたが、それが何なのかはまだ掴めていない。
「さあ、飲んでください」と凛子が優しく促す。ワインボトルの赤い液体がグラスに注がれる音が、やけに大きく響いた。
しばしの沈黙の後、麗子がグラスを持ち上げる。「それでは、乾杯しましょう。家族のために。」
その言葉が、凛子の中に隠れていた何かを揺さぶった。「家族のために」とは、何とも皮肉な言葉だ。彼女の心の奥底にある怒りが、じわじわと表面に浮かび上がってくるのを感じる。冷静を装ったまま、凛子はゆっくりと口を開いた。
「麗子さん、本当に家族だと思っているの?」
麗子はその問いに一瞬だけ反応を見せたが、すぐに表情を取り繕う。「もちろん。私たちは、もう長い間、家族同然じゃない?」
「そうね……そうかもしれない。でも、私は全部知っているの。」
その一言が、部屋の空気を一変させた。麗子の目が一瞬鋭くなり、勇輝は動揺した様子で凛子に向き直った。「知っているって、何をだ?」彼は不安げに聞いた。
凛子は冷静にテーブルの下から一つのファイルを取り出し、それを静かに開いた。そこには写真、メールのプリントアウト、様々な書類が詰め込まれていた。証拠品だった。麗子の、そして勇輝の知らなかった裏の顔を暴くための、揺るぎない証拠だ。
「麗子さん、あなたの正体を知っているの。あなたが、私たちの家族に何をしてきたのかも。」
麗子は一瞬口元を歪めたが、すぐに冷たい微笑みを浮かべた。「何を言っているの、凛子さん?あなた、少し疲れているんじゃない?」
凛子は微笑みを返す。「そうかもしれないわ。でも、もう疲れたの。嘘に付き合うのはね。」
勇輝は混乱した表情で、麗子と凛子の間を見つめていた。「ちょっと待って、どういうことだ、凛子?何を知っているって?」
凛子は静かに息を吸い込み、ゆっくりと語り始めた。「麗子さんは、私たちを裏切っていたの。私の父の会社に潜り込んで、情報を漏らしていた。しかも、勇輝、あなたにも。」
「そんなこと、あるはずない!」勇輝は声を荒げたが、その表情はすでに動揺を隠せなかった。
「あるのよ。これがその証拠。」凛子はファイルをテーブルに広げ、写真や書類を勇輝に見せた。麗子が密かに会っていた男の写真、取引の記録、裏で交わされたメール。それは疑いようのない事実だった。
「麗子、これは何だ?」勇輝は震える手で写真を見つめた。
麗子は冷ややかな笑みを浮かべた。「そう、全部本当よ。私はあなたたちを利用していただけ。でも、それが何だっていうの?これが本当の家族よ。みんなそれぞれの利益のために生きている。それを正直に言っただけじゃない。」
凛子は立ち上がり、麗子を真っ直ぐに見つめた。「あなたの言う家族なんて、偽物よ。私は、そんなものに従うつもりはない。」
その瞬間、麗子の表情が一変した。彼女は突然、椅子から立ち上がり、凛子に向かって突進した。その動きは予想外で、あまりにも素早かった。凛子は身を引こうとしたが、麗子の手が彼女の腕を掴んだ。
「凛子!」勇輝が叫び、二人の間に割って入ろうとした。しかし、麗子は彼を簡単に押しのけ、その勢いで勇輝は床に転がった。次の瞬間、麗子は凛子に襲いかかった。
二人は激しくもつれ合い、テーブルがひっくり返り、食器が床に散らばった。凛子は全力で麗子を振り払おうとしたが、麗子の力は想像以上だった。まるで、彼女が長年抑えていた怒りと狂気が一気に解き放たれたように。
「あなたには、分からないわ!」麗子は叫びながら、凛子を押し倒そうとした。
「いいえ、分かるわ。でも、私はあなたのようにはなりたくない!」凛子は必死で麗子を押し返し、なんとか立ち上がろうとした。
だが、麗子はさらに力を込め、二人は再び床に転がった。
凛子が麗子を振り払った瞬間、彼女の身体は軽く浮き上がるように反動で後ろに飛んだ。手には確かに、証拠品の詰まったバッグが握られている。心臓が激しく鼓動し、喉が乾き切っているのを感じた。まるで肺の奥に乾いた風が吹き荒れているかのようだった。しかし、その瞬間にも、冷静な意識の一部が、「まだ終わっていない」と告げていた。
麗子は床に倒れ込んでいたが、すぐに起き上がり、狂気に満ちた瞳で凛子を見据えていた。血のように真っ赤な唇がゆっくりと歪んで、邪悪な笑みを浮かべた。その表情には、すべてを諦めたかのような、しかし同時にすべてを支配しているという確信めいた狂気があった。
「証拠なんて、もう関係ないのよ」麗子は低い声で囁くように言った。
凛子はその言葉を理解するのに一瞬の時間を要した。だが、理解した時には、麗子が台所のガスコンロの元栓に手をかけていた。凛子は恐怖に駆られたが、その恐怖はすぐに現実的な行動へと変わった。
「やめて!」凛子は声を張り上げたが、麗子は聞く耳を持たない。彼女は手にしたライターを軽く振り上げ、その金属的な音が静かな部屋に響いた。火花が散り、わずかな青い炎がチラリとその先端に浮かび上がった。凛子は胸の中で何かが壊れる音を感じた。
「これで完璧な家族が完成するのよ」麗子は低く、静かに言った。その言葉は、まるで彼女自身に言い聞かせているかのようだった。凛子は瞬時に全身が硬直し、次に何が起こるのかが頭を過ぎる。しかし、その瞬間にはすでに遅かった。
火が、空気を貫いた。
爆発はまるで鈍い雷のように鳴り響き、家全体が震えた。凛子は反射的に身を伏せたが、その間に熱風が一気に襲いかかってきた。ガラスが砕け、壁がきしむ音が響く。次の瞬間、辺りは炎に包まれていた。天井は崩れ、床には火の粉が散り、煙が容赦なく喉を焼いた。凛子は目を開けることができず、咳き込みながら、立ち上がろうと必死だった。
視界は一瞬ぼやけていたが、彼女は勇輝の姿を探していた。「勇輝!」彼女の声は、まるで自分の耳の中で反響するかのように感じられた。彼の名を叫び続けながら、凛子は火の中をかき分けて進んだ。目の前に広がるのは燃え上がる部屋で、家具や装飾品が次々と崩れ落ちていた。
「凛子…」低い声が聞こえた。それは勇輝の声だった。彼は床に倒れていた。顔に焼け焦げた煤が付き、額からは血が流れていた。だが、かすかな意識を保ちながら、彼は凛子を見つめていた。
「大丈夫、今すぐ助けるから」凛子は恐怖と混乱の中で叫び、勇輝に向かって必死に手を伸ばした。だが、その途中で倒れた柱が二人の間を阻んだ。鉄と木が焦げた異様な匂いが鼻をつき、炎の熱が凛子の肌を焼くようだった。
「動かないで、すぐに…」凛子は再び柱を越えようとしたが、その瞬間、背後から巨大な炎の波が押し寄せた。彼女は瞬時に身を反らせ、柱の影に身を潜めた。熱は彼女の背中を襲い、まるで肌が剥がれそうな痛みが全身に広がる。
「勇輝!」凛子は必死に叫んだ。だが、返ってくる声はなかった。彼の姿はまだそこにあったが、炎の勢いが次第に増し、彼との距離は一層広がっていた。
彼女の目には勇輝が弱々しく手を伸ばしている姿が映っていた。絶望が彼女の胸に押し寄せ、呼吸ができないほどの圧力を感じた。
「やめて…お願い、やめて…」涙が頬を伝い、視界をさらにぼやけさせた。だが、その瞬間、背後から聞こえる笑い声が、彼女の耳に突き刺さった。
「これで、すべてが終わるのよ」麗子の声が遠くから聞こえてきた。彼女はまるで自分が勝者であるかのように笑い続けていた。その笑い声が、凛子の神経をじわじわと焼き尽くしていく。
「終わり…?こんな終わり方があるはずない!」凛子は自分自身に言い聞かせるように呟いた。そして、勇輝を助け出すという決意を固めた瞬間、彼女の体は再び動き出した。
火の中をかき分け、柱の隙間から手を差し出す。だが、そこにはすでに勇輝の姿はなかった。焦げ臭い煙が視界を完全に覆い尽くしていた。
「だめだ、まだ終わっていない…」凛子は必死で足を進め、もう一度柱を越えようとしたが、炎の熱が再び彼女の行動を阻んだ。
火の勢いが家全体を包み込む中、凛子と勇輝は力を振り絞って玄関口までたどり着いた。肌に直接触れる熱は、まるで生きた炎が彼らを食い尽くそうとしているかのように感じられた。空気は厚く、燃え上がる木材の匂いと煙が喉を焼くように突き刺さった。凛子は必死に勇輝の腕を引き、家の外へ向けて進んだ。勇輝の体は重く、火の中で弱り切っていたが、彼は何とか足を動かしていた。
外の空気は、まだ息苦しさを伴っていたが、家の中の灼熱地獄に比べれば天国のようだった。凛子は二人で転がるようにして外に飛び出すと、そこにはすでに黒く燃えさかる家の炎が背後から迫っていた。彼女は咳き込みながら必死で呼吸を整え、勇輝の安否を確かめる。彼の顔にはまだ痛みと疲労が見えていたが、生きている。その事実だけで、凛子の心に少しの安堵が広がった。
しかし、凛子が頭を上げた瞬間、聞き慣れた声が耳に届いた。
「凛子!」鋭くも力強い声。それは鳳刑事だった。
鳳は数人の部下を連れて到着していた。彼の身長は高く、鍛えられた体つきが特徴だ。黒いスーツが彼の冷静さと緊張感を際立たせていた。火災の中でも、彼は一瞬たりとも気を抜かずに凛子と勇輝の姿を確認し、すぐに彼らに駆け寄った。彼の鋭い目つきは、ただならぬ状況を全て把握していた。
「大丈夫か?」鳳は凛子に駆け寄り、彼女の肩を支えた。
凛子はただ頷くだけで精一杯だった。言葉を紡ぎ出す余裕もないほど、彼女の体力は限界に達していた。しかしその時、再び背後から響く声があった。それは冷たい風の中で、奇妙なほど浮き立っていた。
「私が、本当の麗子よ…!」低く、それでいて凛子の心にまで突き刺さるような叫びだった。
凛子が振り返ると、炎上する家の中から、煙に包まれながら麗子が這い出してくるのが見えた。彼女の顔はすすで覆われ、その目だけが狂気の光を放っていた。麗子の髪は乱れ、焦げた服が彼女の肌にまとわりついていたが、彼女はまるで痛みなど感じていないかのようにゆっくりと、しかし確実に進んできた。
「麗子、いい加減にしろ!」鳳が叫び、彼女を取り押さえようと前に出た。だが、麗子はその声にも動じることなく、ただ笑みを浮かべて彼を見据えた。その表情には、まるで全てを知っているかのような不気味な冷静さがあった。
「どうしてわからないの?私が本当の麗子なのよ!」麗子は再び叫んだ。その声には、かすかな震えが混じっていたが、それがかえって彼女の狂気を際立たせていた。周囲の警察官たちが動揺し、誰もが彼女を見つめていた。鳳は彼女の近くまで歩み寄り、その手を掴もうとしたが、麗子は素早く後退し、炎と煙の中へと消えようとした。
「待て!」鳳は叫んだが、麗子は彼の手をすり抜けるようにして逃走を図った。
凛子はその瞬間、全身が反射的に動いた。彼女は麗子を追いかけようと駆け出した。頭の中には、ただ一つの思いが渦巻いていた。「ここで麗子を逃がすわけにはいかない。」証拠も、事実も、すべてが麗子にかかっている。凛子は全身の力を振り絞り、足を速めた。
しかし、煙が視界を奪った。濃厚な煙が彼女の前に立ちはだかり、息をするたびに肺が締め付けられるようだった。目は涙で溢れ、前が見えない。煙の中に消えた麗子の姿を必死で追おうとするが、彼女の輪郭すら掴めなかった。
「くそ…!」凛子は声にならない叫びを上げ、足元を確かめながら前進を続けた。しかし、やがて炎が一層強まり、凛子の行く手を阻んだ。熱が肌を焼き、彼女はそれ以上進むことができなかった。
「凛子!」遠くから鳳の声が聞こえた。だが、彼の声もまた、煙と火の中でかすかにしか聞こえない。
凛子はその場で足を止め、立ち尽くした。心の中で何かが崩れる音を感じながらも、彼女は動くことができなかった。目の前の煙と火が、まるで彼女のすべての希望を飲み込んでいくかのようだった。
しかし、鳳刑事が再び凛子に近づき、彼女の肩を強く抱き寄せた。その力強さに、凛子はかすかな安心感を覚えた。彼は一言も発しなかったが、その眼差しには、必ず麗子を見つけ出すという強い決意が滲んでいた。
消防車のサイレンが近づいてくる音が遠くで聞こえた。家はすでに完全に炎に包まれており、救助活動が始まるには遅すぎるように思えた。だが、凛子の心の中には、まだ何かが未解決のまま残されているという感覚が消えなかった。
彼女は鳳の腕の中で、炎に燃え尽きようとしている家をじっと見つめていた。その瞳には、ただ一つの思いだけが浮かんでいた。
「これで、本当に終わるのか?」
薄いカーテンの向こうから、柔らかな秋の光が病室に差し込んでいた。外では風が木々の葉を静かに揺らし、少しずつ夏の終わりを告げていた。その光景は、どこか儚くもあり、しかし新しい始まりを予感させるものでもあった。病院の一室で、凛子は窓辺のベッドに腰掛けていた。肩にかけた薄手のブランケットの上で、彼女の手がゆっくりと指を組み合わせたり、解いたりしていた。白くて無機質な病院の空間は、彼女の中に残る疲労感と不安を映し出しているようだった。
「少しは楽になったか?」真琴の声が、病室のドアの隙間から聞こえてきた。
振り返ると、そこには真琴が立っていた。彼女は以前より少し痩せていたが、顔色は戻っており、手には花束が握られている。真琴の髪は肩にかかる程度の長さで、顔の輪郭をふんわりと包み込むように整えられていた。彼女のファッションはシンプルでありながらどこか凛とした印象を与える。落ち着いたベージュのカーディガンに、上品なプリーツスカートが秋の風と調和していた。
凛子は微笑み、軽く頷いた。「うん、ありがとう。体はもうだいぶ良くなったけど、心の方は、まだ整理がついてない感じかな」
真琴はベッドの脇にある椅子に座り、花束をそっとテーブルに置いた。その動きは、何かを壊さないようにするかのように慎重だった。彼女の眼差しには、いつものような強さと共に、深い共感が混じっていた。
「まあ、そうだよね。あんなことがあったんだから、一度に全部整理できるわけがない。でも、あの夜、よく無事でいてくれた…本当に」
真琴の声には、感情が詰まっていた。彼女の目が一瞬揺らぎ、しかしすぐに元のしっかりとした表情に戻った。凛子はその目を見つめたまま、過ぎ去った数週間の出来事が脳裏に蘇ってくるのを感じた。勇輝との激しい言い争い、麗子(詩織)との衝突、そして炎に包まれた自宅――全てが一瞬のうちに通り過ぎたようであり、同時に永遠に続く悪夢のようでもあった。
「勇輝はどうしてる?」真琴が尋ねた。
凛子は短く息を吐き出し、窓の外に目をやった。遠くで街のざわめきがかすかに聞こえる。彼女はその音を聞きながら、自分の中にある感情を探った。
「勇輝とは…まだ話せてない。あの日以来、彼とは距離を置いてる。お互いに、何かを乗り越えなきゃならないってことはわかってる。でも、それが何かはまだ見つけられてないんだと思う」
真琴は黙って凛子の言葉を受け止めた。その瞳には、友人としての温かさがあり、何も強要しない静かな理解があった。病室には一瞬の静寂が流れたが、それは決して重苦しいものではなかった。
「麗子…詩織の行方は?」真琴が再び口を開いた。彼女の声はかすかに震えていた。
「まだ、わからないままだよ」凛子は淡々と答えた。しかし、その裏側には、深い不安と疑念が渦巻いていた。麗子がどこかでまた姿を現すのではないか、また新たな混乱を引き起こすのではないかという恐れ。それは、決して言葉にはできないが、常に心の片隅に宿っていた。
「でも、もう逃げない」凛子は意を決したように言った。「全てを乗り越えてみせる。たとえどれだけ時間がかかっても、私は前に進む」
その言葉に、真琴は静かに頷いた。彼女は立ち上がり、そっと凛子の手を握った。その握手は温かく、励ましと共に、彼女たちが一緒に過ごしてきた時間を思い起こさせた。
「大丈夫、凛子。私たちがついてるから」と真琴は優しく言った。
数日後、退院した凛子は、焼け残った書店に戻ってきた。店の入り口に立った瞬間、かすかな焦げ臭さが鼻を刺した。店内の天井は一部が崩れ落ち、壁も黒く煤けている。だが、不思議と静けさと安堵がそこには漂っていた。まるで、これまでの出来事がこの場所で終わりを告げ、ここから新しい物語が始まるかのようだった。
「さて…始めるか」凛子はつぶやき、埃の積もった棚を一瞥した。
その瞬間、背後から足音が聞こえた。振り返ると、そこには佐伯翔太が立っていた。彼の姿は、凛子の中に微かな驚きを呼び起こした。彼はカジュアルなジーンズにシンプルな白いシャツを着ており、その背は直立しているが、どこか余裕のある雰囲気を漂わせていた。彼の髪は短く整えられ、その顔立ちは少し日に焼けて健康的な色をしていた。
「手伝いに来たんだ」翔太は、にこやかに言った。
凛子は一瞬、彼の顔をじっと見つめた。だが、その視線の奥に、一瞬だけ響野詩織の面影がちらついた。彼女の心はかすかに揺らぎ、なぜか不安が押し寄せてきた。
「ありがとう…でも、一人でやるつもりだったのよ」と凛子は応じたが、その言葉には完全な自信があったわけではなかった。
翔太は肩をすくめ、笑顔を浮かべながら答えた。「そう言うなよ。二人でやれば、早く終わるさ。それに、これからが君の新しい始まりなんだろ?」
彼の言葉は、思いのほか凛子の胸に響いた。新しい始まり――それは、この焼け落ちた書店の中で確かに感じられるものだった。彼女は翔太に感謝の笑みを返し、共に作業を始めた。
片付けを進めていた凛子は、ふと奥の棚の片隅で埃まみれになった一冊の本を見つけた。タイトルには「失踪者」と記されていた。その文字は妙に目に留まり、彼女の心にかすかな不安を呼び覚ました。手に取った瞬間、本から立ち上がる微かな埃の匂いと共に、過去の記憶が鮮明によみがえった。凛子はしばらくその本を見つめた後、ゆっくりと閉じた。
片付けが一段落した後、凛子は街角でふと麗子によく似た女性を見かけた。その髪の揺れ、肩越しに見えた横顔は、確かに麗子のものだった。凛子は胸が締め付けられるような感覚にとらわれ、思わずその女性を追いかけようとした。だが、彼女の足はすぐに止まった。
「待って…」凛子は小さくつぶやいた。
彼女の瞳はその女性の背中を見つめていたが、次の瞬間、その姿は群衆の中に溶け込んで消えていった。
<完>
作成日:2024/10/11
編集者コメント
シーン間の感情の連携がうまくいってないですね。凛子が麗子のことをどう感じているのか、がシーンによってだいぶブレます。これでは小説にならない。