築く手の温もり 後編:故郷という名の再生
チャプター3 栄光と転落
その日、僕は朝からソワソワしていた。小さなアパートの中を何度も行ったり来たりして、机の上に置かれたスマートフォンをちらちらと確認する。心臓が静かに鼓動を打ち、体の芯からじわりと熱が上がってくるような感覚があった。合格発表の日だ。あの一級建築士試験の結果が、今日ついにわかる。7年間の努力が、この数秒に凝縮されるのだと思うと、胸の内側が緊張で収縮するのを感じる。
1月の冷たい空気が窓ガラスを通してじんわりと伝わってくる。外は晴れているが、冬の光はどこか冷たく、街路樹の影が長くアスファルトの上に伸びている。そんな外の光景をぼんやりと眺めながら、僕は頭の中でこれまでの道のりを反芻していた。織田口さんとの出会い、現場での汗と苦労、美月との時間。それらすべてがこの瞬間に向けて積み上げられてきた。そして、結果がどうであれ、もう後戻りはできない。
僕は再びスマートフォンを手に取り、画面をタップした。指先が少しだけ震えているのがわかる。合格発表のウェブサイトを開く。目の前に表示された数字の列を、何度も慎重に確認する。自分の受験番号を一つ一つ確かめながら、心の中で「落ち着け」と自分に言い聞かせる。
「…あった。」
一瞬、目の前がぼやけた。自分の番号が確かにそこにある。合格している。指先に力が入らず、スマートフォンを落としかけた。胸の中が急に解放されたように、言葉にならない感情が押し寄せてくる。合格したんだ。あの厳しい試験を、僕は乗り越えた。
次の瞬間、僕は反射的に美月に電話をかけていた。彼女に伝えたかった。僕のことをずっと支えてくれた彼女に、真っ先にこの喜びを伝えたいという気持ちが、僕を突き動かした。
「もしもし、美月?今、結果が出たんだ。…合格したよ。」
電話の向こうで、一瞬の静寂が続く。その後、彼女の声が少し震えながら聞こえた。
「本当に?おめでとう、篤さん!すごいよ、よく頑張ったね。」
美月の声を聞いた瞬間、僕はまた胸の中に熱いものが込み上げてきた。彼女の言葉はまるで、今まで積み重ねてきた全ての苦労が報われたかのように響いていた。
「ありがとう、美月。本当に…ありがとう。」
僕の声も自然と震えていた。彼女と電話を切った後も、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。言葉にならない感情が、胸の中を渦巻いている。僕はただじっと、その余韻に浸っていた。
夜になり、僕のアパートで美月との小さなパーティーを開くことにした。大げさなものではない。僕のアパートはそれほど広くないし、特別な料理を用意する余裕もなかった。ただ、ささやかな食事とワインを用意して、二人でこの特別な夜を祝うことができればそれで十分だった。
夕方、美月がアパートにやってきた。彼女はいつもと違って少しドレスアップしているように見えた。柔らかい素材のワンピースにカーディガンを羽織り、髪も軽く巻いている。彼女は僕を見るなり、にっこりと笑って「おめでとう」と言った。その笑顔には、何か特別な輝きがあった。
「ありがとう、美月。今日は本当に君のおかげだよ。」
僕はワインを開けてグラスに注ぎ、彼女に手渡した。ワインの深い赤色が、薄暗い部屋の中で光を受けて鈍く輝いている。僕たちはグラスを軽く合わせた。
「乾杯。篤さん、本当におめでとう。あなたが合格することを信じてたけど、やっぱり結果が出るまではドキドキしたよ。」
「僕もそうだったよ。でも、本当に受かったんだなって、まだ信じられない気分だ。これで一つ、夢に近づけた気がする。」
僕はグラスを口に運び、ワインの深い香りを鼻腔に感じた。美月も同じようにワインを一口飲み、少しだけ頬を赤らめた。その顔を見ていると、僕は心の中が温かく満たされていくのを感じた。美月とこうして喜びを分かち合えることが、何よりの幸福だ。
「これからどうするの?」美月が尋ねた。「篤さんの夢、少しずつ形になっていくんだね。」
「そうだな…これからは、もっと大きなプロジェクトに関わっていきたいと思ってる。今まで学んできたことを、実際の建物に反映させたいんだ。自分の手で何かを形作っていくのは、建築士としての究極の喜びだから。」
美月は頷き、僕の言葉をじっと聞いていた。彼女の眼差しは穏やかで、どこか安心感を与えるものがある。彼女が僕のそばにいてくれること、それだけで僕はこの先も進んでいける気がした。
「私も、篤さんがそうやって大きな夢を叶えていくのを、ずっと見ていたいな」と美月がぽつりと言った。その言葉には、何か深い意味が込められているように感じられた。
「もちろん、君にはこれからもずっとそばにいてほしいよ」と僕は応じた。
僕たちはしばらくの間、無言で食事を楽しんだ。言葉がなくても、お互いの気持ちが通じ合っているような気がした。美月が僕の夢を応援してくれていること、そのことが僕にとって何よりも力強い支えだった。
その夜、二人で将来の話をした。僕がどんなプロジェクトに挑戦したいか、どんな建物を建てたいか。そして、美月もまた、自分の夢について語ってくれた。彼女はいつか自分の店を持ちたいと言っていた。それは、小さなカフェや雑貨店のような、心地よい空間を提供できる場所だと。
「篤さんが設計してくれた店だったら、絶対に素敵になると思うの」と彼女が言った時、僕は自然と微笑んでいた。「それは面白い提案だね。いつか君の店を設計する日が来るかもしれないな。」
未来の話は、どれだけしても飽きない。僕たちは時間を忘れて、次々と夢や希望を語り合った。その夢がいつか現実になるかどうかはわからない。だが、今この瞬間、僕たちは確かに一緒に未来を見据えている。そのことが、何よりも嬉しかった。
夜が更けていくと、窓の外には静かに雪が降り始めていた。白い結晶が、街灯に照らされてきらきらと輝いている。僕たちはしばらくその光景を眺め、部屋の中での静かな時間を楽しんだ。
「今日は本当にありがとう、美月。君がいてくれて、本当に良かったよ。」
「私こそ、ありがとう。篤さんが合格してくれて、私もすごく嬉しいよ。」
彼女の瞳が、深い夜の静寂の中でやさしく輝いていた。その輝きは、僕の胸の奥に暖かさを残していった。
大手ゼネコンの面接室に入った瞬間、僕はあたりの空気が一段と冷ややかになったように感じた。壁に並んだガラスの窓から差し込む冬の光は、どこか薄暗く、冷たい。2月の末、空は澄んでいるが、季節外れの寒波が街全体を包み込んでいた。そんな冷たさが、この面接室にも染み込んでいるように思えた。
革張りの椅子に腰を下ろし、向かい合う面接官たちの顔を順に見渡す。皆一様に真剣な表情をしており、僕に向けられる視線には重みがある。年配の男性が一人、若い女性が一人、それに僕より少し年上の中堅層と思しき男性が二人。どの顔も、これまで幾多の面接をくぐり抜けてきたような冷静さを漂わせていた。面接官たちの鋭い視線が、僕の中を探るように交錯していたが、不思議と怖さは感じなかった。
「さて、陸奥野さん、今回の応募に至った経緯を簡潔にお話しいただけますか?」
年配の男性が最初に口を開いた。彼は一見して厳格そうな雰囲気を持ち、少し銀髪の混じった短髪がその重厚さを増していた。彼の声は低く、落ち着いていたが、その一言一言には威厳があった。
僕は背筋を伸ばし、なるべく自信を持って応じた。
「はい、私はこれまでの7年間も、建設会社で経験を積んできましたが、一級建築士の資格を取得し、より大きなプロジェクトに関わりたいという強い意志が芽生えました。小規模な会社では成し遂げられない規模の建築に挑戦することで、これまでの経験を活かしつつ、自分の技術をさらに高めたいと考え、御社を志望いたしました。」
自分の言葉は、面接官たちにどう響いているのだろうか。彼らの無表情な顔は、何一つ感情を示さない。だが、僕はあくまで冷静に言葉を紡いでいくしかなかった。言葉が次々と口から出ていくと同時に、どこか自分が他人事のように感じられてきた。この面接が、僕の未来を左右する大きな一歩だとわかっているはずなのに、不思議と緊張感が薄れていく。
「具体的にはどのようなプロジェクトに携わりたいと考えていますか?」次に、若い女性が口を開いた。彼女は淡いグレーのスーツに身を包み、知的で凛とした印象を持っていた。髪は肩までの長さで、前髪はきっちりと分けられている。彼女の声は少し冷たく響くが、その裏にある何か暖かい情熱を感じさせる。
「大規模な都市開発プロジェクトや、ランドマークとなるような公共施設の建設に携わりたいと考えています。特に、地域の特色を反映したデザインを取り入れながら、持続可能な建築を目指すことに興味があります。これまでの経験で学んだことを、より大きなスケールで試したいと強く思っています。」
僕は、自分の声に力を込めた。言葉に熱意を込めれば込めるほど、その言葉が自分の心の中でも確かに響いてくるのを感じた。美月との会話が頭の中に蘇る。彼女はいつも、僕に「自分を信じて」と言ってくれていた。それが今、僕の背中を押してくれているようだった。
「なるほど、ではその経験を活かして、当社ではどのような貢献ができるとお考えですか?」
今度は中堅の男性が問いかけた。彼は少し前のめりになり、僕の目をじっと見つめていた。厳しい視線だが、その背後に興味を持っている様子が垣間見えた。
「私がこれまで携わってきたプロジェクトは、比較的小規模なものが多かったですが、それゆえに設計から施工、管理まで一貫して関わる機会が多くありました。そういった総合的な視点を持っていることが、御社のような大規模プロジェクトでも役立つと考えています。現場での問題解決能力やコミュニケーション力も強みです。これからは、より大きなチームでの協力を通じて、さらにスケールの大きな挑戦に取り組みたいと考えています。」
自分の言葉が、相手にどう受け取られているのか確信は持てない。だが、その瞬間、面接室の空気が少しだけ柔らかくなったように感じた。面接官たちが軽く頷き、メモを取り始めるのが見えた。僕は心の中で小さく安堵の息を吐いた。
面接が終わり、部屋を出ると、冷たい風が僕の頬を撫でた。外に出ると、冬の寒さが体に染み渡る。だが、その冷たささえも、心地よい清涼感に思えた。面接はうまくいった。自信があった。自分の言葉が、面接官たちに届いたと信じていた。
数日後、会社からの正式な通知が届いた。合格だ。僕はすぐに美月に電話をかけた。
「美月、僕、合格したよ。大手ゼネコンに転職が決まった。」
電話の向こうで、彼女の声が小さく震えたのを感じた。
「本当に?すごい…篤さん、本当におめでとう。ずっと応援してたけど、やっぱり信じられないくらい嬉しいよ。」
僕は彼女の喜びを感じながら、自分の胸の内側に静かに湧き上がってくる満足感を噛みしめた。僕たちは互いに少し言葉を交わし、週末に会って祝うことを約束した。
その夜、僕たちは小さなレストランで食事をした。僕が合格したことを祝うために、少しだけ贅沢な場所を選んだ。美月は淡いピンクのワンピースにカーディガンを羽織っていて、いつもより少しだけ大人びた印象を受けた。彼女がこうして僕のために身支度を整えてくれることが、心の底から嬉しかった。
「篤さん、本当にすごいよ。これからは大きなプロジェクトに関われるし、夢がどんどん叶っていくんだね。」
美月はワインを片手に、優しく微笑みながら僕に語りかけた。彼女の言葉は、まるで未来への扉を開ける鍵のように響いた。
「そうだね。でも、君がいてくれたから、ここまで来れたんだ。これからもずっと支えてほしい。」
僕の言葉に、美月は頷いてくれた。だが、その目の奥に、一瞬だけ何か不安の影が揺らいだように見えた。それはほんのわずかな瞬間だったが、僕の心にはっきりと刻まれた。
「どうしたんだ、美月?」
僕は思わず彼女に問いかけた。彼女は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑みを浮かべた。
「ううん、なんでもないよ。ただ…少しだけ、これからのことを考えてたの。篤さんが忙しくなって、私たちの時間が減るのかなって。」
彼女の言葉には、確かに不安が含まれていた。僕はそれに気づき、胸の奥が少しだけ痛んだ。
四月の初め、冷たさを残した春風が建設現場を吹き抜ける。現場の広がりは壮観だった。鉄骨の骨組みが天を目指し、クレーンが重厚な音を立てて動いている。埃が舞い上がり、足元をかすめていく。僕の胸は期待と不安で膨らんでいた。新しいプロジェクトの始動は、何もかもが新鮮で、肌に触れる空気さえも違って感じられた。
大規模再開発プロジェクト。僕は副主任に抜擢された。言葉の響きだけでも十分な重圧を感じさせる役職だが、その裏にはどうしようもない喜びが隠れていた。ここまで来たのだ。長い時間をかけて積み上げてきた努力が、やっと形になろうとしている。
朝、現場に到着するたびに目に入るあの光景には、ある種の威圧感がある。今はまだ骨組みだけの建物だが、いずれは巨大なショッピングモールやオフィスビルが立ち並ぶ予定だ。そのスケールの大きさを思うと、僕の中で何かが静かに震えるのがわかる。建築とは、目に見える形で未来を創り上げる行為だ。それはとても大きな責任を伴うものであり、僕はそれを背負う覚悟があった。
「陸奥野、副主任としての初仕事だな。」
突然、背後から聞き慣れた低い声が響く。鷲尾部長だ。五十代半ばの鷲尾は、短く刈り込まれた髪に灰色のスーツを着ている。顔は日焼けしており、鋭い目つきが彼のキャリアの長さと経験の深さを物語っている。彼は一見冷徹に見えるが、内心では熱いものを持っていることは知っている。しかし、その熱さが時に過剰で、周囲を追い詰めることもある。
「はい、よろしくお願いします。」
僕は姿勢を正し、鷲尾に向き直った。鷲尾は少しだけ目を細め、何かを考えるように僕を見つめていた。彼の視線はまるで、僕の内側を覗き込もうとしているようだった。
「陸奥野、このプロジェクトは重要だ。わかっているな?」
鷲尾の声には、いつも以上の厳しさが込められていた。僕は頷く。もちろん、この再開発プロジェクトがどれほどの意義を持つものか、理解していた。都市の再生、経済の活性化、そして人々の生活を変える力を持つ建築。それを僕たちが手掛けているという責任感は、常に頭の片隅にあった。
「はい、しっかりと遂行していきます。」
「それでだ、陸奥野。」鷲尾は少し間を置いてから、少しだけトーンを下げて言葉を続けた。「工期を短縮する必要がある。上層部からの指示だ。」
一瞬、耳を疑った。工期短縮。言葉の意味は理解できたが、その現実感がすぐにはついてこなかった。この規模のプロジェクトで、工期を短縮することの難しさは、建築に関わる者なら誰でもわかる。僕は静かに息を吸い込んで、鷲尾を見た。
「短縮というのは…どのくらいですか?」
「三ヶ月だ。」
「三ヶ月…ですか?」僕は言葉を詰まらせた。
プロジェクト全体の規模を考えると、三ヶ月の短縮は想像以上に無茶だ。現場の作業効率や安全面、さらには設計の調整にかかる時間を含めると、それは現実的ではないように思えた。だが、鷲尾の表情は微塵も揺るがない。彼の目には、確信が宿っていた。
「上層部からの圧力が強いんだ。新しい都市開発計画に関連して、次の段階に早く進みたいらしい。それに、大手投資家との契約も絡んでいる。つまり、もう後には引けない。」
鷲尾の声は重く、現実の厳しさを突きつけていた。その時、僕の胸の中で一瞬だけ何かがはじけた。焦りや戸惑い、そして少しの恐怖。それらの感情が一気に押し寄せてきた。だが、その感情を表に出すことはできない。僕は副主任としての責務を全うしなければならないのだ。
「わかりました、課長。できる限りのことをします。」
「そうか。それでいい。」
鷲尾は満足そうに頷き、僕の肩を軽く叩いた。その手の重さは、まるでこのプロジェクトの重圧を象徴しているかのようだった。
その日の帰り道、現場を後にしてビルの陰を歩いていると、胸の中に次第に大きな不安が広がり始めた。無理な工期短縮。この決定がプロジェクト全体にどんな影響を及ぼすのか、考えるだけで頭が痛くなりそうだった。安全性を犠牲にするわけにはいかない。しかし、時間の制約が厳しくなると、そのしわ寄せは必ずどこかに出る。
歩きながら、僕はポケットからスマートフォンを取り出して美月にメッセージを送った。
「今日、ちょっと大変なことがあったんだ。夜に話せる?」
美月からの返信はすぐに返ってきた。
「もちろん。何かあったの?」
彼女の言葉に少しだけ安心感を覚えた。美月は、いつも僕を支えてくれる存在だ。彼女の笑顔や、彼女の静かな優しさが、僕の心を穏やかにしてくれる。それがあるからこそ、今の僕はここに立っているのだと思う。
夜、僕たちは小さなカフェで向かい合っていた。美月は、いつもと変わらない柔らかな表情をしているが、その目には僕に対する関心と少しの不安が混ざっているようだった。
「篤さん、大変なことって何?」
彼女は、テーブル越しに僕の手をそっと握りしめた。その温かさが、僕の冷え切った心を少しだけ溶かしてくれるように感じた。
「今日、上司から工期短縮を命じられたんだ。三ヶ月も。それがどれだけ無茶なことか、わかるだろ?」
美月は驚いた表情を浮かべたが、すぐにその表情を落ち着かせた。彼女は何かを考え込むように、少しだけ視線を落とした後、静かに口を開いた。
「無理なことを頼まれるのは、どの仕事でもあるけれど…篤さんはどうするつもりなの?」
彼女の問いに、僕は少し考え込んだ。どうするべきなのか。すぐに答えが出るものではなかった。
六月中旬、梅雨の湿気がまとわりつく空気の中で、僕は一日の疲れを抱えながら玄関のドアを開けた。新居のドアはまだ新しい香りがする。木材とペンキの匂いが、かすかに鼻をつく。どこか遠くから聞こえる雨音が、耳にじんわりとしみこんでくる。美月のいるはずのリビングに目をやったが、部屋はひっそりとしていた。
部屋に灯る淡い光は、彼女が留守か、もしくは何かに夢中になっている証だろう。僕は靴を脱ぎながら、ふと手元の時計に目をやる。針は夜の九時を指している。ここ最近、仕事に没頭しすぎて、家に帰るのがこの時間になることが増えてきた。副主任の役目は想像以上に重い。毎日のように押し寄せる問題の処理に追われ、僕の時間はあっという間に過ぎ去っていく。美月との時間を、気づけばずっと後回しにしていた。
リビングに入ると、彼女はソファに座っていた。薄手のカーディガンを羽織り、手には本を持っていたが、ページをめくる手は止まったままだった。彼女の表情には、どこか遠くを見つめているような空虚さが漂っている。
「遅くなってごめん。仕事が思ったより長引いてしまって。」
僕は言い訳を口にしたが、彼女はその言葉を聞いても顔をあげなかった。彼女の瞳はまだ本に向けられていたが、視線はそこに焦点を合わせていなかった。僕は彼女の傍に座り、肩に手を伸ばしたが、その手は虚しく空を切るような感覚だった。
「最近、ずっとそうだよね。」
静かに放たれた言葉は、部屋の中で重く響いた。その声には、怒りや苛立ちよりも、もっと深い何か、寂しさや失望のようなものが潜んでいた。
「仕方ないだろ、プロジェクトが佳境に入ってきてるんだ。毎日が忙しくて、どうしても時間が取れないんだよ。」
僕はそう言って、言い訳を続けるしかなかった。確かに仕事は忙しい。それは嘘ではない。だが、その言葉は彼女の心に届いていないのだと、どこかで気づいていた。僕の言い分がどんなに正当でも、彼女にとってそれはただの「言い訳」に過ぎない。
「それでも、篤さん、私は待っているばかりだよ。」
彼女はそう言い、ようやく僕に目を向けた。その瞳には悲しみが宿っていた。僕はその表情に一瞬だけ戸惑いを覚えたが、次第に彼女の気持ちを理解するようになった。美月は、ここ数ヶ月の間に少しずつ僕から離れていく感覚を抱いていたのだろう。僕はそれに気づかず、自分の世界に没頭していた。
「転勤の話、覚えてる?」
突然、彼女が切り出したその言葉に、僕は眉をひそめた。転勤の話…。確か、数週間前に彼女がちらっと話していたことを思い出した。美月の会社から、地方への転勤の打診があったという話だ。だがその時、僕はその話をほとんど聞いていなかった。仕事のことしか頭になかった僕は、彼女の話を適当に受け流してしまったのだ。
「ああ、あの話か。まだ決まってないんだろ?」
僕は軽く流すように答えた。だが、彼女の顔は思った以上に深刻だった。彼女は僕の言葉に動揺することもなく、静かに目を伏せた。
「本当は、もう決まったの。来月から、地方に行くことになってる。」
その瞬間、僕は一瞬だけ言葉を失った。来月?そんなに早いタイミングで?
「それで、篤さんはどうするの?このまま仕事ばかりに没頭して、私のことは後回しにするつもり?」
美月の声は、いつもよりも少しだけ硬かった。そこには、彼女の中で長い間くすぶり続けていた感情が詰まっているようだった。僕は口を開きかけたが、すぐに適切な言葉が見つからなかった。
「僕の仕事も、今が一番大事な時期なんだ。プロジェクトの成功にかかってる。美月のことはもちろん大事だけど、仕事も大切なんだ。」
言葉に出すと、それは自分でも冷たい響きに感じられた。美月は俯いたまま、手の中の本をぎゅっと握りしめた。彼女の指が震えているのが見えた。
「篤さんの仕事が大事なことはわかってるよ。でも、私だって…」
美月は言葉を詰まらせた。僕は彼女の顔をじっと見つめた。彼女の目に宿る感情は、僕には理解できるものだった。だが、それに応える時間も、余裕もなかった。僕たちの間には、少しずつ見えない壁ができつつあるようだった。彼女の感情に向き合おうとする僕の意識は、仕事に追われて遠のいてしまっていた。
「だから、来月から私は遠くに行くよ。しばらく一人で考えたいの。」
彼女の言葉は、僕の胸に深く刺さった。だが、その刺し傷は、どこか麻痺したように痛みを感じなかった。ただ、彼女が自分から遠ざかっていくことを感じながらも、どうすることもできない無力感だけが僕の中に広がっていった。
「待ってくれ、そんな急に…」
僕は言葉をつむごうとしたが、彼女の目はすでに遠くを見つめていた。それは、僕に対する期待や信頼が薄れていく様子を物語っていた。
「もう決めたの。篤さんが変わってくれるのを待ってたけど、もう待つことに疲れたの。」
美月の声は、冷静でありながらも、どこか寂しげだった。その寂しさは、僕にとって何よりも重かった。だが、その重さに押し潰されるわけにはいかなかった。僕には、今、この瞬間に立ち止まる余裕はなかった。
その夜、僕たちの会話はそれ以上続かなかった。美月は自分の決断を伝え終え、静かに寝室へと向かった。僕はリビングに取り残されたまま、彼女が消えていく背中を見つめていた。
八月の終わり、まだ夏の名残を感じさせる重たい湿気が空気に漂っていた。建設現場の砂埃が、じっとりと汗ばんだ肌にまとわりつき、不快感を募らせる。僕はヘルメットの縁から滴り落ちる汗を手の甲でぬぐいながら、足元の基礎部分を見つめていた。視界の端には、鉄筋の露出したコンクリート壁が見える。何かが、明らかにおかしい。
「これ、仕様通りじゃないな…」
僕は小声で呟いた。目の前に広がる光景は、無数の小さな違和感の集合体だった。いくら工期が短いとはいえ、ここまで粗雑な仕上がりは異常だ。建設業界で働く者として、この状況に目をつむるわけにはいかない。しかし、どうしてこんなことが起こるのか。
現場の作業員たちが忙しそうに動き回る中、僕は自分の中で膨らむ疑念を無視できなくなった。無意識に足が動き、施工責任者に声をかけた。
「このコンクリートの打設、どう見てもおかしくないか?強度不足の可能性があるんじゃないかと思うんだが…」
施工責任者の男は、一瞬だけ僕の目を見たが、すぐに視線を逸らした。その挙動が、何かを隠そうとしているように感じられた。
「篤さん、そういうのは気にしない方がいいですよ。上の方で決めたことなんで。」
彼の言葉に、僕は背筋に冷たいものを感じた。この現場で行われていることが、意図的なものだと確信した瞬間だった。
「上の方って…鷲尾部長の指示か?」
僕は鋭く問いかけたが、彼は答えを濁したままだった。まるで僕の質問に触れること自体が危険だと言わんばかりに、彼は忙しそうに他の作業員たちへと指示を飛ばし始めた。僕はその背中をじっと見つめたまま、心の中に重い鉛のような感情が沈んでいくのを感じた。
その日の夕方、現場事務所に戻ると、鷲尾がデスクに座っていた。彼は分厚い資料に目を通しているようだったが、僕が入るとすぐに顔を上げた。彼の表情は、いつもと変わらない冷静なものだったが、その奥には何か鋭いものが感じられた。
「何か話があるのか、篤?」
僕は一瞬言葉を選び、深く息を吸い込んでから切り出した。
「現場のコンクリートの打設、あれ、強度が足りていないようです。このまま進めるのは危険です。すぐに対応しないと後々大きな問題になるかもしれません。」
鷲尾は僕の言葉を聞くと、一瞬だけ目を細めた。その後、彼は静かにため息をつき、机の上の書類を一つ手に取って僕に差し出した。
「これを見ろ。」
彼が差し出したのは、施工スケジュールの表だった。僕はそれを見ながら、眉をひそめた。そこには、通常の工期よりもはるかに短縮されたスケジュールが記されていた。
「わかるだろう?上からの命令で、工期を縮める必要がある。これはもう決まったことだ。君も知っているはずだ、建設業界ではこういうことは珍しくない。現場で多少の無理があっても、納期を守る方が重要なんだ。」
彼の言葉は冷静だったが、その裏には絶対に従えという圧力がはっきりと感じられた。
「でも、もしこのまま進めたら、安全性に問題が出ます。それに、もし後で何かあったら責任は…」
僕が言いかけたところで、鷲尾が手を上げて制した。
「責任は俺が取る。君は心配しなくていい。ただ、この件については外部に漏らすな。わかるな?」
その瞬間、僕の中で何かが音を立てて崩れた。鷲尾の命令は明白だった。彼の言葉には、反論の余地がない。その場で黙って従う以外に選択肢はなかった。
僕は言葉を飲み込んだ。正しいことをするべきだという思いが、頭の片隅で叫んでいたが、その声は次第に遠のいていった。鷲尾の前では、僕の意志は無力だった。
その夜、帰宅しても頭の中では鷲尾の言葉が何度も繰り返されていた。美月がいない静かな部屋で、僕は一人ベッドに横たわったが、眠気は一向に訪れなかった。薄暗い天井を見つめながら、僕は自問自答を繰り返していた。
「これで本当に良かったのか?」
現場の安全を守るべき立場にある僕が、鷲尾の命令に従い、手抜き工事を黙認することを選んだ。正しい選択ではないことはわかっている。だが、現実の前で僕の正義感はあっさりと崩れ去ってしまった。会社の利益、工期の短縮、上司の圧力。そんなものに押し流され、自分の信念を貫けなかった。
美月がいたら、どう思うだろうか。彼女はきっと、僕に失望するだろう。だが、彼女が今ここにいるわけではない。僕は一人で、この葛藤に向き合うしかなかった。
次の日、僕は何事もなかったかのように現場に戻った。鷲尾の言葉が頭の中でこだまする中、僕は自分の立場を守るために、見て見ぬふりをすることに決めた。僕の中で、何かが完全に壊れてしまったような気がした。
それでも、現場は何事もなかったかのように動き続ける。作業員たちは忙しく働き、コンクリートが次々と打設されていく。その音は、僕の中の良心をかき消すかのように、無機質で重く響いた。
鷲尾は何事もなかったかのように、現場を巡回し、指示を出していた。彼の姿を見るたびに、僕の胸の中で何かがチクリと痛んだが、それを押し殺すことにした。僕は、この世界で生きていくためには、正しさよりも現実を受け入れるしかないのだと、自分に言い聞かせるしかなかった。
しかし、その決断が僕にどれだけの代償をもたらすのか、その時の僕にはまだわかっていなかった。
冷たい12月の風が、完成したばかりの高層ビルのガラス窓に吹き付けている。新築の匂いが漂うビル内は、控えめに装飾されたクリスマスツリーの光で彩られ、シャンパンのグラスが無数に掲げられていた。僕は、その喧騒の中で一人、浮遊するような感覚にとらわれていた。祝賀ムードに満ちた会場には、笑顔や拍手、祝福の言葉が飛び交っていたが、僕の心はそこから遠く離れていた。
「お疲れ様、篤君。プロジェクトの成功は君のおかげだよ。」
部長の鷲尾が、手に持ったシャンパングラスを軽く掲げながら僕に近づいてきた。彼の顔には、満足げな笑みが浮かんでいる。まるでこの世の全てが予定通りに進んだかのような表情だ。その顔を見るたびに、僕の中で何かが冷たく、重く沈んでいくのを感じる。
「ありがとうございます。でも、皆さんのおかげですよ。」
僕は穏やかな口調で返事をしたが、その言葉は空虚だった。僕自身も気づいていた。それが嘘だということを。プロジェクトが無事に終わったことは事実だが、その過程で僕が目をつむった幾つもの問題が頭の中でこびりついていた。手抜き工事があったこと、そしてそれを知りながら黙認した自分。表向きは完璧に見えるこの高層ビルの中に、僕だけが知る影が潜んでいるのだ。
「それにしても、このプロジェクトは大成功だったな。この規模で、これほどの短期間で完成させたなんて、君も誇らしく思っていい。」
鷲尾は上機嫌で言葉を続けた。彼の声は高揚感に満ちており、何もかもが完璧に進んだかのように響いていた。だが、その言葉が僕の耳に届くたびに、心の中で何かがじわりと崩れていく。誇らしさどころか、僕は自分の中にある罪悪感に押し潰されそうだった。
「…そうですね。」
僕は短く答え、無理に笑顔を作ったが、胸の奥に湧き上がる不快感は消えなかった。シャンパングラスを口に運んだものの、その液体は喉を通り過ぎると同時に、何も感じない虚無感だけが残った。何が自分をこうさせたのか。あの時、僕はもっと強く反対すべきだったのだろうか。現場での手抜き工事を見つけたとき、鷲尾の指示に従わず、自分の正義を貫くべきだったのだろうか。しかし、今となってはそんなことを考えても何も変わらない。ビルは完成し、僕はその「成功」の一部として称賛を受けている。
パーティーが終わり、僕は一人で外に出た。寒さが肌に刺さるようで、街の明かりが遠くでぼんやりと輝いている。ビルのガラスに映る自分の姿が、他人のように見えた。そこには、成功を収めたはずの男がいる。しかし、その姿は僕自身が思い描いていた未来とはどこか違っていた。
「篤…」
ふいに後ろから美月の声が聞こえた。僕は驚いて振り返ると、彼女が少し遠慮がちな表情で立っていた。美月は以前と同じように優雅で、どこか儚げな美しさを持っているが、その瞳には僕が知らない何かが潜んでいるように見えた。
「美月、来てくれてありがとう。」
僕はできるだけ自然に振る舞おうとしたが、その声にはどこかぎこちなさが混じってしまった。
「もちろん、来るわよ。あなたが頑張ってたプロジェクトだもの。」
彼女の声は優しかったが、そこには何かしらの寂しさが含まれていた。僕はそのことに気づきながらも、何も言えなかった。彼女に本当のことを打ち明けることができない自分が、情けなかった。僕は、彼女に何かを隠しているという罪悪感でいっぱいだった。
美月は僕の隣に立ち、寒空の下でじっと僕の顔を見つめた。彼女の視線を感じるたびに、僕の胸の中で何かが痛み出す。
「ねぇ、篤。あなた、最近何か悩んでいるんじゃない?」
美月は静かに問いかけてきた。その瞳の中には、僕を心配する気持ちが滲み出ていたが、同時に彼女自身の不安も隠せていないようだった。僕は一瞬、全てを打ち明けるべきかどうか迷った。しかし、その言葉が口から出ることはなかった。
「いや、特に何もないよ。ただ、仕事が忙しかっただけだ。」
自分でも驚くほど冷静な声で答えたが、その言葉がどれだけ空虚で、嘘くさいものかは自分自身が一番わかっていた。美月もそれを感じ取ったのか、少し悲しそうにうつむいた。
「そう…。でも、もし本当に何かあったら、ちゃんと話してね。私は、いつだってあなたの味方だから。」
彼女のその言葉が、胸に深く突き刺さった。僕が背負っている罪悪感を彼女に打ち明けることで、彼女を傷つけてしまうのではないかという恐れが、僕の言葉を封じ込めてしまっていた。僕はただ、うなずくしかできなかった。
その夜、僕は一人でベッドに横たわりながら、美月の言葉を何度も思い返していた。彼女が僕を心配していることは明らかだったが、僕は彼女に何も言えないままだ。心の奥底で、いつかこの罪悪感が限界を超え、美月にも影響を与えるのではないかという不安が募っていた。
ビルは完成し、僕は称賛を浴びた。それなのに、何一つ満たされていない感覚が僕の中に残っている。成功の裏に隠された真実を知っているのは、僕だけだ。誰にも話せない重荷が、僕の胸の中でじわりと広がっていく。
美月の優しさが、僕を支えてくれる一方で、彼女の存在そのものが僕にさらなるプレッシャーをかけていた。彼女に真実を伝えたら、彼女の愛を失ってしまうかもしれない。だが、このまま黙っていても、いずれは彼女を裏切ることになるのではないか。
冬の冷たい夜が、僕の心にますます深い影を落としていた。
三月の風が、オフィスの窓越しに冷たく、そしてどこか湿った空気を運んでくる。昼過ぎだというのに、外はどんよりとした曇り空。東京の街並みが灰色のフィルターを通して見えるようで、僕の心境をそのまま映し出しているかのようだった。
机の上に置かれた資料の束がやけに重く感じられ、その書類に目を通す気力すら湧いてこなかった。ビルに関する重大な欠陥が発覚した――その報告書が、何度も目の前にちらついている。それは、まるで封じ込めたはずの過去が、冷たく鋭い刃物で胸の奥を刺しに来るかのようだった。
電話のベルが鳴り響き、僕は無意識に受話器を取った。
「篤さん、大変です。例のビルに関して、メディアが取り上げ始めました。欠陥問題が外に漏れたようです。」
声の主は、営業部の松田だった。彼の焦燥感が電話越しに伝わってくる。僕は一瞬、無言になった。胸の奥でずっと予感していた事態が、今まさに現実となって迫ってきたのだ。
「わかった。今からすぐにそちらに向かう。」
電話を切ると同時に、全てが鈍く重い現実としてのしかかってくる。会社が今まで必死に隠してきた手抜き工事の事実、それが公になる時が来たのだ。僕がそのことに最初に気づいた時、そしてそれを見て見ぬふりをしてしまったあの日から、この瞬間がずっと潜んでいた。
ドアがノックされ、重い音を立てて開かれた。鷲尾がそこに立っている。彼は、いつもの冷静な表情を崩すことなく、しかしその瞳の奥には不安と苛立ちが見え隠れしていた。
「篤、状況は聞いているな?」
「ええ、松田から連絡がありました。メディアに漏れたと。」
鷲尾は頷き、オフィスの中を見渡してから、僕の目をまっすぐに見た。
「大事になる前に手を打つ。会社として君を守る準備はできている。君が問題の責任を負う必要はない。」
彼の言葉は、いつも通りの冷静な口調だ。だが、その裏には何かしらの感情が渦巻いているのを感じ取れた。彼は自分の立場を守りたいだけなのか、それとも僕を本気で助けようとしているのか。どちらであれ、僕の中で決断はもうついていた。
「それはできません。」
鷲尾の表情が一瞬硬直した。彼は僕の言葉を聞き流そうとするかのように、眉を寄せながら再び言葉を続けた。
「篤、冷静に考えろ。このスキャンダルが会社にどれだけの損失を与えるか分かっているのか?君はただ、上層部の指示に従っただけだ。全てを会社に任せておけばいい。君が責任を取る必要はない。」
「それでも、僕は自分の行動に責任を持つべきです。」
自分の言葉に、自分自身でも驚いていた。その一瞬、すべての不安や恐れが消え、ただ一つの真実が僕の胸に刺さっていた。僕は、この手抜き工事の事実を知りながら黙っていた。その結果、今多くの人々が危険にさらされている。誰かに守られるべきではなく、自分がその責任を取るべきだと、心の底からそう感じた。
「君が何を言っているのか分かっているのか?」鷲尾は、わずかに声を荒げた。「責任を取るということは、自らのキャリアを捨てることを意味するんだぞ。このまま会社に任せておけば、何もかもが収束する。君の人生を犠牲にする必要はない。」
僕は鷲尾の言葉に耳を傾けながらも、すでに心の中で決断を固めていた。彼の言うことは正しいかもしれない。会社が全てを揉み消し、僕が何も言わなければ、表面上は何事もなかったかのように見えるだろう。しかし、その偽りの成功の上に立って生き続けることは、僕にとって無意味なものだった。
「すみません、鷲尾さん。僕はもう決めました。自分の責任を取ります。」
僕の声は静かだったが、断固たる決意が込められていた。鷲尾は一瞬言葉を失い、その顔に怒りと困惑が混ざり合った表情が浮かんだ。しかし、彼もまた理解していたのだろう。僕が何をしようとしているのか。
「君は愚かだ。」
鷲尾は、そう一言だけ呟くと、背を向けてオフィスを出て行った。ドアが静かに閉まる音が、僕の心の中に響き渡る。それは、僕が選んだ道の始まりだった。
オフィスの窓から外を見下ろすと、東京の街がいつも通りの喧騒を続けていた。どこか遠い場所で、僕が起こした決断がこれから大きな波紋を広げていくことを考えると、冷静さの中に微かな恐怖が湧き上がってくる。しかし、それでも僕は進むしかなかった。
この欠陥の発覚によって、会社がどれだけの損失を被るかは想像に難くない。僕自身のキャリアも、ここで終わるのかもしれない。だが、それでも僕は逃げるわけにはいかなかった。これ以上、自分自身を偽り続けることはできない。僕が責任を取ることが、唯一の正しい選択だった。
携帯が鳴った。美月からのメッセージだ。
「今日は早く帰れる?」
僕はしばらくその画面を見つめた。美月にはまだ何も話していない。僕がこれからどんな決断を下したのか、そしてその結果が彼女にどう影響を及ぼすのか、まだ何も伝えていない。罪悪感が再び胸の中に広がるが、もう後戻りはできない。
「少し遅くなるかもしれない。話したいことがあるんだ。」
そう返信すると、僕は再び書類に目を落とした。その重みが以前よりもさらに増して感じられる。僕が今からすることが、どんな未来をもたらすのかは分からない。だが、少なくとももう一度、自分自身を誤魔化すことなく生きていくために、僕はこの責任を背負わなければならない。
外の曇り空はますます重くなり、やがて雨が降り出す気配が漂っていた。雨が降れば、この街の灰色の世界も少しは洗い流されるかもしれない。だが、それでも僕の罪は決して消えることはない。自分で選んだこの道を、ただ黙々と進むしかないのだ。
三月下旬の東京は、冬の名残と春の兆しが同居する不思議な季節だ。風はまだ冷たく、空気にはわずかな湿り気が含まれているが、それでも街路樹の芽吹きや、人々の服装にうっすらとした春の気配が見える。だけど、僕の心には季節なんてものは存在しない。失職してからというもの、僕は時間の感覚すら曖昧になっていた。まるで一度回り始めた時計の針が、突然すべてを失ったかのように止まってしまった。そんな感覚だ。
アパートの狭い部屋の中、薄暗い空間に横たわりながら、僕は天井をぼんやりと見つめていた。テレビはつけっぱなしだが、映っているニュースキャスターの声はもはや僕の耳には届いていない。ビールの空き缶が床に転がっている。それに何本目かすらもわからなくなっていた。何かを忘れようとして飲み続けていたはずなのに、結局、忘れたかったものが目の前から消えることはなかった。
突然、玄関のドアが開く音がした。美月だ。僕は、彼女の帰宅の音に何の期待も抱かなくなっていた。むしろ、重苦しい予感だけが胸に広がる。彼女の足音が近づいてくるのがわかる。僕は身体を起こすことすらできず、ただその気配を感じていた。
「篤、話があるの」
彼女の声は、冷たく、そして鋭いものだった。それは僕がこの数週間の間に何度も聞いてきた声だった。僕たちの間にかつて存在していた温かさや親密さは、まるでこの薄暗い部屋の空気の中に溶けてしまったかのように消え去っていた。
僕は無理やり身体を起こし、ソファに座り直した。美月は僕の前に立ち、真っ直ぐに僕を見つめている。その目には、かつての優しさも、愛情もない。ただ、一つの決断だけがそこに宿っていた。
「もう限界よ、篤。あなたと一緒にいることが、もう耐えられない」
彼女の言葉が胸に刺さる。だが、それは驚きではなかった。むしろ、こうなることはずっとわかっていた。僕は失職し、社会的にも終わり、そして今、愛する人までも失おうとしている。それは必然だったのだろう。
「美月……」
何かを言おうと口を開くが、言葉が出てこない。僕が言いたいことは何だったのか、自分でもよくわからなくなっていた。謝りたいのか、引き止めたいのか、それともただ黙ってすべてを受け入れたいのか。僕の頭の中はぐちゃぐちゃだった。
美月は少し眉を寄せて、ため息をついた。それは苛立ちでも、怒りでもない。ただ、疲れ果てた者のため息だった。
「あなた、もう変わらないわ。仕事を失ったからって、そんなに自分を追い込む必要なんてないのに。だけど、あなたは自分を責めて、自分を失ってしまった。もう私にはあなたが見えないの」
彼女の言葉は痛かった。まるで自分の胸の奥に突き刺さるナイフのように感じられた。確かに、僕は何もかもを失った。そして、その過程で自分自身さえも見失ってしまったのだろう。
「ごめん……」ようやく、それだけを口にした。
「謝らないで。もういいの。私、あなたを助けたいと思ったけど、もう無理なの。あなた自身が変わらなければ、何も変わらないのよ」
彼女の目が潤んでいるのが見えた。彼女にとっても、これがどれだけ辛い決断であるかはわかっていた。でも、僕にはそれを止める力がなかった。
「じゃあ、これで……さようなら」
それだけ言うと、彼女は背を向け、静かに部屋を出て行った。ドアが閉まる音が、僕の心の中で何かが完全に終わったことを告げていた。僕はもう、何も持っていなかった。
それからの僕の日々は、まるで深い霧の中を彷徨うようなものだった。朝が来ると、ベッドから出ることすら億劫だった。時計の針は進み続けるが、僕にとっては時間などどうでもよかった。何もする気が起きず、ただ酒に溺れるだけの毎日。冷蔵庫の中には、ビールと安い焼酎だけが並び、僕はそれらに救いを求めるように飲み続けていた。
テレビをつけても、そこに映るのは無機質なニュースやバラエティ番組ばかりで、それらが僕の心に何の影響も与えない。どれだけ飲んでも、何も変わらない。自分がどこにいるのか、何をしているのかさえも曖昧になっていった。僕は、自分自身を捨ててしまったのかもしれない。
そして、ある日、ふと故郷のことを思い出した。
酒に酔ってぼんやりと天井を見つめていた時、突然、あの懐かしい田舎の風景が脳裏に浮かんだのだ。あの広い青空、澄んだ空気、山の緑。そして、田んぼの縁を歩きながら聞いた、風に揺れる稲の音。それらは、まるで遠い夢の中の出来事のようだったが、その一瞬の記憶が、僕の中に何かを揺り動かした。
「戻ろうか……」
その考えが、僕の中にしっかりと根を張り始めた。都会での生活に疲れ果て、すべてを失った今、故郷に帰ることが唯一の救いになるのかもしれない。何もない場所ではあったが、少なくとも僕が生まれ育った場所だ。あそこに戻れば、何かが変わるかもしれない。少なくとも、今の自分を一度リセットすることができるだろう。
ただし、それが本当に僕にとっての救いになるのかはわからない。もしかしたら、ただの逃避に過ぎないのかもしれない。しかし、それでも今は、何かにすがりたい気持ちでいっぱいだった。
僕は冷蔵庫の最後のビールを手に取り、それを開けて口に含んだ。冷たい液体が喉を通り過ぎていく。味なんてもう感じられなかった。ただ、何かが流れていく感覚だけが残る。
故郷に帰れば、すべてが変わるだろうか?それとも、ただまた新たな苦しみが待っているのだろうか?答えはまだ見つかっていない。だが、このままではいられないということだけは確かだった。
僕は立ち上がり、部屋の中を見回した。散乱した空き缶や、乱雑に放置された服。それらが今の僕の人生そのものを映し出しているようだった。この場所にいる限り、僕は何も変わらない。故郷に帰ることが、新しいスタートになるのか、それともまた別の終わりを迎えるだけなのか。それは、僕自身にかかっている。
もう一度、自分を取り戻すために、僕は故郷に帰る決意を固めた。
チャプター4 再生の道のり
四月の初め、久しぶりに降り立った故郷の駅は、かつての記憶とはまるで別物だった。古びた駅舎の壁には錆びついた鉄の匂いがしみつき、ホームに立つと冷たい風が吹き抜ける。その風には、季節の変わり目の不安定さと、ここに残された何かが未だ揺れ動いているような気配が含まれていた。
「帰ってきたのか……」そう思いながらも、どこか実感が伴わない。自分が本当にこの土地に帰ってきたのか、あるいは単なる逃避の一環に過ぎないのか。答えは見つからなかった。
駅前の商店街は、かつての賑わいを思い起こさせるものが何一つ残っていなかった。シャッターが降りたままの店が目につき、その数は当時の記憶よりも明らかに増えている。細い路地には雑草が茂り、歩道は所々でひび割れている。過疎化が進むこの村は、時の流れとともに静かに崩れていくように見えた。
「おかしいな、こんな風景だっただろうか?」
僕は足を止め、しばらくその景色を見つめていた。幼い頃の記憶は、もっと明るく、活気に満ちたものだったはずだ。田んぼを駆け抜ける風や、夕暮れの茜色に染まる山々、そして軒先に吊るされた風鈴の音。それらは、僕の心の中で鮮明に生きている。しかし、今目の前に広がっているこの村は、その記憶とは似ても似つかないものだった。
実家までの道のりは、驚くほど静かだった。歩き慣れた田舎道がやけに広く感じる。両脇に広がる田畑も今は手入れが行き届いていないようで、雑草がぼうぼうと伸び放題になっている。遠くから聞こえるのは、鳥の鳴き声と風の音だけだ。村の人影はほとんど見当たらない。
家にたどり着く頃には、すっかり夕方の薄明かりが広がっていた。築数十年の木造の家は、昔のままそこに佇んでいたが、玄関の柱や軒下に時の流れが刻まれている。苔むした石段を一歩ずつ踏みしめ、僕は戸を開けた。
「篤!」
母の声が響く。彼女は台所から飛び出してきて、驚きに目を見開いていた。白髪が以前よりも増えた彼女の姿に、時の経過を感じざるを得ない。しかし、その表情には昔から変わらない優しさが宿っていた。
「どうしたんだい?急に帰ってきて……」
母は困惑しながらも、温かく迎え入れてくれる。その瞳の奥には、明らかな心配の色が見え隠れしていたが、それを直接口に出すことはなかった。母はいつだってそうだ。僕が困っているとき、いつも静かに見守ってくれる。僕はそれに甘えるしかなかった。
「……ちょっと、帰ってきたくなってさ」
簡単な言葉で済ませたが、本当のところ、何と言えばいいのか僕自身わかっていなかった。失職し、恋人も失い、そして都会での生活に疲れ果てた自分を受け入れるのは簡単ではない。それを母に打ち明けるのは、もっと難しかった。
「まあ、そうかい。疲れているなら、ゆっくり休みなさい。夕飯はあと少しでできるから」
彼女はそう言うと、再び台所へ戻っていった。その後ろ姿を見送ると、僕は玄関の外で見慣れた庭をぼんやりと見つめた。夕方の風が、どこか懐かしい香りを運んでくる。それは、遠い昔、父と庭先で焚き火をしていたときの匂いに似ていた。
そのとき、後ろから足音が聞こえた。振り返ると、妹の菜穂が立っていた。彼女は手にスマートフォンを持ち、少し驚いたような表情で僕を見ている。菜穂は僕より六つ年下だが、今はもう立派な大人になっている。彼女は短くカットされた髪を揺らしながら、ゆっくりと僕の前に来た。
「兄さん、久しぶりだね」
「久しぶりだな、菜穂」
彼女はジーンズにシンプルなTシャツというラフな格好をしていたが、それが彼女らしい。都会的なファッションとは違うが、彼女にはこの村の風景に溶け込むような自然さがあった。
「急に帰ってきたけど、大丈夫?」
菜穂の問いは、率直でシンプルだった。彼女は昔からそうだ。遠回しな言い方をせず、物事をそのまま伝える。僕は少し肩をすくめて答えた。
「まあ、色々あってさ。少し休みたくなっただけだ」
それだけで、彼女は深く聞こうとはしなかった。ただ、僕の顔をじっと見つめ、少し困ったように笑った。
「兄さん、なんだか少し痩せたね」
「ああ、そうかもな」
僕はその場を流すように答えたが、彼女の言う通りだった。失業してからというもの、まともに食事を取ることすら忘れるほどに、心が荒んでいた。だが、ここに戻ってきたことで、少しは何かが変わるかもしれない。そう思いたかった。
夕食は静かだった。食卓には、母の手料理が並んでいる。煮魚に、野菜の煮物、そして炊きたてのご飯。それらは、どれも僕にとっては懐かしい味だ。しかし、箸を進めるたびに感じるのは、どこか空虚な感覚だった。
父は無口で、あまり口を開かなかった。彼は昔から寡黙な人間で、必要最低限のことしか言わない。だが、その表情からは僕への心配が読み取れた。時折、僕をちらりと見るその目には、息子の現状をどう理解すればいいのか戸惑っているような色があった。
「篤、お前、これからどうするんだ?」
父が口を開いたのは、食事が終わってからだった。彼の声には、決して非難の意図はなかったが、その質問には当然、今後の僕の生き方を問う響きがあった。
「しばらくここにいさせてくれ。まだ先のことは考えていない」
そう答えるしかなかった。都会の生活に戻る気力もないし、ましてや新しい職を探すことなど考えられなかった。今はただ、この静かな村で、自分を取り戻すための時間が必要だった。
父はそれ以上何も言わず、ただ黙って頷いた。母もまた、何かを言いかけたが、その言葉を飲み込んでいるようだった。
その夜、僕は子供の頃の自分の部屋で眠りについた。窓から入る夜風が、どこかひんやりとして心地よい。都会では聞こえなかったカエルの鳴き声が遠くから響き、その音が眠りを誘う。布団に身体を沈めると、少しだけ安心感が広がった。この村でなら、もしかしたらもう一度、やり直せるかもしれない。
村役場に着いたのは、ちょうど昼過ぎのことだった。春の日差しがまばゆく、空には一片の雲もなかった。風は穏やかで、花の香りが微かに混じる。そんな心地よい天気にも関わらず、僕の足取りはどこか重たかった。
「狩野村長がお待ちです」
受付に座る村の職員が僕にそう伝え、控えめな笑顔を見せる。村役場は昔からほとんど変わらない。木造の古びた建物は時の流れを拒むかのように、そこに佇んでいる。ただ、廊下を歩くと床板がきしむ音がやけに大きく響き、静かな村の中でその音が妙に孤独を感じさせた。
村長室の前に着くと、扉の向こうから低い話し声が聞こえた。僕は一度、軽く息を吸い込んでからノックした。
「どうぞ」
落ち着いた声が返ってきた。扉を開けると、狩野竜三郎村長がデスクに座っていた。彼は壮年の男で、髪は灰色に染まり始めているものの、姿勢はしっかりとしており、その眼光は未だ鋭い。彼は僕を見ると、ゆっくりと微笑んで立ち上がった。
「篤か。久しぶりだな。座りなさい」
僕は一礼し、木製の椅子に腰を下ろした。狩野竜三郎は父と同じくらいの年齢だが、その風貌には、どこか都会的な洗練さがあった。彼のダークグレーのスーツはしっかりとした仕立てで、ネクタイの結び目もきっちりとしている。村の小さな役場の村長とは思えないような端整な佇まいだ。彼は僕をじっと見つめている。
「お前が戻ってきたと聞いて、少し驚いたが、正直嬉しいよ。どうだ、村の様子は?」
その問いに、僕は少し答えに詰まった。僕が見た村の姿は、かつての賑やかな風景とはまるで異なっていた。シャッターの閉まった商店街、空き家の目立つ集落、荒れた田畑。けれど、どう言葉にすればいいのか分からなかった。
「正直、驚きました。村の変わりように……寂れていると言っていいのかもしれません」
僕がそう言うと、狩野はゆっくりと頷いた。彼の顔には、深い皺が刻まれ、その表情には長年この村の運命を見つめ続けてきた者の重みが感じられる。
「そうだな、篤がいない間に、村は少しずつ変わってしまった。いや、変わらざるを得なかったと言った方が正しいかもしれん。若者が次々と村を離れ、残されたのは年老いた者たちばかりだ。商店も閉じ、田畑は手入れが行き届かなくなり、村全体が静かに消えようとしている」
その言葉には重い現実が含まれていた。村が抱える問題は、僕が子供の頃から予兆として感じていたものだ。それが今、現実として目の前に突きつけられている。
「篤、お前は都会で働いていただろう。どうだ、何かこの村のためにできることはないか?」
唐突に投げかけられたその質問に、僕は少し面食らった。僕が村に戻ってきた理由は、ただの一時的な逃避だったはずだ。都会での仕事に疲れ、すべてを失い、何もかもから逃げたかっただけだった。村のために何かをするという意識など、持ち合わせてはいなかった。しかし、狩野村長の問いは、僕の心の奥底にある小さな火種を静かに揺さぶった。
「僕に……できることですか?」
そう口に出したものの、何をすればいいのかまったく見当もつかない。都会での経験が、この村で役に立つとは到底思えなかった。だが、狩野は静かに頷き、僕を見つめていた。
「お前は都会で企業の企画部にいたんだったな。そういった経験があれば、この村の未来を考える上で、きっと何かしらの役に立つはずだ。都会の感覚、外の視点が必要なんだよ。俺たちは、この村のことしか見ていないから、どうしても狭い視野にとらわれてしまう。だが、お前なら違うはずだ」
狩野の言葉には、説得力があった。それは彼が長年この村を守り、育ててきたからこその言葉だ。彼はただ現状を悲観しているわけではない。そこには明確なビジョンと、村を再生させたいという強い意志が感じられた。
「そうだな……都会で学んだことが、この村で役に立つかどうか分かりません。でも、何かできることがあるなら、やってみたいとは思います」
僕がそう答えると、狩野は少し目を細めて笑った。
「それでいい。まずはできることから始めてみればいいんだ。この村は今、変わらなければならない時期に来ている。お前のような若者の力が必要なんだよ」
狩野はそう言って立ち上がり、窓の外を見つめた。外には広がる田畑が見え、その向こうに山々がそびえている。昔はこの風景にどこか安心感を覚えていたが、今はその風景がどこか寂しげに見えた。
「篤、俺はこの村が消えていくのを黙って見過ごすつもりはない。まだできることはたくさんあるはずだ。だが、俺たちだけじゃ限界がある。だからこそ、お前のような新しい風が必要なんだ」
村長の言葉はまるで宣言のようだった。彼の背中には、村を守り抜こうという決意がはっきりと見えていた。そして、その背中を見ていると、僕の中にも少しずつ何かが芽生え始めた。
「僕にできることがあれば、ぜひ協力させてください」
僕はその場でそう答えた。それが何を意味するのか、どれほどの責任を負うことになるのか、その時はまだ分からなかったが、村長の言葉が僕の心を動かしていたのは確かだった。村が抱える問題を、他人事のように感じることができなくなっていた。
狩野は満足そうに頷くと、デスクに戻り、何か資料を取り出した。
「まずはこれを見てくれ。この村が抱えている問題点と、俺が今考えている改善策の概要だ。まだ粗いアイデアだが、これを基にお前の意見を聞きたいと思っている」
彼は僕に数枚の資料を手渡した。そこには、村の人口減少率、商業施設の閉鎖状況、農業の衰退などが詳細に記されていた。数字は冷徹に、村の現状を物語っていた。
「この村をどうやって再生させるか……それが俺たちの課題だ。だが、俺たちだけじゃどうにもならない部分がある。外の力、都会の視点、そして若い力が必要なんだ」
狩野の言葉に、僕は無言で頷いた。資料に目を通しながら、僕の心の中で何かが静かに動き始めた。都会での経験が、この村のために役立つかどうかは分からない。でも、今はその可能性を信じてみようと思えた。
村役場を出ると、春の陽射しが再び僕を包み込んだ。風は相変わらず優しく、桜の花びらが舞い落ちていた。
5月の風は穏やかで、まだ新しさを含んだ空気が僕の頬を撫でる。太陽は真上にあり、かつて賑わいを見せた小学校の校庭には誰もいなかった。背の高い雑草が無造作に揺れ、廃校となった校舎の窓は、何年もの間、ほこりに覆われたまま時間を止めたように見える。僕はその光景を前に、どうしても込み上げるものを抑えることができなかった。ここで過ごした日々が、まるで別の世界の出来事のように遠く感じた。
「こっちです」
声に振り返ると、先導していた葉村紗耶が手を振っていた。彼女はまだ20代半ばの若者で、地元の農業者たちの中でも特に熱心だと村長から聞いていた。彼女の髪は肩の少し上で切り揃えられていて、陽光に照らされてキラキラと輝いている。シンプルなデニムのオーバーオールに白いTシャツを合わせた姿は、都会的な洗練さと村の自然な空気をうまく調和させたものだった。
「篤さん、こちらが集まっているみんなです」
校舎裏手の広場に出ると、すでに数人の若者が待っていた。皆一様にカジュアルな服装で、Tシャツやジャケット姿の者もいれば、軽作業用のズボンに手ぬぐいを頭に巻いた者もいた。それぞれの顔には緊張感と期待が混じった表情が浮かんでいる。僕が一歩前に進むと、彼らの視線が一斉に僕に注がれた。
「どうも、篤です」
簡単に自己紹介すると、葉村が話の主導権を取って進めてくれる。
「今日集まってくれたのは、みんな地元で農業や林業をやっている若手ばかりです。実は私たち、ずっと村の未来について何かできないかって考えていました。このままじゃ村が消えてしまうって、誰もが思ってるんです。でも、私たちだけの力じゃどうにもならなくて……だから、篤さんにもぜひ話を聞いてほしいんです」
葉村の言葉に、僕は少し戸惑いながらも頷いた。彼らの目の奥には、どこか諦めきれない強い意思が見て取れた。僕が再び村に戻ってきた理由は、こうした人々の声に応えるためだったのだろうか。そんな思いがふと胸をよぎった。
一人の若者が一歩前に出た。彼は屈強な体つきで、顔には日焼けの跡がはっきりと残っている。おそらく長時間の農作業を続けてきたのだろう。彼は深く息を吸い込み、低い声で話し始めた。
「俺たちは、この村をなんとかしたいんです。でも、どうにもならない現実が目の前にあって、何をやればいいかさっぱり分からないんですよ。農業を続けていても、儲からないし、後継者もいない。新しいアイデアを出すには俺たちの力だけじゃ足りなくて……だから、篤さんみたいに都会での経験がある人が協力してくれたら、きっと違う何かが見えてくるんじゃないかって思ったんです」
彼の言葉は、まるで長年抱えてきた想いが堰を切ったかのようだった。村の過疎化は彼らにとっても他人事ではなく、むしろ彼ら自身がその最前線に立っているのだ。それは僕にも痛いほど分かる。都会での仕事に忙殺され、自分のことだけを考えていた日々が、今ではどれほど小さなものに思えるか。
「そうですね……僕も、この村が昔のように賑やかになるとは思えないかもしれないけど、それでもまだ何かできることがあるはずだと思っています」
僕の声に、皆が静かに耳を傾ける。僕は彼らの熱い視線を受け止めながら、さらに言葉を続けた。
「実は、僕が都会で仕事をしていたとき、いろんなプロジェクトに関わってきました。その中で感じたのは、人の手で作り上げられたものが、時間とともに価値を失うことがある一方で、自然と共生するものには長い命が宿ることがあるということです。それはたとえば、この村のような古い建物や、代々受け継がれてきた農作物なんかもそうです。そういったものをもう一度見つめ直して、新しい価値を見出すことができれば、何か変えられるかもしれません」
その瞬間、僕の中に一つのアイデアが浮かび上がった。それは突然の閃きのようなものだったが、意外なほど自然に頭の中に広がっていった。
「古民家再生プロジェクト、どうでしょうか?」
僕の言葉に、皆の顔が驚きに変わる。葉村が目を丸くして僕を見つめていた。
「古民家再生、ですか?」
「そうです。この村には古い家屋がたくさん残っていますよね。今はほとんどが空き家になってしまっていますが、手を加えれば宿泊施設や観光地として活用できるかもしれません。都会では、そういった古いものに新しい価値を与えるプロジェクトがいくつも成功しています。この村にも、そういった形で新たな命を吹き込むことができるんじゃないかと思うんです」
僕の提案に、しばらくの間沈黙が続いた。彼らは皆、それぞれの心の中でその可能性を探っているようだった。やがて、葉村が口を開いた。
「面白いですね……古民家再生なら、この村に残っているものを活かせますし、私たちの農作物とも関連付けられるかもしれません。観光客が来れば、地元の野菜や果物を直接売ることもできる。今まで考えもしなかったことですけど、可能性はあるかもしれませんね」
彼女の言葉に、他の若者たちも次々に賛同の声を上げ始めた。彼らの目には、希望が灯り始めていた。
「篤さん、それを一緒にやってみませんか?」
葉村がそう提案したとき、僕は少し考えた。僕の経験がどれほど役立つか分からないが、ここで何かを変えようとする意思を持つ彼らとなら、できることがあるかもしれない。そして何よりも、自分自身がこの村で何かを成し遂げたいという思いが、今やはっきりと自覚されていた。
「ぜひ、協力させてください」
僕はそう答えた。すると、彼らは一斉に笑顔を浮かべ、活気に満ちた表情で頷いた。
その瞬間、僕はこの村での新しい一歩を踏み出したのだと感じた。
6月下旬、村の集会所には重苦しい空気が漂っていた。開け放たれた窓から、初夏の風が静かに流れ込むが、その爽やかさもここでは無力に感じられる。集まった村民たちの顔には、期待と不安、そして何よりも強い抵抗の色が見え隠れしていた。僕たちが提案する「古民家再生プロジェクト」の説明会が、これほど険しいものになるとは予想していなかった。
「それで、あんたたちは何がしたいんだ?」
村の長老格である田代老人が、ぎらりとした視線を向けてくる。彼は70代後半の頑強な男で、いまだに畑仕事を自分でこなしている。濃い眉毛とくすんだ瞳が、彼の長年の村での生活を物語っている。彼の質問には、単なる好奇心や疑念ではなく、深い警戒心がにじみ出ていた。
僕は一瞬言葉を飲み込んでから、なるべく穏やかに話し始めた。
「僕たちは、村に残っている古い家屋を再生し、新しい形で活用したいと考えています。観光地として人を呼び込み、この村の良さを広めることで、村の活性化を目指しています。ただ古い家を保存するだけじゃなく、そこで農業体験や地元の食材を使った宿泊施設を展開することで、持続的な収入を得られるようにしたいんです」
葉村が横で頷きながら補足する。「これからの時代、私たち若い世代が村に根付くためには、新しい収入源が必要です。農業だけじゃ厳しいですし、このままでは過疎化が進む一方です。でも、この村には自然と伝統が残っている。それを活かせば、外から人が来て、村が元気になるかもしれないって思っています」
彼女の真剣な口調にもかかわらず、村民たちの反応は冷ややかだった。誰もが腕を組み、顔をしかめたまま。僕たちの言葉が彼らに届いていないことは明白だった。
「そんなもんで村が救えると思っているのか?」
低い声でそう言ったのは、40代の村民、木下だった。彼は一度都会に出て、今は実家に戻って農業をしているという。スーツ姿の都会暮らしを経験した者特有の疲れた表情が、彼の顔には刻まれている。だが、その目の奥には、どこか冷めたものがあった。
「この村は、もう終わってるんだよ。そんな新しいことをやったって、誰も来やしないし、続けられるわけがない。それに、古い家なんて手入れに金がかかるばかりで、誰がそんな負担を背負うんだ?」
その言葉に、他の村民たちが一斉に頷いた。彼らの顔には長年の経験に基づく現実主義が滲み出ていた。僕たちが提案する夢物語が、彼らの中で現実に足るものとして認識されていない。
「確かに、今のままでは何も変わらないかもしれません。でも、それでも挑戦しなければ、もっと何も残らないんです」
僕の声は少し強張っていた。どうにか説得しようとする焦りが、言葉に混じってしまう。
「挑戦だって? そんなものは若い者の戯言だ。俺たちはそんな夢を見る年じゃない。現実を見ろ」
田代老人が鋭く言い放つ。その言葉は重く、集会所にいたすべての人間を沈黙させた。村の保守的な風土が、まるで目に見える形で僕たちを包み込み、動けなくしてしまうかのようだった。
僕たちの提案は、彼らの目にただの「よそ者の考え」に過ぎなかった。都会で学んできたアイデアや経験が、ここでは異質なものとしか映らない。そしてその異質なものは、彼らにとっては脅威となる。
説明会は、まるで嵐が過ぎ去った後のように静まり返っていた。葉村も、他の若者たちも言葉を失っていた。やがて一人、二人と席を立ち、重い足取りで集会所を後にする村民たちを、僕は無力感の中で見送ることしかできなかった。
「やっぱり無理なのかな……」
葉村がぽつりと漏らした。その声には、これまでの熱意が少しずつ剥がれ落ちていくのが分かる。
「そんなことはない。まだ終わったわけじゃない」
僕は必死に自分を奮い立たせようとしたが、言葉に力がこもらない。現実が突きつけてくる圧倒的な壁の前で、僕たちはただ立ち尽くすしかなかった。これまでに抱いていた希望が、一瞬にして瓦解していく感覚が、胸の中で冷たく広がっていく。
外に出ると、夏の陽射しが僕たちを包んだが、その明るさもどこか遠く感じた。村の空気が、重く、湿り気を帯びていて、僕たちの足元をすくおうとしているかのようだ。
「どうする、篤さん?」
葉村が静かに尋ねてくる。その目には、まだ諦めきれない思いがかすかに残っていたが、それもいつ消えてしまうか分からない。僕は深呼吸をして、周りを見回した。古びた家々が並び、田んぼの緑が広がっている風景は、何も変わらない。だが、僕の心の中では大きな変化が起きていた。
「僕たちだけじゃ、無理かもしれない。でも、誰か一人でも賛同してくれる人がいれば、それが道になるかもしれない」
僕の言葉に、葉村は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐにその目が輝きを取り戻した。
「一人でも?」
「そう。一人でも村の中で理解者が増えれば、そこから何かが動き出すかもしれない。全員を一度に説得するのは無理だ。でも、少しずつ変えていけるはずだ」
僕自身、自分の言葉にどれだけの確信があるのか分からなかったが、それでも立ち止まることはできなかった。失敗を恐れていたら、何も始まらない。都会での生活が教えてくれたのは、成功の裏には常に失敗があり、その失敗が次の成功へと繋がっていくということだ。
「じゃあ、まずは誰か一人、味方を作ることから始めましょう」
葉村が決意を込めて頷いた。僕たちの前に広がる道はまだ険しいが、その先に見えるものを信じて進むしかない。村のために、そして自分たちのために、ここでの挑戦を諦めるわけにはいかなかった。
太陽は西の空に傾き、影が長く伸びていた。その光景は、まるで僕たちに何かを語りかけているかのようだった。
7月の初め、夏の太陽は一日中じりじりと地面を焦がし続けていた。空はどこまでも澄み渡り、雲ひとつない青が広がっているが、その鮮やかさとは裏腹に、村中を歩き回る僕の身体は汗にまみれていた。風はほとんどなく、重たい空気が肌にまとわりついて離れない。
「暑いな……」
僕は無意識に呟きながら、古びた家の軒先に立っていた。目の前にあるのは、この村でも最も古い家のひとつ。屋根はところどころ苔むし、壁の塗装は長い年月を経て剥がれ落ちている。玄関先に置かれた履物は風にさらされ、すっかり色褪せていた。
僕は深呼吸してから、扉を軽く叩いた。中からは何の音も聞こえない。さらにもう一度叩こうとしたその時、ギシリ、と玄関の引き戸がわずかに開き、顔を覗かせたのは村の長老格の田代老人だった。
「何度も来るな、と言ったはずだが……」
しわだらけの顔には険しい表情が浮かんでいた。彼の瞳は濁っていたが、そこにはまだ力が宿っている。まるで僕たち若者の動きをじっと監視し、少しでも隙を見せれば叩きのめしてやろうという気迫すら感じさせた。
「田代さん、またお邪魔して申し訳ありません。でも、どうしてもお話ししたくて……」
僕は一歩前に出て、できる限り誠実な声で言った。この一か月、僕と葉村たちは、村中の家々を一軒一軒訪ね歩いて、再生プロジェクトへの協力を依頼して回っていた。どの家も反応は様々だったが、田代のように頑なに拒む者も少なくはなかった。
「お前たちがどんなに熱心に頼んできても、俺は協力するつもりはないよ」
田代は強く言い放ち、扉を閉めかけた。だが、僕はその瞬間に口を開いた。
「田代さん、この村が持つ力を、どうか一度だけ信じてみてください。僕たちは、ただ古い家を修理するだけではなく、村そのものを未来に繋げたいんです。この家も、そして田代さんたちが長い年月をかけて守ってきたものも、消えてしまわないようにしたいんです」
言葉が熱を帯びるのを感じたが、それが彼に伝わるかどうかは分からなかった。田代の顔には依然として冷たい拒絶の色が浮かんでいる。しかし、彼は扉を完全には閉めなかった。
「未来だと? そんなものは俺たちには関係ない。俺たちは今を生きるのが精一杯だ。家の修理だって金がかかるし、観光客なんか呼んでどうなるんだ。お前ら若い者には分からんさ」
田代の言葉は鋭く、僕の胸に突き刺さる。確かに、彼の言う通りだった。この村の現実は、僕たちの理想とはかけ離れている。毎日を生き抜くために苦労している彼らにとって、僕たちが提案する「未来」はただの絵空事に過ぎないのかもしれない。
それでも、僕は諦めるわけにはいかなかった。この村には、まだ可能性があると信じていた。そしてその可能性を掘り起こすためには、村の人々の理解がどうしても必要だった。
「田代さん、もし少しでも話を聞いてもらえれば、きっと何かが変わるかもしれません。僕たちは何も、すべてを一度に変えたいなんて思っていません。少しずつでもいいんです。ただ、その一歩を踏み出すために、田代さんの力が必要なんです」
僕の声は震えそうになるのを抑えながらも、できるだけ真摯に伝えようとした。長い沈黙が続いた。蝉の鳴き声だけが耳元で響いている。
そして、ゆっくりと田代は扉を開けた。
「……お前たちがどこまで本気なのか、試させてもらおうじゃないか」
田代の目には、かすかな光が戻っていた。その一言で、僕は胸の奥から何かが溶け出すような感覚を覚えた。彼の心が完全に開かれたわけではないかもしれない。それでも、僕たちは確実に一歩を踏み出したのだ。
それからの数週間、僕たちはさらに村中を歩き回り、ひとりひとりの村民に時間をかけて話をした。夏の陽射しは日増しに強くなり、まるで僕たちを試すかのように過酷な状況が続いた。それでも、僕たちはその暑さに負けるわけにはいかなかった。
ある日、葉村とともに村の外れにある若い農家、石塚家を訪れた。石塚は30代半ばの精悍な顔立ちをしており、都会から戻ってこの村で農業を始めた人物だった。彼は最初から僕たちのプロジェクトに興味を示していたが、まだ確信が持てずにいた。
「篤さん、俺も興味はあるんだよ。けどさ、やっぱりリスクが高いんじゃないかと思ってな。うまくいけば村のためになるだろうけど、失敗したらどうする? 村全体が被害を受ける可能性だってあるんじゃないか?」
石塚は畑仕事の手を止め、額の汗を拭いながら真剣な顔で言った。その表情には、現実的な不安と責任感が表れていた。彼はこの村に根を下ろし、家族を養っていかなければならない立場にいる。
「確かにリスクはあります。でも、何もしなければ、この村は今のままどんどん衰退していくだけです。僕たちは失敗を恐れていますが、それを理由に動かないわけにはいかないと思うんです」
僕は彼の目を見つめ、言葉を続けた。
「それに、プロジェクトは村全体を巻き込むわけではなく、段階的に進めるつもりです。最初は小さな規模で始めて、成果を確認しながら進めていけば、村への負担も最小限に抑えられます。少しでも、村の未来を明るいものにするための一歩を踏み出してみませんか?」
石塚はしばらく黙って考え込んでいたが、やがて深く息を吐いて頷いた。
「分かった。俺も一緒にやってみるよ。どうせ、何もしなければこの村はどんどん衰退していくだけだからな。少しでも可能性があるなら、挑戦してみる価値はある」
その瞬間、僕はまたひとつの大きな壁を越えた気がした。石塚の賛同は、若い世代にとって大きな励みとなり、彼の意見を聞いた他の若者たちも次第に賛同してくれるようになっていった。
8月の終わり、村の雰囲気は少しずつ変わり始めていた。村民たちの中には、僕たちの提案を支持し始める者が増えてきていた。一度は強固な壁に阻まれたように感じたが、少しずつ、その壁にはひびが入り、光が差し込み始めた。
村の集会所で開かれた会合で、これまで反対していた村民の一部も、慎重ながらも前向きな意見を口にするようになった。
9月の中旬、空は高く澄み渡り、秋の気配がそっと漂い始めていた。夏の蒸し暑さから解放された風が、古民家の工事現場を包み込むように吹き抜けていく。耳を澄ますと、遠くから響く山の鳥の鳴き声が、静寂な田園風景の中に溶け込んでいた。
目の前には、長年放置されていた古民家の骨組みが姿を現していた。長い時間を耐え抜いてきた木材は、黒ずみ、所々にひびが入っていたが、それでも頑丈にそびえている。その木の表面に触れると、木々が生きてきた歴史が手に伝わってくるような感覚に襲われた。かつてこの家に住んでいた人々の生活、その温もりや悲しみが、無言のまま僕に語りかけている気がした。
「さて、始めようか」
僕は手元の設計図を確認し、現場の作業員たちに声をかけた。彼らの顔には集中した表情が浮かび、作業の準備を整えていた。工具の金属音が空気を切り裂き、古びた木材を解体する作業が進んでいく。
「慎重に、だ。ここは何十年も使われてきた家だ。壊すんじゃなくて、生かすんだ」
僕はそう言って作業員たちに指示を出した。この家をただの修理ではなく、再生させるという責任感が重くのしかかる。失敗は許されない。それは、単に建物を復元するためだけではなく、村全体の未来に関わることだからだ。
村民たちは最初、僕たちの提案に懐疑的だった。だが、少しずつ僕たちの熱意が伝わり、工事が始まる頃には、多くの村人がその姿勢を支持してくれるようになっていた。それでも、彼らの心の奥に残る不安や疑念を完全に拭い去るには、まだ時間がかかるだろう。だからこそ、僕はこのプロジェクトに全身全霊を注がなければならない。
「篤さん、お茶どうぞ」
背後から聞こえた声に振り返ると、紗耶が笑顔で湯飲みを差し出してきた。彼女の顔は少し日焼けしており、夏の太陽の下で一緒に動き回っていた証だった。僕は湯飲みを受け取り、彼女の隣に腰を下ろした。
「ありがとう。ちょっと休ませてもらうよ」
湯飲みの熱が手に伝わり、心が少し落ち着く。二人で現場を見渡しながら、しばらく言葉を交わさず、ただ目の前の光景に目を凝らしていた。工事は順調に進んでいるが、その静けさの中にあるのは、これまでにない緊張感だった。僕は、古民家再生という目標の先に、村全体の未来がかかっていることを感じ取っていた。
「篤さん……大丈夫?」
紗耶がぽつりと尋ねてきた。彼女の瞳はまっすぐ僕を見つめ、言葉にできない不安を抱えているようだった。その視線に、僕は一瞬言葉を詰まらせた。
「いや、大丈夫さ。ただ、責任が重く感じるんだ。もしも、この工事がうまくいかなかったら……僕のせいで村の未来が変わってしまうかもしれない。そう考えると、正直、怖いよ」
僕は湯飲みを置き、正直な気持ちを紗耶に打ち明けた。工事の進行や設計の細部は完璧に計画しているつもりだったが、それでも一抹の不安が胸の奥に渦巻いていた。それは、かつて自分が犯した過ちが、今度も繰り返されるのではないかという恐怖だ。
「篤さん、過去はもう変えられないけど、今、こうやって真剣に取り組んでいるじゃない。それが何より大事なんだと思う。村のみんなだって、篤さんを信じてるから協力してくれてるんだし、私も篤さんを信じてるよ」
紗耶の言葉は、まるで冷たい清流のように僕の胸を洗い流した。彼女のまっすぐな言葉が、僕を支えてくれていることを改めて感じた。
「ありがとう、紗耶。君がいてくれて本当に助かるよ」
僕はそう言って微笑んだが、その微笑みは自分でもどこかぎこちないものに感じた。まだ、過去の影が完全には消えていないのだ。
工事が進むにつれて、村民たちの協力も徐々に増えていった。最初はただ見ているだけだった彼らも、少しずつ手を貸してくれるようになった。ある者は古い道具を持ち寄り、ある者は作業の手伝いを申し出てくれた。長年この村で暮らしてきた彼らにとって、この家はただの建物以上の存在だったのだろう。
「篤さん、こっちの柱はだいぶ傷んでるみたいだな」
作業の合間に、村の大工である宮田が声をかけてきた。彼は50代半ばの屈強な男で、長年村の建物を手掛けてきた職人だった。木材の質や状態を見る目は確かで、彼のアドバイスには常に耳を傾けていた。
「うん、ここは一度全部取り替えるしかないかもしれないな。どう思う?」
僕は彼に意見を求めながら、柱の状態を確認した。宮田は一度黙って柱を叩き、耳を澄ませてから頷いた。
「そうだな、これはもう限界だ。取り替えるのが最善だと思う。だが、無理に全部新しいものにしなくても、古い材木の一部を生かして修繕することもできるはずだ」
彼の言葉に、僕は深く頷いた。古いものを壊して新しくするのではなく、生かしながら再生する。それが僕たちのプロジェクトの根幹にある考え方だった。
「分かった。じゃあ、その方向で進めよう。少しでも昔の形を残せるように」
僕は宮田と一緒に柱の修繕方法を確認し、他の作業員にも指示を出した。村の人々の力を借りながら、少しずつ、しかし確実に工事は進んでいった。
夕暮れ時、工事現場は黄金色の光に包まれていた。西の空に沈みかけた太陽が、古民家の瓦を照らし、長い影を落としている。僕はその光景を見つめながら、ふと立ち止まった。
「篤さん、今日はこれで終わりだな」
紗耶が隣に立ち、同じように夕陽を見つめていた。彼女の横顔は静かで、どこか安堵の色が浮かんでいる。
「そうだな……ここまで来れたのも、みんなのおかげだ」
僕は小さく呟きながら、遠くに広がる村の景色を眺めた。工事はまだ終わっていないが、着実に進んでいる。そして、村人たちとの絆もまた、少しずつだが深まっている。それは、まるで古民家の再生と同じように、一歩一歩、時間をかけて築かれているものだった。
僕はもう一度、自分の手でこの村を再生することができるかもしれない、と感じ始めていた。かつての過ちは消えないかもしれないが、今の僕には、やり直す力がある。そう信じることで、少しずつだが心が軽くなっていくのを感じていた。
夕陽はやがて山の向こうに完全に沈み、工事現場は再び静寂に包まれた。
11月の上旬、山々は赤や黄色に染まり、河原には澄み切った秋の風が吹き抜けていた。工事は佳境に入り、古民家再生の骨組みがほぼ完成した頃だった。僕は作業の合間を縫って、工事現場から少し離れた河原へ足を運んだ。深呼吸をし、空気の冷たさを胸いっぱいに吸い込むと、秋特有の乾いた冷気が心にまで染み渡るような感覚に包まれた。
川のせせらぎが静かに耳に届く。水面には青空が映り込み、ゆらゆらと揺れていた。その不規則な揺らめきは、まるで僕自身の心の中の揺れを象徴しているようだった。工事が順調に進む一方で、心の奥に残るわだかまりや不安が、まだ完全に消えたわけではなかった。
「篤」
ふと、後ろから声が聞こえた。振り返ると、そこには美月が立っていた。彼女の存在は、まるで一陣の風のように静かに、そして確かに僕の前に現れた。彼女がこの村を訪ねてくるのは予想していなかった。けれど、その姿を見ると、なぜか心の中にあった緊張が少しだけほぐれた気がした。
美月はいつも通り、洗練されたファッションに身を包んでいた。薄手のコートは体にフィットし、その下には白いセーターと濃紺のスカートが見えた。彼女の持つシンプルで上品な美しさは、都会の景色によく似合うものだったが、不思議とこの田舎の風景にも違和感なく溶け込んでいる。
「よく来たね」
僕は声をかけながら、彼女に向かって歩み寄った。美月の顔には穏やかな表情が浮かんでいたが、その目の奥には複雑な感情が宿っているのが分かった。二人の間に漂う沈黙は、決して気まずいものではなく、むしろ互いに多くのことを伝え合おうとする静かなやり取りだった。
「工事、順調みたいね」
美月が川の方を見ながら言った。僕は彼女の視線を追い、工事現場の方向を見つめた。骨組みが姿を現し、そこには少しずつ形になりつつある家の姿があった。村の人々の手助けもあり、予定通りの進行だったが、まだまだ気は抜けない状態だった。
「ああ、なんとかね。でも、まだ終わりじゃない。これからが本当の勝負だと思ってる」
僕は自分の言葉が、どこかぎこちなく響いたのを感じた。美月に対して、何かを説明する必要はないように思えたが、それでも言葉が自然と口をついて出た。
美月はしばらく黙ったまま、川の流れに視線を落としていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「篤、変わったね」
その一言は、静かでありながら、重みがあった。僕はその言葉に少し戸惑いを覚えた。変わったのだろうか?自分ではその変化に気づかないまま、ただ目の前のことに必死だった。でも、彼女の目には何かが映っているのかもしれない。
「そうかな、変わったんだろうか」
僕は素直に自分の疑問を口にした。美月は小さく頷きながら、僕を見つめた。
「うん、前のあなたは、いつも何かに追われているようだった。何かを証明しなければいけない、っていう強迫観念みたいなものがあった。でも、今のあなたは違う。少し肩の力が抜けてる気がする」
彼女の言葉に、僕は思わず息を飲んだ。確かに、かつての僕は何かに急かされるように生きていた。自分を証明しなければならない、何かを成し遂げなければならないと常に焦っていた。けれど、この村での時間は、そんな僕を少しずつ変えてくれたのかもしれない。自然の中での暮らし、人々との関わり、そして何よりもこのプロジェクトに真摯に向き合うことで、知らず知らずのうちに心がほぐれていったのだろう。
「そうかもしれない。でも、それはまだ途中だよ。自分でもまだ、どこに向かっているのか分からない時があるんだ」
僕は正直な気持ちを打ち明けた。美月は頷きながら、少しだけ微笑んだ。その微笑みは、どこか懐かしく、そして温かかった。
「私も、少しずつだけど変わってるんだと思う。都会の生活に追われて、自分が何をしたいのか分からなくなる時があった。でも、こうして篤がここで頑張ってる姿を見て、私も何かを見つけなきゃって思えた」
彼女の言葉には、これまでに感じたことのない誠実さがあった。彼女もまた、僕と同じように自分の中で何かを探し求めていたのだろう。都会での生活、忙しさに追われる日々の中で、自分を見失いかけていたのかもしれない。
「美月、ありがとう。君がこうしてここに来てくれたこと、それだけでも十分嬉しいよ」
僕はそう言いながら、彼女の目を見つめた。美月は一瞬目を伏せたが、すぐに顔を上げて、まっすぐに僕を見返してきた。
「篤、これからどうするの?」
その問いは、まるで僕の未来を見据えているかのようだった。僕自身、まだ明確な答えを持っているわけではなかったが、それでも少しずつ、自分の進むべき道が見え始めている気がした。
「今はこの古民家を完成させることが最優先だけど、それが終わったら……村での生活を続けようと思ってる。都会に戻るつもりはないんだ」
僕は自分でも驚くほどはっきりと答えた。以前の僕なら、そんな決断を簡単には下せなかっただろう。だが、今の僕は違った。この村で得たもの、感じたものが、僕にとってかけがえのないものだと分かっていた。
美月は僕の言葉を聞いて、しばらく黙ったまま考えているようだった。そして、ゆっくりと口を開いた。
「そっか……篤がそう決めたなら、きっとそれが正しいんだと思う。私は、どこにいても篤のことを応援してるから」
彼女の言葉は、まるで暖かな陽だまりのようだった。僕の胸の中にあった迷いが、少しずつ溶けていくのを感じた。
「ありがとう、美月。君には感謝してもしきれないよ」
そう言いながら、僕はふと川の流れを見つめた。水面は相変わらず揺らめき続けているが、その揺らぎはどこか穏やかで、これまで感じていた不安とは違うものだった。
美月もまた川を見つめながら、少しだけ微笑んだ。その横顔は、かつての彼女とは違う柔らかさを帯びていた。そして、その変化は、僕自身が知らないうちに求めていたものだったのかもしれない。
「また会おう、篤」
美月がそう言って立ち上がると、僕は静かに彼女を見送った。彼女の背中が遠ざかっていくのを見つめながら、僕は自分の胸の中にある何かが確実に変わりつつあるのを感じていた。
3月の終わり、春の風が頬を撫でる中、古民家のリノベーションはついに完成した。あれほど古びて、崩壊寸前だった家が、今では新しい生命を宿し、また村の中心として堂々と立ち上がっている。その姿は、かつての家が持っていた静かな威厳を残しながらも、どこか柔らかく温かい光を放っていた。これまでの努力が全て実を結んだ瞬間に、僕はようやく達成感とともに、深い安堵感を感じた。
オープニングセレモニーには多くの人々が集まっていた。村の住人たちだけでなく、観光客や周辺の村からも人々が訪れ、かつてこの場所に存在していた寂しさや衰退の影は、まるで消え去ったかのようだった。春の陽射しが新しい瓦屋根に反射し、淡い光が辺り一面に広がっている。その中で、僕は穏やかな喜びを胸に、リノベーションされた家を背に立っていた。
「よくやったな、篤」
隣に立つ村長が、僕に向かってぽんと肩を叩いた。村長の顔には深い皺が刻まれているが、その目はどこか嬉しそうに輝いていた。彼もこの古民家再生プロジェクトの成功に、大きな喜びを感じているのだろう。
「いや、僕だけじゃない。村の皆が協力してくれたからこそ、ここまで来れたんです」
僕はそう答えた。実際、このプロジェクトは僕一人の力で成し遂げられたものではなかった。村人たちが少しずつ心を開き、力を貸してくれたからこそ、ここまで辿り着くことができたのだ。彼らの協力なしには、再生は夢のままだっただろう。
「まあ、それでもお前が村長を引き受けてくれて助かったよ。これからが正念場だな」
そう言って、村長は少しだけ笑った。その笑顔には、これからの村の未来を託す覚悟が見えた。僕は彼の視線を受け止めながら、深く頷いた。僕が村長としてやるべきことは、まだたくさんある。けれど、この再生された古民家は、その一歩に過ぎない。これから先、村を新しい時代へと導くための挑戦が待っている。
「頑張ります。でも、僕一人じゃなく、村全体で進んでいきたいです」
僕はそう言いながら、遠くに集まる人々の方を見た。彼らの笑顔や楽しそうな様子を見ていると、胸の奥に温かなものが広がっていくのを感じた。これまでの困難や葛藤が、全てこの瞬間のためにあったように思えた。
その時、ふと視線の先に、美月の姿が見えた。彼女は人々の間に立ち、白いシャツにベージュのスカートというシンプルな服装で、柔らかな微笑みを浮かべていた。風に揺れる彼女の髪が、春の日差しを受けて金色に輝いている。その姿を見つけた瞬間、僕は自然と彼女の方へ歩み寄っていた。
「美月、来てくれてありがとう」
僕が彼女に声をかけると、美月は少し頬を赤らめて、僕に微笑み返した。
「おめでとう、篤。立派なものを作り上げたね。村の皆も喜んでるし、観光客もたくさん来てくれて、村が賑やかになった」
彼女の言葉には、純粋な祝福の気持ちが込められていた。それが僕にとって、何よりも嬉しかった。美月はこの村で働くことを決意し、診療所での仕事を始めることになっていた。都会でのキャリアを捨てて、ここで新しい未来を築こうとしている彼女の覚悟に、僕もまた強く心を打たれていた。
「美月もこれから、ここで一緒にやっていくんだよな」
僕がそう尋ねると、彼女はしっかりと頷いた。その瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
「そうだよ。私はここで、村の人たちの健康を守るために働く。都会での生活も悪くなかったけど、ここでの暮らしの方が、私にはしっくりくるんだって気づいたの」
彼女の言葉を聞いて、僕はふと胸が熱くなった。美月がこの村に来てくれること、それは僕にとっても、村にとっても大きな力になるだろう。僕たちはそれぞれ違う道を歩んできたが、今こうして同じ場所で新たな未来を見据えている。それがどれほど尊いことか、言葉にできないほどの感慨が湧いてきた。
「これからも一緒にやっていこう」
僕は彼女にそう言い、手を差し出した。美月は少し驚いたような顔をしたが、すぐに微笑んで僕の手を握り返した。その瞬間、僕たちの間に流れる時間がゆっくりとしたものに変わった気がした。二人の手が繋がれたまま、僕たちは新しい風景を見つめていた。
古民家の再生は終わり、村はこれから再び活気を取り戻していくだろう。だが、それは終わりではなく、新たな始まりだった。僕も美月も、この村で新しい人生を歩み出すことになる。そして、その歩みは決して孤独なものではない。村の人々が支え合い、共に未来を作り上げていく。そんな確信が、今の僕にはあった。
遠くで聞こえる子どもたちの笑い声、春の風に揺れる木々の音、そして川のせせらぎ。それらがすべて、未来へと繋がる音のように感じられた。
「これからが本当の始まりだな」
僕は自分に言い聞かせるように呟いた。美月が優しく微笑みながら、僕の手をぎゅっと握り返した。その温もりが、僕の胸の中に強い光を灯してくれた。
僕たちは共に、この村で新たな未来を歩む。それがどんな道であっても、僕はもう迷うことはないだろう。美月と共に、この村と共に生きていく。そうして僕たちは、新たな一歩を踏み出していった。
<完>
作成日:2024/09/27
編集者コメント
前編、後編からなります。前編はこちら。
ストーリーとしては悪くはないのだと思うのです。「盛り上がらずに終わる感」をなんとかできたら。