『ハートビート・アルゴリズム 後編:オーバーフローする感情』イメージ画像 by SeaArt

ハートビート・アルゴリズム 後編:オーバーフローする感情

紹介嘘から始まったテクノロジー部での楓の日々。「プログラミング初心者」を演じる彼女の前に、新たな困難が立ちはだかる。幼馴染の松影陽翔の存在、そして学校一の人気者・藤原千紗の巧馬への猛アプローチ。文化祭に向けた「感情予測アプリ」開発プロジェクトが始動し、楓の嘘は雪だるま式に膨らんでいく。架空の友人「鈴木ヒカリ」を創作した彼女の胸の内には、巧馬への不思議な感情が芽生え始めていた。
ジャンル[恋愛小説][学園モノ]
文字数約39,000字

第3部 真実と対峙

崩壊

朝の光が窓から差し込み、ゆっくりと床を這うように移動していく。それはまるで時間そのものが形を取ったかのようだった。瑠璃川楓るりかわ かえでの部屋では、カーテンが引かれたままになっており、その光は端に細い線となって漏れ込むだけだった。彼女はベッドに横たわったまま、天井を見上げていた。三日前から同じ姿勢だ。時折母が心配そうに声をかけるが、彼女は「体調が悪い」の一点張りで部屋から出ようとしなかった。

スマートフォンの画面が突然明るくなった。新着メッセージ。画面を覗き込むと、また松影陽翔まつかげ はるとからだった。昨日から何度も届く彼のメッセージに、楓はまだ一度も返信していない。

「今日も学校に来ないのか?巧馬たくまが君のことを聞いていたよ。みんな心配している」

楓はスマートフォンを枕の下に滑り込ませた。鷹取巧馬たかとり たくまの名前を見るだけで、胸が締め付けられるようだった。彼の病室から逃げ出した日から、すべてが音もなく崩れていった。

翌日、彼女は担任に退部届を提出した。理由欄には「個人的な事情」と短く記した。あの夜、藤原千紗ふじわら ちさから届いたメッセージは冷たかった。

「ソースコードを全て送ってもらえるかしら?あなたの作ったプログラム、私にはよくわからないわ」

楓はそのメッセージに返信せず、ただファイルを添付して送っただけだった。それが彼女の最後の仕事だった。そして、その後何が起きたのかは、彼女にはもう知る由もなかった。

テクノロジー部の部室は異常な緊張感に包まれていた。テーブルの周りに集まった部員たちは、困惑と焦りが入り混じった表情で画面を見つめている。巧馬は眉間にしわを寄せ、キーボードを叩き続けていたが、何度やっても同じエラーメッセージが表示される。

「どうだ?」白鳥環しらとり たまきは冷静な声で尋ねた。

「動かない」巧馬は短く答えた。「コードの構造が複雑すぎる。変数名もわかりづらい」

部室の隅では、千紗が不安げな表情でその様子を見ていた。彼女は椅子に座り、足を組んでいるが、その指先は小刻みに震えていた。楓から受け取ったソースコードは難解そのもので、彼女には理解できなかった。さらに、コードの一部には注釈すらなく、どの部分が何をしているのかさえ把握できなかった。

「もっと早く言うべきだったな」白鳥は静かに言った。「瑠璃川が『鈴木ヒカリ』だったということを」

その言葉に、部室内の空気が凍りついた。二日前、白鳥は部員たちに真実を明かした。彼は最初から楓の嘘に気づいていたのだ。しかし彼女の才能を評価し、プロジェクトのために黙っていたという。

「今更それを言っても仕方ない」巧馬は画面から目を離さず言った。「問題は文化祭までにこれを動かせるかどうかだ」

彼の声には疲れが滲んでいた。病院から戻ってきた彼は、楓がいないことに驚き、そして真実を知って動揺した。しかし、彼は誰に対しても感情を露わにすることなく、ただプロジェクトの完成に集中しようとしていた。

「俺にはこのコードを解読する時間がない」巧馬はついに諦めたように言った。「一からやり直すしかないだろう」

「一週間でか?」白鳥の声には珍しく焦りが混じっていた。「無理だ」

部員たちの間から落胆の声が上がった。文化祭は学校最大のイベントであり、それまでに何も準備できないとなれば、テクノロジー部の評判に関わる。

「俺が楓に話してみる」

陽翔が突然立ち上がった。彼の声には決意が込められていた。

「松影...」巧馬は彼を見上げた。「彼女は学校にも来ていない。連絡は取れているのか?」

「まだだ」陽翔は正直に答えた。「でも、住所は知っている。直接行ってみる」

その言葉に、千紗が突然反応した。

「待って!」彼女は慌てて立ち上がった。「それは...」

部員全員の視線が彼女に集まった。千紗は言葉に詰まり、顔を赤らめた。

「それはどういう意味だ?」白鳥の鋭い視線が彼女に注がれた。

「いえ、なんでもないわ」千紗は視線を逸らした。「ただ、彼女は自分から離れたのだから、そっとしておくべきじゃないかと...」

「時間がない」巧馬は冷静に言った。「プロジェクトを完成させるには、彼女の協力が必要だ」

巧馬の言葉に、千紗は反論できなかった。彼女は黙ってうなずき、再び席に座った。その目には焦りと恐れが浮かんでいた。彼女が楓と交わした取引のことを、誰も知らないからだ。

「俺が行く」陽翔は再び言った。「今すぐに」

巧馬はしばらく考え込んだ後、頷いた。

「頼む。彼女がいなければ、このプロジェクトは終わりだ」

陽翔は夕暮れの街を走っていた。楓の家へは何度も遊びに行ったことがあるが、こんなに必死に向かうのは初めてだった。彼の頭の中には、明日巧馬に言うべき言葉が次々と浮かんでは消えていった。

「なぜ彼女は突然退部したんだ?」

巧馬が昨日、そう尋ねてきた時、陽翔は答えに窮した。彼は楓が「鈴木ヒカリ」の正体だということは知っていたが、彼女が退部した理由は知らなかった。何かがあったはずだ。病院での出来事が関係しているのだろうか。

「千紗」

陽翔はその名前を思い出して足を止めた。彼女が何か知っているような素振りを見せたのは偶然ではないはずだ。彼女と楓の間で何があったのか。想像すればするほど、彼の不安は大きくなっていった。

楓の家に到着すると、陽翔は深呼吸をしてインターホンを押した。しばらくして、楓の母親が応対した。

「あら、陽翔くん」

「こんばんは、瑠璃川さん」陽翔は礼儀正しく頭を下げた。「楓に会いたいのですが」

「かえでなら、三日前から部屋に閉じこもっているのよ」彼女の声には心配が滲んでいた。「食事もほとんど取らないの。何かあったの?」

「少し...学校で問題があって」陽翔は言葉を選びながら言った。「話をさせてもらえませんか?」

瑠璃川鈴るりかわ すずは少し迷った様子だったが、やがて頷いて陽翔を家の中に招き入れた。

「彼女の部屋は二階よ。でも、返事がないかもしれないわ」

陽翔は階段を上り、楓の部屋のドアの前に立った。ドアにはかわいらしいプレートが掛けられていて、「楓の部屋」と書かれていた。小学生の頃、二人で作ったものだ。懐かしさと現実の間で揺れる気持ちを抑えながら、彼はドアをノックした。

「楓、俺だ。陽翔だ」

返事はない。

「話を聞かせてくれ。何があったんだ?」

依然として返事はなかった。陽翔はドアに額を寄せ、小さな声で続けた。

「みんな困っているんだ。特に巧馬が。文化祭のプロジェクトが止まっている」

ドアの向こうで、わずかな物音がした。彼女が動いたのだろうか。

「千紗が何か知っているような素振りを見せた。彼女と何かあったのか?」

その質問に、突然ドアが開いた。そこには憔悴しきった楓の姿があった。髪は乱れ、目は赤く腫れていた。彼女は明らかに泣いていたようだった。

「陽翔くん...」

彼女の声はかすれていた。長い間話していなかったのだろう。

「楓...」

陽翔は彼女の姿に胸が痛んだ。こんな姿を見るのは初めてだった。幼い頃から知る彼女は、いつも静かではあったが、芯の強い子だった。そんな彼女がここまで傷ついている姿を見て、彼は怒りを覚えた。誰かが彼女を深く傷つけたのだ。

「中に入っていい?」

楓は無言で頷き、ドアを開け放した。彼女の部屋はいつもと違って、暗く、物が散らかっていた。普段は几帳面な彼女らしくない光景だった。

「何があったんだ?」陽翔は静かに尋ねた。「なぜ突然退部した?」

楓はベッドに座り、膝を抱えるようにして丸くなった。小さな声で、彼女は話し始めた。

「千紗さんに脅されたの...」

「脅された?」

楓は頷き、病院での出来事を全て話した。彼女がアプリの開発権を千紗に譲ることで、秘密を守る約束をしたこと。そして巧馬との目が合った瞬間、彼女が恐怖から逃げ出してしまったことまで。

陽翔は怒りに震えた。

「なぜ俺に相談しなかった?」

「どうすればいいかわからなかったの...」楓の声は震えていた。「巧馬部長の目...あの時の彼の表情が忘れられないの。彼は全てを知ってしまった。私がどんな嘘つきか」

陽翔は深く息を吐いた。彼女の誤解に気づいたのだ。

「巧馬は知らないよ」

「え?」

「彼は君が『鈴木ヒカリ』だということを、二日前まで知らなかった」陽翔は言った。「彼が何か聞いたとしても、病室での断片的な言葉だけだったはずだ」

楓は目を大きく見開いた。

「でも、あの表情は...」

「彼は病気で弱っていたんだ。何を聞いたかもわからない」陽翔は優しく言った。「それに彼は君を責めていないよ。むしろ心配している」

楓の目に涙が浮かんだ。彼女はそれを拭おうともせず、ただ流れるままにさせていた。

「でも...もう遅いわ」彼女は呟いた。「千紗さんとの約束で、プロジェクトには関われない」

「その約束は無効だ」陽翔は強い口調で言った。「彼女は脅しで君を追い出した。それに...」

彼は少し言葉を選んでから続けた。

「プロジェクトは完全に停止している。誰も君のコードを理解できないんだ。文化祭まで一週間を切った今、君の助けなしでは間に合わない」

楓は窓の外を見た。夕暮れの空が赤く染まり、徐々に闇に包まれていく。それはまるで彼女の心の中の光が消えていくようでもあった。

「もう戻れないわ...」

「なぜだ?」

「顔向けできない...」楓は膝に顔を埋めた。「みんなに嘘をついたのよ。特に部長に...」

陽翔は彼女の隣に座り、そっと肩に手を置いた。

「そうかもしれない。でも君がいなければ、文化祭のプロジェクトは失敗する。そして、それはテクノロジー部全体の問題になる」

彼の言葉に、楓は少しずつ顔を上げた。彼女の目には、まだ迷いがあったが、かすかな光も戻り始めていた。

「でも、どう説明すればいいの?」

「真実を話せばいい」陽翔はまっすぐに彼女を見つめた。「君は本当は嘘をつきたくなかったはずだ。それを伝えればいい」

楓は長い沈黙の後、小さく頷いた。

「考えてみる...」

それは完全な約束ではなかったが、陽翔には十分だった。彼女の心にわずかでも前向きな気持ちが戻ってきたことが嬉しかった。

「明日、答えを聞かせてくれ」

陽翔が立ち上がると、楓は急に彼の袖を掴んだ。

「巧馬部長...本当に私のこと、怒ってない?」

その質問には、彼女の本当の心配が込められていた。陽翔は微笑んで答えた。

「怒ってないよ。むしろ君に戻ってきてほしいと言っていた」

楓の目に再び涙が浮かんだが、今度はそれは安堵の涙だった。

テクノロジー部の部室では、巧馬がまだコンピュータに向かっていた。他の部員たちは既に帰宅し、彼だけが残っていた。画面には楓のコードが表示されている。彼はそれを理解しようと必死だったが、彼女独自の手法やアルゴリズムは彼の想像を超えていた。

「なぜ言ってくれなかったんだ...」

彼は誰もいない部屋でつぶやいた。彼女がプログラミングの天才だということを、なぜ隠す必要があったのか。彼にはまだ理解できなかった。ただ、彼女が突然いなくなったことで、部室には大きな空白が生まれていた。それは単にプロジェクトが進まないというだけではなく、彼自身の心にも空白が生まれていたのだ。

病室で彼女が何かを言いかけたこと。そして逃げるように去っていったこと。断片的な記憶しかなかったが、彼は彼女の言葉をもっと聞きたかった。

「楓...」

彼は星空を見上げながら、彼女の名前を呼んだ。その瞬間、彼のスマートフォンが振動した。陽翔からのメッセージだった。

「楓に会ってきた。明日、返事をくれるそうだ」

巧馬はその言葉に、かすかな希望を見出した。崩壊したかに見えたすべてが、もしかしたらまだ修復できるかもしれない。ただ、彼には一つだけ確かなことがあった。

プロジェクトを完成させるためには、楓が必要だということ。

そして、それだけではないということも。

再起への一歩

翌朝、楓の部屋の窓からは八月の眩しい陽光が差し込んでいた。昨日の陽翔との会話から、彼女は朝までほとんど眠れなかった。心の中では様々な感情が渦を巻いていた。恥ずかしさ、後悔、そして微かな希望。しかし、それらの感情を整理する余裕はまだなかった。

楓はベッドから起き上がり、久しぶりにカーテンを開けた。まぶしい光が部屋に溢れ込み、埃の舞う空気を照らし出す。彼女は窓を開け、深く息を吸い込んだ。外の世界は変わらず動いていた。そのことに、どこか安心感を覚えた。

「かえで、お客さんよ」

母の声が階下から聞こえた。楓は時計を見た。午前九時半。まだ学校の時間だ。陽翔がまた来たのだろうか。

「はーい」

楓は声を張り上げて応えた。声を出すのも久しぶりで、少しかすれているのが自分でもわかった。急いで髪を梳かし、服を整える。鏡に映った自分の顔は、予想以上に疲れて見えた。目の下には隈ができ、頬はこけていた。

階段を下りると、リビングで待っていたのは陽翔ではなく、白鳥環だった。銀縁の眼鏡をかけた彼は、いつもの冷静な表情で楓の母と会話をしていた。楓が現れると、環は静かに頭を下げた。

「邪魔して申し訳ない」

「環...なぜ?」

楓は驚きのあまり言葉に詰まった。環が彼女の家を訪ねてくるなど、想像もしていなかった。

「話があってな」環は腕時計を見た。「時間はそれほどない。学校に戻らなければならない」

楓の母は二人に紅茶を出すと、さりげなく部屋を出ていった。二人きりになると、環はまっすぐに楓を見つめた。

「瑠璃川、一つ訂正しておきたいことがある」

「訂正?」

「そう」環は眼鏡を上げた。「君は誤解をしているようだ。鷹取は君の告白を最後まで聞いていない」

楓はソファに腰を下ろした。足から力が抜けるようだった。

「どういうこと?」

「彼が目を覚ましたのは君が出ていく直前だ」環は淡々と説明した。「彼が聞いたのはせいぜい『ごめんなさい』という言葉だけだろう。君が『鈴木ヒカリ』の正体だということすら、彼は松影から聞くまで知らなかった」

その言葉に、楓の胸に小さな希望が灯った。巧馬は彼女の告白を聞いていなかった。彼が彼女を嘘つきだと知る前に、彼女自身が逃げ出してしまったのだ。

「でも...千紗さんが全部聞いていて...」

「ああ、藤原か」環の目が鋭くなった。「彼女があの日病院にいたことは知っていた。だが、君との取引については今初めて知った」

環は小さなノートを取り出し、何かをメモした。その動作には無駄がなく、洗練されていた。

「彼女は君をプロジェクトから追い出そうとしたわけだな」環は冷静に分析した。「だが、彼女の計算違いがあった」

「計算違い?」

「そう」環はノートを閉じた。「君のコードは彼女には理解できなかった。結果としてプロジェクトは進まず、文化祭に間に合わなくなる可能性が高まっている」

楓は窓の外を見た。文化祭まであと一週間を切っていた。あのプロジェクトは彼女にとって特別なものだった。星空の下で交わした約束から始まったもの。それが今、頓挫しようとしている。

「それで...私に何を望んでいるの?」

「戻ってきてほしい」環は明確に言った。「テクノロジー部に。プロジェクトを完成させるために」

その言葉に、楓は微かに首を横に振った。

「もう嘘はつきたくない...」

彼女の声は小さかったが、決意に満ちていた。

「嘘?」環は眉を寄せた。「今更何を隠す必要がある?部員全員が君の正体を知っている」

「それだけじゃないの」楓はテーブルに置かれた紅茶を見つめた。湯気が立ち上り、やがて空気に溶け込んでいく。それはまるで彼女の告白のようだった。誰にも届かずに消えていく言葉。

「プログラミングのことだけじゃない。私は...巧馬部長のことを...」

言葉が喉に詰まった。環は彼女の言葉の先を理解したようだった。彼は小さくため息をつき、眼鏡を直した。

「そういうことか」

環の声には珍しく温かみがあった。

「告白をしたのか」

「うん...でも伝わらなかった」楓は苦笑いした。「ちょうど千紗さんに聞かれたところなの」

「なるほど」環は首肯した。「だから彼女は君をプロジェクトから排除しようとしたのか」

二人の間に沈黙が流れた。環はじっと楓を観察していた。まるでコンピュータがデータを分析するかのように冷静に、しかし何かを見極めようとしていた。

「瑠璃川、君は実に興味深いパーソナリティだな」環は突然言った。「プログラミングの技術は確かに高いが、それ以上に興味深いのは君の心理だ」

「どういう意味?」

「君はプログラミングが得意だということを隠した。なぜだ?」

楓は少し考えてから答えた。

「目立ちたくなかったから...前の学校では変わり者扱いされて」

「だが結果として、より目立つ存在になった」環は鋭く指摘した。「『鈴木ヒカリ』という天才プログラマーは、テクノロジー部の中で伝説のような存在だった」

楓はそのアイロニーに苦笑した。確かに彼の言うとおりだった。目立たないようにと始めた偽装が、結果的には彼女をより特別な存在にしてしまった。

「そうね...皮肉なものだわ」

「人は往々にして、逃れようとするものに縛られる」環は哲学者のように言った。「そして君は今、再び同じ過ちを犯そうとしている」

「え?」

「嘘をつきたくないという理由で、本当の自分を隠そうとしている」環の目はまっすぐに楓を見つめていた。「それもまた、嘘ではないか?」

楓はその言葉に返答できなかった。環は彼女の心の芯を見透かしたようだった。彼女が部に戻らない本当の理由は、嘘をつきたくないからではなく、恥ずかしさと恐れからだったのかもしれない。

「環...」

「考えておくといい」環は立ち上がった。「選択は君次第だ。ただ、鷹取は君を待っている」

その言葉を残し、環は帰り支度を始めた。楓は彼を玄関まで見送った。ドアを開ける前に、環は一度だけ振り返った。

「ちなみに」彼は少し声のトーンを落とした。「鷹取も君のことを気にかけている。単にプロジェクトのためだけではないようだ」

その言葉に楓の心臓が早鐘を打った。環は微かな笑みを浮かべ、そのまま立ち去った。彼の背中はまっすぐで、まるで彼の言葉のように揺るぎなかった。

午後になり、楓は自分の部屋で環の言葉を反芻していた。窓から見える空は真っ青で、雲一つない。彼女の心も少しずつ晴れてきているようだった。

「巧馬部長は私の告白を聞いていなかった...」

その事実は、彼女に安堵と共に新たな悩みをもたらした。もし彼女が部に戻るなら、もう一度彼と向き合わなければならない。自分の嘘を認め、そして本当の気持ちを伝えなければならない。その勇気が彼女にあるだろうか。

ドアをノックする音がして、楓は我に返った。

「かえで、また友達が来てるわよ」

母の声に、楓は驚いた。もう一度環が来たのだろうか。それとも陽翔?

階下に降りると、陽翔が居間で待っていた。学校帰りらしく、制服姿だった。彼は楓を見ると立ち上がり、少し気まずそうに微笑んだ。

「楓...調子はどう?」

「うん、少しマシ...」

楓は正直に答えた。昨日よりは確かに気分が良かった。環の訪問が彼女の心に何かをもたらしたのかもしれない。

「そっか、良かった」陽翔は安心したように言った。「白鳥も来たって聞いたよ」

「環が話したの?」

「ああ、部室で」陽翔は少し視線を逸らせた。「彼は、君に部に戻ってほしいと言ったんだろう?」

楓は頷いた。そして彼女が決めた答えについても話した。

「でも...私はまだ戻れないと思う」

「理由は?」陽翔はまっすぐに彼女を見つめた。

「部長の顔を見る勇気がないの」楓は正直に言った。「あんな嘘をついて...それに...」

彼女の言葉は途切れた。その先にある「好きだという気持ち」を口にする勇気がなかった。陽翔には言えても、肝心の本人には言えない。何という矛盾だろうか。

「わかるよ」陽翔は優しく言った。「でも、プロジェクトは本当に危機的な状況なんだ。君のコードは誰にも解読できない」

楓は申し訳なさそうに目を伏せた。彼女は意図的に複雑なコードを書いたわけではなかったが、自分のスタイルで書いたコードが他の人には理解しづらいということは認識していた。

「千紗さんとの約束もあるし...」

「その約束は無効だよ」陽翔の声には珍しく強さがあった。「彼女は君を脅したんだ。そんな約束に従う必要はない」

「でも...」

「それに」陽翔は彼女の言葉を遮った。「僕が君の代わりにすべてを話すよ」

「え?」

「巧馬に」陽翔の目は真剣だった。「君が嘘をついた理由、君の気持ち、すべてを。そうすれば君は直接彼と向き合わなくても済む」

楓はその申し出に驚いた。陽翔がそこまでしてくれるなんて。でも、それは本当に彼女のためなのだろうか。それとも...

「陽翔くん、なぜそこまでしてくれるの?」

その質問に、陽翔の表情がほんの少し曇った。彼は少し言葉を選ぶように間を置いてから、口を開いた。

「幼馴染だからさ。助け合うのは当たり前」

だが、彼の目は別の感情を語っていた。楓は初めて気づいた。陽翔の目には、友情以上の何かが宿っていることに。それは彼女が巧馬に対して抱いている感情と同じものだった。

「陽翔くん...もしかして...」

楓の言葉に、陽翔の顔が少し赤くなった。彼は視線を逸らし、髪をかき上げた。

「気にしないでくれ」彼は笑おうとした。「大事なのは、君がプロジェクトに戻ることだ。君が戻らなければ、文化祭は失敗する。そして、それは巧馬にとっても大きな痛手になる」

楓は陽翔の言葉に込められた思いの深さに胸が締め付けられた。彼は自分の気持ちを押し殺して、彼女と巧馬のことを考えていた。そんな陽翔の真剣な思いを、彼女はこれまで見過ごしてきたのだ。

「陽翔くん...ごめんね...」

「謝ることはないよ」陽翔は優しく微笑んだ。「君の幸せが僕の幸せだから」

その言葉に、楓の目から涙が溢れた。それは感謝と申し訳なさが混じった複雑な感情からくるものだった。陽翔は慌てて彼女に近づいた。

「泣かないでくれ。そんなつもりじゃなかった」

「違うの...」楓は涙を拭った。「ただ、こんなに大切に思ってくれる人がいるなんて...気づかなくてごめん」

陽翔は少し恥ずかしそうに笑った。その笑顔は、幼い頃から彼女が知っている陽翔の笑顔だった。いつも彼女のそばにいて、彼女を支えてくれた陽翔。

「それで、どうする?」陽翔は再び真剣な表情に戻った。「プロジェクトに戻る?僕が巧馬に話す?」

楓は少し考えた後、首を横に振った。

「いいえ...自分で話す」

彼女の声には新しい決意が宿っていた。陽翔の真剣な思いに触れ、彼女の中で何かが変わったのだ。もう逃げるわけにはいかない。

「私は自分で巧馬部長に伝えるわ。すべてを」

陽翔はその言葉に、少し寂しそうな、しかし誇らしげな笑みを浮かべた。

「そうだな。それが楓らしい」

窓から差し込む夕陽が、二人の間に温かな光を投げかけていた。それはまるで、彼女の中に灯った再起への希望の光のようだった。これが彼女の踏み出す、新たな一歩になるだろう。

裏切りと友情

放課後の学校は、夏の残暑が廊下に漂っていた。環は人気のない図書室の隅で、ノートパソコンを膝に載せ、細い指でキーボードを叩いていた。画面には複雑なコードが流れ、その青白い光が彼の眼鏡に反射している。陽翔は彼の隣に座り、緊張した面持ちで彼の作業を見守っていた。

「これは合法なのか?」陽翔が声をひそめて尋ねた。

環は作業の手を止めることなく、冷静に答えた。「厳密に言えば、グレーゾーンだな。だが、状況を考えれば正当な理由がある」

彼のスクリーンには、千紗のスマートフォンから抽出されたデータが表示されていた。環は前日、テクノロジー部のWi-Fiネットワークを利用して、千紗のスマートフォンに忍び込んでいたのだ。それは彼の持つ特殊な技術の一つだった。学園の天才ハッカーとしての彼の評判は、決して誇張ではなかった。

「ほう、見つけたぞ」

環の声に、陽翔は身を乗り出した。

「何が?」

「藤原と瑠璃川のやり取りだ」環はスクリーンを指差した。「LINE上のメッセージ。これが証拠になる」

画面には千紗と楓のメッセージが表示されていた。

『開発権を譲ります。その代わり、私の嘘については誰にも言わないでください』

『了解』

シンプルなやり取りだったが、そこに脅迫があったことは明白だった。千紗のスマホには楓の告白を録音したファイルも保存されていた。それは病室で楓が巧馬に対して行った、あの切実な告白だった。

「録音までしていたのか...」陽翔は苦々しい表情で言った。「許せないな」

「感情に流されるな」環は冷静に言った。「これで証拠は揃った。次は直接対決だ」

彼はデータをUSBメモリにコピーし、パソコンをシャットダウンした。彼の動きには無駄がなく、まるで何度も rehearsed したかのようだった。

「藤原は今どこにいる?」

「放課後、生徒会室に行くと言っていた」陽翔は答えた。「文化祭の最終調整のミーティングがあるらしい」

環は頷き、立ち上がった。彼の目には決意の色が宿っていた。

「行くぞ」

生徒会室は校舎の端にあり、窓からは運動場が一望できた。千紗は一人、書類を整理していた。放課後の陽光が彼女の金髪を輝かせ、その姿は一幅の絵画のように美しかった。

ドアが開く音に、彼女は顔を上げた。環と陽翔が入ってくるのを見て、彼女は少し驚いたように見えたが、すぐに優雅な微笑みを浮かべた。

「白鳥くん、松影くん。何かご用?」

彼女の声は甘く、礼儀正しかった。しかし環は、その仮面の下にある本性を見透かしていた。彼はUSBメモリを取り出し、テーブルの上に置いた。

「藤原、君と話がある」

彼の声には冷たさがあった。千紗はその調子に眉をひそめた。

「何かしら?忙しいんだけど」

「瑠璃川楓のことだ」陽翔が一歩前に出た。「君が彼女を脅していたことを知っている」

千紗の表情が一瞬凍りついた。彼女の目が環の手にあるUSBメモリに向けられた。そこには何があるのか、彼女は明らかに察していた。

「何を言ってるの?」彼女は冷静さを装った。「私は誰も脅していないわ」

「証拠がある」環は静かに言った。「君が彼女の告白を盗み聞きし、それを録音したこと。そして、彼女にプロジェクトから手を引くよう強要したこと」

陽翔がスマートフォンを取り出し、二人のLINEのやり取りのスクリーンショットを見せた。千紗の顔から血の気が引いていく。

「どうやって...」

「どうやって入手したかは重要ではない」環は冷静に言った。「重要なのは、君の行為がプロジェクトを危機に陥れているという事実だ」

「私は...」千紗は言葉に詰まった。

「なぜだ?」陽翔は厳しい口調で尋ねた。「なぜ楓を追い出そうとした?」

千紗は椅子に深く腰掛け、窓の外を見た。夕陽が空を赤く染め始めていた。しばらくの沈黙の後、彼女はようやく口を開いた。

「あなたたちには分からないでしょうね」彼女の声には疲れが混じっていた。「私は常に完璧でいなければならないの。父は政治家で、母はモデル。私に対する期待は...重いのよ」

環と陽翔は黙って彼女の言葉を聞いた。千紗の口から漏れ出る言葉は、彼女が普段見せる自信に満ちた態度とは全く異なるものだった。

「でも、それだけじゃない」環は鋭く指摘した。「君には別の動機があったはずだ」

千紗は小さく笑った。それは自嘲的な笑いだった。

「鋭いわね、白鳥くん」彼女はまっすぐに環を見た。「そう、別の理由もあるわ。鷹取くんのこと...好きなの。小学生の頃から」

その告白に、陽翔は驚いた表情を見せた。環は表情を変えなかったが、彼の目にはわずかな驚きの色が宿っていた。

「小学生の頃?」陽翔が問いかけた。

「ええ」千紗は懐かしむように微笑んだ。「同じクラスだったの。彼は当時から冷静で、そして優しかった。クラスのみんなをまとめる力があって...私はずっと彼のことを見ていた」

彼女の言葉には、純粋な感情が込められていた。それは環にとっても、陽翔にとっても、意外な一面だった。

「でも」千紗の声が冷たくなった。「中学で別れ、高校で再会した時、彼は私のことをほとんど覚えていなかった。ただの知り合い程度にしか」

彼女の目に悔しさが浮かんだ。

「そして瑠璃川が現れた。彼女は突然現れて、鷹取くんの注意を引いた。何もしていないのに、彼の目は彼女を追うようになった」

千紗は拳を握りしめた。

「私が何をしても、彼は私を見てくれない。なぜ?私は努力した。彼の好きなものを調べ、手作りのお菓子を作り、話題を合わせた。それなのに...」

彼女の声は震えていた。強がりの中に隠された脆さが見え始めていた。

「そして病院で、彼女の告白を聞いてしまった」千紗は静かに言った。「『私、あなたのことが好きになった』...あの言葉を聞いた時、私は...嫉妬で頭がおかしくなったみたい」

彼女の告白に、環と陽翔は沈黙した。部屋には夕陽の光だけが差し込み、三人の長い影が床に落ちていた。

「だから彼女を脅した?」陽翔が静かに尋ねた。

「そうよ」千紗は正直に答えた。「彼女がいなくなれば、私にチャンスがあると思った。馬鹿げていたわね」

彼女は自嘲的に笑った。

「でも結果的には、プロジェクトを台無しにしただけだった。彼女のコードは誰にも理解できない。私は...失敗した」

千紗の声には諦めが混じっていた。環と陽翔は彼女の告白に、複雑な感情を抱いた。彼女の行為は許されるものではない。しかし、その背後にある動機は純粋な感情から来ていたものだった。

「藤原」環が口を開いた。「我々は巧馬に全てを話すつもりだ」

千紗は顔を上げ、環をまっすぐに見つめた。その目には恐れと諦めが混じっていた。

「わかったわ」彼女は小さく頷いた。「私から話す。隠すつもりはないわ。ただ...」

彼女は一瞬ためらった。

「瑠璃川さんに謝る機会をください。彼女に直接謝りたい」

環と陽翔は顔を見合わせた。彼らが予想していなかった反応だった。

「それは瑠璃川次第だ」環は言った。「彼女が会いたくないと言えば、それまでだ」

「理解しているわ」千紗は静かに答えた。

陽翔は窓の外を見た。夕焼けが徐々に深まり、校舎の影が長く伸びていた。彼の心の中では、千紗に対する怒りと、彼女の弱さに対する不思議な共感が混ざり合っていた。

「藤原」陽翔は振り返った。「楓は明日、学校に戻ってくる。彼女は自分でプロジェクトを続けると決めたんだ」

千紗の目が大きく開いた。

「本当?」

「ああ」陽翔は頷いた。「だから、君がすべきことは明白だろう」

千紗は椅子から立ち上がった。彼女の表情には決意が浮かんでいた。

「わかったわ」彼女はバッグを手に取った。「ありがとう、二人とも。私に真実を突きつけてくれて」

環は無言で頷いた。彼の心の中には、千紗に対する評価が少しだけ変わっていた。彼女の弱さ、傷つきやすさ、そして正直さ。それらは彼が予想していなかった側面だった。

「明日、全てを話す」千紗は約束した。「もう逃げないわ」

彼女は部屋を後にした。その背中は小さく見えたが、どこか晴れやかだった。まるで長年背負ってきた重荷から解放されたかのように。

千紗が去った後、環と陽翔は生徒会室に残った。

「意外だったな」陽翔がつぶやいた。「彼女があんなに正直に話すとは」

「人間は複雑だ」環は眼鏡を上げながら言った。「表向きの姿と、内面は必ずしも一致しない」

彼はノートを取り出し、何かをメモした。それは彼の習慣だった。観察したこと、考えたこと、すべてを記録する。

「どう思う?」環は突然陽翔に尋ねた。「彼女の告白を」

陽翔は窓辺に立ち、運動場に残る最後の部活動の姿を見つめながら答えた。

「複雑だな...」彼は正直に言った。「怒りはまだある。でも、少し理解できる気もする。好きな人のために、判断を誤ってしまうということは」

彼の言葉には、自分自身の経験が反映されていた。楓への思いから、彼もまた時に冷静さを失うことがあった。

「そうだな」環も同意した。「感情は時に理性を曇らせる。それが人間というものだ」

二人は黙って夕焼けを見つめた。明日、すべてが明らかになる。楓が学校に戻り、千紗が真実を話す。そして、プロジェクトは新たな局面を迎えるだろう。

「明日が楽しみだな」陽翔は微笑んだ。「久しぶりに楓に会える」

「ああ」環は静かに頷いた。「そして、物語は新たな展開を迎えるだろう」

彼の言葉は、まるで物語の語り手のようだった。実際、彼はこの一連の出来事を、自分のノートに詳細に記録していた。人間の感情、関係性、そして成長の記録として。

陽翔は最後にもう一度、千紗のことを考えた。彼女の小学生からの片思い、そして歪んだ形で表現された愛情。それは彼自身の状況と、奇妙なほど似ていた。好きな人が別の人を好きになる苦しみ。彼はそれを痛いほど理解していた。

「帰ろうか」環が言った。

「ああ」

二人は生徒会室を後にした。廊下には誰もおらず、彼らの足音だけが空間に響いた。明日という日が、彼らにどんな展開をもたらすのか。環も陽翔も、それを静かに期待していた。

人間の感情は複雑だ。裏切りもあれば、友情もある。そして時に、その境界線はあいまいになる。それが、彼らが今日学んだことだった。

運命の文化祭前夜

文化祭前日の午後、校舎に漂う緊張感は、夏の終わりの空気とともに部室にも満ちていた。窓からは西日が差し込み、コンピューターの画面に反射して小さな虹を壁に描いている。テクノロジー部の部員たちは、各々の持ち場で黙々と作業を続けていたが、その表情からは焦りと諦めが読み取れた。

鷹取巧馬は病院から直接学校に来ていた。医師の忠告を無視して退院したことは、彼の胸元に貼られたテープの跡が物語っていた。彼は静かに部室のドアを開け、久しぶりに戻ってきた自分の場所へと立った。誰も彼に気づかないフリをしている。それは真実から目を逸らそうとする、無言の合意のようだった。

「どうなっている?」

巧馬の声は静かだったが、部室全体に響き渡った。部員たちは顔を上げ、彼を見た。皆の顔には同じ表情があった。敗北を認めざるを得ない者の表情だ。

白鳥環が一歩前に出て、状況を説明した。

「プロジェクトは停滞している。瑠璃川のコードは誰にも理解できず、藤原の協力も期待できない」

彼の声には感情が含まれていなかったが、その事実だけで十分に状況の深刻さを物語っていた。

巧馬はメインコンピューターに向かい、画面を確認した。そこには、見覚えのある複雑なコードが表示されていた。「鈴木ヒカリ」から提供されたという、あのコードだ。しかし今、彼はすべてを知っていた。これが楓自身のコードであること。彼女がプロジェクトから離れたこと。そして、理由は明らかになっていないこと。

「文化祭は明日だ」巧馬は静かに言った。「このままでは間に合わない」

部員たちは黙ったまま、ただ彼の言葉に頷くだけだった。誰もが気づいていたが、口にできなかった現実。テクノロジー部の文化祭プロジェクトは、失敗に終わるだろう。一年で最も重要なイベント、そして彼らの技術を学校中に示す唯一の機会が、水泡に帰そうとしていた。

巧馬は椅子に座り、コードをもう一度見つめた。彼の目は疲れていたが、その中に宿る決意は揺るがなかった。病気で倒れても、プロジェクトを失敗させるわけにはいかない。それが彼の責任だった。

「少しずつでも解読していくしかない」

彼はつぶやき、キーボードに手を伸ばした。しかし、その瞬間、部室のドアが開いた。

「待ってくれ、巧馬」

声の主は松影陽翔だった。彼は少し息を切らしていた。おそらく走ってきたのだろう。その顔には決意と覚悟が浮かんでいた。

「松影...」巧馬は彼を見上げた。「何か進展があったのか?」

陽翔は部室に入ると、ドアを閉めた。彼の表情は真剣そのものだった。

「皆、少し席を外してもらえないか」

彼の声には珍しく権威があった。環は陽翔の意図を察したのか、無言で頷き、他の部員たちに目配せをした。数分後、部室には巧馬と陽翔だけが残されていた。

「何の話だ?」巧馬は冷静に尋ねた。

陽翔は彼の前に立ち、深く息を吸い込んだ。これから話すことが、すべてを変えることを、彼は知っていた。

「楓のことだ。彼女が『鈴木ヒカリ』だったことは知っているな?」

「ああ、白鳥から聞いた」巧馬は頷いた。「だが、なぜ彼女がプロジェクトを降りたのかは聞いていない」

「それを話すつもりだ」陽翔は真剣な眼差しで言った。「全てを」

彼は楓と巧馬の出会いから始まり、彼女が嘘をつかざるを得なかった理由、そして千紗による脅迫、楓の苦悩まで、知る限りのすべてを語った。それは川のように途切れることなく流れ出る言葉だった。巧馬は黙って聞いていた。彼の表情は変わらなかったが、握りしめられた拳からは、彼の内側で渦巻く感情が伝わってきた。

「そして何より重要なことがある」陽翔は一瞬躊躇ったが、続けた。「楓は君のことが好きなんだ」

その言葉に、巧馬の目が大きく開いた。それは彼がこれまで見せたことのない、純粋な驚きの表情だった。

「何...」

「病室で彼女は君に告白した。君が眠っていると思って」陽翔は静かに言った。「彼女は言ったんだ。『私、あなたのことが好きになった』と」

巧馬は立ち上がり、窓際へと歩み寄った。夕暮れの空が赤く染まり始めていた。彼の影が長く伸び、部室の床に落ちていた。

「そうだったのか...」

彼の声は小さかったが、その中には様々な感情が混ざり合っていた。驚き、困惑、そして何かを悟ったような静けさ。

「彼女は本当はプログラミングの天才なんだ」陽翔は続けた。「あのアプリも、彼女一人で作り上げた。前の学校では全国大会で優勝したほどだ」

「なぜ隠したんだ?」巧馬は振り返らずに尋ねた。

「目立ちたくなかったからだ」陽翔は答えた。「前の学校では変わり者扱いされて孤立していた。新しい学校では『普通の女の子』になりたかったんだ」

巧馬は長い沈黙の後、ゆっくりと振り返った。彼の表情には複雑な感情が浮かんでいた。

「星空の下での約束...」

「ああ、彼女はあれを覚えていた」陽翔は頷いた。「あの夜の約束を果たすために、彼女はこのプロジェクトに全てを捧げていたんだ」

巧馬の中で何かが動いた。それは氷が解けるように、彼の中で固まっていた何かが流れ始めるような感覚だった。彼は椅子に座り込み、手で顔を覆った。

「俺は何も気づかなかった...」

「気づけるわけがない」陽翔は彼に近づいた。「彼女は必死に隠していたんだから」

「だが...」

巧馬の言葉は途切れた。彼自身も自分の感情を整理できていないようだった。嘘をつかれたことへの裏切り感。彼女の才能への驚き。そして、彼女が自分に抱いていた感情への戸惑い。それらが全て混ざり合い、彼の心を揺さぶっていた。

「俺は...彼女にどう接すればいいのかわからない」

その言葉には珍しい迷いがあった。いつも冷静沈着な巧馬が、感情の前に立ち止まっていた。

陽翔は少し悲しげな笑みを浮かべた。彼は自分の幼なじみを、他の男に委ねようとしていた。それは痛みを伴う決断だったが、彼女の幸せを願うがゆえの選択だった。

「彼女の気持ちは本物だ」陽翔は静かに言った。「それだけは信じてほしい」

その時、部室のドアが激しく開いた。二人が驚いて振り返ると、そこには藤原千紗が立っていた。彼女の完璧なメイクは涙で崩れ、いつもの優雅さはどこにも見えなかった。

「鷹取くん!」

彼女は叫ぶように言った。そして次の瞬間、彼女は床に膝をつき、深々と頭を下げた。

「私が全ての元凶です!瑠璃川さんを脅して、プロジェクトから追い出したのは私です!」

部室に衝撃的な沈黙が広がった。千紗の土下座は、彼女のプライドを考えれば、想像を絶する行為だった。巧馬も陽翔も、言葉を失って彼女を見つめていた。

「藤原...」

巧馬が言葉を見つけようとする中、千紗は顔を上げずに続けた。

「私は瑠璃川さんが病室であなたに告白するのを聞いてしまいました。そして嫉妬から、彼女を脅したんです。アプリの開発権を譲るよう強要しました」

彼女の声は震えていた。

「私は...小学生の頃からあなたのことが好きでした。あなたは覚えていないでしょうが、私たちは同じクラスだったんです」

千紗はようやく顔を上げた。その顔には涙が流れていたが、目には決意の色が浮かんでいた。

「でも、それは理由にならない。私の行動は許されるものではありません。だから...」

彼女は再び深く頭を下げた。

「どうか瑠璃川さんを許してください。彼女は何も悪くありません。すべての責任は私にあります」

巧馬は動揺を隠せなかった。この数分の間に、彼の周りの世界が完全に変わってしまったように感じられた。楓の秘密。彼女の感情。そして今、千紗の告白と謝罪。それらは全て、星空の下での約束から始まった物語の一部だったのだ。

「藤原、顔を上げてくれ」

巧馬は静かに言った。彼は千紗の前に膝をつき、彼女と同じ目線に立った。

「君のしたことは間違っていた。だが...」

彼は少し言葉を選んだ。

「勇気を持って真実を話してくれたことには敬意を表する」

千紗の目には新たな涙が浮かんだ。それは安堵と後悔が混じった涙だった。

「瑠璃川は...戻ってくるのか?」巧馬は陽翔に向かって尋ねた。

「わからない」陽翔は正直に答えた。「彼女はまだ決めかねているようだ」

巧馬は立ち上がり、窓際に歩み寄った。夕日が沈み、空が紫色に染まり始めていた。星が一つ、また一つと瞬き始める。あの夜と同じように。

「時間がない」彼は静かに言った。「もう一度、彼女に会いに行かなければ」

彼の声には新たな決意があった。陽翔と千紗は彼を見つめ、その目に灯った光に気づいた。それは感情の炎だった。いつも冷静な巧馬が、初めて見せる感情の表れ。

「俺が行く」陽翔が言った。「彼女を連れてくる」

「いや」巧馬は振り返った。「俺が行く。俺が彼女と話をする必要がある」

その言葉に、陽翔は小さく微笑んだ。彼は最初から、このような展開を望んでいたのかもしれない。

「わかった」陽翔は頷いた。「彼女の家は...」

「教えてくれ」巧馬の声には迷いがなかった。「今すぐに行く」

千紗は静かに立ち上がった。彼女の目には後悔とともに、何か晴れやかなものも宿っていた。

「私も...何か手伝えることはある?」

「ああ」陽翔は彼女に向き合った。「プロジェクトを救うために、力を貸してくれないか」

千紗は強く頷いた。彼女の目には、新たな決意が浮かんでいた。

夜が訪れようとする空の下、テクノロジー部の部室では、運命の歯車が大きく回り始めていた。文化祭前夜、すべてが動き出したのだ。

夜明け前の決断

巧馬は眠らなかった。一晩中、彼の部屋の明かりは消えることなく、窓からは青白い光が漏れ続けた。彼の頭の中では、陽翔の言葉が何度も繰り返されていた。「楓は君のことが好きなんだ」——その言葉は彼の心に風船のように浮かんでは消え、また浮かんでは消えた。

時計の針が四時を指したとき、彼は決断した。もう逃げるわけにはいかない。これまで彼は人間関係において、常に安全な距離を保ってきた。人を深く知ることも、深く知られることも避けてきた。だが今、彼の心は別の場所へと向かおうとしていた。

「楓...」

彼は窓辺に立ち、夜明け前の暗い空を見上げながら、彼女の名を呟いた。まだ星が瞬いている。あの夜と同じ星空だ。運命というものがあるとすれば、それは星々のように、見えないときも確かにそこにあって、静かに人を導いているのかもしれない。

東の空がわずかに明るくなり始めた頃、巧馬は家を出た。まだ誰も起きていない時間だ。彼は陽翔から教わった楓の家の住所に向かって歩き始めた。町はまだ眠っていて、彼の足音だけが静かな空気を破っていた。

楓の家に着いたのは、六時少し前だった。空はすでに青みを帯び始め、鳥たちが朝の歌を歌い始めていた。彼は深呼吸をして、インターホンを押した。しばらくして、中年の女性が応対した。楓の母親だと思われる。

「あの、瑠璃川楓さんはいらっしゃいますか」

彼はできるだけ落ち着いた声で尋ねた。

「楓なら、もう出てしまいましたよ」女性の声には少し驚きの色があった。「あなたは?」

「鷹取巧馬です。テクノロジー部の...」

「ああ、鷹取くん!」彼女の声が明るくなった。「楓からよく聞いていますよ。さっきまで徹夜でプログラミングしていたんですが、朝早くに『学校に行く』と言って出かけてしまって」

巧馬の心臓が跳ねた。楓は徹夜でプログラミングをしていた。そして今は学校にいる。彼女はプロジェクトを諦めていなかったのだ。

「そうですか...ありがとうございます」

巧馬は礼を言い、急いで学校へと向かおうとした。その時、彼女の声が再び聞こえた。

「鷹取くん、ちょっと待って」

振り返ると、楓の母が玄関まで出てきていた。

「楓はね、あなたのことをとても大切に思っているみたいです」彼女は少し遠慮がちに言った。「あの子、最近悩んでいたみたいですが、昨夜は『もう一度頑張ってみる』と言っていました。どうか...あの子をよろしくお願いします」

彼女の言葉には、母親としての優しさと懸念が混ざっていた。巧馬は小さく頭を下げた。

「わかりました。必ず」

彼はその言葉を胸に、学校へと急いだ。まだ通学する生徒もまばらな早朝の道を、彼は小走りに進んだ。

テクノロジー部の部室では、楓が一人でコンピューターに向かっていた。彼女は昨夜、何度も書き直したコードを最終確認していた。窓からは朝日が差し込み、彼女の疲れた顔を優しく照らしている。

「これで動くはず...」

彼女は小さく呟いた。四時間の睡眠と、それに続く徹夜作業で、彼女の目は赤く腫れていた。しかし、その瞳には決意の光が宿っていた。

プログラムを起動すると、画面にはカメラからの映像が表示され、彼女の顔を認識するフレームが現れた。そして感情分析のグラフが動き始めた。

「成功...」

彼女は小さく微笑んだ。星空の下での約束。それは守られそうだった。これで文化祭は救われる。後は最終的な調整だけだ。

部室のドアが静かに開く音がした。振り返ると、そこには白鳥環が立っていた。彼は早朝から登校する習慣があるのだろう。銀縁の眼鏡の奥の目は、わずかに驚きの色を宿していた。

「瑠璃川...戻ってきたのか」

「うん...」楓は少し恥ずかしそうに答えた。「迷惑をかけてごめんなさい」

環は静かに部室に入り、彼女のコンピューターの画面を見た。そこには彼女が一晩かけて完成させたプログラムが動いていた。

「完成したのか」

「まだ最終調整が必要だけど...」

環は椅子に座り、小さなノートを取り出した。

「手伝おう」

彼の声には、いつもの冷たさがなかった。楓は彼に感謝の微笑みを向けた。

「ありがとう」

二人は黙々と作業を続けた。言葉は少なかったが、コードを通して二人は対話していた。環の論理的な思考と、楓の直感的なプログラミングスタイルは、奇妙なほど相性が良かった。

しばらくして、部室のドアが再び開いた。今度は陽翔だった。彼は楓の姿を見ると、大きく目を見開いた。

「楓!」

彼は駆け寄ると、思わず彼女の肩を抱きしめた。

「本当に来たんだな!」

楓は照れながらも、彼の喜びに微笑んだ。

「うん...みんなに迷惑かけられないから」

「いや、僕たちこそごめん」陽翔は真剣な表情で言った。「君を守れなくて」

「陽翔くん...」

楓は彼の真摯な気持ちに、胸が熱くなるのを感じた。彼は幼い頃から彼女のそばにいて、常に彼女を支えてくれた。その存在の大きさを、彼女は今改めて実感していた。

「松影、感傷に浸っている場合ではない」環が冷静に言った。「作業を手伝ってくれ」

「ああ、もちろん!」

陽翔は笑顔で頷き、作業に加わった。三人はそれぞれの役割を見つけ、効率的に作業を進めていった。部室の緊張感は徐々に和らぎ、代わりに希望が芽生え始めていた。

そして、予想外の訪問者が現れた。藤原千紗だ。彼女は部室のドアを開けると、一瞬躊躇したように見えた。楓と目が合うと、彼女は深く頭を下げた。

「瑠璃川さん...ごめんなさい」

楓は動揺を隠せなかった。千紗からの謝罪など、想像もしていなかったからだ。

「藤原さん...」

「私がしたことは許されないことだとわかっています」千紗はまっすぐに楓を見つめた。「でも、もしよければ...私も手伝わせてください」

楓は少し迷った。しかし、彼女の目に宿る真摯な気持ちを見て、頷いた。

「ありがとう。一緒に頑張りましょう」

千紗の表情が明るくなった。彼女はおずおずと部室に入り、作業に加わった。四人の間には最初、微妙な緊張感があったが、作業に集中するうちにそれは徐々に溶けていった。

朝日が高くなり、学校に生徒たちが集まり始める頃、部室には完成に近づいたプログラムが動いていた。楓のプログラミング技術、環の論理的思考、陽翔の直感的なアイデア、そして千紗のデザインセンス。それらが絶妙に組み合わさり、プロジェクトは急速に形になっていった。

「これで...」楓が最後のコードを入力した。「動くはず」

四人は緊張した面持ちで画面を見つめた。プログラムが読み込まれ、感情分析のエンジンが起動する。カメラが彼らの顔を捉え、分析を始めた。

「成功だ」環が静かに言った。

画面には彼らそれぞれの感情分析結果が表示され、それに合わせた音楽とダンスのパターンが推奨されていた。部室に小さな歓声が上がった。

そして、最後の訪問者が現れた。

部室のドアが開き、鷹取巧馬が立っていた。彼は息を切らしており、明らかに走ってきたようだった。彼の目は楓を捉えると、そこに留まった。

部室に静寂が広がった。

「楓...」

彼は彼女の名を呼んだ。初めて彼女の名前を呼び捨てにした彼の声には、これまでにない感情が込められていた。楓は椅子から立ち上がり、彼を見つめ返した。

「部長...」

「陽翔から全て聞いた」巧馬は一歩前に進んだ。「君の嘘のこと、その理由...そして」

彼は言葉を選んでいるようだった。

「君の気持ちのこと」

楓の顔が赤く染まった。彼女は視線を落とし、何と答えればいいのか分からずにいた。

「ごめんなさい...嘘をついて...」

「いや」巧馬は首を振った。「謝るのは俺の方だ。君の才能に気づかず、孤独にさせてしまって」

彼は楓の前に立ち、真剣な眼差しで彼女を見つめた。

「星空の下での約束、覚えている」彼は静かに言った。「あの夜、僕たちは約束した。ダンスアプリを一緒に作ると」

楓の目に涙が浮かんだ。彼は覚えていたのだ。そして彼女の嘘にもかかわらず、その約束を大切にしていたのだ。

「そして...」巧馬は少し躊躇った。「病室で君が言ったこと...本当かい?」

楓は顔を真っ赤にして頷いた。もう隠すことはなかった。

「本当です...」

彼女の小さな声に、巧馬の表情が柔らかくなった。

「ありがとう」彼はシンプルに言った。「僕も...君のことを特別に思っている」

その言葉に、楓の心は高鳴った。それは告白と呼べるものではなかったかもしれないが、彼女にとっては十分だった。巧馬は感情表現が苦手な人間だ。それでも、彼が一歩踏み出してくれたことが嬉しかった。

「さあ」巧馬は他のメンバーにも視線を向けた。「文化祭までもう時間がない。みんなで仕上げよう」

彼の言葉に、部室全体が活気づいた。五人はそれぞれの役割に戻り、最後の調整に取りかかった。千紗は楓の隣に座り、小さな声で言った。

「本当にごめんなさい。私、あなたを誤解していた」

「いいんですよ」楓は彼女に微笑みかけた。「私も千紗さんのことを分かってなかったから」

二人は小さく微笑み合った。かつての敵意は消え、新たな理解が生まれ始めていた。

環は静かに作業を続けながら、この一連の出来事を観察していた。彼の鋭い洞察力は、この集団の中に生まれた新たな絆を見逃さなかった。彼は小さなノートに何かを書き込んだ。おそらくは、彼なりの感想だろう。

陽翔は少し離れた場所から、楓と巧馬を見ていた。彼の目には少しの寂しさがあったが、それ以上に友人たちの幸せを喜ぶ気持ちが大きかった。彼は自分の気持ちを抑え、彼らの幸せを願うことを選んだのだ。

朝の光が部室を満たし、五人の影が床に長く伸びていた。それは彼らの前に広がる未来の象徴のようだった。

「これで万全だ」

巧馬が最後のテストを終えて言った。プログラムは完璧に動き、インターフェースも使いやすく整えられていた。「感情予測ダンスアプリ」——テクノロジーと感情を繋ぐ、彼らの集大成だ。

「文化祭、成功させましょう」

楓の言葉に、全員が頷いた。彼らの表情には疲れとともに、達成感と期待が浮かんでいた。夜明け前の決断が、彼らに新たな夜明けをもたらしたのだ。窓の外では、太陽が高く昇り、新しい一日の始まりを告げていた。

文化祭の日。彼らの物語は、新たな章へと踏み出そうとしていた。

第4部 輝きの瞬間

文化祭の幕開け

文化祭の朝は、すでに喧噪に包まれていた。校門には色とりどりの風船が揺れ、正面玄関には「千代田第一高校 文化祭」と書かれた大きな垂れ幕が風にそよいでいる。八月末の空は雲一つない青さで、太陽の光が校舎を明るく照らしていた。

楓は特別棟の三階、テクノロジー部の教室で最後の準備を進めていた。朝六時に登校して以来、彼女はシステムの最終調整に没頭していた。緊張で指先が少し震える。これまでの努力が実を結ぶ瞬間が、ついに訪れようとしていた。

「動作、問題なし」

彼女は小さく呟いた。画面には「感情予測ダンスアプリ ver.1.0」という文字が表示されている。このアプリは、カメラで捉えた人の表情を分析し、その人の感情に合わせた音楽とダンスのステップを提案するというものだ。星空の下での約束から始まり、数多くの困難を乗り越えて完成した彼女とテクノロジー部の集大成。

教室のドアが開く音がした。振り返ると、巧馬が立っていた。彼は白いシャツに黒のネクタイという正装で、いつもより少し緊張した表情を浮かべていた。

「おはよう」

彼の声は静かだったが、部屋の空気を振動させるように楓の耳に届いた。

「おはよう...ございます」

楓は思わず敬語になった。昨日の朝、彼の「君のことを特別に思っている」という言葉が彼女の心に残っていた。それは告白と呼べるものではなかったが、二人の関係に何かが変化したことを示していた。しかし、その後二人はプロジェクトの仕上げに追われ、改めて話す機会を持てないままだった。

「システムの状態は?」

巧馬は彼女の隣に立ち、画面を覗き込んだ。二人の肩がわずかに触れ、楓は小さく身を震わせた。

「問題ありません。全て正常に動作しています」

「そうか、よかった」

彼は微笑んだ。その笑顔は柔らかく、いつもの厳格さが影を潜めていた。楓は思わず見とれてしまい、慌てて視線を画面に戻した。

次々と他の部員たちが到着し、テクノロジー部の教室は賑やかになっていった。全員が白いシャツに黒のネクタイというドレスコードで統一され、プロフェッショナルな雰囲気を醸し出している。環は冷静に最終確認のリストをチェックし、陽翔は元気よく展示の配置を調整していた。千紗も早くに来て、受付の装飾を手伝っていた。彼女と楓の間に以前のぎこちなさはなく、二人は時折微笑みを交わすほどになっていた。

「いよいよだな」

陽翔が楓の隣に立ち、彼女の肩を軽く叩いた。彼の目には友情の色が温かく灯っていた。

「うん...緊張する」

「大丈夫だよ。このアプリは最高だ。みんな驚くよ」

彼の言葉に、楓は少し自信を取り戻した。陽翔は幼い頃から彼女の支えだった。そして今もなお、彼はそばにいてくれている。

「九時だ。開場するぞ」

巧馬の声に、全員が緊張した面持ちで頷いた。環がドアを開けると、すでに廊下には数人の生徒が並んでいた。テクノロジー部の出し物は、事前の噂で注目を集めていたのだ。

「いらっしゃいませ、テクノロジー部へようこそ!」

陽翔の明るい声で、文化祭の一日が始まった。

正午を過ぎ、テクノロジー部の教室は予想を上回る盛況ぶりだった。入口には長蛇の列ができ、中に入れた生徒たちは歓声を上げている。「感情予測ダンスアプリ」は瞬く間に文化祭の目玉となっていた。

楓は受付近くに設置されたカメラの前で、来場者の対応に追われていた。彼女の役割は、アプリの使い方を説明し、感情分析の結果を解説することだった。

「笑顔が素敵ですね。あなたの感情分析結果は『喜び:87%、期待:76%、好奇心:65%』です。あなたにおすすめの音楽はこちら」

彼女がボタンを押すと、明るく弾むようなJ-POPが流れ始めた。画面には、それに合わせたダンスステップが図解で表示される。

「すごい!本当に私の好きな感じの曲!」

女子生徒が目を輝かせて言った。彼女の友達も集まり、キャッキャと声を上げながらダンスの真似をし始める。楓は彼女たちの喜ぶ姿を見て、心の中で静かな達成感を味わった。

一方、巧馬は教室の反対側で、システムの監視と調整を担当していた。時折、彼の視線が楓に向けられていることに、彼女は気づいていた。二人の視線が交差するたび、彼らは微かに微笑み、そしてすぐに目を逸らすという奇妙なダンスを繰り返していた。

「瑠璃川さん、これ本当にすごいね!」

ファッション部の生徒が興奮した様子で言った。「プログラミングって、こんな楽しいことができるんだ!」

「ありがとう」

楓は微笑んだ。かつては自分のプログラミングの才能を隠していた彼女が、今は堂々とそれを披露している。その変化に、彼女自身も少し驚いていた。

時間が過ぎるにつれ、テクノロジー部の評判は校内に広まり、さらに多くの生徒や教師、そして外部からの来場者が訪れるようになった。中には他校の生徒たちもおり、彼らはアプリの技術的な側面に興味を示していた。

「このアルゴリズムは自分で開発したの?」

眼鏡をかけた男子が楓に尋ねた。明らかにプログラミングの知識がある様子だった。

「はい、TensorFlow Liteをベースに、独自の感情認識モデルを構築しました」

楓は少し照れながらも、自信を持って答えた。彼女は自分の知識と技術を、もはや隠す必要がなかった。それは解放感をもたらしていた。

「そうか...君、すごいな」

彼は感心した様子で言い、友人たちと一緒にアプリを体験し始めた。

午後三時頃、教室はさらに混雑を極めていた。陽翔と環は列の整理に追われ、千紗は飲み物とお菓子を配りながら、来場者の満足度を高めていた。テクノロジー部のメンバー全員が一丸となって、この日のために働いていた。

楓はふと、窓の外を見た。文化祭の熱気で賑わう校庭。様々な出し物や屋台が並び、生徒たちが笑顔で行き交っている。それは彼女が以前の学校で決して経験できなかった光景だった。

「瑠璃川、少し休憩してきたらどうだ?」

突然、巧馬の声が彼女の思考を中断させた。彼は彼女の疲れた様子を心配しているようだった。

「大丈夫です。まだ頑張れます」

楓は微笑んだが、実際には朝からずっと立ちっぱなしで、足がかなり疲れていた。

「無理するな」巧馬の目は優しかった。「俺が代わるから、十分でいいから休んでこい」

彼の真摯な心配に、楓は小さく頷いた。

「わかりました...少しだけ」

彼女が席を立つと、巧馬が自然にその場所に立った。二人の手がわずかに触れ、電気が走るような感覚があった。楓は赤面しながら、急いで教室を出た。

廊下に出た楓は、深く息を吸い込んだ。文化祭の喧噪でさえ、テクノロジー部の教室に比べれば静かに感じられた。彼女は窓際に立ち、外の景色を眺めた。

「うまくいってる...」

彼女は小さく呟いた。これまでの努力が報われ、アプリは予想以上の成功を収めていた。しかし、彼女の心にはまだ引っかかるものがあった。巧馬との関係だ。あの言葉以来、二人はきちんと話せていない。プロジェクトに追われ、また多くの人に囲まれていて、二人きりになる時間がなかったのだ。

「楓」

彼女の名を呼ぶ声がした。振り返ると、陽翔が立っていた。

「すごい人気だね、俺たちのアプリ」

彼は嬉しそうに言った。

「うん、本当に...みんなの協力のおかげだよ」

「違うさ」陽翔は首を振った。「君がいなければ、何もなかった。君のおかげだよ」

彼の言葉に、楓は温かさを感じた。

「ところで」陽翔は少し口調を変えた。「巧馬とは、まだ話してないの?」

「うん...まだ」楓は正直に答えた。「忙しくて、タイミングが...」

「そっか」陽翔は微笑んだ。「でも、彼も君のことを考えているよ。それだけは確かだ」

彼はそう言って、肩をすくめた。

「さて、俺は戻るよ。環が一人でパニックになりそうだから」

陽翔は冗談めかして言い、教室に戻っていった。彼の背中を見送りながら、楓は複雑な気持ちに包まれた。巧馬との関係は、これからどうなるのだろう。あの「特別な感情」という言葉の真意は何だったのか。

彼女は自分の腕時計を見た。休憩時間はもう十分近く経っていた。教室に戻らなければ。

再び教室に入ると、相変わらずの盛況ぶりだった。巧馬は彼女の代わりに来場者の対応をしており、彼のいつもの真剣な表情に、どこか柔らかさが加わっていた。彼は人と接することが苦手なはずなのに、今は自然に笑顔で対応している。

「お待たせしました」

楓が近づくと、巧馬は少し安堵したように見えた。

「休めたか?」

「はい、ありがとうございます」

再び敬語になってしまう自分に、楓は内心で苦笑した。彼との距離感がまだ定まらない。心はより近づきたいと思っているのに、言葉と行動はどこか遠慮がちだった。

「また交代するぞ」

彼はそう言って、彼女に場所を譲った。再び二人の腕がかすかに触れ、二人とも少し身を震わせた。しかし、すぐに次の来場者が現れ、言葉を交わす暇はなかった。

こうして二人は、互いの気持ちを胸に秘めたまま、黙々と来場者の対応に追われていった。時折交わされる視線と微笑み。それだけが、彼らの間でのコミュニケーションだった。言葉にならない会話。そこには期待と不安が混ざり合い、まるで彼らが開発したアプリのように、複雑な感情が分析されるのを待っているようだった。

文化祭の一日はまだ続く。そして彼らの物語も、まだ続いていくのだろう。次のページへと——。

星降る午後

文化祭も終盤に差し掛かると、校内は昼間の熱気から少しずつ落ち着きを取り戻し始めていた。夕暮れの光が廊下に斜めに差し込み、壁に長い影を作っている。教室から漏れる笑い声や音楽は、まだ祭りの余韻を伝えていたが、その音量はわずかに落ち、どこか儚さを帯び始めていた。

楓は人込みをかき分け、静かに階段を上っていった。一日中、「感情予測ダンスアプリ」の対応に追われ、笑顔を絶やさぬよう努めた彼女の表情筋は、もはや限界を迎えていた。声も枯れ気味で、足も棒のように感じられる。今、彼女が必要としていたのは、ただ静かな場所だった。

屋上へのドアを開けると、夕暮れの風が彼女の髪を優しく撫でた。校舎の喧騒から離れたこの場所は、別世界のような静けさに包まれていた。楓は深く息を吸い込んだ。空気は少し冷たく、秋の訪れを予感させるものだった。

彼女は屋上の端に歩み寄り、フェンス越しに空を見上げた。西の空はまだオレンジ色に染まっていたが、東の空はすでに深い紺色へと変わりつつあり、早い星がぽつりと瞬き始めていた。

「綺麗な空...」

楓は小さく呟いた。彼女の言葉は、風に運ばれるように消えていった。そのまま彼女は、フェンス近くのベンチに座り込んだ。今日一日の出来事が、頭の中で映像のように流れる。あれほど心配していた文化祭は、予想以上の成功を収めていた。テクノロジー部の展示は大人気で、「感情予測ダンスアプリ」は学校中の話題になっていた。校長先生さえも体験に訪れ、彼女たちの技術力を絶賛していた。

しかし、彼女の心にはまだすっきりしない部分があった。巧馬との関係だ。あの朝、彼が言った「特別な感情」という言葉。その後、二人はろくに話す時間もなく、ただ忙しさに追われていた。彼の本当の気持ちは何なのか。そして、彼女自身の感情は——。

「ここにいたのか」

突然の声に、楓は飛び上がりそうになった。振り返ると、そこには巧馬が立っていた。夕日に照らされた彼の姿は、どこか非現実的に見えた。影が長く伸び、彼の表情は読み取りづらかった。

「部長...」

彼女は立ち上がろうとしたが、巧馬は手を振って彼女を制した。

「座っていていい。俺も疲れているんだ」

そう言って、彼は楓の隣に腰を下ろした。二人の間には、ほんの少しの距離があった。その距離は、物理的には小さなものだったが、心理的には大きな隔たりのように感じられた。

暫く二人は無言で夕暮れの空を見上げていた。風が吹き、楓の髪が揺れる。

「今日は大成功だったな」

巧馬が沈黙を破った。彼の声には、疲労と満足感が混じっていた。

「はい...本当に良かったです」

楓はまだどこか緊張した様子で応えた。彼女の心臓は早鐘のように鳴っていた。近すぎる彼の存在が、彼女の思考を乱している。

「君のおかげだ」

巧馬はまっすぐに彼女を見た。その瞳には、これまで見たことのない優しさが宿っていた。

「いえ、皆の協力があってこそです。私一人では...」

「謙遜することはない」巧馬は彼女の言葉を遮った。「君が返ってきてくれなければ、プロジェクトは失敗していた」

楓は言葉に詰まった。彼の率直な感謝に、どう応えればいいのか分からなかった。

時間が静かに流れる。西の空のオレンジ色が徐々に消え、紺色が広がりつつあった。星はさらにその数を増し、夜の訪れを告げている。二人の上には、無数の星が瞬き始めていた。

「星空の夜の約束、覚えてるか?」

突然、巧馬が尋ねた。楓は息を飲んだ。彼は正面を向いたまま、続けた。

「入学式の夜。校庭で二人、星を見ていたんだ。そして『いつか一緒にダンスアプリを作ろう』と約束した」

楓は驚きのあまり、言葉を失った。彼がそこまでハッキリと覚えているとは思わなかった。

「僕はあの日からずっと、君のことを探していたんだ」

巧馬の声は静かだったが、確かな感情が込められていた。

「翌日、君が転入生だと知ったときは、運命を感じた」彼はわずかに微笑んだ。「でも君は俺のことを知らないふりをした。正直、混乱したし、少し傷ついた」

「ごめんなさい...」楓は小さな声で言った。

「いや、今はその理由がわかる」巧馬は優しく言った。「君は『普通の女の子』になりたかった。前の学校での経験から、目立ちたくなかった」

「でも結果的に、余計に目立ってしまったね」楓は少し自嘲的に笑った。

「そうだな」巧馬も小さく笑った。「『鈴木ヒカリ』という天才プログラマーは、テクノロジー部の伝説になっていた」

その言葉に、二人はクスリと笑った。緊張感が少しずつ解けていくのを、楓は感じた。

空はすっかり暗くなり、星々が鮮やかに瞬いていた。下から聞こえる文化祭の音楽は、遠く、夢のように感じられた。この瞬間、屋上には二人だけの世界があった。

「部長...私も覚えています」楓はついに口を開いた。「あの夜の約束を。でも、嘘をついてごめんなさい。正直に言えばよかった」

彼女の声には、長い間抱えてきた後悔が滲んでいた。

「星空の下で約束したこと、本当に守りたかった。だから『鈴木ヒカリ』を作り出して...でも、一つの嘘が次の嘘を呼んで...」

彼女の言葉が途切れる。彼女は自分の膝を見つめたまま、続けた。

「私、これまでずっと『普通』になろうとしてきた。変わり者と呼ばれるのが怖くて、本当の自分を隠してきた。でも、それが結局は新しい嘘を生み出してしまって...」

巧馬はじっと彼女の言葉に耳を傾けていた。彼の目には理解と思いやりが浮かんでいた。

「もう、嘘はつきたくないです」楓はようやく顔を上げた。「これからは本当の自分でいたい。たとえ変わり者だと思われても...」

「変わり者だとは思わない」巧馬はすぐに言った。「君は特別だ。そして...」

彼は一瞬言葉を選んでいるようだった。

「君の嘘は、僕たちを繋げるためのバグだったんだよ」

その言葉に、楓は目を見開いた。

「バグ?」

「ああ」巧馬は微笑んだ。その笑顔には、彼女が見たことのない柔らかさがあった。「プログラムにバグがあると、普通は機能不全を起こす。でも時々、予想外の結果を生み出すこともある。思いがけない発見や、新たな可能性をもたらすこともある」

彼は空を見上げながら続けた。

「君の嘘がなければ、君の才能を知ることはなかった。『鈴木ヒカリ』という架空の存在は、実は僕たちの絆を深めたんだ」

彼は楓に向き直り、彼女の目をまっすぐに見つめた。

「だから、後悔する必要はない。すべては必要なプロセスだったんだ」

楓の目に涙が浮かんだ。彼の言葉は、彼女の心の重荷を取り除いてくれるようだった。長い間抱えていた罪悪感が、少しずつ解けていくのを感じる。

「ありがとう...」

彼女の言葉は風に運ばれた。そして気づけば、二人の間の距離はさらに縮まっていた。彼らの手が、ベンチの上でわずかに触れ合う。小さな接触だったが、そこには大きな意味があった。

「楓」

巧馬は初めて、彼女の名前を呼んだ。それは優しく、まるで大切なものを口にするかのようだった。

「あの夜、僕たちが交わした約束は果たされた。感情予測ダンスアプリは完成した」彼は続けた。「でも、もう一つ約束してもいいかな?」

楓は小さく頷いた。彼女の心は高鳴っていた。

「これからも一緒にいよう。君の本当の姿を、もっと知りたい」

その言葉に、楓の胸は熱くなった。彼女が長い間求めていたもの——本当の自分を受け入れてくれる人。それが目の前にいた。

「はい...」

彼女は小さく、しかし確かな声で答えた。

天頂には満天の星が瞬いていた。春の星空の下で始まったこの物語は、夏の終わりの星空の下で、新たな章を迎えようとしていた。

巧馬はゆっくりと立ち上がり、楓に手を差し伸べた。

「戻ろうか。みんなが待ってる」

楓は彼の手を取った。その手は温かく、力強かった。彼女は立ち上がり、最後にもう一度星空を見上げた。

「ね、巧馬」楓は初めて彼の名前を呼んだ。「あの日の星と、今日の星は同じかな?」

巧馬は空を見上げ、微笑んだ。

「違うさ。星は毎日少しずつ位置を変える。でも、いつか必ず同じ場所に戻ってくる。それが星の営みだ」

その言葉には、二人の関係を暗示するような深い意味があった。時に離れ、時に近づき、そして再び出会う。それは星の軌道のように、美しく、そして必然的なものだった。

二人は肩を並べて屋上を後にした。彼らの背後では、星々が静かに輝き続けていた。バグのあるプログラムのように、予測不能な展開を見せた彼らの物語。しかし、そのバグこそが、彼らを繋ぎ止めた絆だったのだ。

最後の障壁

階段を下りながら、楓は自分の心臓の鼓動が耳に響くのを感じていた。まるで彼女の胸の内に小さな太鼓が仕込まれているかのようだった。巧馬との距離は物理的にはわずか数十センチに過ぎなかったが、彼女の感覚では、それは以前よりもずっと近く感じられた。二人の間にあった見えない壁が、星空の下で少しずつ溶けていったのだ。

「みんなびっくりするかもしれないね」楓は小さく笑った。「二人して突然いなくなったから」

「大丈夫だよ」巧馬の声には珍しい柔らかさがあった。「環には伝えてある。彼は何でも見抜くからな」

「環は本当に観察力鋭いよね」

「小学生の頃から変わらないよ。俺の考えていることを先に言われることもある」

楓は巧馬の子供時代の話を聞くのが新鮮だった。これまで彼は自分のことをほとんど話さなかった。それは彼が心を開き始めた証拠だろうか。彼女はその考えに、胸が温かくなるのを感じた。

二人が三階の廊下に出ると、文化祭の喧騒が再び耳に届いた。しかし、屋上での静寂と会話の余韻は、まだ二人を包み込んでいた。それは透明な殻のようなもので、外の世界から二人を守るように感じられた。

「まだ見ていない出し物、あるかな?」楓は少し照れながら尋ねた。彼女は巧馬と文化祭を一緒に回るという考えに、少女のようなときめきを覚えていた。

「音楽部の演奏はまだ見ていないな」巧馬は考え込むように言った。「確か体育館で最後の公演があるはずだ」

「行ってみる?」

巧馬が頷こうとしたその瞬間だった。突然、校内放送のチャイムが鳴り響いた。通常の柔らかい音ではなく、緊急時に使われる鋭い警告音だった。二人は驚いて顔を見合わせた。

「緊急事態発生。繰り返します、緊急事態発生。テクノロジー部の展示『感情予測ダンスアプリ』にウイルスが仕込まれているとの報告がありました。個人情報の流出の可能性があります。テクノロジー部の生徒は至急、部室に集合してください」

放送が終わると、廊下には一瞬の静寂が訪れ、その後すぐに動揺の声や慌ただしい足音が響き始めた。楓の顔から血の気が引いた。彼女の作ったアプリ、彼女の心血を注いだ作品に、何かが起きたのだ。

「行くぞ!」

巧馬の声は鋭かった。彼は即座に状況の深刻さを理解したようだった。二人は走り出し、人混みをかき分けながら特別棟へと向かった。楓の頭には次々と疑問が浮かんでは消えた。ウイルス?誰が?どうやって?そして、何のために?

テクノロジー部の教室に駆け込むと、そこにはすでに環と陽翔が集まっていた。二人ともパソコンに向かい、必死に何かを確認している。部室には緊張感が満ちていた。

「状況は?」巧馬が即座に訊いた。

環がパソコンから顔を上げた。彼の表情は普段の冷静さを保っていたが、目には明らかな焦りの色が見えた。

「悪い報告だ。バグではなく、明らかな攻撃だ。誰かが意図的にプログラムにバックドアを仕込んだ」

「いつの間に?」楓は混乱していた。彼女はプログラムの全てを把握していたはずだった。見知らぬコードが紛れ込む余地はないはずだった。

「わからない」環はキーボードを叩きながら言った。「だが、かなり巧妙だ。ユーザーが入力した情報を外部に送信する仕組みが組み込まれている」

「どういうこと?」陽翔が身を乗り出した。「僕たちは個人情報なんて集めていないはずだ」

「違う」巧馬が静かに言った。「アプリは顔認識を使っている。それ自体が個人情報だ」

楓はその言葉に息を飲んだ。彼女のアプリは来場者の顔を分析して感情を読み取るものだった。その画像データが外部に送信されれば、それはプライバシーの重大な侵害になる。

「どれくらいの規模?」楓は震える声で尋ねた。

「今のところ、外部への送信は確認されていない」環は答えた。「タイマーがセットされているようだ。おそらく閉会式の時間に合わせてあると思われる」

部室のドアが開き、千紗が駆け込んでくる。彼女の顔は青ざめていた。

「大変!来場者の皆さんが動揺しています。噂が広がって...」

彼女の言葉が途切れる。教室の外からは、確かに騒がしい声が聞こえていた。文化祭の楽しい雰囲気は一変し、不安と混乱が広がりつつあった。

「犯人は特定できるか?」巧馬が環に尋ねた。

「それが...」環は珍しく言葉に詰まった。「IP追跡をしたら、学校の内部ネットワークからのアクセスだった」

「内部?」楓は目を見開いた。「でも、私たちのプログラムに触れるのは部員だけのはず...」

「違う」環はスクリーンに表示されたログファイルを指差した。「これは管理者権限でのアクセスだ。しかも、三日前のタイムスタンプがある」

「三日前?」陽翔が首を傾げた。「その時は楓はまだ戻っていなかったし...」

「待って」楓が突然言った。彼女の頭に閃きが走った。「三日前、私は家で最終調整をしていて、学校のサーバにアップロードしたの。もしその時に...」

「誰かが介入した可能性があるな」巧馬が頷いた。

この時、部室のドアが再び開き、高峰たかみね先生が入ってきた。テクノロジー部の顧問である彼女の表情は険しかった。

「皆さん、状況は把握しましたか?校長先生が大変心配されています」

「調査中です」巧馬が即座に応えた。「犯人の特定と被害の拡大防止に努めています」

「実は...」高峰先生は少し言いにくそうに続けた。「心当たりがあるんです」

全員の視線が彼女に集まった。

「先週、岩永いわながという元システム管理者から奇妙なメールが来ていました。彼は二ヶ月前に解雇されたんですが、学校に恨みを持っていると...」

「岩永?」環が即座に反応した。「岩永千尋いわなが ちひろか?」

「ええ、そうです。知っているの?」

「ネット上で噂になっていた人物だ」環は説明した。「彼は前任校でも同様のトラブルを起こしたらしい。学生のプロジェクトに介入して妨害するという」

「なぜ彼が?」千紗が混乱した様子で尋ねた。

「彼の主張では、『学生たちの未熟な技術力で個人情報を扱うのは危険』らしい」環は冷静に分析した。「だが実際は、自分の技術力が認められなかったことへの逆恨みだろう」

楓はキーボードに手を伸ばした。彼女の指は震えていたが、決意に満ちていた。

「コードを確認します」

彼女がプログラムを開くと、そこには見覚えのないスクリプトが埋め込まれていた。巧妙に偽装されていたが、彼女の目には違和感が明らかだった。

「見つけた...」楓の声はかすかだった。「閉会式の時間に、全てのデータを外部サーバに送信するようにセットされている」

「止められるか?」巧馬が彼女の肩越しにコードを覗き込んだ。

楓は唇を噛んだ。コードは複雑に暗号化されており、解読には時間がかかりそうだった。しかし、データの流出を防ぐには、まさにこの暗号を解かなければならない。

「試してみる」

彼女はキーボードを叩き始めた。部室内の誰もが彼女の動きを固唾を呑んで見守っていた。楓の指は素早く動き、モニターには次々とコマンドが表示される。その様子は、まるでピアニストが難曲を奏でるかのようだった。

「彼女しかできない」環が静かに言った。「このレベルのコードに対応できるのは瑠璃川だけだ」

「どれくらいかかる?」陽翔が不安そうに訊いた。

「わからない...」楓は集中したまま答えた。「でも、閉会式までにはなんとか...」

彼女の言葉が途切れたその時、スクリーンに新たな警告が表示された。

「カウントダウンが始まった!」千紗が叫んだ。「予定より早く起動している!」

「くそっ」巧馬が歯を食いしばった。「奴は放送を聞いて、予定を前倒ししたんだ」

楓の心臓が早鐘を打った。残り時間は10分。それまでに暗号を解かなければ、数百人の顔データが流出することになる。それは単なるプライバシー侵害を超えた問題だった。

「できる?」巧馬が小さく尋ねた。彼の声には、彼女を信じる強い気持ちが込められていた。

楓は深く息を吸い込んだ。恐怖があった。焦りもあった。しかし、それ以上に強い決意があった。彼女のアプリが人々を傷つける道具になることは、絶対に許せなかった。

「できる」彼女はキーボードに向かって顔を上げず、ただ断言した。「私が作ったアプリだもの。誰にも壊させない」

彼女の指が再び動き始めた。より速く、より正確に。彼女の頭の中では、コードの構造が立体的な迷路のように広がっていた。そして彼女は、その迷路の出口を必死に探していた。

残り5分。汗が彼女の額を伝い落ちる。部室内の緊張は極限に達していた。環はバックアップシステムの構築を試み、陽翔は外部との連絡を取り、高峰先生は校長に状況を報告していた。

「見つけた!」

突然、楓の声が部室に響いた。彼女の目には、勝利の光が宿っていた。

「ここが暗号の弱点だ...」

彼女は素早くコードを書き換え始めた。それは元のコードに対抗するためのワクチンのようなものだった。残り1分。全員の息が止まったように感じられた。

「できた!」

楓が最後のキーを押すと、警告画面が消え、代わりに「ウイルス除去完了」というメッセージが表示された。部室内に安堵のため息が広がった。

真実の力

緊急事態の放送から三十分が過ぎた頃、テクノロジー部の部室は人で溢れていた。岩永元システム管理者によるウイルス攻撃の一報は瞬く間に広がり、心配した部員たちが次々と戻ってきたのだ。彼らはみな、緊張した面持ちでコンピューターに向かう楓の背中を見つめていた。

窓から差し込む夕日が彼女の輪郭を金色に縁取り、その姿はまるで炎に包まれた戦士のように見えた。指先から繰り出されるキーボードの音だけが、静まり返った部室に響いている。時折、モニターからの青白い光が彼女の顔を照らし、その真剣な表情を浮かび上がらせる。

「さっきのは序章に過ぎなかったんですね」

楓の声は冷静だった。先ほどのカウントダウンを止めた後も、彼女はさらに深くコードを調査し続けていた。そして、より深刻な問題を発見したのだ。

「どういうことだ?」巧馬が彼女の隣に立ち、モニターを覗き込んだ。

「最初の攻撃は注意を引くための囮でした」楓は指でスクリーンの一部を指し示した。「このコードを見てください。さっきのカウントダウンが切れた瞬間から、別のプログラムが起動する仕組みになっています」

「最初の攻撃を防いでも、本命が待っていたというわけか」環が眼鏡を上げながら言った。「見事な罠だ」

「でも、見破られちゃいましたね」楓は小さく微笑んだ。その表情には、以前の臆病さはなかった。彼女は今、完全に自分の領域にいた。

「第二の攻撃は何をするんだ?」陽翔が不安そうに尋ねた。

「データの削除です」楓は再びキーボードを叩き始めた。「アプリのデータベースだけでなく、関連するシステム全てを破壊する可能性があります。学校のサーバーにまで被害が及ぶかもしれません」

その言葉に、部室内に緊張が走った。文化祭の締めくくりの大切な瞬間に、学校中のシステムがダウンするなど、想像しただけで最悪の事態だった。

「どれくらい時間がある?」巧馬が冷静に尋ねた。

「残り二十分です」楓はスクリーンの片隅に表示された時計を指差した。「でも心配しないでください。私がなんとかします」

その言葉には驚くほどの自信があった。それは「鈴木ヒカリ」を演じていた時の偽りの自信ではなく、自分の能力を正しく理解した上での本物の自信だった。

楓のモニターには複雑なコードが映し出されていた。それは一見、意味のない記号の羅列に見えたが、彼女にとっては明確な言語だった。彼女の目は素早く画面を走査し、論理的な思考が彼女の脳内で高速に処理されていく。

「彼女、本当に凄いな...」

部員の一人がつぶやいた。その言葉に、周囲から同意のつぶやきが漏れる。彼らは初めて、楓の本当の実力を目の当たりにしていた。これまで「初心者」のふりをしていた彼女が、実は驚異的なプログラミング能力を持っていたという事実に、部員たちは驚きと尊敬の眼差しを向けていた。

巧馬は黙って彼女を見つめていた。その目には、驚きと誇らしさが混ざり合っていた。彼はようやく、彼女の本当の姿を見ることができたのだ。星空の下で出会った少女、そして「鈴木ヒカリ」の仮面の下に隠れていた本当の楓の姿を。

「これは...」楓が突然声を上げた。「バグの仕組みが分かりました」

「何が起きてるの?」千紗が身を乗り出した。彼女も真剣な面持ちで状況を見守っていた。かつて楓を追い出そうとした彼女が、今は彼女の味方として傍にいる。人間関係もまた、プログラムのように予測不能に変化するものだった。

「アプリのセキュリティシステムに偽装して侵入しているんです」楓は説明した。「ウイルスが正規のプログラムのふりをしている。まるで...」

彼女は一瞬言葉を詰まらせた。

「まるで、私が『鈴木ヒカリ』のふりをしていたみたいに」

その言葉に、部室内に小さな波紋が広がった。多くの部員たちは、既に真実を知っていた。だが、彼女自身の口から語られることで、その事実は新たな意味を持った。

「でも、偽装なら見破れる」環が冷静に言った。「本物と偽物は、必ず違いがある」

「その通りです」楓は頷いた。「そして私は、その違いを見つけました」

彼女の指が再び素早く動き始めた。部室内の全員が息を潜め、彼女の作業を見守る。モニターの中では、コードが次々と変更され、新たなプログラムが形作られていった。

「ウイルスは自分を防御するために、偽の警告を出してくるでしょう」楓は作業を続けながら説明した。「だから、皆さんを混乱させるような警告が出ても、慌てないでください」

彼女の予測通り、まもなくモニター上に複数の警告メッセージが表示され始めた。「重大なシステムエラー」「データ消失の危険性」「即時中断を推奨」――不吉な赤い文字が画面を埋め尽くす。

「大丈夫か?」巧馬が心配そうに尋ねた。

「平気です」楓は微笑んだ。「これは単なる脅しですから」

彼女はそれらの警告を無視し、集中して作業を続けた。モニターの中では、まるで光と影の戦いのように、彼女のコードとウイルスが拮抗していた。時間の針は容赦なく進み、残り十分となった。

「敵の仕掛けが見えてきました」

楓の声には、わずかな高揚感が混じっていた。それは戦いの中で、相手の動きを読み切った剣士のような感覚だった。彼女はキーボードをより速く、より正確に叩き始めた。それは芸術家が最高傑作に取り組むような集中力と情熱に満ちた動きだった。

部室内の緊張は頂点に達していた。残り五分。モニターの警告はさらに激しさを増し、システムの負荷を示すメーターも赤信号を点滅させていた。

「こいつは...」

楓が眉を寄せた。予想外の障害に直面したようだった。

「どうした?」巧馬が即座に反応した。

「最後の防御が予想より複雑です」楓は言った。「でも...」

彼女は深く息を吸い込んだ。その目には決意の色が宿っていた。

「私の方がもっと複雑です」

その言葉と共に、彼女は新たなコードの入力を始めた。それは単なる対抗措置ではなく、創造的な解決策だった。彼女は問題に正面から立ち向かうのではなく、まったく異なる角度からアプローチしていた。

「あと三分」環が静かに告げた。

部室内の緊張は極限に達していた。誰もが息を潜め、ただ楓の指と画面だけに集中していた。その瞬間、部室はまるで時間が止まったかのように静まり返っていた。

「できた」

楓の静かな声が、部室内に響いた。彼女は最後のキーを押し、深く息を吐き出した。そのタイミングで、画面の警告が全て消え、代わりに「ウイルス除去完了」というメッセージが表示された。

一瞬の沈黙の後、部室内に歓声が上がった。部員たちは拍手し、互いに肩を叩き合った。彼らは全員、ここ最高の勝利を目の当たりにしたのだ。

「やった!」陽翔が楓の肩を叩いた。「君はすごいよ、楓!」

「本当に素晴らしい」千紗も心からの賞賛を送った。「信じられないわ」

環は静かに頷き、小さなノートにメモを取っていた。彼の目には、明らかな尊敬の色が宿っていた。

巧馬は楓の前に立ち、真剣な面持ちで言った。

「君の本当の力を見せてくれてありがとう」

その言葉に、楓の目に涙が浮かんだ。長い間隠してきた自分の本質を、初めて全ての人に示した解放感。そして、それを受け入れてくれる人々の温かさ。それらが彼女の心を揺さぶった。

「みんな...」

楓はゆっくりと椅子から立ち上がった。部室内の全員が彼女に注目している。彼女は深く息を吸い込み、言葉を選んだ。

「私はずっと、嘘をついてきました。プログラミングが得意なことを隠し、『鈴木ヒカリ』という架空の人物を作り出しました」

彼女の声は徐々に強さを増していった。

「前の学校では、変わり者扱いされるのが怖くて、自分を隠していました。でも、それは違っていたんです」

楓は顔を上げ、部屋中の人々の目を一人一人見つめた。

「もう嘘はつきません。これが本当の私です。プログラミングが大好きで、コードを書くと心が踊る瑠璃川楓です」

彼女の言葉に、部室内に温かな拍手が広がった。その音は、単なる称賛ではなく、彼女の新たな一歩を祝福するものだった。

巧馬は彼女の前に立ち、静かに頷いた。彼の目には言葉以上のものが宿っていた。それは彼女をそのまま受け入れる、無条件の受容だった。

「君の本当の姿を、俺たちは誇りに思う」彼はシンプルに言った。

その言葉に、楓の心に暖かいものが広がった。彼女はもう一人ではなかった。彼女を本当の姿で受け入れてくれる仲間がいた。そして、彼女の能力は、もはや隠すべき恥ずかしいものではなく、誇るべき才能だと認められたのだ。

「さあ、文化祭はまだ終わっていない」巧馬は全員に向かって言った。「このアプリで、最高のフィナーレを作ろう」

その言葉に、全員が力強く頷いた。彼らはテクノロジー部として、そして友人として、ひとつになっていた。

楓は窓の外を見た。夕日は既に沈み、空は暗くなりつつあった。やがて星が瞬き始めるだろう。星空の下で始まった彼女の物語は、新たな章を迎えようとしていた。彼女は優しく微笑んだ。真実の力は、彼女が思っていた以上に強かった。それは嘘の壁を打ち破り、彼女を本当の自由へと導いたのだ。

エピローグ 新たな季節

春の風が窓から差し込み、カーテンをやさしく揺らしていた。テクノロジー部の部室は新学期の活気に満ちており、以前より多くの声が行き交っていた。壁には文化祭での表彰状とともに、地方予選を勝ち抜いた「プログラミング甲子園」の認定証が飾られている。それらは過去半年間の彼らの軌跡を静かに物語っていた。

「はい、こうすると動くよ」

楓の声が優しく響く。彼女の周りには数人の新入生が集まり、目を輝かせながら彼女の説明に聞き入っていた。彼女の指先が画面上で踊るたび、コードが生き物のように動き出す。かつては自分の才能を隠そうとしていた彼女が、今では後輩たちを指導する立場になっていた。

「瑠璃川先輩、すごいです!」女子の新入生が歓声を上げた。「私もいつか先輩みたいにプログラミングができるようになりたいです」

「頑張れば大丈夫。私も最初は戸惑ったから」楓は優しく微笑んだ。

「嘘だ」部室の隅から巧馬の声が聞こえた。「彼女は生まれながらの天才だぞ」

楓は顔を赤らめ、クッションを巧馬に投げつけた。部員たちから笑い声が上がる。彼らの関係は、もはや部長と部員という枠を超えていた。それは誰の目にも明らかだった。

「基本は理解できた?」楓は新入生たちに尋ねた。「あとは実際に試してみるのが一番だから」

新入生たちは頷き、それぞれのパソコンに向かった。楓はその様子を見て微笑み、巧馬の方へと歩み寄った。

「人気者だな」巧馬は少し照れくさそうに言った。

「同じことが言えるよ」楓は窓の外を指さした。そこでは、数人の女子生徒が部室をちらちら覗いていた。巧馬のファンクラブの面々だ。文化祭での「恋のバグダンス」は学校中の伝説となり、二人の関係も公になっていた。だが、それでも巧馬の人気に陰りはなかった。

「あれは君のファンも混じってるさ」巧馬は笑った。「『天才プログラマー』の瑠璃川楓のファンだ」

確かに、二人の名前は学校の外でも知られるようになっていた。文化祭で披露した「感情予測ダンスアプリ」は、改良を重ねた後、地方のコンテストで優勝し、全国大会への出場が決まっていた。高校生プログラマーとしての彼らの才能は、徐々に認められつつあった。

「あの、巧馬部長」

部室のドアから陽翔の声が聞こえた。彼は外から入ってきたところで、手には地元新聞が握られていた。

「記事になったぞ!」

彼は嬉しそうに新聞を広げた。そこには「高校生が開発、感情を読み取るAI」という見出しと共に、テクノロジー部の写真が掲載されていた。皆の目が輝き、歓声が上がる。

「やったね!」楓は巧馬の腕を掴んで飛び跳ねた。「これで全国大会前に注目されるかも」

「いや、まだまだだ」巧馬は冷静に言ったが、その目には確かな喜びが宿っていた。

陽翔は新聞を部室の掲示板に張り出した。彼は半年前の文化祭での出来事以来、楓への想いを諦め、少しずつ自分の道を歩み始めていた。今では音楽部との共同プロジェクトを立ち上げ、音楽とテクノロジーを融合させた新たな表現を模索していた。

「陽翔くん、新しい曲できた?」楓が彼に尋ねた。

「ああ、まだ途中だけどね」陽翔は笑顔で答えた。「でも、いい感じだよ。聴いてもらいたいな」

彼の声には後悔や悲しみはなく、ただ前に進もうとする力強さがあった。楓はそんな彼を見て、静かな尊敬の念を抱いた。

「こんにちは〜」

明るい声と共に、千紗が部室に入ってきた。彼女の後ろには環が続いていた。二人の姿を見て、楓は今でも少し驚きを覚える。文化祭後、千紗は徐々に素直な自分を見せるようになり、意外にも環との友情が芽生えていた。共に読書好きだということが判明し、今では放課後の図書館で一緒に過ごすことも珍しくなかった。

「新聞見た?すごいじゃない!」千紗は興奮気味に言った。「これで学校の人気も上がるわね」

「そうだな」環は冷静に言った。「君のファッション部の記事も次回は載せたいものだ」

千紗は嬉しそうに頷いた。彼女はファッション部の一員として、環境に配慮したリサイクルファッションの企画を立ち上げていた。かつての完璧主義を捨て、ありのままの自分で前に進む彼女の姿は、多くの生徒たちに新鮮な驚きを与えていた。

「そろそろ行かなくちゃ」千紗は時計を見た。「環くん、例の本、借りられた?」

「ああ、図書館で待っている」環は頷いた。

二人が部室を後にする姿を見て、楓はこの半年で起きた変化の大きさに改めて気づいた。かつては敵対し、嫉妬し合った人々が、今では支え合う仲間になっていた。それはまるで、複雑なプログラムが最終的には調和の取れたシステムへと進化するかのようだった。

「楓」巧馬が彼女の名を呼んだ。「少し外に出ないか?」

彼は窓の外を指さした。校庭では桜が満開を迎え、淡いピンク色の花びらが舞っていた。

「うん」

二人は部室を出て、階段を下りた。廊下には新学期の活気が満ちており、新入生たちが初めての高校生活に胸を躍らせている様子が見て取れた。

校庭に出ると、春の陽光が二人を包み込んだ。風は優しく、桜の花びらを舞い上げていた。それはまるで、ピンク色の雪が降っているかのようだった。

「ねえ、覚えてる?」楓は空を見上げた。「あの日の星空のこと」

「毎日思い出すよ」巧馬は彼女の隣で静かに言った。「あの夜がなければ、今日はなかった」

彼の言葉に、楓は少し驚いた。それは彼女が言おうとしていた言葉とまったく同じだった。まるで二人の思考が一つのプログラムのように同期しているかのようだ。

「私たち、シンクロしてるね」楓はくすりと笑った。

「当然だ」巧馬も微笑んだ。「僕たちは同じコードを共有しているんだから」

彼は静かに彼女の手を取った。その手はキーボードを叩き続けた証であるかのように、少し固くなっていたが、温かだった。

「これから先も、たくさんのプログラムを一緒に書いていこう」巧馬は真剣な眼差しで言った。「バグがあっても、エラーが出ても、二人なら解決できる」

「うん」楓は頷いた。彼女の目には、未来への期待と希望が満ちていた。「一緒に新しいアルゴリズムを見つけよう」

二人は手を繋いだまま、桜舞う校庭をゆっくりと歩き始めた。足元には花びらの絨毯が広がり、その上に二人の影が寄り添うように伸びていた。

春の風が吹き、桜の花びらが二人の周りを舞い上がる。その光景は、まるで自然自体が二人の歩みを祝福しているかのようだった。

校庭の向こうでは、陽翔がギターを抱え、環と千紗が本を手に、それぞれの春の一日を過ごしていた。彼らもまた、新たな季節の中で自分だけの物語を紡ぎ始めていた。

楓は空を見上げた。日中の青空には星は見えなかったが、彼女は知っていた。星々はそこにある。たとえ見えなくても、いつだって彼らを見守っていることを。

あの春の夜、星空の下で交わした約束から始まった物語。嘘とバグと誤解に満ちた道のりを経て、彼らは本当の自分を見つけ、本当の絆を結んだ。

「ねえ、巧馬」

「なに?」

「これからも、ずっと一緒にプログラミングしようね」

「ああ、約束する」彼は彼女の手をぎゅっと握った。「星に誓って」

二人の歩みは、桜の花びらの中に静かな足跡を残していった。それは新たな季節への第一歩であり、これから紡がれていく無数のコードの始まりだった。

すべてのプログラムには終わりがある。しかし、彼らの物語はここで終わりではなく、むしろ真の始まりだった。春の光の中、二人の姿は桜並木の向こうへと溶けていくように見えた。そして、物語は優しく幕を閉じた。

エラーも、バグも、すべて含めて完璧な——彼らだけの、ハートビート・アルゴリズム。

<完>

作成日:2025/03/02

編集者コメント

前編、後編からなります。前編はこちら

ボリュームは3~4万字になるようにと企画してもらったのですが、書いていくと膨らんで結果8万字超え、前編後編に分割しました。

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