愛を、言わないふたり 後編:身体が語る
第二部 生贄の正体
第4章 折り返そうと
二月の半ば、レコーディングは佳境に入っていた。
十文字は毎日のようにスタジオに通い、一曲一曲を丁寧に仕上げていった。その姿は、かつてのカリスマ的なプロデューサーというよりは、一人の職人のようだった。派手さはないが、音への誠実さが伝わってくる。律はエンジニアとして、その仕事ぶりに敬意を払わざるを得なかった。
だが、敬意と感情は別物だ。
律は十文字を観察し続けた。彼の言動の端々から、彩夜との関係、そして紗耶への思いを読み取ろうとした。十文字は時折、ふとした瞬間に遠い目をすることがあった。曲の合間、コーヒーを飲んでいるとき、窓の外を眺めているとき。そのたびに、律は思った。この男は、まだ過去から抜け出せていない。
ある日の夕方、レコーディングが終わった後、十文字が律に声をかけてきた。
「椎堂さん、この後、少し時間あります? 飲みに行きませんか」
断る理由を探したが、見つからなかった。むしろ、これは好機かもしれないと思った。十文字の本音を、もっと深く探れるかもしれない。
「いいですよ」
二人は下北沢の小さな居酒屋に入った。カウンターだけの店で、客は他に二組しかいなかった。店主らしい年配の男が、黙々とつまみを作っている。
十文字は生ビールを頼み、律もそれに倣った。乾杯をして、一口飲んでから、十文字が口を開いた。
「椎堂さんは、恋人、いるんですか」
唐突な質問だった。律は一瞬だけ迷ったが、嘘をつく理由もなかった。
「います」
「どんな人?」
「……複雑な人です。いろいろ抱えてて、傷ついてて。でも、強い人だと思います」
十文字は頷いた。何かを思い出しているような表情だった。
「僕の彩夜も、そうでした。複雑で、傷ついてて、でも強かった。少なくとも、僕はそう思っていた。でも、本当は違ったのかもしれない。僕が見たかったものを見ていただけで、本当の彼女を見ていなかったのかもしれない」
「本当の彼女、ですか」
「ええ。人って、見たいものしか見ないでしょう。僕は彩夜の才能や美しさに惹かれて、彼女の脆さや不安定さからは目を背けていた。都合のいい部分だけを愛して、都合の悪い部分は無視していた。それが、彼女を追い詰めた」
十文字はビールを一気に飲み干し、おかわりを頼んだ。
「椎堂さんの恋人は、あなたに何を求めてます?」
「わかりません。本人も、わかってないと思います」
「でも、一緒にいるんですね」
「ええ」
「なぜ?」
律は考えた。なぜ紗耶と一緒にいるのか。利用されていたと知っても、離れられない理由。
「たぶん、必要とされてるからだと思います。俺がいなくなったら、あの人は壊れる。そう感じるんです。根拠はないけど」
十文字は苦笑した。
「それ、僕が彩夜に対して思ってたことと同じですよ。僕がいなくなったら、彼女は壊れる。だから離れられない。でも、結局、僕がいても彼女は壊れた。むしろ、僕がいたから壊れたのかもしれない」
「何が違うんでしょうね。うまくいく場合と、いかない場合の」
「わからない。でも、一つだけ言えるのは、僕は彩夜から逃げたってことです。彼女の重さに耐えられなくて、別の女に逃げた。それが決定的だった。椎堂さんは、逃げないでください。どんなに重くても、どんなに辛くても。逃げたら、取り返しがつかなくなる」
十文字の目には、真剣な光があった。これは忠告ではない、と律は思った。懺悔だ。自分がしでかした過ちを、他の誰かに繰り返させたくないという、切実な願い。
「十文字さん」
「はい」
「彩夜さんの妹——紗耶さんに、会いたいですか」
十文字の手が、グラスを持ったまま止まった。
「……どうして、その名前を」
「知り合いなんです。偶然」
十文字は長い間黙っていた。店のBGMが、やけに大きく聞こえた。古いジャズのスタンダード。サックスの音色が、煙草の煙のように空気に漂っている。
「会いたいです」
やがて、十文字は言った。
「会って、謝りたい。でも、彼女は僕を許さないでしょう。許すはずがない。姉を殺した男を」
「殺したわけじゃない」
「同じですよ。直接手を下さなくても、僕が彼女を追い詰めた。その事実は変わらない」
「でも、会いたいんですね」
「ええ。会って、罵られても、殴られても、それでいい。彼女の気持ちを受け止めたい。それが僕にできる、唯一の償いだから」
律はビールを飲み干した。苦い液体が喉を通り、胃の底に落ちていく。
「紗耶さんに、伝えておきます。会う気があるかどうか、聞いてみます」
「本当ですか」
「ただし、会うかどうかは彼女が決めることです。俺にはどうすることもできない」
十文字は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に」
その夜、律は帰り道で考えていた。自分は何をしようとしているのか。紗耶と十文字を会わせることが、正しい選択なのか。
わからなかった。でも、このまま二人が過去に囚われ続けるよりは、何かが動くほうがいい。たとえその結果が、予想もしないものになったとしても。
翌日、律は紗耶に十文字との会話を伝えた。
紗耶は黙って聞いていた。その顔には、さまざまな感情が交錯していた。怒り、困惑、悲しみ、そして——どこか、安堵のような色。
「会うべきだと思う」
律は言った。
「あなたが決めることじゃないわ」
「わかってる。でも、俺の意見としては、会ったほうがいい」
「なぜ」
「十文字は変わってる。三年前とは違う人間になってる。少なくとも、俺にはそう見える。お前の姉のことを、本当に後悔してる。それを、お前自身の目で確かめてほしい」
紗耶は窓の外を見た。二月の曇り空が、灰色の幕のように広がっている。
「姉の日記、読んだことある?」
「いや」
「読んでみて。そうしたら、私がなぜ十文字を許せないか、わかるから」
紗耶はバッグから、一冊のノートを取り出した。革の表紙に、金の箔押しで「DIARY」と刻まれている。使い込まれた様子で、角が擦り切れていた。
「姉が最後の三ヶ月間、書いていた日記よ。私以外、誰も読んだことがない」
律はノートを受け取った。ずしりと重かった。物理的な重さ以上に、そこに込められた感情の重さが、手のひらに伝わってくる。
「読んでいいのか」
「読んで。そして、それでも十文字に会うべきだと思うなら、会うわ」
律は頷いた。
その夜、律は一人で彩夜の日記を読んだ。
最初の数ページは、幸せに満ちていた。十文字との出会い、恋に落ちた瞬間、一緒に過ごす日々。彩夜の筆跡は丸みを帯びていて、文章には若々しい熱が溢れていた。
『今日、奏と海を見に行った。冬の海は寂しいけど、奏と一緒なら寂しくない。彼の隣にいると、世界が輝いて見える。私は世界で一番幸せな女だと思う』
しかし、ページが進むにつれて、文章のトーンは変わっていった。
『最近、奏が冷たい気がする。仕事が忙しいのはわかってる。でも、前はどんなに忙しくても、私のことを見てくれていた。今は、目を合わせてくれない』
『奏の携帯を見てしまった。知らない女からのメッセージがあった。「昨日は楽しかった」。何が楽しかったの? 聞きたいけど、聞けない。聞いたら、終わってしまう気がする』
『眠れない。毎晩、天井を見つめている。奏は隣で寝息を立てているのに、どこか遠くにいる気がする。手を伸ばしても、届かない』
日記の後半は、ほとんど悲鳴のようだった。
『奏が別の女と会っているのを見た。手を繋いでいた。笑っていた。私といるときは、あんなふうに笑わないのに。私は何なの? 彼にとって、私は何だったの?』
『問い詰めた。奏は否定しなかった。「君には悪いと思ってる。でも、俺にも限界があるんだ」と言った。限界って何? 私を愛することに、限界があるの?』
『もう、何もわからない。私は誰? 何のために生きてるの? 奏のいない世界に、意味なんてあるの?』
最後のページには、数行だけが書かれていた。
『奏。あなたの嘘に、私は殺された。でも、恨んでいるわけじゃない。ただ、悲しいだけ。あなたを愛してしまった自分が、どうしようもなく悲しい。さようなら。来世では、もっと強い人間に生まれたい』
律はノートを閉じた。
手が震えていた。目の奥が熱く、何かがこみ上げてくる。会ったこともない女性の言葉が、これほど胸に刺さるとは思わなかった。
彩夜は十文字を愛していた。狂おしいほど、自分を見失うほど。そして、その愛は報われなかった。十文字は彩夜を消費品として扱い、飽きたら捨てた。彩夜の心が壊れていくのを見て見ぬふりをして、別の女に逃げた。
紗耶が十文字を許せないのは、当然だった。
律は紗耶に電話をかけた。
「読んだ」
「そう。どう思った?」
「……お前の気持ちが、わかった気がする。許せないのは、当然だ」
「でしょう。だから——」
「でも」
律は紗耶の言葉を遮った。
「それでも、会ったほうがいいと思う」
電話の向こうで、紗耶の息を呑む音が聞こえた。
「なぜ」
「彩夜さんの日記には、恨んでいないと書いてあった。ただ悲しいだけだと。お前は、姉の代わりに恨んでいるんだろう。姉が恨めなかった分を、お前が背負っている。でも、それは姉の望みじゃないと思う」
「勝手なこと言わないで。姉の気持ちなんて、あなたにわかるはずがない」
「わかるさ。日記を読んだから。彩夜さんは、最後まで十文字を愛していた。愛していたから、恨めなかった。そして、たぶん、お前にも恨んでほしくなかったと思う」
紗耶は長い間黙っていた。電話越しに、かすかな嗚咽が聞こえた。
「私は——」
紗耶の声が震えていた。
「私は、姉のために生きてきたの。姉が死んでから、三年間、ずっと。姉の仇を討つことだけを考えて。それがなくなったら、私には何も残らない」
「残るさ。俺がいる」
「……」
「お前が復讐をやめても、俺はここにいる。お前のために。それじゃ、足りないか?」
紗耶はまた黙った。沈黙が、電話線を通して重く横たわっている。
「……会うわ」
やがて、紗耶は言った。
「十文字に、会う。でも、何が起きても知らないわよ。私、自分を抑えられる自信がない」
「俺がいる。何があっても、お前を止める」
「約束して」
「約束する」
電話を切った後、律は長い間、暗い部屋の中に座っていた。自分が正しいことをしているのかどうか、まだわからなかった。でも、もう後戻りはできない。賽は投げられた。あとは、結果を見届けるだけだ。
第5章 罠を絡めて
紗耶と十文字の対面は、三日後に設定された。
場所は律のアパート。第三者の目がない場所で、腰を据えて話すためだ。律は立会人として同席することになった。紗耶が望んだからでもあり、十文字が受け入れたからでもあった。
その日、律は朝から落ち着かなかった。何度も部屋を見回し、余計なものがないか確認した。テーブルの上には何も置かなかった。紗耶が衝動的に物を投げる可能性を考えたからだ。冗談のようだが、半分は本気だった。
午後三時、十文字が先に到着した。
黒いタートルネックにグレーのジャケット。髪は整えられていたが、顔色は悪かった。眠れなかったのだろう、と律は思った。自分も同じだったから。
「緊張してます」
十文字は素直に言った。
「当然だろう」
「彼女は、どんな様子でしたか。電話で話したとき」
「怒ってた。でも、会う気になってくれた」
「そうですか」
十文字は部屋の中を見回した。壁に立てかけてあるギターに目を留め、何か言いかけたが、やめた。
午後三時半、紗耶が来た。
扉を開けた瞬間、律は紗耶の変化に気づいた。いつもの妖艶な雰囲気はなく、化粧も控えめだった。黒いシンプルなワンピースに、髪は後ろで一つに束ねている。まるで喪服のようだ、と律は思った。姉の葬儀に出るような格好。
紗耶は部屋に入り、十文字を見た。
二人の視線が交錯した。空気が、一瞬で凍りついた。
「久しぶりですね」
十文字が口を開いた。声が微かに震えている。
「久しぶり、ね。三年ぶりかしら」
紗耶の声は平坦だった。感情を押し殺しているのがわかる。その下に、マグマのような怒りが渦巻いている。
「座ってください。話をしましょう」
律が促した。三人はローテーブルを囲んで座った。律は紗耶の隣に、十文字は向かい側に。沈黙が、重く漂った。
「僕から話していいですか」
十文字が言った。紗耶は無言で頷いた。
「まず、謝らせてください。彩夜を——あなたのお姉さんを、死なせてしまったこと。僕のせいです。僕が彼女を追い詰めた。僕が逃げた。それは事実で、否定するつもりはありません」
十文字は深く頭を下げた。額がテーブルにつくほど。
「申し訳ありませんでした」
紗耶は何も言わなかった。十文字を見下ろす目は、冷たく凍っていた。
「謝って、済むと思ってるの」
やがて、紗耶は言った。
「思っていません。済むとは思っていない。でも、謝ることしか僕にはできない。それだけは、させてください」
「姉は、あなたを愛してた。狂おしいほど。あなたがいなければ生きていけないほど。でも、あなたは姉を捨てた。別の女に走った。姉がどんなに苦しんでいたか、知ってたはずなのに」
「知っていました」
「知っていて、放置したのね」
「はい」
紗耶の目に、初めて感情が浮かんだ。怒りだ。純粋な、燃えるような怒り。
「なぜ? なぜ、姉を助けなかったの。助けることは、そんなに難しかったの」
十文字はしばらく黙っていた。それから、顔を上げた。その目には、深い苦悩が刻まれていた。
「僕は——臆病だったんです。彩夜を愛していました。本当に。でも、彼女を支え続けることに、疲れてしまった。彼女の不安定さ、繊細さ、それを全部受け止めるだけの強さが、僕にはなかった。だから逃げた。逃げることで、楽になろうとした。最低です。わかっています」
「最低なのは、わかってるのね」
「はい」
「じゃあ、なぜ生きてるの」
紗耶の声が、急に鋭くなった。
「姉を殺しておいて、なぜ平気な顔で生きてるの。音楽を作って、復帰して、また表舞台に出ようとしている。姉は死んだのに。あなたのせいで死んだのに」
「平気なんかじゃありません」
十文字の声が震えた。
「毎日、彩夜のことを考えています。夢に出てきます。目が覚めると、枕が濡れています。何度も死のうと思いました。でも、死ねなかった。死ぬ勇気すらなかった。臆病者なんです、僕は。生きることからも、死ぬことからも逃げている」
「じゃあ、なぜ復帰するの。なぜ音楽を作るの」
「それしか、僕にはないからです」
十文字は両手で顔を覆った。声が、嗚咽混じりに絞り出される。
「音楽だけが、僕と彩夜を繋いでいる。彩夜がいなければ、僕の音楽は存在しなかった。彼女のおかげで、僕は曲を書けた。歌を歌えた。だから、音楽を続けることが、僕にできる唯一の供養なんです。彩夜の存在を、音楽の中に生かし続けること。それが、僕にできる唯一の償いなんです」
紗耶は黙っていた。十文字を見つめる目には、まだ怒りがあった。でも、それだけではなかった。困惑、戸惑い、そしてどこか——同情のような色。
「償い、ね」
紗耶は低い声で言った。
「償いになると思ってるの。音楽を作ることが」
「わかりません。でも、それしかできないんです。他に何ができますか? 教えてください。あなたが望むことなら、何でもします」
「何でも?」
「はい」
紗耶は立ち上がった。十文字を見下ろし、静かに言った。
「死んで」
空気が凍った。律は思わず身構えた。
「死んでくれたら、許してあげる。姉の後を追って、死んで。そうしたら、私も復讐なんてやめられる」
十文字は顔を上げた。その目には、恐怖ではなく、奇妙な安堵があった。
「そう言ってくれると思っていました」
「え?」
「あなたがそう望むなら、死にます。本気です。彩夜を追いかけて、死にます。それで、少しでもあなたの気が済むなら」
紗耶の顔が、一瞬で青ざめた。
「何、言ってるの」
「本気です。僕はもう、生きることに意味を見出せない。音楽を作るとか、償いとか、全部言い訳です。本当は、生きているのが辛いだけなんです。でも、死ぬ理由がなかった。あなたに言ってもらえて、やっと決心がつきました」
「ちょっと待って。私、そんなつもりで——」
「紗耶」
律が紗耶の腕を掴んだ。
「座れ。落ち着け」
紗耶は律に導かれるように、再び座った。顔は蒼白で、唇が震えている。
「十文字さん」
律は十文字に向き直った。
「あなたが死んでも、何も解決しない。紗耶の怒りも、悲しみも、消えない。むしろ、あなたが死ぬことで、紗耶は一生、罪悪感を背負うことになる。そんなこと、彩夜さんが望むと思いますか」
十文字は黙っていた。
「彩夜さんは、日記にこう書いていました。『恨んでいるわけじゃない。ただ、悲しいだけ』と。彼女は、あなたに死んでほしかったわけじゃない。ただ、愛してほしかっただけだ。それができなかったのは、悲劇です。でも、その悲劇を、もう一つの死で上塗りするのは、間違ってる」
「じゃあ、僕はどうすればいいんですか」
十文字の声は、子供のように弱々しかった。
「生きてください。生きて、音楽を作り続けてください。そして、彩夜さんのことを忘れないでください。それが、あなたにできる唯一の償いです」
十文字は長い間、律を見つめていた。それから、ゆっくりと頷いた。
「……わかりました」
紗耶は二人のやり取りを、黙って見ていた。その目には、もう怒りはなかった。代わりに、深い疲労と、どこか空虚な光があった。
「私、何をしようとしてたんだろう」
紗耶は独り言のように呟いた。
「復讐して、十文字を潰して、それで何になるんだろう。姉は戻ってこない。私の怒りも、消えない。何も変わらない。何も——」
紗耶の目から、涙がこぼれた。声を殺して泣いている。律は彼女の肩を抱いた。細い肩が、激しく震えていた。
「もういい。もういいんだ」
律は紗耶の髪を撫でながら、繰り返した。
「お前は十分に戦った。十分に苦しんだ。もう、自分を解放していいんだ」
紗耶は律の胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。三年間溜め込んできたものが、一気に溢れ出すように。十文字は黙って座っていた。その目にも、涙が光っていた。
時間がどれくらい経ったのか、わからなかった。紗耶の嗚咽が収まった頃、部屋には薄暗い夕闘れが漂っていた。窓の外では、冬の太陽が沈みかけている。
「十文字さん」
紗耶が顔を上げ、掠れた声で言った。
「私、あなたを許せない。たぶん、一生許せない。でも——」
彼女は深呼吸をした。
「でも、あなたに死んでほしいとは思わない。姉も、きっとそう思ってる」
十文字は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「感謝しないで。許したわけじゃないから。ただ、私が、もうこれ以上、復讐に囚われていたくないだけ。姉のためじゃない。私自身のために」
「それでも、ありがとうございます。あなたに会えて、よかった」
十文字は立ち上がり、玄関に向かった。振り返り、律と紗耶を見た。
「椎堂さん。彼女を、お願いします」
「ああ」
「霧生さん——紗耶さん。僕は音楽を続けます。彩夜と過ごした時間を、音に変えて、世界に届けます。それが僕の生き方です。あなたも、あなたの生き方を見つけてください」
紗耶は何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。
十文字が去った後、律と紗耶は長い間、黙って座っていた。部屋は暗くなり、街灯の光が窓から差し込んでいる。
「疲れた」
紗耶が言った。
「そうだろうな」
「でも、少し楽になった気がする。ほんの少しだけ」
「よかった」
紗耶は律に寄りかかった。彼女の体温が、律の腕を通して伝わってくる。
「ねえ、律」
「何だ」
「私、これからどうしたらいいんだろう。復讐がなくなったら、何を目標に生きたらいいかわからない」
「俺がいる」
「それだけ?」
「それだけじゃ足りないか」
紗耶は小さく笑った。泣いた後の、疲れた笑い。
「足りないかもしれない。でも、今は、それでいい気がする」
律は紗耶の髪を撫でた。柔らかい黒髪が、指の間をすり抜けていく。
「お前が自分の生き方を見つけるまで、俺は傍にいる。それが、俺にできる唯一のことだ」
「……ありがとう」
紗耶は目を閉じた。その顔は、穏やかだった。三年間の憎しみから解放された、静かな顔。
律は紗耶を抱きしめたまま、窓の外を見た。冬の空に、星が一つ、瞬き始めていた。
第6章 鬱から躁と
三月に入った。
十文字のレコーディングは大詰めを迎えていた。アルバムの完成が近づき、スタジオには緊張感と高揚感が入り混じった空気が漂っている。十文字は以前よりも精力的に作業に取り組んでいた。紗耶との対面が、何かを変えたのかもしれない、と律は思った。
紗耶は、少しずつ変わっていた。
復讐に囚われていた頃の、尖った雰囲気が和らいでいる。よく笑うようになった。些細なことで——律の作る不恰好な目玉焼きとか、テレビのバラエティ番組のギャグとか——声を出して笑う。その笑い声を聞くたびに、律は胸の奥が温かくなるのを感じた。
ある日の夜、紗耶が言った。
「仕事、辞めようかな」
「銀座の?」
「うん。もう、続ける理由がないの。十文字に近づくために始めた仕事だから。それに、夜の世界は、もう疲れた」
「辞めて、どうするんだ」
「わからない。でも、何か新しいことを始めたい。昔、美大に行きたかったでしょう。今からでも、遅くないかなって」
「遅くないと思う」
律は紗耶の手を取った。
「お前がやりたいことを、やればいい。俺は応援する」
紗耶は微笑んだ。その笑顔は、VENOMで出会った夜の、妖艶で危険な女のものではなかった。もっと柔らかく、温かく、人間らしい笑顔だった。
「ねえ、律」
「何だ」
「私、やっぱりあなたのことが——」
紗耶は言いかけて、口を閉じた。首を横に振る。
「やっぱり、言わない。言ったら、嘘になるかもしれないから」
「ああ。言わなくていい」
二人は顔を見合わせ、笑った。言葉にしないことで、守られる何かがある。二人はそれを、無意識のうちに理解していた。
十文字の復帰アルバムが完成したのは、三月の中旬だった。
レコーディングの最終日、十文字はスタッフ全員に挨拶をした。律にも、深々と頭を下げた。
「椎堂さん。本当にありがとうございました。あなたのおかげで、このアルバムは完成しました」
「仕事ですから」
「仕事以上のことを、あなたはしてくれました。紗耶さんとの橋渡しも。僕は一生、あなたに感謝します」
律は軽く頷いた。十文字との間に、奇妙な信頼関係が生まれていることを、律自身も感じていた。彼を好きにはなれない。紗耶の姉を死に追いやった男だ。でも、憎むこともできない。彼は彼なりに苦しみ、償おうとしている。それは事実だった。
「復帰ライブ、成功するといいですね」
律は言った。
「ありがとうございます。四月十日、渋谷のオーチャードホールです。よかったら、来てください。紗耶さんも」
「考えておきます」
十文字が去った後、芹香が律に近づいてきた。
「ねえ、律くん」
「何ですか」
「十文字さんと、何かあったの? なんか、最初の頃と雰囲気違うっていうか」
「別に。仕事を通じて、少し親しくなっただけです」
「ふーん」
芹香は怪訝そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。彼女の勘の鋭さに、律は内心で感謝した。詮索されると、何を話していいかわからなくなる。
四月。
桜が咲き始めた。下北沢の街路樹も、淡いピンクの花を付けている。冬の間、灰色に沈んでいた街が、少しずつ色を取り戻していく。
紗耶は銀座のクラブを辞めた。貯金はそこそこあったが、新しい仕事を探さなければならない。とりあえず、デザイン系の専門学校に通うことを考えている、と彼女は言った。
「姉は絵が上手かったでしょう。私も、少しは描けるの。もう一度、ちゃんと学び直したい」
律は紗耶の決意を喜んだ。彼女が前を向き始めている。それが、何よりも嬉しかった。
四月十日が近づいていた。
十文字の復帰ライブ。律は紗耶に、行くかどうか尋ねた。
「行ってみようかな」
紗耶は言った。
「怖くないか」
「怖い。でも、見届けたい気がする。十文字がどんな音楽を作ったのか。姉の影響が、どれくらい残っているのか」
「俺も一緒に行く」
「うん。お願い」
四月十日、日曜日。渋谷のオーチャードホールは、満員の観客で埋め尽くされていた。三年ぶりの復帰に、業界関係者やメディアも多数詰めかけている。律と紗耶は、後方の席に座った。目立たない場所を選んだ。
開演前、律は紗耶の手を握った。彼女の手は冷たかった。
「大丈夫か」
「大丈夫。たぶん」
照明が落ち、ステージに光が当たった。十文字奏が現れる。黒いスーツに、白いシャツ。シンプルな出で立ち。三年前のカリスマ的な派手さはないが、その代わりに、成熟した落ち着きがあった。
「皆さん、お久しぶりです。十文字奏です」
会場から、割れんばかりの拍手が起こった。十文字は静かに微笑み、続けた。
「三年間、表舞台から離れていました。その間、いろいろなことがありました。辛いことも、悲しいこともです。でも、僕はここに戻ってきました。音楽を届けたいと思ったからです。聴いてください」
最初の曲が始まった。
アコースティックギターの優しい音色。それに乗せて、十文字の声が響く。以前よりも深みを増した、傷を抱えた声。
律は紗耶を見た。彼女は目を閉じて、音楽に耳を傾けていた。その頬に、涙が一筋、流れていた。
三曲目が終わった頃、会場にざわめきが起こった。
ステージの端から、一人の男が歩いてくる。四十代くらいの、がっしりした体格の男。角刈りに近い短髪、目元に深い皺。律は、その男を見たことがなかった。
十文字が驚いた顔をしている。マイクを通して、困惑した声が漏れた。
「朽木さん……?」
朽木。その名前に、紗耶が反応した。目を見開き、ステージを凝視している。
「誰だ?」
律が小声で聞いた。
「十文字の元マネージャーよ。姉が死んだ後、十文字と一緒に事件を隠蔽した人」
男——朽木遼介は、十文字からマイクを受け取った。そして、会場に向かって深く頭を下げた。
「突然の乱入、お詫びします。でも、これだけは言わせてください」
会場が静まり返った。全員が、朽木の次の言葉を待っている。
「三年前、霧生彩夜という女性が亡くなりました。十文字の恋人だった人です。彼女の死は、自殺として処理されました。でも、本当は、僕たちが殺したんです。十文字も、僕も」
会場にどよめきが広がった。メディア関係者が、慌ただしくカメラやレコーダーを向けている。
「彩夜さんは、精神的に追い詰められていました。十文字が彼女を放置し、僕もそれを見て見ぬふりをした。僕たちが助けていれば、彼女は死なずに済んだかもしれない。それを、僕はずっと後悔してきました」
朽木は声を震わせながら、続けた。
「十文字は復帰しようとしています。でも、過去を清算せずに復帰することは、許されない。だから僕は、ここで真実を話すことにしました。彩夜さんへの、せめてもの供養として」
朽木はマイクを置き、ステージを降りた。会場は騒然としている。フラッシュが焚かれ、記者たちが朽木を追いかけていく。
十文字はステージの上で、呆然と立ち尽くしていた。
律は紗耶を見た。彼女の顔には、複雑な表情が浮かんでいた。驚き、困惑、そして——どこか、安堵のような色。
「紗耶」
「……行こう」
紗耶は立ち上がった。
「ここにいても、しょうがない」
二人は会場を出た。外はまだ明るく、春の陽光が眩しかった。桜の花びらが風に舞い、二人の頭上を通り過ぎていく。
「あの人——朽木という人、ずっと罪悪感を抱えてたのね」
紗耶は静かに言った。
「十文字だけじゃなく、周りにいた人も、みんな苦しんでいた。姉の死は、たくさんの人を巻き込んだのね」
「お前は、どう思う」
「わからない。でも、少し楽になった気がする。私が復讐しなくても、真実は明らかになった。姉の死は、なかったことにはならない。それが、少しだけ救いかもしれない」
紗耶は律の腕を取った。
「帰ろう。もう、ここにいる理由はないわ」
二人は渋谷の雑踏を抜け、電車に乗った。車窓の外を、夕陽に染まった街並みが流れていく。紗耶は律の肩に頭を預け、目を閉じた。
「ねえ、律」
「何だ」
「私、やっと姉のことを、手放せる気がする。今までは、姉の代わりに怒って、姉の代わりに恨んで、姉の影として生きてきた。でも、もういい。姉は姉、私は私。別々の人間なんだって、やっとわかった」
「そうか」
「これからは、私自身の人生を生きる。あなたと一緒に」
律は紗耶の髪を撫でた。柔らかい黒髪が、夕陽の光を受けて輝いている。
「ああ。一緒に生きよう」
電車は下北沢に向かって走り続けた。窓の外では、桜の花びらが風に舞い、やがて闇に溶けていった。
第三部 愛を語り始める
第7章 サディスティックな視線
朽木の告白は、瞬く間にメディアを駆け巡った。
翌日のワイドショーは、軒並みこのニュースを取り上げた。「復帰ライブで衝撃の告白」「三年前の自殺事件、新事実」「元マネージャーが明かす真相」。センセーショナルな見出しが躍り、十文字奏の名前は再び世間の注目を集めた。ただし今度は、音楽家としてではなく、スキャンダルの当事者として。
律は朝のニュースを見ながら、複雑な気持ちになっていた。
十文字は被害者でもあり、加害者でもある。彼の音楽が評価されるべきなのか、それとも過去の罪で断罪されるべきなのか。世間の反応は二分していた。擁護する声もあれば、批判する声もある。ネット上では激しい議論が交わされ、十文字のファンと批判者が罵り合っている。
「見ないほうがいい」
律は紗耶に言った。
「見てないわ。もう興味ないの」
紗耶は窓辺に立ち、外を眺めていた。四月の朝の光が、彼女の横顔を柔らかく照らしている。
「本当か?」
「本当よ。十文字がどうなろうと、私には関係ない。姉の死は変わらないし、私の人生も変わらない。朽木という人が告白したことで、真実は世間に知られた。それで十分」
紗耶は振り返り、律を見た。その目には、以前のような暗い炎はなかった。代わりに、静かな諦念と、どこか軽やかな光があった。
「むしろ、感謝してるくらい。私がやろうとしていたことを、あの人が代わりにやってくれた。私の手を汚さずに済んだ」
「朽木さんは、自分の意志でやったんだ。お前のためじゃない」
「わかってる。でも、結果的に、私は救われた。復讐なんてしなくてよかった。あなたの言う通りだった」
紗耶は律に近づき、そっと唇を重ねた。柔らかく、温かいキス。以前のような、飢えた激しさはない。もっと穏やかで、優しい接触だった。
「ありがとう。律がいなかったら、私は本当に壊れていたと思う」
「礼を言われるようなことはしてない」
「してるわ。私を止めてくれた。私に、姉の影じゃなくて自分自身として生きていいって、教えてくれた」
律は紗耶を抱きしめた。彼女の体温が、腕を通して伝わってくる。薔薇の香りが、いつもより柔らかく感じた。
数日後、十文字から連絡があった。
『会えませんか。話したいことがあります』
律は迷った。今さら十文字と会って、何を話すのか。朽木の告白で、すべては終わったはずだ。少なくとも、律にとっては。
だが、断る理由も見つからなかった。
約束の場所は、下北沢の喫茶店だった。古びた木製のカウンターと、使い込まれた革張りの椅子。壁には昔のジャズミュージシャンのポスターが貼られ、スピーカーからはマイルス・デイヴィスが流れている。律が好きな店だった。十文字がなぜここを指定したのかは、わからなかった。
十文字は奥の席に座っていた。以前よりも痩せて見えた。目の下の隈は深くなり、頬はこけている。復帰ライブから数日しか経っていないのに、まるで数年分老けたようだった。
「来てくれてありがとうございます」
十文字は立ち上がり、頭を下げた。
「何の話ですか」
律は向かいの席に座りながら聞いた。
「朽木のこと、です。あれは、僕の知らないところで起きたことで。朽木が勝手にやったことです」
「知ってます」
「でも、結果的に、紗耶さんの復讐は成就しました。彼女が望んでいたことが、別の形で実現した。それについて、あなたに伝えておきたかったんです」
「何を」
十文字はコーヒーカップを両手で包み、じっとそれを見つめた。黒い液体の表面に、天井のライトが小さく映っている。
「僕は、これからどうなるかわかりません。事務所からは契約を切られました。メディアからは叩かれています。復帰ライブは中止になり、アルバムの発売も延期。たぶん、このまま表舞台に戻れないかもしれない」
「そうですか」
「でも、それでいいと思っています。朽木が言ったことは、全部本当だから。僕は彩夜を見殺しにした。その報いを受けるのは、当然のことです」
律は黙って聞いていた。十文字の言葉に、自己憐憫の響きはなかった。ただ事実を述べているだけの、乾いた口調だった。
「ただ、一つだけ、後悔していることがあります」
「何ですか」
「音楽を、完成させられなかったこと。あのアルバムには、僕の三年間が詰まっていました。彩夜への思いも、後悔も、全部。それを世に出せなかったのは、残念です」
「アルバムは完成しています。発売が延期されただけでしょう」
「いいえ。もう発売されることはないでしょう。事務所が判断しました。このタイミングで出しても、炎上するだけだと」
律は何も言えなかった。十文字の音楽が、世に出ることなく消えていく。それは、ある意味で彩夜の死よりも残酷なことかもしれなかった。彩夜が十文字の音楽に影響を与えたのは事実だ。その音楽が葬られるということは、彩夜の影響も一緒に葬られるということだ。
「椎堂さん」
十文字が顔を上げた。
「紗耶さんに、伝えてください。僕は彩夜のことを忘れません。たとえ表舞台に立てなくても、音楽を作り続けます。それが僕にできる、唯一の償いだから」
「自分で伝えればいいでしょう」
「いいえ。もう彼女に会う資格は、僕にはありません。でも、あなたを通じてなら、伝えられると思った」
十文字は立ち上がり、会計を済ませた。そして、店を出る前に振り返った。
「椎堂さん。彼女を、幸せにしてあげてください。僕にできなかったことを」
それだけ言って、十文字は去っていった。
律は一人、喫茶店に残った。冷めかけたコーヒーを啜りながら、窓の外を見た。十文字の後ろ姿が、人混みの中に消えていく。その背中は、どこか寂しげで、同時に解放されたようにも見えた。
彼は彼なりに、前に進もうとしている。過去の罪を背負いながら、それでも生きていこうとしている。それは、紗耶と同じだ、と律は思った。二人とも、過去に足を取られながら、それでも未来に向かって歩いている。
律はコーヒーを飲み干し、店を出た。
春の風が、頬を撫でていった。どこかで桜が散り始めている。花びらが風に舞い、アスファルトの上を転がっていく。
帰ったら、紗耶に話そう。十文字の言葉を、そのまま伝えよう。それが、律にできる最後の仲介だった。
その夜、律は紗耶に十文字の言葉を伝えた。
紗耶は黙って聞いていた。表情は変わらなかったが、目の奥に何かが揺れているのを、律は感じ取った。
「そう」
話を聞き終えた後、紗耶はただそれだけ言った。
「何も思わないか」
「何も、ではないわ。でも、もう終わったことだから」
紗耶は窓辺に立ち、夜の街を見下ろした。下北沢の雑踏が、遠くざわめいている。居酒屋の灯り、車のヘッドライト、看板のネオン。無数の光が、闇の中で瞬いている。
「十文字のアルバムが発売されないのは、残念だと思う。姉の影響を受けた音楽が、永遠に日の目を見ないなんて」
「仕方ないだろう」
「そうね。仕方ない」
紗耶は振り返り、律を見た。
「でも、私はもう前を向くわ。姉のことは忘れない。でも、姉の代わりに生きるのはやめる。私は私の人生を生きる。それが、姉への一番の供養だと思うから」
律は頷いた。紗耶の言葉には、決意と覚悟が込められていた。三年間の復讐から解放された彼女は、ようやく自分自身の足で立とうとしている。
「律」
「何だ」
「私、来月から専門学校に通うことにしたの。デザインを学ぶ。今さらだけど、やり直したい」
「いいと思う」
「お金は、今までの貯金で何とかなる。でも、しばらくは苦しくなるかもしれない」
「俺も手伝う」
「いいの?」
「当たり前だろう。お前は俺の——」
律は言いかけて、止まった。何と言うべきか、わからなかった。恋人? それは正確ではない気がする。二人の関係は、そんな単純なラベルでは収まらない。
「何?」
「お前は、俺の大切な人だ。それでいいだろう」
紗耶は微笑んだ。柔らかく、温かい笑顔。
「それでいいわ。私も、あなたは大切な人よ」
二人は抱き合った。言葉にできないものを、身体で確かめ合うように。窓の外では、春の夜風が街路樹を揺らしていた。葉擦れの音が、かすかに聞こえる。
その夜、二人は身体を重ねた。
以前とは違っていた。激しさや飢えはなく、もっと穏やかで、優しい行為だった。互いの肌に触れ、互いの温度を感じ、互いの存在を確かめる。言葉はほとんど交わさなかった。言葉よりも、身体のほうが雄弁だった。
終わった後、二人は並んで横たわった。天井には、窓から差し込む街灯の光が、ぼんやりと映っている。
「ねえ、律」
「何だ」
「私、あなたに出会えてよかった」
「俺もだ」
「でも、時々思うの。私は本当にあなたを愛しているのか、それとも、ただ依存しているだけなのかって」
律は紗耶の顔を見た。彼女は天井を見つめている。その横顔には、不安と迷いが浮かんでいた。
「違いがあるのか」
「わからない。愛と依存の境界線なんて、誰にもわからないのかもしれない。でも、私は自分が怖いの。また誰かを壊してしまうんじゃないかって」
「俺を壊すつもりか」
「つもりはないわ。でも、結果的にそうなるかもしれない。私は壊れた人間だから。壊れた人間は、周りの人も壊してしまう」
律は紗耶の手を取った。
「お前が壊れてるかどうかは、俺が決める。今のところ、お前は壊れてない。傷ついてはいるけど、壊れてはいない」
「どうしてそう思うの」
「前を向こうとしているからだ。本当に壊れた人間は、前を向けない。過去に囚われたまま、動けなくなる。でも、お前は違う。専門学校に行こうとしている。新しい人生を始めようとしている。それは、壊れた人間にはできないことだ」
紗耶の目に、涙が浮かんだ。だが、流れることはなかった。彼女は唇を噛みしめ、涙を堪えた。
「……ありがとう」
「礼はいらない」
二人は手を繋いだまま、眠りに落ちた。
夢の中で、律は広い野原に立っていた。風が吹き、草が波のようにうねっている。空は澄み渡り、雲一つない。遠くに、一人の女が立っている。紗耶だろうか。それとも、彩夜だろうか。わからなかった。女は律に手を振り、何かを叫んでいる。でも、声は風にかき消されて届かない。
目が覚めると、紗耶はまだ隣にいた。穏やかな寝息を立てている。律は彼女の髪をそっと撫で、再び目を閉じた。
明日も、明後日も、この女の隣で目覚めたい。
それが、今の律の願いだった。
第8章 愛はJack Knife
五月に入った。
ゴールデンウィークが終わり、街には日常が戻ってきた。紗耶は専門学校に通い始め、毎日忙しそうにしている。デザインの基礎から学び直すのは大変だが、充実しているようだった。帰ってくると、その日に学んだことを律に話す。色彩理論、レイアウトの原則、タイポグラフィの歴史。律にはわからないことも多かったが、紗耶が楽しそうに話すのを聞くのは好きだった。
律の仕事も、変わらず続いていた。『tone-lag』には相変わらず、さまざまなアーティストが出入りしている。十文字の騒動の後、スタジオには一時的に取材の電話が殺到したが、芹香がすべて断ってくれた。「うちは音楽を作る場所であって、ゴシップを作る場所じゃないんで」と彼女は言い放ち、それ以来、メディアの関心は薄れていった。
ある日の午後、芹香が律に声をかけてきた。
「ねえ、律くん。ちょっといい?」
「何ですか」
「この前の十文字さんのこと。あなた、何か知ってるでしょう」
律は一瞬だけ固まった。だが、すぐに表情を取り繕った。
「何のことですか」
「とぼけなくていいって。朽木さんが告白したのは、あなたが何か関わってたからじゃないの?」
「関わってないですよ。俺は何も——」
「嘘。あなた、嘘つけない顔してるもん」
芹香はメガネを押し上げ、律をじっと見た。その目には、追及というよりは、純粋な好奇心があった。
「別に責めてるわけじゃないの。ただ、知りたいだけ。あなたと十文字さんの間に、何があったのか」
律は迷った。紗耶のことを話すべきか、話さないべきか。芹香は信頼できる人間だ。でも、紗耶の過去を他人に明かすのは、紗耶本人の許可がなければできない。
「話せません。俺の一存では」
「誰かの秘密ってこと?」
「そういうことです」
芹香は肩をすくめた。
「まあ、いいけど。でも、何か困ったことがあったら言ってね。私にできることがあれば、手伝うから」
「ありがとうございます」
芹香が去った後、律は長い間、ミキシングコンソールの前に座っていた。自分は何をしているのか、時々わからなくなる。紗耶を守ろうとして、十文字と紗耶を引き合わせて、結果的に朽木の告白を引き起こした。それは正しかったのか。紗耶のためになったのか。
答えは出なかった。でも、紗耶が前を向き始めているのは事実だ。それだけで十分だ、と律は自分に言い聞かせた。
五月の終わり、紗耶が言った。
「私、一人暮らしを始めようと思うの」
律は驚いた。
「どういうことだ」
「今まで、ほとんど毎日あなたの部屋にいたでしょう。でも、それって健康的じゃない気がして。私、あなたに依存しすぎてる」
「俺は構わない」
「私が構うの」
紗耶は真剣な目で律を見た。
「私、自分の足で立ちたい。あなたに支えてもらうんじゃなくて、自分で自分を支えられるようになりたい。そのためには、一度、距離を置く必要があると思う」
「距離を置くって、別れるということか」
「違うわ。そうじゃなくて、自分の空間を持つってこと。今まで、私には自分だけの場所がなかった。姉の影として生きてきて、復讐に囚われて、あなたの部屋に転がり込んで。いつも誰かの場所に間借りしてた。そろそろ、自分だけの場所を持ちたいの」
律は黙って聞いていた。紗耶の言葉には、決意と覚悟が込められていた。反論する気になれなかった。
「……わかった」
「怒ってる?」
「怒ってない。お前がそう決めたなら、俺は尊重する」
紗耶は安堵したように息をついた。
「ありがとう。でも、離れるわけじゃないわ。会いたいときは会うし、連絡も取る。ただ、毎日一緒にいるのは、しばらくやめようと思って」
「どこに住むんだ」
「まだ決めてない。でも、ここから遠くないところを探す。電車で三十分くらいの距離」
律は頷いた。紗耶が自立しようとしているのは、いいことだ。彼女が自分の足で立てるようになれば、二人の関係ももっと健全なものになる。そう思おうとした。でも、胸の奥に、小さな不安が芽生えていた。
紗耶が離れていく。
その予感が、影のように心に落ちていた。
六月。
紗耶は三軒茶屋に小さなアパートを借りた。律の部屋から電車で二十分ほどの距離。ワンルームの狭い部屋だったが、紗耶は嬉しそうだった。
「やっと、自分だけの場所ができた」
引っ越しを手伝った日、紗耶はそう言った。窓から差し込む午後の光が、彼女の顔を照らしている。その表情は、出会った頃とは別人のように明るかった。
「必要なものがあれば、言ってくれ」
「ありがとう。でも、大丈夫。自分でなんとかする」
律は紗耶を見つめた。彼女は確実に変わっている。VENOMで出会った夜の、妖艶で危険な女はもういない。代わりに、自分の人生を生きようとしている、一人の女がいる。
「じゃあ、帰るわ」
律は言った。
「え? もう?」
「お前が自立したいって言うなら、俺がいつまでもいちゃ邪魔だろう」
「そんなことない。もう少しいてよ」
「いや。今日は帰る」
律は自分でも驚くほど、冷たい声が出た。紗耶が傷ついた顔をしたのがわかった。でも、訂正する気になれなかった。
「……わかった」
紗耶は小さく頷いた。
「また、連絡するね」
「ああ」
律はアパートを出た。
外に出ると、六月の蒸し暑い空気が肌にまとわりついた。空は曇っていて、今にも雨が降り出しそうだった。
何をしているんだ、俺は。
自問したが、答えは出なかった。紗耶が自立しようとしているのは、喜ぶべきことだ。なのに、なぜこんなに苛立つのか。なぜ、冷たくしてしまったのか。
嫉妬だ、と気づいた。
紗耶が俺を必要としなくなることへの、嫉妬。
彼女は俺がいなくても生きていける。その事実が、律の胸を締め付けていた。
それから、二人の間に微妙な距離が生まれた。
連絡は取り合っていたが、会う頻度は減った。週に一度、二度。時には二週間以上会わないこともあった。紗耶は専門学校とアルバイトで忙しく、律も仕事に追われていた。それぞれの生活が、少しずつ別の軌道を描き始めていた。
七月のある夜、紗耶から電話がかかってきた。
「今夜、会えない?」
「どうした」
「ちょっと、話したいことがあって」
律は迷った。明日は朝からレコーディングがある。早く寝るべきだった。でも、紗耶の声には、いつもと違う響きがあった。
「わかった。どこで?」
「あなたの部屋でいい?」
「ああ」
一時間後、紗耶が律の部屋にやってきた。
久しぶりに見る彼女は、少し痩せていた。目の下に薄い隈があり、顔色も悪い。専門学校の課題で忙しいのだろうか。それとも、別の何かがあるのだろうか。
「入って」
紗耶はソファに座り、しばらく黙っていた。律はその向かいに座り、彼女を見つめた。
「話したいことって、何だ」
「私——」
紗耶は言いかけて、口を閉じた。それから、深く息を吸い、もう一度口を開いた。
「私、留学しようと思ってるの」
律は一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
「留学?」
「ロンドンの美術学校。来年の春から、一年間」
「なぜ急に」
「急じゃないわ。専門学校に通い始めてから、ずっと考えてた。日本でデザインを学ぶのもいいけど、一度海外で勉強したい。視野を広げたい。姉が叶えられなかった夢を、私が叶えたい」
律は黙っていた。頭の中で、さまざまな感情が渦を巻いている。驚き、困惑、怒り、悲しみ。そのどれもが、うまく言葉にならなかった。
「一年間、か」
「ええ。でも、卒業したら戻ってくる。日本で仕事を見つけて、ここで暮らすつもり」
「俺のことは」
「あなたのことは——」
紗耶は視線を落とした。
「あなたのことは、好きよ。それは変わらない。でも、今の私には、自分の人生を優先する必要がある。あなたに依存するんじゃなくて、自分の足で立って、それからもう一度、あなたの隣に戻りたい」
「待てってことか」
「待ってほしいとは言わない。一年は長いもの。その間に、あなたに誰か別の人ができても、私は恨まない」
「馬鹿なことを言うな」
律の声が、思ったより大きくなった。紗耶が驚いて顔を上げる。
「お前は俺のことを何だと思ってるんだ。一年待てないと思ってるのか。別の女を探すと思ってるのか」
「そうは言ってないわ。ただ、私は——」
「お前は自分のことばかり考えてる。自分が自立したい、自分が成長したい、自分の人生を優先したい。俺の気持ちは、どうでもいいのか」
紗耶の顔が、苦しげに歪んだ。
「どうでもよくなんかない。でも、私は——」
「お前が留学したいなら、すればいい。俺は止めない。でも、俺を置いていくなら、それなりの覚悟を見せろ。『待たなくていい』なんて、無責任なことを言うな」
律は自分でも驚くほど、感情的になっていた。いつもは冷静で、理性的で、嘘がつけないから代わりに黙ることを選ぶ人間だ。なのに今は、感情が溢れ出して止まらなかった。
紗耶は涙を浮かべていた。
「ごめんなさい。私、あなたを傷つけてばかりね」
「謝らなくていい。俺が聞きたいのは、謝罪じゃない」
「じゃあ、何が聞きたいの」
「お前の本心だ。本当は、どうしたいんだ」
紗耶はしばらく黙っていた。涙が頬を伝い、顎を流れ落ちていく。
「本当は——」
彼女の声が震えた。
「本当は、あなたと一緒に行きたい。でも、それはできない。あなたには仕事がある。日本での生活がある。私の勝手な夢に、付き合わせるわけにはいかない」
「俺が決めることだろう、それは」
「そうね。でも、私は頼みたくないの。自分の力で行きたい。誰かに頼って、また依存して、また壊れるのが怖いの」
律は立ち上がり、窓辺に歩いていった。夜の街が広がっている。いつもと同じ景色なのに、今夜は違って見えた。すべてが遠く、すべてが虚しかった。
「お前は、俺といると壊れるのか」
「そうじゃない。でも、私の中の弱い部分が、あなたに寄りかかろうとする。それが怖いの。あなたを愛しているから、離れたい。矛盾してるけど、それが本心よ」
「愛しているなら、離れるな」
「愛しているから、離れるの」
律は振り返り、紗耶を見た。彼女は立ち上がり、律のほうへ歩いてきた。そして、彼の胸に頭を預けた。
「一年だけ。一年だけ待って。それで、私がちゃんと自分の足で立てるようになったら、もう一度あなたの隣に戻る。約束するわ」
「約束なんて、嘘になるかもしれないと言ってたのはお前だろう」
「そうね。でも、今は約束したい。約束することで、自分を縛りたい。あなたの元に戻る理由を、自分に作りたい」
律は紗耶を抱きしめた。細い身体が、腕の中で震えている。
「……わかった。一年だな」
「ええ。一年」
「待ってるよ。ただし、条件がある」
「何?」
「愛してるって、言え」
紗耶の身体が、一瞬だけ強張った。
「言ったら、嘘になるかもしれないって——」
「いいから。俺が聞きたいんだ」
紗耶は顔を上げ、律の目を見た。黒い瞳に、涙の膜が張っている。
「愛してる」
彼女は言った。
「愛してるわ、律。あなたのことを、世界で一番愛してる」
律は紗耶の唇にキスをした。塩辛かった。涙の味だった。
その夜、二人は久しぶりに身体を重ねた。激しく、貪るように。別れの前夜のように。言葉で伝えられないものを、身体に刻み込むように。
朝が来たとき、紗耶は律の隣で眠っていた。その顔は穏やかで、夢を見ているようだった。いい夢だといい、と律は思った。
窓の外では、雨が降り始めていた。梅雨の長い雨が、街を灰色に染めていく。
一年。
それは長いのか、短いのか。律にはわからなかった。
第9章 言えないせいで
九月。紗耶の留学まで、半年を切った。
二人は月に数回会っていたが、以前のような親密さは失われていた。会話は弾むのに、どこかよそよそしい。触れ合うのに、距離を感じる。まるで、既に離れ始めているかのように。
ある晩、紗耶が言った。
「私たち、もう会わないほうがいいのかもしれない」
律は顔を上げた。二人は三軒茶屋の紗耶のアパートにいた。狭い部屋に、彼女の荷物が増えている。本棚にはデザイン関連の本が並び、壁には彼女が描いたスケッチが貼られていた。
「どういう意味だ」
「このまま会い続けても、お互いに辛いだけじゃない? 私は来年の三月にはいなくなる。それまで、ずるずると関係を続けても、別れが辛くなるだけ」
「お前は、俺と別れたいのか」
「別れたいわけじゃない。でも——」
紗耶は言葉を探すように、宙を見つめた。
「私、今の状態が怖いの。あなたのことを考えると、留学を迷ってしまう。行かないほうがいいんじゃないかって。でも、行かなかったら、私はまたあなたに依存するだけ。それは嫌なの」
「俺に依存することの、何が悪い」
「悪くはない。でも、健康じゃない。私は、健康な関係を築きたいの。対等な関係を」
「今が対等じゃないと?」
「対等じゃないわ。私はいつもあなたに支えてもらってる。与えてもらってるばかりで、何も返せていない」
「返さなくていい」
「でも、私が返したいの」
紗耶は立ち上がり、窓辺に歩いていった。外では秋の風が吹いていて、街路樹の葉が揺れている。
「私、ずっと考えてたの。あなたと出会ってから、私の人生は変わった。復讐をやめて、前を向けるようになった。それはあなたのおかげ。でも、同時に、私はあなたなしでは生きられなくなってる。それが怖いの」
「怖がる必要はない」
「あるわ。私は姉を失ったとき、壊れそうになった。復讐だけが支えだった。もしあなたを失ったら、また同じことになる。誰かに依存して、その人を失ったら壊れる。そのサイクルから抜け出したいの」
律は黙っていた。紗耶の言葉は理解できた。でも、受け入れることはできなかった。
「お前の言うことはわかる。でも、俺は違う考えだ。俺たちは支え合ってるんじゃない。一緒に歩いてるんだ。どちらかが倒れたら、もう一方が助ける。それの何が悪い」
「悪くない。でも、私は一人で歩けるようになりたい。一人で歩けるようになってから、あなたと一緒に歩きたい」
「なぜ、今じゃダメなんだ」
「今の私は、まだ弱いから」
紗耶は振り返り、律を見た。その目には、決意と悲しみが混在していた。
「お願い。私に時間をちょうだい。一年間、離れて、自分を見つめ直したい。あなたと離れて、それでもあなたのことを愛し続けられるか、確かめたい」
「離れたら、愛が消えるとでも?」
「消えるかもしれない。消えないかもしれない。でも、確かめなきゃいけないの。そうじゃないと、私は一生、不安を抱えたままあなたの隣にいることになる」
律は深くため息をついた。紗耶を説得することは、できないと悟った。彼女は既に決めている。律がどれだけ言葉を尽くしても、彼女の決意は変わらない。
「わかった」
律は言った。
「お前がそう望むなら、俺は受け入れる。でも、一つだけ約束してくれ」
「何?」
「戻ってくるとき、必ず俺に連絡しろ。俺はここにいる。待ってる」
紗耶の目に、涙が浮かんだ。
「約束するわ。必ず連絡する」
その夜、二人は最後の時間を過ごした。
身体を重ね、言葉を交わし、沈黙を共有した。朝が来るのが怖かった。朝が来たら、すべてが変わってしまう気がした。
でも、朝は必ずやってくる。
太陽が昇り、部屋に光が差し込んだとき、紗耶は律に言った。
「今日から、連絡は控えるわね。留学の準備が終わったら、出発の前に、最後にもう一度会いたい」
「ああ」
「それまで、元気でいてね」
「お前もな」
律は紗耶のアパートを出た。階段を降り、外に出ると、秋の朝の冷たい空気が頬を刺した。振り返ると、窓辺に紗耶の姿が見えた。彼女は手を振っている。律も手を振り返した。
それから、歩き出した。
一歩、また一歩。振り返りたい衝動を堪えながら、前だけを見て。
秋の風が、背中を押していた。
最終章 身体のすべてが
半年が過ぎた。
紗耶が出発してから、六ヶ月。三月の桜が散り、四月の新緑が芽吹き、夏が過ぎ、また秋が来た。九月の下北沢は、一年前と同じように、黄金色の光に包まれていた。
律は『tone-lag』を辞めていた。
理由は複合的だった。スタジオの経営方針が変わったこと。芹香が独立して自分の事務所を立ち上げたこと。そして、何よりも、自分自身が変わりたいと思ったこと。
今はフリーランスのエンジニアとして、さまざまなスタジオを渡り歩いている。収入は不安定だが、自由がある。自分で仕事を選び、自分のペースで働ける。紗耶がいない生活に慣れるためには、この変化が必要だった。
紗耶からは、出発の日に一度だけ連絡があった。
『行ってきます。一年後に、また会いましょう』
それきり、連絡はなかった。
約束通りだ、と律は思った。離れている間は連絡しない。それが彼女の望みだった。律はそれを尊重した。自分から連絡することもしなかった。
でも、毎日、彼女のことを考えた。
朝、目が覚めたとき。コーヒーを淹れるとき。仕事で音を調整しているとき。夜、ベッドに横たわるとき。いつも、頭の片隅に紗耶がいた。今、何をしているだろう。元気にしているだろうか。俺のことを、まだ覚えているだろうか。
確かめる術はなかった。
ただ、待つしかなかった。
十月のある夜、律のスマートフォンが鳴った。
時刻は午後十一時。仕事を終えて帰宅し、シャワーを浴びた後だった。画面には、知らない番号が表示されている。海外からの着信だった。
律は電話に出た。
「もしもし」
返事はなかった。
「もしもし? 誰だ?」
沈黙。だが、電話は切れない。微かに、何かが聞こえる。雑音ではない。意図的な音だ。
音楽だった。
ギターのアルペジオ。シンプルだが、美しいメロディ。どこかで聴いたことがある。いや、聴いたことがあるどころではない。自分が弾いた曲だ。紗耶のために、あの夜、即興で弾いた曲。それを録音したものが、電話越しに流れている。
律の心臓が、大きく脈打った。
「紗耶……?」
返事はない。ただ、音楽が続いている。
律は電話を耳に当てたまま、目を閉じた。音楽が耳から入り、身体中に染み渡っていく。一年前の記憶が、鮮やかに蘇る。紗耶の匂い、紗耶の声、紗耶の肌。言葉にできなかったものが、音となって流れてくる。
やがて、音楽が止んだ。
沈黙。そして、微かな息遣い。
「……紗耶」
律はもう一度、名前を呼んだ。
「帰ってきたのか」
沈黙が続いた。一秒、二秒、三秒。永遠のように長い時間。
そして、電話が切れた。
律はしばらく、切れた電話を見つめていた。それから、小さく笑った。
「わかってる」
部屋の中に、律の声だけが響いた。
「言葉にしなくても、わかってるよ」
窓の外では、十月の月が輝いていた。満月に近い、大きな月。その光が部屋に差し込み、壁に立てかけてあるギターを照らしている。五年間触れなかった楽器。紗耶に出会ってから、また弾くようになった楽器。
律はギターを手に取った。
弦に指を置き、あの夜と同じメロディを弾き始めた。音が部屋に満ち、窓から外へ流れていく。誰に聴かせるためでもなく、ただ自分のために。そして、遠くにいる誰かのために。
言葉はいらなかった。
愛していると、言わなくてもよかった。言葉にした瞬間、それは嘘になるかもしれないから。でも、音楽は嘘をつかない。身体は嘘をつかない。
彼女が帰ってくる。
いつになるかはわからない。明日かもしれない。来月かもしれない。でも、必ず帰ってくる。そのとき、言葉は交わさないかもしれない。でも、身体のすべてが、存在のすべてが、互いへの愛を語り始める。
それでいい。
それが、二人の形だから。
律はギターを弾き続けた。夜が更け、月が傾き、やがて空が白み始めても。
玄関のインターホンが鳴ったのは、朝の六時だった。
律は手を止め、ギターを置いた。そして、ゆっくりと玄関に向かった。
扉を開けると、そこに紗耶が立っていた。
彼女は変わっていた。髪は少し短くなり、肩にかかるくらいの長さになっている。顔つきは以前より大人びて、目には深い光が宿っていた。でも、微笑みは同じだった。あの夜、VENOMで出会ったときと同じ、どこか挑発的で、どこか寂しげな微笑み。
「ただいま」
紗耶が言った。
「おかえり」
律が答えた。
二人は抱き合った。言葉はそれ以上、必要なかった。
朝日が差し込み、二人の姿を照らしている。新しい一日が始まろうとしていた。過去の傷も、復讐の記憶も、すべてを抱えたまま、二人は前に進もうとしていた。
「愛している」と言った時から、愛していない未来が存在する。
「愛している」と言わせないために、彼女の唇をキスで閉じて。
「愛している」と言わないために、言葉のすべてを音楽に沈めた。
「愛している」と言えないせいで、身体のすべてが今、愛を語り始める。
律は紗耶の髪を撫でた。彼女の匂いを嗅いだ。薔薇と、少しだけ異国の香りと、彼女自身の匂い。
「長かったな」
「ええ。長かった」
「これからは、どうするんだ」
「あなたの隣にいるわ。もう、離れない」
「約束か?」
「約束よ。嘘になるかもしれないけど」
「いいよ。嘘でも」
二人は微笑み合った。
外では、秋の風が吹いていた。木の葉が舞い、空には鰯雲が広がっている。どこかで鳥が鳴いている。何の変哲もない、普通の朝だった。
でも、律にとっては、特別な朝だった。
長い旅が終わり、また新しい旅が始まる。今度は、二人で。
「入れよ。コーヒー淹れる」
「うん」
紗耶は律の手を取り、部屋に入った。扉が閉まり、二人の姿は消えた。
朝日は昇り続け、街に光が満ちていく。新しい一日が、静かに始まっていた。
<完>
作成日:2025/12/31




編集者コメント
前編、後編からなります。前編はこちら。
モチーフというより言葉がそのまま使われてたりするので、分かる人には言わなくても分かるようになっていると思いますが、歌詞を与えてインスパイアで作っています。氷室京介「RAP ON TRAP」。