築く手の温もり 前編:青春という名の足場
チャプター1 上京の夢
3月の冷え込む朝だった。外はまだ灰色の雲が空を覆っていて、寒村の家々から立ち昇る煙が風に流され、どこか遠くへ消えていく。僕は家の縁側に腰をかけ、足元に広がる土と草をぼんやりと見つめていた。山裾にはわずかに残る雪が、春の到来を拒むかのようにしがみついている。風が顔を撫でるたび、ひやりとした感触が頬を冷たく締めつける。
その日は、僕がこの家を出て、東京に向かう日だった。18年間をこの場所で過ごしてきたが、その全てが今日で終わる。父も母も、そして妹の菜穂も、この家も、この風景も――。ここから離れることに対して、不安がないと言えば嘘になる。しかし、それ以上に感じていたのは、これまで抑え込んでいた一種の高揚感だった。大きな町で、新しい生活を始めるという期待。その一方で、目の前にある現実が僕を引き戻し、心の中に微妙な感情の波を立て続けていた。
「ほんとうに、行くのか」
父の声が後ろから聞こえた。振り返ると、彼は縁側の柱に寄りかかり、無言で僕を見下ろしていた。無表情ではあるが、その背後には、何か言いたげな気配が漂っている。父は普段からあまり多くを語らない人だ。寡黙でありながら、言葉の裏に重みを持たせるその姿勢が、いつも僕を萎縮させた。
「うん、決めたんだ」僕はその場に立ち上がり、短く答えた。
「そうか」
父はそれだけ言うと、ふと顔をそらした。遠く、山の方を見つめている。彼の無骨な手がポケットに突っ込まれ、その指先がゆっくりと動くのがわかった。僕も再び視線を地面に戻した。
静寂が流れた。父の足音が聞こえないほど小さく、僕の背後から遠ざかっていった。
「篤、頑張るんだよ」
今度は母の声がした。家の中からやってきた母は、手にタオルを握りしめていた。目は少し赤く、今にも泣き出しそうな顔をしている。彼女は強がるように微笑んでみせたが、その表情には明らかな無理があった。僕はそんな母の姿を見るのがつらくて、少し視線をそらした。
「うん、母さん」僕は言った。「心配しないで。大丈夫だから」
「それでも、心配なのよ。あんたは優しいから、つい無理しちゃうんじゃないかって…」
母は言葉を切りながら、僕に近づき、肩を抱いた。その腕の力が思った以上に強くて、僕は少し驚いた。彼女の体は細く、小柄だったが、そこには大きな愛情と、不安と、そして何かを失うことへの恐れが詰まっているようだった。
「ずっとそばにいたいけど、それはできないよね。でもね、篤、いつだって戻ってきていいんだから。何かあったら、必ず戻ってきなさい。私たちは、ずっとここで待ってるんだから」
母の声が震え、僕の胸の中に言葉が響いた。彼女の顔を見ると、涙が一筋流れ落ちるのが見えた。僕はその涙を拭いてあげたかったが、どうしても手が動かない。まるで自分の体が言うことを聞かないように感じた。
「ありがとう、母さん」
それだけしか言えなかった。もっと多くのことを言いたかったけれど、言葉がうまくまとまらない。ただ、心の中ではわかっていた。母がどれだけ僕のことを心配してくれているのか。そして、僕がどれだけその愛情に応えられるのかは、これからの自分次第だということを。
「菜穂がね、作ったものがあるのよ」
母が僕から少し離れ、家の中に戻った。すると、妹の菜穂がそろそろとやってきた。彼女はまだ小学六年生。小さな体に少し大きめのカーディガンを羽織っている。風にあおられて、彼女の髪がふわりと揺れた。
「お兄ちゃん、これ……」
菜穂は手のひらに何かを握りしめていた。小さな、緑色の布で作られたお守りだった。それは手縫いで、不格好ながらも一生懸命作ったことが一目でわかる。菜穂は恥ずかしそうに目を伏せながら、お守りを僕に差し出した。
「これ、私が作ったの。お兄ちゃんが東京で困ったとき、助けてくれるように……」
彼女の声が震えていた。涙をこらえるために、唇をぎゅっと結んでいるのが見て取れる。僕はその小さなお守りを受け取り、優しく握りしめた。布の感触が、彼女の温もりと一緒に伝わってくるようだった。
「ありがとう、菜穂。大事にするよ」
そう言って僕は、彼女の頭を撫でた。菜穂はうつむきながら、少し頬を赤らめた。彼女にとっては、お兄ちゃんの出発がどれほど大きな出来事かを考えると、胸が締め付けられるようだった。僕がいなくなれば、彼女の生活も少し変わってしまうだろう。そんな思いが頭をよぎった。
「篤……本当に、気をつけて」
母が再び僕のそばに来て、涙を拭いながら言った。彼女の手が僕の背中をそっと撫でた。その瞬間、僕の心の中に固まっていた何かが溶け出すように感じた。それは、父の無言の励まし、母の深い愛情、そして妹の無垢な思い――すべてが重なり、僕の中で一つの確信となった。
「うん、絶対に大丈夫だよ。僕は、東京でもちゃんとやってみせる」
声に出してみると、それが自分自身への約束でもあるように感じられた。家族の期待を裏切らないように、僕は前を向いて歩いていくしかないのだと。
荷物を肩に背負い、家の門を出ると、冷たい風がまた顔に当たった。しかし、もうその冷たさが以前ほど心に響くことはなかった。空は灰色のままだったが、僕の中には小さな灯火が灯っていた。
4月1日の朝、僕は東京駅に降り立った。列車のドアが開くと、冷たい空気が流れ込んできたが、そこには僕の知っている東北の寒さとは違う、都会特有の冷たさがあった。ホームを降りると、目の前に広がる人波に圧倒された。無数の人々が、何かに追われるかのように速足で歩いている。駅の天井は高く、無機質なコンクリートとガラスでできたその空間は、まるで巨大な機械の内部にいるかのようだった。
スーツケースを引きずりながら、人混みの中に足を踏み入れた。流れるように動く群衆の中で、僕だけが異物のように立ち止まっている気がした。何かを探しているわけでもなく、ただ圧倒されていた。空気には鉄道のブレーキが焦げるような匂いが混じり、目の前を通り過ぎる電車の音が耳を圧迫する。すべてが異常に大きく感じられた。
「これが、東京か」
僕は一人つぶやいた。頭の中では、父や母、そして菜穂の顔が次々と浮かんでは消えていった。彼らはこの風景を想像できるだろうか。あの穏やかな村からは、こんな風景はまるで別の世界だ。都会の空気が僕の心を締め付け、どこか胸の奥がざわつく。それは不安と期待が入り混じった、奇妙な感覚だった。
やがて、改札を通り抜けると、さらに巨大な駅の内部が広がっていた。天井から吊るされた案内板には無数の電車の出発時刻や行き先が並んでいて、それを見上げる人々の顔はどれも無表情だ。まるでその場所が何の感情も持たない空洞であるかのように感じられた。スーツケースを引きずる音が、タイルの床を擦るたびに響く。
「こんな場所で、僕はやっていけるんだろうか」
心の中で自問していた。周囲の人々は皆、どこか目的地に向かって確実に歩んでいるのに、僕だけがその流れに乗り切れていない。東京に来る前は、この街が僕を迎え入れてくれるとどこか楽観的に考えていた。しかし、実際に足を踏み入れてみると、その冷たい現実がじわじわと押し寄せてくる。街が僕を拒んでいるようにすら感じた。
ふと、携帯電話が震えた。画面には待ち合わせ相手の名前が表示されていた。遠い親戚の大田という男だ。父のいとこにあたる人物で、僕が東京に出ると知った時に「もし困ったら、しばらくうちに来ればいい」と声をかけてくれた。顔を合わせたのは幼い頃の一度だけで、その記憶すら曖昧だ。
「はい、篤です。今、東京駅に着きました」
電話越しの声は低く、少し雑音に混じっていた。「ああ、そうか。じゃあ、北口のほうで待ってるから、出てきなさい。すぐに分かるよ」と短く言われた。彼の声には、どこか事務的な響きがあり、温かみというものは感じられなかった。僕は「分かりました」とだけ答え、電話を切った。
「北口、北口……」
僕は駅の案内板を探しながら、再び歩き出した。東京駅はまるで迷路のように広く、何度か方向を間違えそうになりながらも、なんとか北口の出口にたどり着いた。外に出ると、また違った景色が広がっていた。高層ビルが空を遮り、道路を行き交うタクシーや車の列が絶え間なく続いている。駅前には多くの人々が行き交い、それぞれの目的に向かってせわしなく動いていた。
「篤君か?」
突然、低い声が背後から聞こえた。振り向くと、そこには中年の男が立っていた。身長は僕より少し高く、痩せた体つきに黒いコートを羽織っている。顔には少し疲れたような表情が浮かんでいて、どこか都会に疲れたサラリーマンのような印象を受けた。彼が僕の待ち合わせ相手、大田だ。
「はい、篤です。お世話になります」
僕は軽く頭を下げた。彼は一瞬だけ頷き、僕を見下ろした。
「まあ、あまり大したことはできんが、家はそんなに遠くない。荷物はそれだけか?」
彼は僕のスーツケースに目をやった。僕はそれを軽く持ち上げて見せながら、「はい、これだけです」と答えた。
「そうか。それならよかった。とにかく、行こうか」
彼はそう言うと、僕のスーツケースを軽々と持ち上げ、自分の方へ引き寄せた。僕は少し驚いたが、彼の行動に反論する余地もなく、後をついていくしかなかった。都会の雑踏の中を、僕たちは黙々と歩いた。
「東京には、初めてか?」
歩きながら、彼が不意に聞いてきた。
「はい、初めてです」
「どうだ?思ってたより大きいだろう。田舎から来ると、圧倒されるかもしれないな」
彼は少し笑みを浮かべたが、それがどこか皮肉めいて感じられた。僕はその言葉に、どう答えればいいのか迷った。確かに、この街は僕が想像していた以上に大きく、そして無機質だった。しかし、どこか自分を試されているような気がして、素直にその感想を口にすることができなかった。
「はい、でも……少しずつ慣れていくつもりです」
結局、当たり障りのない返事をしてしまった。彼はそれを聞いて「そうか」とだけ言い、再び黙り込んだ。僕たちはしばらく無言のまま歩き続けた。
数分ほどして、僕たちは狭い路地に入り込んだ。大通りから少し離れただけで、そこにはまるで違った世界が広がっていた。古びた建物が立ち並び、時折、窓から洗濯物が垂れ下がっているのが見えた。都会の喧騒から離れ、どこか懐かしさを感じさせるような光景だった。僕はその景色に、少しだけほっとした気持ちになった。
「ここだ」
彼は突然立ち止まり、小さな木造の建物を指さした。看板には「○○荘」と書かれていて、その文字はすっかり色褪せている。建物の外壁も所々剥がれ、年月の経過を物語っていた。
「ちょっと古いが、まあ安いし、悪くはない。大家さんもいい人だよ。必要なものがあったら言ってくれればいい。何とかするさ」
彼は軽く肩をすくめながら言った。その表情はどこか疲れていて、僕に対しての関心も薄いように見えた。僕はただ「ありがとうございます」とだけ答え、再び頭を下げた。
彼は玄関のドアを開け、中に入った。狭い廊下が伸び、古い畳の匂いが鼻を突いた。靴を脱ぎ、奥の部屋に案内されると、そこには簡素な布団と机が一つだけ置かれていた。窓の外には隣の建物の壁が迫っていて、陽の光がほとんど差し込んでこない。
「じゃあ、俺はこれで帰るよ」
大田はそう言い残し、去っていった。
4月の冷たい風が吹きつける早朝、僕は建設現場に初めて足を踏み入れた。目の前に広がる鉄骨とコンクリートの無骨な風景は、どこか不安を掻き立てるものがあった。周囲を取り囲む重機やクレーンの巨体が、無音の獣のように空を切り裂いている。その光景に圧倒されつつも、僕は自分のスーツの袖を握り締め、心を落ち着けようと努めた。
「これが、僕の新しい生活の始まりだ」
薄汚れた作業服に着替えた僕は、慣れないヘルメットの重さに違和感を覚えながら、集合場所へ向かった。空はまだ朝焼けの名残を残していたが、周囲の男たちは既に仕事に取り掛かる準備を整えている。誰もが無言で作業道具を手に取り、互いに目を合わせることもなく、ただ自分の役割に集中していた。彼らの目には、まるで僕が存在しないかのような無関心が漂っていた。
「新入りか?」
突然、低く太い声が背後から聞こえた。振り向くと、そこには年配の男が立っていた。顔は日に焼けて黒ずみ、短髪の上にしっかりとヘルメットをかぶっている。腕や肩の筋肉が張り詰め、鍛えられた体つきは、長年この仕事に従事してきたことを物語っていた。彼は現場監督の織田口だった。無愛想な表情と鋭い眼差しが、僕の動揺を見透かしているように感じられた。
「はい、今日からこちらでお世話になります。陸奥野と言います」
僕は緊張しながらも、丁寧に挨拶した。織田口は一瞬だけ僕を見つめた後、無言で頷くと、指先で建設現場の一角を指した。
「あそこに資材を運べ。それが今日のお前の仕事だ」
僕は彼の指示に従い、重い鉄筋やセメント袋を積み重ねられた場所へ運び始めた。想像していた以上に過酷な作業で、肩や腕が痛みを訴え始める。普段は手にしたことのない工具や機材を扱うたびに、無力さを痛感した。手のひらにはすぐに汗がにじみ、工具が滑り落ちそうになる度、冷や汗が背筋を伝った。
「なかなか大変だろう?」
現場の中年の作業員が、皮肉めいた口調で声をかけてきた。彼は自分の工具をいじりながら、僕の不慣れな動きを見ていた。笑っているのか、ただ僕を試しているのか、その表情からは読み取れなかった。
「まあ、最初は誰でもそんなもんだよ」
そう言われても、その言葉が慰めなのか、それともただの事実の羅列なのかは分からない。ただ、その瞬間に自分がこの場所では完全な異物であることを実感した。僕は、都会の雑踏に埋もれた一粒の砂のような存在だ。誰も僕に期待を抱いていないし、同情すらされていない。冷たい鉄骨に囲まれたこの場所では、誰もが自分の生き残りをかけて働いているのだ。
「やれるか?」
再び織田口の声が飛んできた。彼は少し離れた場所から僕の様子を見ていた。その視線には厳しさと同時に、何かしらの期待も感じられた。僕は息を整え、頷いた。逃げ出すわけにはいかない。この街で生きていくためには、この現場で自分の存在を証明しなければならないのだ。
午後になると、作業はさらに過酷さを増した。太陽は高く昇り、重機や資材の照り返しが容赦なく体を焼いた。汗が額を伝い、シャツはすぐに汗でびしょびしょになった。足元は砂利や泥で不安定で、一歩踏み外せば転びそうになる。それでも、僕は歯を食いしばり、黙々と仕事を続けた。同僚たちは一度も僕に声をかけてこなかった。彼らにとって、僕はまだ仲間ではないのだ。
「新入り、こっち手伝え」
声をかけてきたのは、先ほど皮肉を言っていた男だった。彼は大柄で、年齢は三十代後半くらいだろうか。無精髭を生やし、煙草の匂いが彼の作業着から漂ってきた。僕は無言で彼の指示に従い、資材を運び始めた。彼の動きは無駄がなく、手際よく次々と仕事をこなしていく。その姿に感心しつつも、僕の体力は限界に近づいていた。
夕方になり、ようやく作業が終わった。体中が鉛のように重く感じ、足元がふらついた。それでも、初日の仕事をやり遂げたという安堵感が少しだけ僕の中に広がった。織田口がこちらに歩いてきた。
「まあ、よくやった方だ。最初にしてはな」
彼は僕に対して初めての褒め言葉を口にした。それは決して甘やかしではなく、単なる事実の確認のようだった。それでも、その言葉に少しだけ救われた気がした。僕は彼に向かって「ありがとうございます」と言ったが、その声は自分でも驚くほどかすれていた。
織田口は僕の肩を軽く叩き、「明日も同じ時間だ。遅れるなよ」とだけ言い残し、去っていった。彼の背中を見送りながら、僕は今日の自分を振り返っていた。たった一日で、ここまで疲れるとは思っていなかったが、逃げ出すわけにはいかない。都会で生きるということは、こういうものなのだろう。
作業服を脱ぎ、現場のシャワーで汗を流した。冷たい水が体中を覆い、筋肉の痛みが少しだけ和らいだ。鏡を見ると、顔には泥や汗がこびりつき、目の周りには深いクマができていた。まだたった一日しか経っていないのに、こんなにも疲れるのか。
下宿先に戻る道すがら、夕焼けがビルの間から見えた。東京の夕焼けは、僕が知っているそれとは全く違った。どこか人工的で、冷たさを感じさせる。それでも、その中にほんのわずかだけ温かみが残っているようにも思えた。
下宿に戻ると、狭い部屋の中に独りで座り、今日一日のことを反芻した。これからの毎日が同じように過ぎていくのか、それとも何かが変わるのかは分からない。ただ一つ言えるのは、この場所では誰もが自分の力で生き抜かなければならないということだ。誰も助けてはくれないし、僕自身も誰かに頼ることはできない。
「明日も、頑張らないとな」
そう心の中で呟きながら、僕は布団に倒れ込んだ。体中が鉛のように重く、まぶたが自然と閉じていく。都会の夜は静かではなかったが、それでも僕の意識はすぐに深い眠りの中に落ちていった。
5月の風は肌に優しく、昼の厳しい陽射しが落ち着く夕方になると、現場を包んでいた鋭い緊張感も少し和らいでいた。その日の仕事が終わり、僕はいつものように現場の片隅でヘルメットを外し、髪をかき上げた。汗が滲んでいたが、作業の終わりに近づくこの時間だけは、わずかな安堵感が僕を包み込んでくれる。
「篤、今夜空いてるか?」
戸瀬山一紀が声をかけてきた。彼は僕と同じ作業班に属していて、年齢は僕より少し上、30代半ばくらいだろうか。がっしりとした体格と、精悍な顔つきが印象的で、作業現場では常に冷静な判断を下す頼れる存在だった。しかし、その鋭い目つきの中には、どこか優しさが隠れているのも分かっていた。
「居酒屋にでも行こうかと思ってな。たまには酒でも飲んで、現場のことを忘れてリフレッシュしようぜ」
彼の口調はどこか軽いが、底には重い何かが潜んでいるように感じられた。僕は少し考えたが、断る理由もないし、何より今まで現場で孤立感を覚えていた僕にとって、こうした誘いは嬉しかった。
「ええ、行きますよ。誘ってくれてありがとうございます」
僕がそう答えると、戸瀬山は軽く笑って肩を叩いた。「そんなかしこまるなって。大したことじゃないさ。じゃあ、早速行こう」
彼に連れられ、僕たちは現場近くの居酒屋へと向かった。店に入ると、カウンター席には既に仕事帰りらしき男たちが数人座っていて、煙草の煙がうっすらと漂い、焼き鳥や揚げ物の香りが店内に充満していた。僕はその匂いに、少しだけ故郷の懐かしい気持ちを思い出した。こうした居酒屋には、どこかしら共通するものがある。都会だろうが田舎だろうが、この空間には一種の温かみと親しみが詰まっている。
戸瀬山は慣れた様子で店員に注文をし、僕たちはカウンター席に腰を下ろした。僕はメニューを眺めながら、何を頼むべきか迷っていると、戸瀬山が軽く笑いながら言った。
「最初はビールだろ? ここではそういうもんだ」
僕はその言葉に頷き、ビールを頼んだ。やがて、キンキンに冷えたジョッキが目の前に置かれ、僕たちは乾杯した。グラスが軽い音を立ててぶつかり合い、その響きが僕の中にわずかな開放感をもたらした。ビールの苦味が喉を通り、ほんの少しだけ緊張が解けていくのを感じた。
「で、篤はどこから来たんだ? 東京出身じゃないよな」
戸瀬山が興味深そうに問いかけてきた。その目はただの社交辞令ではなく、本当に僕のことを知りたいという純粋な好奇心を感じさせた。僕は少し戸惑いながらも、故郷の話を始めた。
「ええ、僕は東北の小さな町から来ました。大したところじゃないですが、自然が豊かで、山も川もあって、静かないいところです」
その言葉を口にした瞬間、ふと頭の中に故郷の風景が浮かんだ。緑の山々と澄んだ川、そして家々が点在する静かな村。ここ東京とはまるで違う、時間がゆっくりと流れる場所だった。
「静かないいところ、か。そういうの、時々羨ましくなるな」
戸瀬山はそう言いながら、煙草に火をつけた。煙がゆっくりと空中に漂い、やがて消えていく。彼の表情には、どこかしら遠くを見つめるようなものがあった。それが一瞬だけ過ぎ去った後、彼は再び僕に向かって言葉を続けた。
「東京に来て、何年くらい経つ?」
「まだ1か月ほどです。正直、まだこの街に慣れない部分が多いです。人も多いし、なんだか自分がどこにいるのか、よく分からなくなることがあります」
僕が正直にそう答えると、戸瀬山は頷きながらビールを一口飲んだ。
「それも分かるよ。俺も昔、そうだったからな。慣れるまでには時間がかかるもんさ。でも、一度この街に馴染めば、もう離れられなくなる。なんだかんだ言って、この街には不思議な魅力があるんだよ」
「不思議な魅力、ですか?」
僕は戸瀬山の言葉を反芻しながら、彼が何を意味しているのか考えた。東京は確かに大きくて、刺激的で、目まぐるしく変わり続ける街だ。しかし、その中に魅力と呼べるものがあるとすれば、それはどんなものだろう。
「うん、たとえばさ、この街では誰もが自分の居場所を見つけることができる。最初は孤独に感じるかもしれないが、いつか自分が本当にいるべき場所が見つかるんだ。俺も、昔はそう思ってた」
彼の言葉には実感がこもっていた。僕は少し驚きながらも、彼がこうして現場で冷静に振る舞う理由が何となく分かるような気がした。彼はこの街で、自分の居場所を見つけたのだろう。そして、その居場所で自分の生き方を確立しているのだ。
「篤も、いずれ分かるよ。まだ始まったばかりだろう?」
僕は頷きながら、再びビールを口に運んだ。冷たい液体が喉を潤し、少しずつ体が温まっていく感覚が心地よかった。
「ところで、故郷の話をもう少し聞かせてくれよ。東京とはまるで違う世界なんだろう?」
戸瀬山が興味深そうに尋ねてきた。僕は再び故郷の話を続けることにした。子供の頃、山で遊んだことや、地元の祭りの賑わい、そして家族のこと。話すうちに、心の中にわずかな郷愁が広がっていったが、それと同時に、この街に来た理由も思い出した。新しい生活を始めるために、そして、自分自身を試すために。
「東京に来た理由は何だったんだ?」
戸瀬山の問いかけに、僕は少し言葉を詰まらせた。しかし、逃げることはできなかった。この街で生きていくためには、過去を背負ったまま進んでいかなければならないのだ。
「自分を変えたかったんです。故郷では、どこかで限界を感じていた。あの場所にいれば、きっとずっと同じ生活を送ることになるだろうと思って。それが悪いわけではないんですが、自分には何か他の可能性があるんじゃないかって、そんな気がして」
僕の言葉に、戸瀬山は真剣に耳を傾けていた。そして、静かに頷いた後、彼は煙草の灰を灰皿に落としながら言った。
「それは立派な理由だ。東京に来る奴の多くは、何かを変えたくてやってくる。でも、変えるってのは簡単じゃない。街が人を変えるんじゃない。自分で自分を変えないと、どこにいても同じだ」
彼の言葉は重く、しかしどこか温かかった。それは僕に対する激励のようでもあり、同時に自分自身に向けた言葉のようにも聞こえた。
6月下旬の夕暮れ時、蒸し暑さが少しだけ和らいだ風が吹き抜ける中、僕は建設現場の事務所の前で一息ついていた。日中の灼熱の太陽に晒され、現場での重労働に疲れ果てた体は鉛のように重く、汗が肌にまとわりついている。しかし、今日はいつもと少し違う感覚が僕の中にあった。何かが起ころうとしている、そんな不思議な予感だ。
「篤、ちょっといいか?」
その声に振り返ると、織田口が事務所の入口に立っていた。彼は現場監督であり、僕がこの仕事を始めてからずっと指導してくれている人物だ。四十代半ば、背が高く、どっしりとした体格の彼は、現場の中で圧倒的な存在感を放っている。口数は少ないが、その一言一言には重みがあり、僕にとっては尊敬する上司でもあった。
「今から少し話せるか? 事務所の中で」
彼の呼びかけに、僕は汗を拭きながら頷いた。こうして事務所に呼ばれるのは珍しい。普段は現場でのやり取りがほとんどだからだ。僕は何があったのかを考えながら、彼の後に続いて事務所に入った。
中に入ると、エアコンの冷たい風が心地よく体に当たり、僕は一瞬ほっとした気持ちになった。古い木製の机と椅子が並んでいる質素な部屋だが、その冷気が疲れた体をじわじわと癒してくれる。織田口は自分のデスクの後ろの椅子に腰を下ろし、僕を向かいの椅子に座らせた。
「篤、最近の働きぶりを見ていて思ったんだが、お前、もっと自分を伸ばしたくはないか?」
彼の言葉に、僕は少し戸惑った。何を言っているのかすぐには理解できなかったのだ。これまで僕は、ただ与えられた仕事をこなすことだけに必死で、自分がそれ以上の何かを目指すことなんて考えてもいなかった。
「自分を、伸ばす、ですか?」
僕は思わず繰り返していた。織田口は頷き、デスクの上に置かれた書類に手を伸ばしながら続けた。
「そうだ。この業界では、ただ体を使って働くだけじゃなく、技術や知識を持っている人間が強い。お前の真面目な働きぶりを見ていて、もっとできるやつだと思ったんだ。だから、夜間の専門学校に通ってみないか?」
その提案に、僕の心は一瞬でざわめいた。専門学校? 自分が?そんなことが現実的なのか? もちろん、技術を学ぶことの大切さは知っているし、学びたい気持ちはあった。しかし、それが本当に僕に可能なのかどうか、即座に答えを出すことができなかった。
「夜間の学校に通えば、昼間の仕事を続けながら技術を学ぶことができる。将来のことを考えれば、きっと役に立つ。現場だけじゃなく、もっと広い視野で自分を成長させるためにもな」
織田口の目は真剣だった。彼はただの思い付きで言っているわけではない。僕のことを考え、これからの将来を見据えて提案してくれているのだ。そのことは、彼の言葉や表情から強く伝わってきた。
僕は一瞬、呼吸を整えながら頭の中で考えを巡らせた。確かに、このままの状態で働き続けることに何かしらの限界を感じ始めていた。肉体的な疲労はもちろんだが、心の中で「もっと成長したい」という欲望が芽生えていることにも気付いていた。しかし、現実の問題も頭をよぎった。学費のことだ。
「織田口さん、ありがとうございます。でも、僕にそんな余裕があるかどうか……正直、学費をどうやって工面するかが問題です」
僕は正直に答えた。どれだけ学びたい気持ちがあっても、金銭的な問題は避けて通れない。今の給料で生活を支えるだけでも精一杯なのだ。そんな僕が、さらに学費を払う余裕があるのかどうか、冷静に考えれば不安しかなかった。
織田口はしばらく僕の話を黙って聞いていたが、やがて軽く頷いてから、再び言葉を口にした。
「そのことは俺も考えていた。確かに、学費は安くはない。だが、お前のように真面目で、将来をしっかり見据えている奴には、きっと道が開けるはずだ。俺も、できる限りの支援はするつもりだし、もし必要なら、いくらかは俺が助けるつもりでいる」
その言葉を聞いて、僕は驚いた。織田口がそこまでしてくれるとは思ってもいなかった。彼は単なる上司ではなく、僕にとっては師匠のような存在だった。彼の言葉は信頼に値する。しかし、そう簡単に彼の助けを受け入れてしまっていいのかという迷いも同時に感じていた。
「そんなにまでしていただけるなんて……でも、僕一人で解決できる問題ではないですよね。学費のことは、もう少し考えさせてください」
僕はそう言って、少しだけ微笑んだ。しかし、その微笑みの裏側には、複雑な感情が渦巻いていた。織田口の提案は確かに魅力的だったし、自分を成長させるためには絶好の機会だと分かっていた。でも、それを受け入れることには、大きな決断が必要だった。
織田口は、そんな僕の葛藤を見透かすように静かに頷いた。
「もちろんだ。無理に押し付けるつもりはない。ただ、俺はお前に可能性を見出している。それを無駄にしてほしくないんだ。ゆっくり考えて、答えを出せばいい」
その言葉は、僕の中で深く響いた。可能性。自分にそんなものがあるのだろうかと、これまで考えたこともなかった。しかし、織田口がそう言ってくれるなら、信じてみる価値があるのかもしれない。
事務所を出ると、外の空気はまだ蒸し暑かったが、先ほどまでの重苦しさは少しだけ軽くなっていた。織田口の提案を受けて、僕の心には新たな道が見えてきた気がした。しかし、それは同時に、今まで以上に大きな責任と不安を伴う道でもある。
夜空を見上げると、薄い雲がゆっくりと流れている。まるで、僕の未来もその雲のように、形を変えながら少しずつ進んでいるような気がした。
「自分を変えるために、何ができるんだろう」
僕は静かに呟いた。その答えはまだ見えていない。しかし、織田口の言葉が背中を押してくれている限り、僕は一歩ずつでも前に進むしかないのだ。
その夜、眠れないままに布団に横たわっていた僕は、織田口の提案に対してどう答えるべきか、頭の中で何度も反芻していた。現実の問題と、夢見るような可能性との間で揺れ動く心は、なかなか答えを出せずにいた。
それでも、どこかで「挑戦したい」という気持ちが徐々に大きくなっていくのを感じていた。もし、あの専門学校に通うことができれば、自分は今までとは違う景色を見られるかもしれない。新しい技術、新しい知識、新しい仲間——。それらが僕の未来を切り拓いてくれるかもしれないという期待が、少しずつ心の中で膨らんでいった。
翌日、織田口にその気持ちを伝える決心をした。学費の工面はまだ不安だが、それ以上に「やってみたい」という気持ちが勝っていたからだ。そして、その不安は、織田口や周りの人々と一緒に乗り越えていけばいい。
「自分の可能性を試すために、今がその時なんだ」
僕は、心の中でそう強く決意し、次のステップに向かう覚悟を固めた。
七月の暑い午後、僕は下宿先の狭い部屋で扇風機の風を浴びながら、仕事で使う書類の整理をしていた。エアコンのないこの部屋では、扇風機だけが僕の唯一の救いだ。羽音が一定のリズムで回る中、窓から差し込む強い日差しが、薄いカーテン越しにぼんやりと揺れている。湿った空気が肌にまとわりつき、じわじわと汗が滲んでくる。東京の夏は、故郷とは違う独特の重さがあった。
そんな中、ポストから妹・菜穂からの手紙が届いた。僕はしばらくその封筒を手に取り、表面の文字をじっと見つめていた。菜穂の筆跡は相変わらず綺麗で、少しも崩れがない。懐かしさと共に、胸の奥に軽い緊張感が湧き上がるのを感じた。僕が家を出てから、菜穂とは定期的にやり取りをしていたが、今回の手紙にはいつもとは違う重さが感じられた。
封を開けると、薄い便箋が数枚出てきた。そこには菜穂の丁寧な文字が並び、やがて僕の目がある一文に止まった。
「お父さんが倒れました」
その言葉が目に飛び込んだ瞬間、僕の胸の中で何かが崩れるような音がした。心臓が一瞬、跳ね上がり、その後で強く締め付けられるような感覚に襲われた。僕は何度かその文字を読み返し、菜穂が何を言わんとしているのかを頭の中で整理しようとした。
手紙には続けてこう書かれていた。
「突然のことだったので、みんなも驚いています。お医者さんは、過労とストレスが原因だと言っています。まだ入院していますが、しばらく安静にしていなければならないようです」
僕はその一文を読みながら、父の顔を思い浮かべた。故郷に残してきたあの頑固で口数の少ない父。彼が病院のベッドに横たわっている姿なんて、想像したこともなかった。僕が子供の頃から、父はいつも厳しく、しかしどこか頼りがいのある存在だった。家族を支え続けるために、彼は自分の体力を削ってまで働いていたのだろう。
僕は一気に感情が溢れ出しそうになるのを抑え、手紙を慎重に畳み直した。そして、そのままベッドの上に倒れ込み、天井を見つめた。天井には古いシミが広がっている。何度見てもそのシミは変わらず、じっと僕を見返しているかのようだった。
僕は帰郷すべきだろうか? 頭の中でその考えが渦巻き始めた。家族の一員として、父が病気で倒れた今、僕が戻って支えるべきではないかという思いが強く胸に迫ってきた。しかし、同時に東京での生活、そして織田口さんの提案を受けたばかりの専門学校のことが、僕を躊躇させた。
「あの専門学校に通えば、将来的にもっと良い仕事ができるかもしれない。そして、家族にもっと貢献できるようになるかもしれない」
そんな考えが頭をもたげる。しかし、今すぐ帰らなければ、父に何かあった場合、後悔することになるのではないかという恐怖も同時に僕を襲った。
気持ちが千々に乱れる中、僕は突然、戸瀬山さんの顔を思い浮かべた。彼なら、僕の今の状況をどう受け止めるだろうか。現場での経験も豊富で、頼りになる存在だ。僕は、決心して彼に相談してみることにした。
その日の夕方、僕は戸瀬山さんがよく訪れる居酒屋に向かった。黄昏時の街は、一日の暑さがまだ残っているものの、少しずつ夜の冷気が感じられる時間帯だった。店内に入ると、戸瀬山さんはカウンターの隅で一人ビールを飲んでいた。
「篤、どうした? 顔色が悪いな」
僕が近づくと、彼はすぐに僕の異変に気付いた。彼の穏やかな表情が、少しだけ緊張感を帯びたものに変わる。僕は彼の隣に腰を下ろし、深呼吸してから話し始めた。
「実は、故郷から手紙が届いて……父が病気で倒れたんです」
その一言が、まるで重い石を水面に投げ込んだかのように、二人の間に波紋を広げた。戸瀬山さんは、しばらく黙って僕の話を聞いていた。彼は僕の目をしっかりと見つめ、口元を引き締めている。
「それで、帰郷を考えているんだな?」
彼の声は低く、しかしどこか安心感を与えるものだった。僕は頷き、手紙に書かれていたことを簡潔に説明した。
「お父さんが倒れたとなれば、そりゃあ家族としてすぐに駆けつけたくなるのは当然だ。でも、篤、お前はここでやらなければならないことがあるんじゃないか?」
その言葉に、僕は戸惑った。彼は続けた。
「俺も昔、似たような状況に陥ったことがある。父親が倒れて、すぐに帰りたかった。でも、俺にはここでの生活と仕事があった。悩んだ末に、結局帰らなかった。家族にはその時のことを未だに責められることもある。でも、その決断があったからこそ、今の俺があるんだ。お前も同じだ。今、お前がやるべきことは、焦って帰郷することじゃない。ここでしっかりとした基盤を作ることだ」
彼の言葉は胸に重く響いた。僕は、彼の話を聞きながら、自分の感情と向き合っていた。家族への愛情と、自分の将来のために何を優先するべきか。どちらを選んでも後悔は残るだろう。しかし、戸瀬山さんの言葉には、彼自身の経験からくる確信が感じられた。
「それに、今お前が帰っても、お父さんの病気がすぐに良くなるわけじゃないだろう。医者が診ているなら、まずは安心していいはずだ。それよりも、お前がしっかりとした技術を身につけて、将来もっと家族を支えられるようになることが大事なんじゃないか?」
僕は静かに彼の言葉に耳を傾けた。彼の言う通りだった。今すぐ帰ったところで、父が元気になるわけではない。家族はきっと父のことを大切に見守っているだろうし、僕がすべきことは、まずは自分の基盤をしっかりと築くことなのだ。
「ありがとうございます、戸瀬山さん。もう少し考えてみます」
僕はそう言って、少しだけ微笑んだ。戸瀬山さんもそれに応えるように、軽く頷いた。
「いいんだ。悩むことは大事だ。でも、お前にはきっとやるべきことがある。それを忘れるな」
その夜、僕は再び下宿先に戻り、ベッドに横たわりながら、手紙の内容を何度も頭の中で反芻していた。菜穂の言葉、父の状況、そして戸瀬山さんの助言。それぞれが僕の心の中でせめぎ合っていたが、次第に一つの決意が形を成していった。
僕は帰郷を踏みとどまることにした。今ここでの生活を放り出すわけにはいかない。そして、もっと強くなってから、家族に戻るのが僕の役割だ。
九月の初め、専門学校の初日がやってきた。東京の街は夏の暑さがまだ残っていたが、微かな秋の風が混じり始めているのを感じた。僕は新しいノートとペンを持って、早朝の学校に向かった。夜間のコースなので、授業が始まるのは夕方だが、初めての場所に行くという緊張感からか、朝からどうにも落ち着かない。久しぶりに味わう、まるで遠足前の小学生のような感覚だった。
専門学校の建物は、近代的なガラス張りのファサードが目を引く、四角いモダンなデザインだった。建築を学ぶ場としては相応しい場所に思えたが、同時に、その冷たい外観がどこか僕の中の不安を映し出しているようにも感じた。校舎の扉を開けると、冷房の効いた静かな空間が広がっていた。中に入るとすぐ、受付の女性がにっこりと微笑んで「篤さんですね」と声をかけてくれた。僕は少し緊張しながら、頷いた。
教室に向かう途中、ふと自分の歩き方がぎこちなく感じられた。周囲の学生たちは、自信に満ちた様子で教室に入っていく。僕だけがこの場所に不慣れで、取り残されているような気分になった。しかし、ここで立ち止まってはいけない。そう自分に言い聞かせ、扉を開けて教室の中に入った。
教室は大きな窓に囲まれ、夕日が差し込んでいる。外の喧騒を遠くに感じさせる静けさの中、すでに数人の学生が席に着いていた。彼らは皆、ノートパソコンや資料を手にして、授業が始まるのを待っている。教室内の空気には、僕がまだ持っていない何かが漂っていた。それは、学びに対する確固たる自信のようなものだった。
僕は窓際の席に腰を下ろした。周りを見渡すと、若い学生ばかりだ。どう見ても彼らは既に建築の基礎知識を持っていて、僕のように手探りの状態ではないだろう。僕の中で、そのことがひときわ鮮明になってきた。先日まで建設現場で働いていた身として、これまでの経験が役に立つだろうと考えていたが、この教室に入ると、その考えがどれほど甘かったかを痛感する。
授業が始まると、講師は黒板にいくつかの図式を描き、専門用語を次々と口にした。初めて聞く言葉ばかりで、僕はノートを取ることさえままならなかった。頭の中は完全に混乱していた。まるで異国の地に放り込まれ、何をどうすればいいのかわからない観光客のようだった。周囲の学生たちはすでに習得しているらしい内容を、淡々と書き写している。僕は必死に彼らの速度についていこうとするが、焦れば焦るほどペンが空回りするばかりだった。
「ここはなんとか頑張らないと」そう自分に言い聞かせたが、その決意は時間が経つにつれて薄れていった。隣の席の学生がチラッと僕を見た気がして、さらに気後れした。僕が遅れているのが、周りに見透かされているような気がしてならなかった。
そんな中、ふと隣の席の女子学生が僕に話しかけてきた。
「大丈夫? 難しいよね、最初は」
声の主は、春日珠美という名前の学生だった。彼女の声は柔らかく、僕の緊張を少し和らげた。春日は、肩まで伸びたストレートの黒髪が特徴的で、シンプルな白いシャツとデニムパンツを着こなしていた。その姿は、まるで何も飾り気のない無垢なキャンバスのように見えた。
僕は彼女に向かって微笑んだが、それ以上何も言えなかった。どう答えればいいのか分からなかったからだ。春日はそんな僕の様子に気づいたのか、軽く笑ってから続けた。
「最初はみんなそうだよ。私も去年の初日はまったく分からなかったんだから。でも、焦らなくても大丈夫。少しずつ理解していけばいいんだよ」
彼女の言葉は、冷たい水が喉を通るように僕の中に染み渡った。周りの生徒たちはすでに経験を積んでいるように見えて、僕だけが取り残されているような感覚に襲われていたが、春日の言葉がそれを少し緩和してくれた。
「ありがとう」と僕はやっとの思いで返事をした。
その後、授業が進む中でも、春日は時々僕に簡単な解説を加えてくれた。彼女の説明は分かりやすく、講師が使っていた難しい言葉を噛み砕いて説明してくれる。彼女の言葉を聞くたびに、僕は少しずつ自信を取り戻していくのを感じた。
「この図面の描き方はね、まず基本的な形を捉えることが大事なの」と彼女は僕に教えてくれた。「難しそうに見えるけど、一つずつ理解していけばきっと分かるようになるよ」
彼女の指がノートの上を滑り、僕にいくつかのポイントを示してくれる。その手元に視線を落とすと、彼女の爪は整っていて、小さなリングが薬指に輝いていた。彼女の指が動くたびに、リングが微かに光を放つ。
僕は彼女の指示に従って、ノートに図を描いていった。最初は戸惑っていたが、彼女の言葉通りに進めていくと、次第に形が見えてきた。まるで霧の中に隠れていた風景が、少しずつ姿を現してくるような感覚だった。
授業が終わると、僕はどっと疲れが押し寄せてきた。何とか授業についていけたものの、まだまだこれからが長い道のりだと感じた。クラスメートたちはさっさと教室を出ていくが、僕はしばらく席に座ったまま、教室の風景を眺めていた。窓の外は、秋の気配がわずかに感じられる夕暮れが広がっている。外を歩く人々の姿が、オレンジ色の光に照らされてぼんやりと見える。
「篤さん、もう帰る?」
ふいに春日が声をかけてきた。彼女はノートを閉じ、バッグに詰めながら僕の方を見ていた。
「ああ、もう少しここにいるよ。今日はありがとう、助かったよ」
僕がそう言うと、彼女はにっこりと笑った。
「いいえ、全然気にしないで。お互い助け合いながら勉強していけばいいんだから」
その言葉はとても軽やかで、僕の心に何か温かいものを残していった。彼女の存在が、僕にとってこの新しい環境での一つの救いになるのかもしれない。
12月の冷たい風が頬を切るように吹いていた。僕は大きな荷物を背負い、久しぶりに陸奥野家の門をくぐった。二年ぶりの帰省だ。長い時間を過ごした都会の空気に慣れたせいか、村の冷たさは一層体に堪えた。雪はまだ積もっていなかったが、空には重たい雲が広がり、いつ降り始めてもおかしくないような気配を漂わせている。
家の前で立ち止まる。年季の入った木造の玄関は、僕が子どもの頃から変わらない姿でそこに佇んでいた。しかし、その周りの風景は、あの頃とは違うものに見えた。村の至る所が朽ちてきているようで、かつて賑わっていた商店や家々の窓には、もう灯りが見えない。人々の気配も薄れていた。懐かしさと同時に、胸の奥に小さな寂しさが広がっていく。
「帰ってきたんだな」
玄関の扉を開けた瞬間、父の低くしわがれた声が聞こえた。杖をついた父が、玄関に立っていた。その姿を見て、思わず言葉が詰まった。父は以前よりも痩せ細り、体が一回り小さくなったように見えた。しかし、その目はまだ鋭く、僕をじっと見据えていた。
「うん、久しぶりだな」
僕は荷物を下ろし、父に近づく。彼の顔には、長年の労働が刻んだ深い皺が刻まれていたが、その中には何かしらの安堵感が見え隠れしていた。倒れたと聞いたときの不安が、一気に薄れていくのを感じた。
「大丈夫そうでよかったよ」
「大丈夫さ。もう年だからな、多少はガタが来るが、まだまだやれる」
父は杖を軽く叩きながら、わざとらしく力強い声を出した。その強がりが、どこか懐かしかった。彼が病に倒れたと聞いたときは、一度も口にしたことのない恐怖が僕の心を掠めた。しかし、こうして目の前に元気そうに立っている姿を見て、胸の奥が少しずつ軽くなっていく。
家に入ると、母がキッチンで鍋をかき混ぜている音が聞こえた。だしの香りがふんわりと鼻をつき、僕の心にほのかな安らぎを与えた。古びた畳の感触や、障子越しの薄明かり、そして懐かしい家の匂い。東京の喧騒の中で忘れていたものが、次々と蘇ってくる。
「おかえり、篤。お腹空いたでしょう、もうすぐご飯だからね」
母が振り返り、微笑んだ。彼女の顔にも、年月の痕跡がしっかりと刻まれていたが、その表情は変わらず穏やかだった。僕はその言葉に頷きながら、台所に腰を下ろした。母が手際よく料理を並べていく様子を見ながら、ふと、この場所が僕にとっていかに特別なものかを再確認した。
食卓には、僕が好きだったおかずがずらりと並んでいた。どれも昔と変わらない、素朴で温かい料理だった。茶碗に盛られた白いご飯の湯気が、柔らかく立ち上がる。その湯気に包まれた食卓の景色は、僕がずっと心の中にしまいこんでいた懐かしい風景だった。
「父さん、調子はどうなんだ?」
僕は箸を動かしながら、何気なく父に尋ねた。彼は少しだけ息をつき、茶碗を置いた。
「まあ、ぼちぼちだな。前みたいに畑仕事はできんが、家の周りのことくらいは何とかなる」
その言葉の裏には、少しの寂しさが滲んでいた。父は昔、村の誰よりも働き者で、畑で汗を流す姿がいつもあった。それが、今は杖をつきながら歩く姿を見なければならない。僕の中で、何かがじわりと胸を締め付けるような感覚が広がっていた。
「でも、戻ってきてくれて安心したよ。父さんも母さんも、篤のことをいつも心配していたからね」
母が優しく声をかけた。その言葉に、僕は少しだけ気まずい思いを抱いた。戻ってきたのは父の病気がきっかけだが、僕は本当にこの村に戻るべきだったのか、まだ自分の中で答えが出ていなかったのだ。
夜が更け、家族での食事が終わると、僕は一人で家の外に出た。冷たい風が頬を刺し、頭上には満天の星が広がっている。東京では見ることのない、澄んだ夜空だった。僕はその星々を見上げながら、静かに考えた。村は確実に変わりつつある。昔は賑わっていた商店も、今ではシャッターが閉じられ、かつての活気が失われている。村の衰退を目の当たりにすると、僕の胸には複雑な思いが広がっていった。
村を捨てて都会に出た自分が、今さらこの場所に何ができるのか。そんな疑問が頭をよぎる。父が元気であれば、僕はずっと都会で働き続けていただろう。だが、現実はそうではない。父の体は衰え、村も同じように少しずつ消えていく。僕はその現実を前に、何もできない自分に焦りを感じていた。
「篤、寒くない?」
母の声が背後から聞こえた。振り返ると、彼女が家の縁側に立っていた。薄いセーターを羽織っているが、風の冷たさが彼女の細い体に染み込んでいるように見えた。
「少しね。でも、この空気が懐かしいよ」
そう答えると、母は微笑んだ。彼女の微笑みは、まるでこの村の風景そのものを象徴しているかのようだった。静かで、控えめで、しかしどこか力強い。
「この村も、少しずつ変わっていくね」
僕はそのまま空を見上げ、呟いた。
「そうね。でも、それも仕方ないことかもしれないわね」
母は隣に座り、同じように星空を見上げた。
「父さんも、若い頃はよくこの星を見ながら、いろんなことを考えていたみたいよ。篤もそうかしら?」
「どうだろうね。まだよく分からないよ、いろいろと」
僕は少しだけ笑い、母の顔を見た。彼女はそのまま星を見続けていた。僕が子どもの頃、この村が全てだった。ここで育ち、ここで将来を考えていた。しかし、今ではその全てが遠い昔のことのように感じられる。
「この村に帰ってきて、何かできることはあるかな」
僕は静かに問いかけた。
「何か、ね……でも、篤がいるだけでいいんじゃないかしら。父さんも、篤が帰ってきてくれたことが一番嬉しいと思うわ」
母の言葉は、どこか悟りを開いたようなものだった。何かをしなければならないという焦りを感じていた僕にとって、その言葉は意外でもあり、救いでもあった。
僕はしばらくの間、母と共に静かな夜空を見上げていた。
チャプター2 夢への階段
図書室の空気は静寂そのものだった。時間がゆっくりと流れているように感じられ、僕の周りには一切の音が消えていた。木の机に広げた教科書やノートが、薄い太陽の光を受けてぼんやりと白く輝いている。冬の寒さは建物の隙間から忍び込み、じわじわと体に染み込んでくるが、それでもこの場所にはある種の安心感があった。
試験勉強のために、僕はいつもこの図書室に通っていた。膨大な範囲の問題と向き合い、必死に集中しようとするが、なかなか頭に入らない。ふと視線を上げ、広々とした室内を見回した。壁際に並んだ本棚、窓の外に見える枯れた木々。そして、その中にぽつりと一人、試験前の緊張に縛られた僕がいた。
そんな時、不意に誰かが隣に座る気配を感じた。顔を上げると、そこには見覚えのある人物がいた。春日珠美だ。彼女は僕の隣の席に無言で腰を下ろし、鞄からノートを取り出し始めた。その仕草は慣れたもので、僕に話しかけることもなく、ただ黙々と準備を整えていた。
「久しぶりだな」と言おうか、それとも黙っていた方がいいのか。迷いが生まれる。最後に彼女と話したのは、授業の合間に少し教えてもらったときだった。それから特に深く話すことはなく、僕たちはお互いにただのクラスメイトとして日々を過ごしてきた。
彼女の服装はシンプルだったが、その中にもどこか独特のセンスが感じられた。深い紺色のニットに、すっきりとしたシルエットのジーンズを合わせている。髪は肩までの長さで、柔らかなカールが冬の光を反射している。その姿が、僕の目には妙に落ち着いた存在感を持って映った。図書室の冷たい空気が、彼女の体温をほんの少しだけ伝えているように感じられた。
「こんにちは」と僕はようやく声をかけた。自分でも驚くほど小さな声だったが、彼女にはちゃんと届いたようだった。
「こんにちは」珠美は顔を上げ、僕に微笑んだ。その笑顔は柔らかく、どこか安心感を与えるものだった。それはまるで、氷のような図書室の空気を一瞬で溶かしてしまうような温かさだった。
僕は少しだけ緊張しながら、話を続けた。「試験、結構大変だよね。どう、進んでる?」
彼女は肩をすくめて、「まあ、ぼちぼちって感じかな。でも、篤くんは前の試験も結構頑張ってたし、今回も大丈夫でしょう?」
その言葉に、僕は曖昧に笑った。実際のところ、勉強は進んでいるようで進んでいない。分かっているつもりでも、なかなか記憶に定着しない。試験までの時間が迫っていることが、頭の隅でずっと警鐘を鳴らしている。それでも、彼女の口から出た「大丈夫」という言葉は、僕の心を少し軽くした。
「いや、正直なところ、まだ全然追いついてないんだ。特に構造計算の部分がどうしても難しくて……」僕はノートをめくりながらそう答えた。細かい数字と計算式が並んでいるページを見せると、珠美は一瞬だけ眉を寄せた。
「構造計算か……確かに、あれは難しいよね。でも、ちゃんと理解できればそんなに怖くないと思うよ」
彼女はそう言って、僕のノートを指さした。彼女の指は細く、白く、どこか儚げだった。冬の乾いた空気の中で、まるで雪の結晶のように見えた。
「例えば、ここの部分。ここは基本的な考え方さえ分かれば、もっとシンプルになるはず。ここをこうして、こっちに持ってくれば、あとは数字を当てはめるだけだから」
珠美は僕のノートに書き込まれた数式を指でなぞりながら、丁寧に説明してくれた。彼女の声は落ち着いていて、僕の混乱した思考を一つ一つ整理してくれるようだった。
僕は彼女の指示に従って、再び計算を進めてみた。最初は頭の中で引っかかっていた問題が、少しずつほぐれていくような感覚があった。それでも、完全に理解できたわけではない。
「うん、なるほど。少し分かってきた気がする。でも、やっぱりまだ難しいな」
僕がそう言うと、珠美は微笑んで、「そんなに焦らなくても大丈夫。ゆっくりやれば、ちゃんとできるようになるよ」と優しく言った。その言葉が、僕の心にじんわりと染み渡った。珠美はいつもこんな風に、何気ない言葉で人を安心させる力を持っているのかもしれない。
気づけば、僕たちは図書室の静寂の中で、時間を忘れて勉強を続けていた。試験前という焦燥感もどこかに消え、彼女と一緒に過ごす時間が自然と心地よく感じられた。
珠美とこうして話をするのは久しぶりだったが、どこか以前よりも距離が縮まったように感じた。彼女の穏やかな声、そして時折見せる微笑みが、僕の心を少しずつ暖かくしていく。僕は次第に、彼女に対して特別な感情を抱き始めていた。
しかし、その感情をどう表現していいのかが分からなかった。僕は彼女に好意を抱いていることに気づきながらも、それを言葉にする勇気が持てない。告白することで、もしも今の関係が壊れてしまうのではないかという恐れが常に心の中にあった。
その日、図書室を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。僕たちは一緒に建物を出て、冬の冷たい夜風に吹かれながら、ゆっくりと歩いた。珠美の隣を歩く時間が、僕にとって何よりも心地よいものであった。
「篤くん、また一緒に勉強しようね」
珠美がふと、そんなことを言った。その言葉に、僕の胸が一瞬だけ高鳴った。
「うん、もちろん」
それ以上の言葉は出てこなかった。僕はただ、彼女と過ごす時間が少しでも長く続くことを願いながら、彼女の隣を歩き続けた。
その夜、布団に入って目を閉じると、珠美の笑顔と声が何度も頭の中を巡った。試験のことも、構造計算の難しさも、すべてが霞んでいくように感じられた。ただ一つ、彼女の存在だけが鮮明に心に残っていた。
それからというもの、僕たちはしばしば図書室で一緒に勉強するようになった。彼女と一緒にいる時間が増えるにつれ、僕の中の感情も次第に大きくなっていくのを感じた。しかし、同時にそれを打ち明ける勇気もないまま、日々が過ぎていった。
珠美は変わらず穏やかで、いつも僕に対して親切に接してくれる。だが、その優しさが時折、僕にとっては少し重たく感じることもあった。彼女が僕に向ける微笑みが、僕の心の奥底に隠された感情を揺さぶり、告白しようとする勇気を何度も試すように思えた。
それでも、僕はその一線を越えることができないまま、珠美との関係を大切に守り続けていた。
建設現場は朝から騒々しかった。重機の唸り声、鉄筋がぶつかり合う音、作業員たちの声。4月の空はどこまでも高く、柔らかな光が現場全体に降り注いでいる。だが、その明るさとは裏腹に、僕の心の中にはずっと重苦しい影が垂れ込めていた。最近、織田口さんの様子がどうもおかしい。あの無口で冷静な男が、何かに苛まれているように見える。普段なら人一倍仕事に集中し、細かいところまで気を配る彼が、どこか上の空だった。
僕たちは同じプロジェクトで働いているが、特に親しいわけではなかった。それでも、彼の異変に気づかないわけにはいかなかった。建設の現場で働く者にとって、ミスは許されない。小さな不注意が、大きな事故につながる。それは彼が一番よく知っているはずだ。それにもかかわらず、最近の織田口さんは、まるで何か大きな問題を抱えているように見えた。
昼休み、僕は思い切って彼に声をかけることにした。
「織田口さん、最近少し疲れているように見えますけど、大丈夫ですか?」
彼は一瞬だけ僕を見つめ、それから無言で視線をそらした。いつもの無表情が、今はどこか険しさを帯びている。短い髪の間に少し汗が滲んでいて、その額には微かな皺が刻まれていた。
「別に、何も問題ないよ」彼は短く答えたが、その声には明らかに力がこもっていなかった。
僕はそれ以上突っ込むことはせず、その場を離れることにした。彼の心に何か深い悩みがあることは明らかだったが、それを無理に引き出すのは違う気がした。それに、僕たちの間にはまだその距離があった。
それから数日後、僕が偶然にも織田口さんと同じ居酒屋で飲むことになったのは、全くの偶然だった。会社の連中との飲み会が終わり、ふらふらと歩いていると、古びた木製のドアの向こうから彼の声が聞こえてきた。気になって中を覗いてみると、彼はカウンター席で一人、グラスを片手に黙々と酒を飲んでいた。
酔いが回っているのか、彼の顔は少し赤みを帯びていたが、その表情にはどこか深い哀愁が漂っていた。僕は意を決して近づき、隣の席に腰を下ろした。
「織田口さん、こんなところで飲んでるなんて珍しいですね」
彼は一瞬僕に気づかない様子だったが、僕が声をかけると、ぼんやりとした目でこちらを見た。
「ああ、篤か。お前も飲んでたのか」
僕は頷き、彼が頼んでいたのと同じ酒を注文した。グラスを受け取り、軽く口に含むと、焼けるようなアルコールの感覚が喉を通り抜けていく。その辛さが、奇妙に今の空気に合っているように感じられた。
しばらく無言のまま酒を飲み続けた。カウンター越しに見える店主は、僕たちの会話に興味がない様子で、淡々と次の注文をこなしている。
「なあ、篤」
不意に、織田口さんが口を開いた。彼の声には、いつもの冷静さがない。酒に酔っているせいか、それとも何かもっと深い理由があるのか。
「お前、会社のこと、どれくらい知ってる?」
僕は少し驚いたが、すぐに答えた。「どういうことですか?」
彼はグラスを持ち上げ、中の酒を一気に飲み干した。その手元は少し震えているように見えた。
「俺はずっと、この仕事を誇りに思ってやってきた。現場で汗を流し、完成した建物を見上げたときの達成感が、何よりも好きだったんだ」
彼の声には苦しみが滲んでいた。その言葉は、どこか遠い昔を思い出すような響きだった。
「だけど、最近は違う。俺たちの会社は、もう純粋に建物を作るために動いてるんじゃない。裏で何かが動いているんだ。俺は、それに気づいてしまったんだよ」
僕は眉をひそめた。「裏で何か、って?」
彼は再びグラスを手に取り、しかしそれを飲まずにじっと見つめていた。まるでその中に、答えを探しているかのようだった。
「不正入札だよ」彼はぽつりと呟いた。その言葉は、まるで鋭い刃のように僕の胸に突き刺さった。
「不正入札?」僕は思わず声を上げたが、すぐに声を潜めた。店の中に響き渡るにはあまりにも重い話題だった。
織田口さんはゆっくりと頷いた。「会社の上層部が、何か大きなプロジェクトに関与している。表向きは全て合法に見えるが、裏では取引が行われている。金が動き、誰かがそれを仕組んでいるんだ」
僕は言葉を失った。彼が話していることが本当なら、それは会社全体を揺るがす大問題だ。だが、彼が嘘を言っているようには見えなかった。彼の目には深い苦悩が刻まれていた。
「それを、どうして知ったんですか?」
織田口さんはしばらく黙っていた。そして、重い口調で話し始めた。「ある日、偶然耳にしたんだ。上層部の連中が密談しているのを。最初は何の話か分からなかったが、次第に全貌が見えてきた。俺はずっと黙っていたが、もう限界だ」
彼の声が震えていた。その震えは恐れなのか、それとも怒りなのか、僕には判断がつかなかった。
「内部告発を考えているんですか?」
僕の問いに、織田口さんは再び頷いた。「ああ、そうだ。でも、正直言って怖いんだ。もし告発すれば、俺の立場はどうなるか分からない。会社から追放されるかもしれない。それだけじゃなく、もっと危険な目に遭う可能性だってある」
彼の言葉は現実味を帯びていた。不正を告発するということは、自分自身を危険に晒すことだ。それは容易なことではない。
「でも、こんな状況を黙って見過ごすこともできないんだ。俺たちが作っている建物は、多くの人々の生活に関わるものだ。それが不正によって歪められているなんて、許されることじゃない」
彼の言葉には、深い信念が込められていた。それが彼の苦悩の根源だったのだろう。正義を貫くためには、何かを犠牲にしなければならない。それは簡単なことではない。
僕はグラスを見つめながら、どう言葉を返せばいいのか分からなかった。織田口さんの苦しみを理解しつつも、軽々しく「告発すべきだ」とは言えない。それは彼自身が決断すべきことだ。
「俺はどうすればいいんだろうな」彼はぽつりと呟いた。その言葉には、深い迷いと孤独が滲んでいた。
僕はゆっくりと息を吐き出し、彼の肩に手を置いた。「織田口さん、自分が信じることをすればいいと思います。でも、その選択をするのはあなただ。どんな決断をしても、僕はあなたを尊重します」
彼はしばらく僕の言葉を噛み締めるようにしていた。そして、ゆっくりと頷いた。「ありがとう、篤。お前の言葉、少し心に響いたよ」
その夜、彼はまた一杯、酒を注文したが、少しだけ心が軽くなったように見えた。
東京タワーの展望台は、まるで別世界だった。5月下旬の夕暮れ、東京の街が黄金色の光で覆われ、空には薄いオレンジ色の帯が広がっていた。遠くのビル群がゆらめく光の海に沈んでいくように見える。その壮大な光景を前に、僕は胸の中に奇妙な焦燥感を感じていた。珠美が僕をここに誘ったとき、理由は特に聞かなかった。ただ「一緒に行かない?」とだけ言われ、僕はなんとなく「いいよ」と答えていた。
珠美は展望台の窓際に立って、街の景色を見つめていた。彼女の髪が夕陽に照らされ、まるで金色に輝いているように見える。その姿はどこか幻想的で、僕はしばらく彼女を見つめてしまった。彼女の外見については特に考えたことがなかったが、こうして見ると、何か独特の美しさがあることに気づかされる。彼女は白いブラウスに、淡いピンクのスカートを履いていた。シンプルだけれど、どこか彼女らしい柔らかさを感じさせる服装だった。
僕たちは特に話すこともなく、ただ目の前の景色に浸っていた。静寂の中、遠くから聞こえる街のざわめきがかすかに耳に届く。時折、展望台の中を歩く観光客の足音が響くが、それも背景の一部に溶け込んでしまうようだった。僕は手すりに寄りかかり、ゆっくりと深呼吸をした。だが、その静寂が僕を不安にさせる。珠美は何を考えているのだろうか?なぜ僕をここに連れてきたのか?
「篤、少し話したいことがあるんだけど」と、珠美が突然口を開いた。
僕は一瞬戸惑ったが、すぐに彼女の方を向いた。彼女は僕の方を見ずに、依然として窓の外を見つめていた。その背中には、何か決意を固めたような緊張感が感じられる。
「何の話?」僕は何気なく尋ねたが、心の奥では少し不安が膨らんでいた。珠美の声には普段とは違う何かがあった。それは、軽やかさとは正反対の、何か重いものを抱えているような響きだった。
珠美は深く息を吸い込み、それからゆっくりと僕の方を振り返った。その目には、まっすぐな感情が込められていた。僕は思わずその視線を避けたくなったが、逃げることはできなかった。
「私、ずっと言いたかったことがあるの」彼女の声は静かで、しかし確かな強さを持っていた。「篤のこと、ずっと前から好きだった」
その瞬間、時間が止まったように感じた。展望台の周りの音や光、すべてが遠のいていく。僕は何を言えばいいのか、何を感じるべきなのかすら分からなくなった。ただ、珠美の言葉が僕の心の中に深く刺さっていくのを感じた。
彼女が「好き」と言った瞬間、僕はどう反応すればいいのか全く分からなかった。僕はこれまで、珠美を特別な意味で見たことがなかった。彼女はただの友達であり、一緒に勉強する相手だった。それが突然、「好き」という言葉によって、全く別の存在になってしまった。僕の頭の中は混乱していた。彼女の告白が、僕の心を一気に揺さぶったのだ。
「えっと…」僕は口を開いたが、言葉が出てこない。どうしていいか分からなかった。ただ、何か言わなければならないという焦りだけが胸を締め付けていた。
珠美はじっと僕を見つめていた。その目は期待と不安が入り混じったような表情を浮かべている。彼女は答えを待っている。それが分かっているのに、僕はその重圧に耐えられなかった。
「ごめん、ちょっと…」僕は急にその場に立ち上がり、展望台の出口に向かって歩き出した。心臓が早鐘のように鳴り、胸の中が混乱でいっぱいだった。どうしてこんなことになってしまったのか。彼女の告白が僕を押しつぶしそうだった。
「篤!」珠美の声が背中に響いたが、僕は振り返らなかった。振り返ることができなかった。その場にい続けることが、恐ろしいことのように感じたからだ。僕はただ逃げ出したかった。自分の中の何かが、この状況に耐えられなくなっていた。
展望台から外に出ると、冷たい風が僕の頬を打った。東京の夜景が眼下に広がっていたが、それを眺める余裕などなかった。頭の中は、珠美の告白の言葉でいっぱいだった。「好きだった」という言葉が、何度も何度も反響していた。
僕は深く息を吸い込み、手すりに寄りかかる。冷静になろうとしたが、心臓の鼓動は一向に収まらなかった。珠美のことをどう思っているのか、自分自身に問いかけてみたが、答えはすぐには見つからなかった。ただ、彼女の気持ちにどう応えればいいのか分からず、その場から逃げ出した自分が情けなく思えた。
「どうすればよかったんだろう…」僕は静かに自分に問いかけた。しかし、その答えは、東京の夜風に消えていくばかりだった。
しばらくして、珠美がゆっくりと僕の横に現れた。彼女は僕を追いかけてきたらしいが、何も言わなかった。ただ僕の隣に立ち、同じように夜景を見つめていた。
「驚かせてしまったなら、ごめんなさい」と、彼女が静かに言った。その声には、先ほどの強さが少し失われていた。代わりに、どこか寂しげな響きがあった。
「いや、僕の方こそ…ごめん」僕は何とかそう答えたが、それ以上の言葉が見つからなかった。
「篤は優しい人だと思ってた。でも、正直言って、今日はもう少し違う反応が欲しかったな」彼女は微笑んでいたが、その笑顔はどこか切なげだった。
僕は何も言えなかった。ただ、その場に立ち尽くすしかなかった。彼女の期待に応えることができなかった自分が、無力に感じた。
「まあ、仕方ないよね」珠美は再び夜景に目を向けた。「こんな大きなことをいきなり言われたら、誰だって戸惑うよね。篤は悪くないよ」
その言葉は、僕に少しの安堵を与えたが、それでも心の中の重さは消えなかった。彼女が僕に期待していた何かを裏切ってしまったのは、変わらない事実だった。
「でも、篤のこと、好きだって気持ちは変わらないから」珠美は少し笑いながら言った。「これからも、友達でいてくれる?」
僕はその言葉にどう応えればいいのか分からなかった。ただ、彼女の優しさと強さに感謝するしかなかった。そして、自分自身がどうしたいのかを、もっと深く考える必要があることを感じていた。
「もちろん、友達でいよう」僕はそう言ったが、その言葉がどこか空虚に響くのを自覚していた。
6月初旬、会社の本社は異様な緊張感に包まれていた。冷房の効いたオフィスの中でも、空気は重く、肌にまとわりつくようだった。デスクに座りながらも、僕の頭は一向に集中できず、周囲のざわめきがいつもより大きく聞こえる。織田口の内部告発が社内に波紋を広げていたのだ。数日前、彼が告発した内容はあまりにも衝撃的だった。建設会社が公共事業の不正入札に関与していたという告発。その事実は、静かに蓋をされていた闇を一気に暴き出したかのようだった。
社内ではさまざまな憶測が飛び交っていた。織田口が告発者であることは既に多くの社員が知っていたが、誰もその話題には直接触れようとはしなかった。まるで触れたら自分にも災難が降りかかるかのように、避けている。それでも、人々の視線の先にあるのは明らかだった。僕も、その一人だ。
昼休み、社員食堂に向かう途中で、僕は廊下を歩く織田口の姿を見かけた。彼は以前と変わらないように見える。背は高く、肩幅が広い。いつも通りの無精ひげに、くたびれたスーツを身にまとっている。しかし、その表情は鋭く、決意を固めた人間の目をしていた。彼はそのまま食堂の中へと消えていったが、僕はその背中を見送るだけで足を止めてしまった。
彼の告発がどれほどのリスクを伴うものか、僕には想像もつかなかった。だが、明らかに彼は何かを守るために、そのリスクを取ったのだ。告発の勇気は簡単に言葉にできるものではない。その行動の裏には、強い信念や正義感がなければならない。僕にはそれができるだろうか?自分の立場や生活を犠牲にして、真実を明らかにする覚悟があるだろうか?
午後の会議中、僕は上司の話に耳を傾けながらも、織田口の告発のことが頭から離れなかった。彼の一言が、僕たちの仕事に、そして会社そのものにどれほどの影響を与えるのか、誰にも予測できなかった。上司が資料を配りながら、「今後、顧客とのやり取りは慎重に進めてくれ」と言ったその瞬間、僕の胸の中に不安が一層膨らんだ。
会議室を出た後、僕はエレベーターの前で立ち尽くしていた。降りてくるはずのエレベーターのランプが点灯しない。その間にも、織田口の顔が脳裏に浮かんだ。彼は、どこであんな決断をしたのだろう?そして、僕がもしその立場に立たされたなら、何ができるのか。
「篤、ちょっといいか?」
突然、背後から呼び止められた。振り返ると、そこには佐伯が立っていた。彼は僕と同じ部署の先輩で、落ち着いた性格だ。今日は普段よりも険しい表情をしている。
「なんだ?」僕は少し警戒しながら答えた。最近はどんな会話も、何かを探るような雰囲気が漂っているからだ。
佐伯は周囲を見渡し、僕をエレベーターの反対側にある休憩室へと導いた。誰もいないことを確認し、静かに扉を閉めると、彼はソファに腰を下ろし、僕に向かって真剣な目を向けた。
「織田口の件、どう思う?」佐伯が低い声で問いかける。
僕は少し迷ったが、正直に答えることにした。「すごいと思う。あんなこと、簡単にできるわけじゃない」
佐伯はしばらく僕の顔を見つめていたが、やがてため息をついた。「確かに、勇気ある行動だよ。でもな、篤、これで俺たちの立場も危うくなっているのを分かってるか?」
その言葉に、僕は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。そうだ、織田口の告発が意味するものは、単なる正義の行動ではない。彼の行動が、僕たち全員に影響を与える可能性があるということだ。もしこのまま会社が調査を受け、事実が明らかになれば、誰もが無傷では済まされないだろう。
「俺たちの部署も、関係があるってことか?」僕は声を低くして尋ねた。
佐伯は無言のまま、ゆっくりと頷いた。言葉を選ぶようにして、彼は口を開いた。「まだ確定ではないが、もし外部調査が入れば、全員が疑われる可能性がある。織田口の告発が引き金になって、何が暴かれるか分からないんだ」
僕は言葉を失った。織田口の告発が、こんなにも広範囲に影響を与えるとは思っていなかった。正義のための告発が、僕たちのキャリアや生活までも危険に晒すことになるなんて。僕はその場に立ち尽くし、何も言えなかった。
「だから、今後のことを慎重に考えないといけない」佐伯が続けた。「俺たちはどうするべきか、よく考えるんだ」
その言葉を胸に刻み込み、僕は休憩室を後にした。廊下を歩く僕の足取りは重く、心の中で答えを見つけることができないままだった。織田口がしたことは間違いなく正しい。しかし、正しいことが必ずしもすべての人にとって良い結果をもたらすわけではない。それは残酷な現実だ。
数日後、社内ではさらに混乱が広がっていた。上層部は織田口の告発を受け、緊急会議を重ねていたが、具体的な対策は示されていなかった。社員たちは不安と疑念の中で仕事を続けていたが、どこか手がつかない様子だった。僕もその一人だ。
そしてある日、社内メールで外部からの監査が入ることが正式に通知された。社内の空気は一気に張り詰め、僕たちは何が起こるのか、次第に現実味を帯びてきた危機に直面することになった。僕の心は揺れていた。織田口が示した勇気に感銘を受けつつも、同時に自分の立場が崩れ落ちるかもしれない恐怖が襲いかかっていた。
「篤、どうする?」織田口が直接僕に聞いてきたのは、ある日の昼休みだった。彼の顔は落ち着いていたが、その目には覚悟の光が宿っていた。
僕は答えを探したが、口を開くことができなかった。
六月下旬、梅雨の湿気がまとわりつくような午後だった。僕は専門学校の教室で、いつもより早めに到着していた。窓際の席に座り、外に広がる薄曇りの空をぼんやりと眺めながら、これから珠美に話しかけるべき言葉を頭の中で繰り返していた。最近、彼女とはあまり会話ができていない。いつもクラスの後に二人でコーヒーを飲みながら過ごしていた時間も、気づけば疎遠になっていた。僕はそんな現状に苛立ちを感じつつも、どこか自分を責める気持ちが消えなかった。
教室にはまだ数人しかいない。静けさが教室全体に漂っている。窓の外を見ていると、ふいに雨が降り出した。ポツポツと窓ガラスに当たる音が教室の静寂に紛れ込み、やがてそれが激しさを増していった。
「今日こそは、決着をつけなければならない」と僕は思った。珠美との関係を、曖昧なままにしておくことはもうできない。僕は彼女に対して何かしらの感情を抱いている。もしかしたら、それは恋だったのかもしれない。しかし、それが何か確かな形を取る前に、全てが消えていくような気配がしていた。だからこそ、今日、話をしなければならない。
しばらくして珠美が教室に入ってきた。彼女は黒いタートルネックにデニムジャケット、そしてスリムなパンツを合わせている。髪は軽く巻かれていて、いつも通りの洒落たスタイルだ。彼女が教室に入ると、少し周囲の空気が変わる。僕は彼女の動きを目で追いながら、心の中で準備を整えた。
「珠美、ちょっと話があるんだ」
僕は声をかけた。彼女は一瞬、驚いたような表情を浮かべたが、すぐにそれを隠し、少し微笑んで僕の方に歩いてきた。彼女の足音が教室の床に軽く響く。珠美の足取りはいつも軽やかで、彼女の存在そのものが風のようだった。
「なに、篤?どうしたの?」彼女は僕の隣に座り、僕の顔をじっと見つめた。その目は透明感があり、いつも僕を圧倒する。
「ずっと話そうと思っていたんだ。最近、なんとなく距離ができてしまった気がして…」
僕は言葉を探しながら、どうにか伝えようとした。珠美に何を言いたいのか、自分でもはっきりとは分かっていなかったのかもしれない。だが、このまま彼女を失うことだけは避けたかった。
「うん、そうだね」珠美はあっさりと答えた。彼女の声は柔らかいが、どこか冷たさを感じた。まるで、僕の言葉の裏にある真意をすでに知っているかのようだった。
僕は心臓が少し早く鼓動を打つのを感じた。何かが変わってしまったのだ。だが、それが何なのかはっきりとは言葉にできないまま、ただその不安だけが僕を追い詰めていた。
「珠美、最近どうしてる?」僕は間を埋めるように、当たり障りのない質問を投げかけた。
彼女は少し考え込むように顔を伏せ、それからゆっくりと視線を上げた。「実はね、篤。私、最近付き合い始めた人がいるの」
その瞬間、僕の世界が揺らいだ。教室の静けさが一層際立ち、外の雨音さえも遠のいていく。彼女の言葉はあまりに平然としていて、まるで天気の話をするかのようだった。しかし、それが僕に与えた衝撃は、全身に冷たい鉄球をぶつけられたかのようだった。
「…付き合い始めた?」僕は反射的にそう繰り返したが、自分の声がどこか遠く感じられた。
珠美は頷き、淡々と話を続けた。「うん。彼とは、以前からちょっとした知り合いで、最近話すようになって、それで自然と…」
その瞬間、僕の心の中で何かが壊れる音がした。珠美が誰かと付き合っている。それは僕にとって、想像すらしていなかった未来だった。僕は彼女とこれからどうなるのかを考えることさえできずにいたというのに、彼女はすでに新しい道を歩んでいた。
「そうか…」それ以上、何も言えなかった。胸の中が空っぽになり、言葉が見つからなかった。僕はただ彼女の顔を見つめ、心の中で何度もその事実を繰り返していた。「珠美が、他の人と…」
珠美は僕の沈黙を気にすることなく、言葉を続けた。「篤のことも、友達としてずっと大切に思っているよ。でも、やっぱり私たちはそういう関係じゃなかったんだと思う。ごめんね、傷つけたくなかったんだけど…」
その言葉は、最後の一撃だった。彼女の口から発せられた「友達」という言葉が、僕にとってこれ以上ないほどの重みを持っていた。彼女は僕を友達だと言った。僕がどれだけ彼女のことを思っていても、その思いは届くことなく、ただ友達としての関係に収束していったのだ。
「大丈夫だよ、珠美」僕はかろうじて微笑みを浮かべて答えたが、その笑みは自分でもぎこちないことが分かった。
「そう…ありがとう」珠美はその笑顔に気づいたかどうかは分からないが、安心したように少し頬を緩めた。
教室の外ではまだ雨が降り続けていた。窓の外に目をやると、灰色の空が無限に広がっていた。珠美との会話が終わり、彼女が他の学生たちと笑いながら話しているのを、僕は黙って見つめるしかなかった。彼女はすでに僕の手の届かないところにいた。そして、その事実はどうしようもなく僕の心に重くのしかかってきた。
授業が終わると、僕は教室を出て、ひとり歩き始めた。外の雨はさらに激しさを増し、傘を差す意味すらないような勢いで降り注いでいた。僕はその雨の中を、どこへ向かうこともなく歩き続けた。雨の冷たさが、胸の中で燃え尽きた感情をさらに冷やしていく。
僕が珠美に抱いていた思いは、たった数分の会話で消えてしまった。いや、消えたのではなく、僕自身がそれを諦めたのだ。彼女が選んだ道を尊重するしかない。だが、その決断が僕の心に与える痛みは、雨の中で冷える身体以上に深かった。
珠美との決別。それは、僕にとって一つの終わりであり、同時に新しい始まりでもあるのかもしれない。だが、その「始まり」が何を意味するのか、僕にはまだ分からなかった。ただ、今日の雨のように、しばらくは心の中で冷たい感情が降り続けるだろう。
八月の中旬、夜勤のアルバイトが続く蒸し暑い夜だった。僕はいつものコンビニエンスストアのレジに立って、単調な作業を繰り返していた。コンビニの空調はかろうじて外の熱気を遮断してはいるが、その涼しさはどこか表面的で、体の奥からじわりとにじみ出る疲労感を消すには不十分だった。ポツポツと来店する客に商品を渡し、レジのディスプレイに目をやりながら、無心でボタンを押す。それがこの仕事の大半だ。
ふと自動ドアが開き、一人の女性が店内に入ってきた。彼女は白いナース服を着ていて、肩にかかった黒髪がほんの少し湿って光っていた。夜勤明けなのだろうか。彼女の顔には疲れが浮かんでいたが、それ以上にどこか澄んだ静けさが漂っている。ナース服の袖から覗く細い腕に、彼女の職業の過酷さが静かに刻まれているようだった。
彼女は弁当棚の前でしばらく足を止め、少し迷うような仕草を見せた後、サンドイッチを手に取った。その動きは軽やかで、何か確信を持っているようにも見えた。レジに向かって歩いてくると、僕の心臓がなぜかほんの少しだけ速くなった。
「こんばんは」彼女は僕の顔を見て、穏やかな声で挨拶をした。その声には夜勤明けの疲労感が滲んでいたが、それでもどこか明るさを感じさせた。夜の静寂に溶け込むような、その自然なトーンが心地よい。
「こんばんは。お仕事、終わったところですか?」僕はレジを打ちながら、ふとそんな言葉を口にしていた。彼女の姿から目を離せず、何か引き寄せられるような感覚があった。
「ええ、今ちょうど終わったところです。なんだか今日は長く感じました」彼女は軽く笑って、サンドイッチをカゴに置いた。その笑顔は一瞬だけで、すぐに消えたが、確かにそこに温もりがあった。彼女の言葉には疲れの影が差していたが、それでもそこには一種の達成感のようなものが感じられた。
僕は彼女の手元を見ながら、小銭を数え終えてレシートを手渡した。「夜勤って大変そうですね。毎日この時間までお仕事ですか?」
「そうですね、夜勤があると体のリズムが崩れることもありますけど、慣れればそんなに辛くはないですよ」彼女はまた笑った。その笑顔には一種の余裕があり、どこか安堵の表情も含まれていた。夜勤明けの疲れが見える中にも、彼女の強さが伝わってくる。
「僕も夜勤ばかりなので、何となくわかる気がします」僕は笑い返しながら、袋にサンドイッチを詰めた。会話が続く中で、僕は彼女の名前が知りたくなった。それがただの好奇心なのか、それとも何かもっと深い感情なのか、はっきりとした理由は分からなかったが、彼女ともう少し話していたいと思った。
「お名前を伺ってもいいですか?もし差し支えなければ…」
彼女は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐにまた笑みを浮かべた。「鷹司美月です。看護師をしています」
「美月さん…素敵なお名前ですね。僕は篤です。このコンビニで夜勤のバイトをしていて、まあ、ずっと夜働いています」僕は少し照れながらも、自己紹介をした。彼女が名前を教えてくれたことにほっとし、その響きが心に残った。
「篤さん、よろしくお願いしますね。夜勤仲間ですね」と言って、彼女は手を振って店を出て行った。自動ドアが閉まると、外から微かに虫の声が聞こえ始めた。彼女の姿が消えても、その存在感がどこか店内に残っているような気がした。
それから数日が経ち、美月は夜勤明けにしばしば店に立ち寄るようになった。僕は彼女が来るたびに自然と会話を交わすようになり、その度に何か温かいものが胸の中に広がるのを感じていた。彼女は仕事の愚痴や日常の些細なことを話してくれた。看護師の仕事は想像以上に過酷で、特にコロナ禍の時期は一層緊張感が高まったという話もした。
「最近は少し落ち着いたけど、やっぱり病院の雰囲気はピリピリしてるの。患者さんもスタッフも、常に気を張ってる感じがあって…だから、こうして帰りにちょっと一息つける場所があるのはありがたいんです」彼女は疲れた目で僕を見ながら、そう言った。
「それは大変ですね。僕もここで働いてると、毎日が同じことの繰り返しで、つい気が滅入ることがあるけど、美月さんの話を聞くと、なんだか勇気づけられますよ」
「そうですか?それならよかったです」彼女はほんのりと笑い、目を細めた。その表情を見て、僕は彼女に対して次第に強く惹かれている自分に気づいた。彼女が話す言葉やその仕草、笑顔の一つひとつが僕の心に響いてくる。彼女の中には何か特別なものがあって、それが僕を引き寄せていた。
ある夜、美月がまた夜勤明けに立ち寄った時、僕は思い切ってこう切り出した。「今度、もし良かったら、一緒にご飯でも行きませんか?夜勤明けで疲れてるだろうけど、リフレッシュに少し外に出てみるのもいいかもしれないし」
その時、彼女は少し驚いた表情を浮かべたが、すぐにその表情は和らぎ、穏やかな微笑みに変わった。「それはいいですね。実は最近、休みの日にリラックスできる場所を探してたんです。篤さん、お勧めの場所とかありますか?」
僕は少し考え込んだ後、地元で評判の良いカフェを思い出した。「それなら、静かなカフェがあるんです。夜勤明けにぴったりな場所ですよ」
「いいですね、行ってみたいです」美月はその提案に乗り気だった。僕の心は少しだけ軽くなった。彼女との距離が少しずつ縮まっているように感じたからだ。
数日後、僕たちはそのカフェに向かった。夜の街は静かで、涼しい風が僕たちの周りを包み込んでいた。カフェは落ち着いた雰囲気で、薄暗い照明が心をほっとさせる空間だった。美月はリラックスした表情で、コーヒーカップを手にしていた。
「ここ、素敵な場所ですね。こんなところがあったなんて知らなかった」
「僕もここはたまにしか来ないんですが、落ち着く場所なんです」
「確かに、こういう場所があるとリフレッシュできますね」彼女はカップに目を落としながら、静かに微笑んだ。その姿を見ていると、僕は今まで感じていた彼女の疲れが少しずつ和らいでいくのを感じた。彼女が抱える日々の重圧や忙しさ、そして僕が抱えている日常の単調さが、少しだけ軽くなったような気がした。
それから僕たちは、何度もそのカフェで会うようになった。夜勤明けの彼女の疲れを少しでも癒せたらと思いながら、僕は彼女との時間を大切にした。その時間が、僕にとっても特別なものになっていったことは言うまでもない。
秋の空は高く澄んでいて、その青さがやけに心に沁みた。9月の下旬、僕は織田口さんとの最後の日を迎えていた。建設現場の入り口に立つ彼の姿を目にした時、心の奥底から何かがこみ上げてくるのを感じた。彼は何年もここで働いてきたが、今日を境にこの現場を去ることになる。あの鋭く、けれど優しい眼差しが、もうこの現場で見られなくなるのだと思うと、妙に現実感が薄れた。
「織田口さん」と僕はその名を呼びかけた。僕の声は、建設機械の轟音にかき消されるようだったが、彼は振り返った。日差しを受けて、汗ばんだ額が光っている。あの屈強な体躯に染みついた作業着、彼の手は少し硬直したまま腰に当てられていた。
「篤、どうした?わざわざ俺に話しかけに来たのか」織田口さんは笑ったが、その声にはいつもより深い響きがあった。
僕は何を言えばいいのか分からず、ただ無言で彼の方へ歩み寄った。長い間、彼はこの現場で僕を支えてくれた。仕事の手順を教え、困った時には適切なアドバイスをくれた。けれど、その彼がもう去るという事実に、どこか心の整理がつかない。
「本当に辞めるんですか?」僕はようやく声を出し、質問を投げかけた。自分でもそれが愚問だと分かっていたが、どうしても確認せずにはいられなかった。
織田口さんは短くうなずき、少し遠くを見つめるように視線をそらした。「ああ、辞めるよ。この場所でこれ以上働くことはできない。それが俺の選んだ道だ」
彼の言葉には確固たる意思が感じられた。その言葉が僕の胸に重く響く。内部告発のことが頭をよぎる。彼は会社の不正を告発した。それが彼の転職の理由だと誰もが知っていた。正義感の強い織田口さんらしい行動だったが、その代償は大きかった。会社は告発を無視できず、そして彼をこの場所から追い出す形で処理したのだ。僕はその事実に怒りを覚えながらも、何もできなかった自分を責めるばかりだった。
「会社の不正を告発したこと、僕は間違っているとは思いません。でも、なんでこんなことに…」僕の声は次第に弱くなり、無力感に支配された。僕には織田口さんを引き止める術も、彼を助ける力もなかった。僕はただここに立ち尽くしているだけだ。
織田口さんは少し考え込むように眉間にしわを寄せ、それからゆっくりと話し始めた。「篤、確かに俺の行動は、結果としてこうなってしまった。だけど、正しいことをするのはいつだって容易じゃないんだ。誰かが何かを犠牲にしてでも、それをやらなきゃならない時がある。俺はその役割を果たしただけだ」
彼の言葉は落ち着いていて、冷静だった。しかし、その一言一言が僕の中で次第に大きくなり、何かが崩れ落ちる感覚がした。彼は自分の行動を後悔していない。それどころか、自らの選択に対して誇りを持っているように見えた。
「でも…」僕は言葉を詰まらせた。「でも、織田口さんがいなくなったら、この現場はどうなるんですか?あなたがいないと、みんな困りますよ。僕だって、織田口さんがいなかったら、どうしていいか…」
織田口さんは静かに笑い、僕の肩に手を置いた。その手は大きくて、温かかった。「篤、心配するな。この現場は、俺がいなくても回るよ。お前たち若い連中がしっかりやっていけばいいんだ。俺はただの一人の作業員だ。俺が去っても、何も変わらない」
彼の言葉はまるで確固たる事実のように響いた。しかし、僕にはそうは思えなかった。織田口さんがいなくなることは、確実にこの現場に大きな影響を与えるだろう。彼は単なる作業員ではない。彼はここで働く全員にとって、信頼の寄る辺だった。
「でも、僕たちは…僕はまだ未熟で…」僕は自分の無力さを口にしようとしたが、織田口さんは軽く首を振った。
「未熟なのは誰でも同じさ。俺だって、最初は何も分からずにこの業界に入った。お前がこれから何をするか、それが大事なんだ。正しいことを恐れるな。自分が信じる道を進め。それだけでいいんだよ」
その言葉は、まるで心の深いところに静かに染み渡るようだった。正しいことを恐れるな――織田口さんは自分の行動を振り返ってそう言っている。会社の不正を告発したこと、それに伴う結果を彼はすべて受け入れている。そしてその上で、次のステップに進もうとしている。
僕はその姿勢にただ圧倒されるばかりだった。彼のように強くなれるだろうか。自分の信じる道を進むことができるだろうか。僕はただ彼を見つめ、その答えを探していた。
「織田口さん、僕もいつか…あなたのように強くなれるでしょうか」
僕がそう尋ねると、彼は少し驚いたように目を細め、それからまた笑った。「強くなる必要なんてないさ。自分が信じることをやればいい。それが強さに繋がるんだ。だから、お前も自分の道を信じて進め」
彼の言葉はシンプルで、しかしその奥には深い意味が込められていた。僕はその言葉を胸に刻み込んだ。
「ありがとうございました、織田口さん。今まで本当に…感謝しています」
僕の言葉に、織田口さんは静かにうなずいた。「こちらこそだよ、篤。お前にはこれからも期待しているよ。いつかお前のやるべきことが見つかる。それまで焦らず、じっくりと進めばいい」
それが彼との最後の会話だった。織田口さんはその後、作業服を脱いで静かに現場を去っていった。去り際、彼の背中がどこか寂しげに見えたが、同時に一種の解放感も感じられた。彼は自分の使命を果たし、次の場所へと向かっているのだろう。
その背中を見送りながら、僕は自分もまた進むべき道を見つけなければならないと強く感じた。正しいことを恐れず、自分の信じる道を歩んでいく――それが織田口さんから受け取った最後の教えだった。
秋の風が吹き、空はますます澄んでいく。
試験会場に入った瞬間、僕の周りの世界は一変した。重々しい空気が漂い、全ての音が消えたかのように感じられた。建物の外では11月の冷たい風が吹きすさぶが、その寒さもこの厚いコンクリートの壁に遮られている。まるで僕をこの場に閉じ込めるかのように。冷えきった廊下を歩きながら、僕は自分の手が汗で湿っていることに気がついた。手のひらがいつもよりも粘ついている。7年間、この日を目指してきたのだと自分に言い聞かせるたびに、緊張が一層増していくのを感じた。
一級建築士の資格試験。それは僕にとってただの資格ではなかった。まるで、これまでの人生全てがこの一瞬のためにあったかのように思える。ここに至るまでの道のりは決して平坦ではなかった。あの時、僕がこの道を選ばなければ、今頃こんな試験会場にいることなどなかっただろう。そして、それは僕が自分の人生に何一つ大きな決断を下すことなく、ただ日々を流されるままに生きていたということを意味する。
試験室に足を踏み入れると、そこにはすでに多くの受験生が座っていた。各々が静かに自分の席について、心を落ち着けようとしている。僕も指定された番号の席に着き、周囲を見回す。何も特別なことはない、ただの大きな教室だ。天井の蛍光灯が薄く点滅し、少し黄ばんだ壁がどことなく時間の経過を感じさせる。だが、この場所で行われることは僕にとって、この数年の集大成となるはずだ。
試験官が淡々と指示を出し始め、試験の準備が進む。試験用紙が一斉に配られ、目の前に白い紙の束が積まれる。その紙の白さが、まるで僕の今後の未来のように何も描かれていないことを暗示しているように思えた。鉛筆を握りしめながら、僕は深く息を吸い込む。心臓の鼓動がやけに大きく感じられる。試験の開始を告げる合図が鳴った時、僕はふと過去の記憶に引き込まれた。
7年前、僕はまだこの業界に足を踏み入れたばかりだった。何も知らず、ただ毎日をがむしゃらに働いていた。あの頃は建設現場で汗を流し、体力勝負の毎日だった。織田口さんとの出会いも、その時のことだ。彼は僕に建築の基本を叩き込んでくれた。重い資材を運びながら、僕に何度もこう言った。「建物は、命だ。お前の手で形作るものが、いつか誰かの命を支えるんだぞ」。その言葉がずっと胸に残り、僕の指針となった。
彼の教えはただの技術的なものではなく、建物そのものに対する敬意だった。それが僕を一級建築士という夢に向かわせるきっかけとなったのだ。そして、彼が会社を去った後も、その言葉は僕の中で生き続けていた。正しいことを恐れるな。自分の信じる道を進め。その教えが、僕を支え続けてきた。
しかし、道は決して簡単ではなかった。幾度となく壁にぶつかり、挫折しかけたこともある。試験に落ち続けた時期、どうしても勉強が手につかず、現場での責任が重くのしかかる日々。体力的にも精神的にも限界だと感じたことは一度や二度ではない。それでも、僕はここまで来た。これまでの苦労を思い返すたびに、背中に冷たい汗が流れるのを感じる。
試験問題を目の前にした僕は、少しずつ鉛筆を動かし始めた。解答欄に文字を書き込む度に、過去の経験が頭の中で鮮明に蘇る。建設現場での苦労、資料と向き合った日々、先輩たちとの衝突。そして、美月との出会い。彼女もまた、僕に多くの影響を与えてくれた人の一人だ。夜勤明けに疲れた顔で僕のコンビニに立ち寄り、少しだけの会話を交わした。いつの間にか、彼女との関係が僕の中で大きな存在になっていたことに気づいた。
「篤さんは、本当に建築が好きなんですね」と彼女はある日、そう言った。
その時、僕は初めて自分の気持ちに気がついたのだ。建築が好きなのか、それともその道に縛られているだけなのか分からない瞬間が長かった。だが、彼女にそう言われた時、僕の中で何かがはっきりとした。僕はこの道を選んでよかったのだと。
そんな彼女との出会いも、試験の重圧の中で僕を支える一つの柱になっていた。思い返せば、今まで関わってきた全ての人が、僕をこの試験会場まで導いてくれたように思える。
問題を解いていくうちに、頭の中の雑念が少しずつ消え、集中力が戻ってくる。これはただの試験だ。僕がやるべきことは、目の前の問題に一つ一つ正確に答えること。それが、今できる唯一のことだ。過去の記憶や苦労は、もうどうでもいい。今この瞬間に全てをかけることが、未来を切り開くための唯一の方法なのだ。
時折、隣の席の受験生がペンを走らせる音が耳に届く。薄暗い蛍光灯の光が僕の試験用紙に映し出され、鉛筆の先がその白い紙の上で踊っている。それはまるで僕自身が描いてきた道のりを象徴するかのようだった。鉛筆の先が進む度に、これまでの努力が形となり、未来への道が少しずつ開けていく。
時間が過ぎるのは早い。いつの間にか、残り時間のアナウンスが試験室に響き渡る。僕は最後の確認を終え、ゆっくりと鉛筆を置いた。深い息を吐き出し、背中にこわばっていた緊張が少しだけ解けたように感じる。
試験が終わった瞬間、静寂が僕を包み込んだ。長い間、頭の中で響いていた雑音が消え、ただ自分自身の鼓動だけが聞こえる。これで終わったのだろうか。まだ実感が湧かない。僕はゆっくりと立ち上がり、試験用紙を回収する試験官にそれを手渡す。その時、ふと過去の苦労が走馬灯のように脳裏をよぎる。7年間、僕は何度も失敗し、何度も立ち上がってきた。それでもここまで来られたのは、あの時の織田口さんの言葉、そして美月の励ましがあったからだ。
教室を出ると、冷たい11月の風が頬を切るように吹きつけた。頭上にはどこまでも高く広がる青空が広がっている。まだ試験の結果は分からない。しかし、僕はこの瞬間、自分の中で何かが変わったことを感じた。
<完>
作成日:2024/09/27
編集者コメント
前編、後編からなります。後編はこちら。一気に流すには長いので2つに分けましたが、全体としては76,000字ほど、原稿用紙で260枚ほどとなります。これまで3万字ほど、原稿用紙100枚ほどの作品が多く、長めの短編(あるいは短めの中編)という感じだったので、今回は「長めの中編」を目指してみました。
長さのコントロールは主に最初のチャプター&シーンの設計によりますが、今回は意図的にシーンの数を多めに設計させてから書いてもらった形です。
伏線とその回収をうまく入れられたらいいなぁと思うのですけれども、そういうのはやっぱりAIは苦手ですね。そこまで覚えてられないという。