『愛を、言わないふたり 前編:夜に触れる』イメージ画像 by SeaArt

愛を、言わないふたり 前編:夜に触れる

紹介レコーディングスタジオで働く椎堂律は、新宿の地下クラブで一人の女と出会う。霧生紗耶——妖艶で危うく、嘘しかつけないと嘯く女。「言葉なんて信じない」と繰り返す彼女に、律は抗えないまま惹かれていく。だが紗耶には、決して触れてはならない過去があった。三年前の悲劇、消えない傷、そして律のスタジオに現れた一人の男。偶然だと思っていた出会いの裏側で、見えない糸が絡み合い始める。嘘と真実の境界が溶けていく、危険な恋の幕開け。
ジャンル[恋愛小説][サスペンス]
文字数約27,000字

第一部 罠の始まり

第1章 夜に揺らめく

十一月の終わり、金曜日の夜だった。

椎堂律しいどう りつは、新宿三丁目の雑居ビルの地下へと続く階段を降りながら、自分がなぜここにいるのか、うまく説明できずにいた。階段の壁には蛍光塗料で描かれた蛇のグラフィティがうねり、足元のコンクリートは無数の靴底に磨かれて黒光りしている。重低音が地鳴りのように腹の底を揺さぶり、その振動は骨を伝って頭蓋の内側まで響いてきた。

「お前さ、たまには外の空気吸えって。スタジオに籠もりっぱなしじゃ、そのうちカビ生えるぞ」

前を歩く八雲晴臣やくも はるおみが振り返り、にやりと笑った。二十六歳、律より二つ年下の同僚エンジニアで、元バンドマンという経歴を持つ男だ。ブリーチで傷んだ金髪を無造作に束ね、オーバーサイズのミリタリージャケットを羽織っている。耳には三つのピアスが光り、その軽薄そうな外見とは裏腹に、ミキシングの腕は確かだった。

「外の空気を吸いに来て、地下に潜るのか」

律は皮肉を込めて言った。

「細かいこと言うなって。ここの空気は特別なんだよ。毒気があってさ、逆に浄化される感じ」

「それは浄化とは言わない」

「まあまあ。騙されたと思ってさ」

騙されたと思って、という言葉を律は好まなかった。騙されること自体が既に敗北であり、たとえ結果が良くても、その過程において自分の判断力が無効化されたという事実は消えない。しかし今夜に限っては、そうした理屈をこねる気力もなかった。三日連続の深夜作業で神経が摩耗し、思考は薄いガーゼのようにぼんやりと頼りない。断る言葉を組み立てる前に、気づけば晴臣の車に押し込まれていた。

階段を降りきると、VENOMと刻まれた鉄の扉があった。晴臣が慣れた手つきでノックのリズムを刻むと、内側から重い音を立てて扉が開く。その瞬間、音の洪水が律の全身を呑み込んだ。

店内は薄暗く、天井の低いフロアに百人ほどの人間がひしめいていた。壁際に設けられたバーカウンターは青白いネオンに照らされ、カクテルグラスの氷が宝石のように瞬いている。空気は煙草の煙とアルコールと、名前のつけられない何かの香りで重く濁り、それでいて不思議な甘さを含んでいた。DJブースからはインダストリアルなビートが絶え間なく放たれ、人々はその律動に身を委ねて揺れている。

律は自分がひどく場違いな存在であることを即座に悟った。周囲の人間はみな、夜を泳ぐために生まれてきたような顔をしている。派手なメイク、肌を露出した服、挑発的な視線。それに比べて律は、黒いクルーネックのセーターにダークグレーのスラックス、足元は履き慣れたニューバランスという、スタジオでの作業着そのままの格好だった。唯一の装飾といえば、左手首の古い革バンドの腕時計くらいのものだ。

「ほら、あそこ空いてる」

晴臣がカウンターの端を指さし、人混みを器用にすり抜けていく。律はその背中を追いながら、何度か他人の肘や肩とぶつかり、そのたびに小さく謝った。謝罪の言葉は音に掻き消され、誰の耳にも届かなかったが、それでも律は謝ることをやめなかった。それは習慣であり、あるいは自分自身を保つための儀式のようなものだった。

カウンターに辿り着き、晴臣がバーテンダーに何かを叫ぶ。やがて目の前にウイスキーのロックが二つ置かれた。琥珀色の液体が青いネオンを受けて冷たく光る。

「お前さ、最近どうなの。プライベートとか」

グラスを傾けながら、晴臣が横目で律を見た。

「プライベートも何も、スタジオと自宅の往復だけだ。知ってるだろう」

「だからだよ。そういうの、よくないって。人間ってのは、ときどき理性の外に出ないと腐るんだよ。俺の持論」

「お前の持論はいつも都合がいいな」

「都合がいいから持論なんだろ。で、彼女は? まだ作らないの?」

律は黙ってウイスキーを口に含んだ。強い酒精が喉を焼き、胃の底に小さな火を灯す。彼女、という言葉が妙に遠くに聞こえた。

かつて恋人がいた。大学時代のことだ。音楽サークルで出会い、二年ほど付き合った。彼女はボーカルで、律はギターを弾いていた。しかしその関係は、律が就職を機に音楽の道を諦めたとき、静かに終わりを迎えた。正確には、彼女が終わらせた。「あなたは夢を捨てたんじゃない、夢に捨てられたのよ」と彼女は言った。その言葉は五年経った今でも、夜中にふと目が覚めたとき、天井の暗がりの中で蘇ることがある。

「興味ないんだよ、今は」

「興味ないって、そういう問題じゃないだろ。生理現象だよ、恋愛ってのは」

「生理現象なら、腹が減ったら飯を食えばいい。わざわざ探しに行く必要はない」

「屁理屈だなあ」晴臣が大げさに肩をすくめる。「まあいいけどさ。でも今夜は何か起きるかもよ? こういう場所ってのは、運命の出会いとかあるんだから」

「運命なんてものを信じてるのか」

「信じてるっていうか、信じたほうが楽しいだろ? 人生って、そういうもんじゃん」

律は返事をせず、グラスの中の氷を見つめた。氷は少しずつ溶け、琥珀色の酒を薄めていく。その様子を眺めていると、ふいに音楽が変わった。インダストリアルな硬質のビートから、よりダウンテンポでアンビエントな音像へ。空気が一瞬だけ弛緩し、フロアの人々の動きもゆるやかになる。

その変化に誘われるように、律は何気なくフロアのほうへ視線を向けた。

そして、見た。

フロアの中央に、一人の女が立っていた。

最初に目を引いたのは、髪だった。腰まで届く艶やかな黒髪が、わずかな空気の流れに揺れている。まるで水中を漂う海藻のように、あるいは夜の闇そのものが女の形をとったように。彼女は周囲の喧噪から切り離された静寂の中に佇み、ゆっくりと身体を揺らしていた。踊っているというよりは、音楽と溶け合っているという表現のほうが正確だった。

黒いホルターネックのトップスが鎖骨の影を際立たせ、タイトなレザーのパンツが長い脚のラインを強調している。薄暗い照明の中でも、その白い肌は仄かに発光しているように見えた。歳は二十代半ばだろうか。造作は整っているが、美しいというよりは危険だった。切れ長の目、薄い唇、鋭角的な顎のライン。すべてが男を切り裂くために設計された刃物のようだ。

だが律の視線を本当に捉えたのは、彼女の目だった。

虚ろだった。

あれほど艶めかしく身体を動かしながら、その目だけは別の場所にあった。ここではないどこか、誰にも見えない深淵を覗き込んでいる。周囲には彼女に引き寄せられた男たちが群れをなしていたが、彼女は誰のことも見ていなかった。手を伸ばせば届く距離に大勢の人間がいながら、徹底的に孤独だった。

律は自分が息を止めていることに気づいた。

「おい、どうした?」

晴臣の声が遠くから聞こえた。律は答えなかった。答える言葉を持たなかった。ただ目が離せなかった。

それは恋愛感情などではなかった。少なくともその瞬間には、そう呼べるような甘い感覚ではなかった。もっと原始的な何か。獣が獣を認識するときの、本能的な警戒と興味の混合物。あの女は危険だ、と律の中の何かが警告していた。同時に、だからこそ目が離せないのだ、と別の声が囁いていた。

女がふいに動きを止めた。

そしてまっすぐに、律のほうを見た。

視線がぶつかった。物理的な衝撃すら感じた。彼女の瞳は暗く、深く、感情の読み取れない黒い水たまりのようだった。だがその奥に、かすかな光が揺れているのが見えた。興味、あるいは品定め。獲物を見つけた捕食者の目。

女は薄く微笑んだ。

それから群衆の間をすり抜け、まるで最初からそう決まっていたかのように、律のほうへ歩いてきた。

「おいおい、マジか」

晴臣が小声で呟いたが、律の耳には届かなかった。

女はカウンターの前で足を止め、律のすぐ隣に身体を滑り込ませた。煙草と、薔薇と、何か甘い香水の混じった匂いが鼻をくすぐる。近くで見ると、肌の質感や睫毛の一本一本まで見て取れた。完璧に整えられた眉、薄く引かれたアイライン、マットな質感の深紅のルージュ。すべてが計算されていながら、どこか投げやりな、この世のものに執着していない雰囲気がある。

「あなた、嘘をつけない顔をしてる」

彼女が言った。低い声だった。ハスキーで、わずかに掠れていて、耳の奥をくすぐるような響きを持っていた。

「いきなり何を言ってるんだ」

律は思わず身構えた。その反応自体が、彼女の言葉の正しさを証明しているようで、自分が間抜けに思えた。

「別に。見たままを言っただけ」

彼女はバーテンダーに目で合図を送り、何かを注文した。やがてカウンターに置かれたのは、血のように赤いカクテルだった。

「この店、初めてでしょう」

「どうしてわかる」

「わかるわよ。顔に書いてあるもの。『なんで俺はこんなところにいるんだろう』って」

律は言い返す言葉を探したが、見つからなかった。図星だったからだ。

「連れに無理やり引っ張ってこられたとか、そんなところ? でも嫌々来たわりには、さっきからずっとこっちを見てたわよね」

「……気のせいだろう」

「嘘。ほら、やっぱり下手」

彼女はカクテルに唇をつけ、目を細めた。その仕草は妖艶でありながら、どこか機械的でもあった。何千回と繰り返してきた動作が、もはや意識せずとも完璧に実行されるような。

「私、紗耶。霧生紗耶きりゅう さや。あなたは?」

「……椎堂。椎堂律」

「律。いい名前ね。音楽の律?」

「旋律の律だ。親が音楽好きでね」

「へえ。で、あなたは? 音楽、やるの?」

「昔は。今は裏方だ。レコーディングスタジオで働いてる」

紗耶の目に、初めて本物らしい光が宿った。興味の色だ。

「スタジオ。どこの?」

「下北沢にある小さいところだ。tone-lagっていう」

「知らないわ。でも、音楽の仕事なのね」

「雑用みたいなものだよ。機材をいじって、音を整えて、アーティストの注文に応える。地味な仕事だ」

「地味なのが好きなの?」

「好きというか、性に合ってるんだと思う。目立つのは苦手だ」

「だろうね」

紗耶は断定的に言った。侮辱的な響きはなく、ただ事実を確認したという口調だった。

「あなた、こういう場所に慣れてないでしょう。でも、目だけは面白いのよね。観察してる目。距離を置いて、分析してる。まるでミキサーの前に座ってるみたいに」

「よく見てるな」

「仕事柄ね。人を見るのが商売だから」

「仕事?」

紗耶は曖昧に微笑んだ。答える代わりに、赤いカクテルをまた一口含む。

「ねえ、質問していい?」

「何だ」

「あなた、嘘ってつける?」

唐突な質問だった。律は眉をひそめた。

「嘘なんか誰でもつくだろう」

「そうじゃなくて。大事な人に、大事なことで嘘をつけるかって聞いてるの。優しさのための嘘じゃなくて、自分を守るための嘘」

律はしばらく考えた。正直に答えることが正解なのかどうか、判断がつかなかった。

「……たぶん、つけない。つこうとしても、顔に出る」

「でしょうね」

紗耶はまた微笑んだ。今度は少しだけ柔らかい笑みだった。

「私はね、嘘しかつけないの。本当のことを言おうとすると、喉が詰まる。だから逆に、あなたみたいな人が珍しくて」

「珍しいって、何が」

「透明なところ。濁ってないところ。この店に来る男なんて、みんな何かを隠してる。下心とか、寂しさとか、虚栄心とか。でもあなたは、隠し方を知らないみたい。全部丸見え」

「褒められてるのか、馬鹿にされてるのか、わからないな」

「どっちでもないわ。ただ、珍しいと思っただけ」

紗耶はカクテルを飲み干し、グラスをカウンターに置いた。そしてポケットからスマートフォンを取り出し、律のほうへ差し出した。

「連絡先、交換しない?」

「なぜだ」

「なぜって、そういうものでしょう? 気になる人がいたら、また会いたいと思うもの。違う?」

律は紗耶の目を見た。黒い瞳は相変わらず深く、底が見えない。だがその奥に、何か切実なものが揺れているような気がした。孤独。あるいは、孤独に対する諦め。

「……いいよ」

律は自分のスマートフォンを取り出した。画面を見せ合い、連絡先を交換する。その間、紗耶の指先が一瞬だけ律の手に触れた。冷たかった。まるで血が通っていないように。

「ねえ、律」

「何だ」

「私のこと、怖い?」

「怖いって、何が」

「さあ。ただ、さっきからあなた、警戒してるように見えるから。猫が知らない相手を値踏みするみたいに」

律は正直に答えた。

「怖いかどうかはわからない。でも、危険だとは思ってる」

紗耶は声を立てて笑った。低い笑い声だった。愉快というよりは、諦めを含んだ響き。

「正直ね、やっぱり。でもいいわ、そのほうが面白い。嘘をつかれるより、ずっとマシ」

彼女は踵を返し、フロアのほうへ歩き出した。途中で振り返り、肩越しに律を見た。

「また連絡するわ。待っててね」

その言葉を最後に、紗耶は人混みの中へ消えた。黒い髪が波のように揺れ、やがて見えなくなる。

律はしばらくその場に立ち尽くしていた。手の中のスマートフォンには、「霧生紗耶」という名前が新しく登録されている。それを見つめながら、胸の奥で何かがざわついているのを感じた。心臓の鼓動が普段より速い。呼吸が浅い。これが何なのか、律にはまだ名前をつけることができなかった。

「おい、何だったんだあれ」

晴臣がようやく口を開いた。呆然とした顔をしている。

「わからない」

「わからないって。お前、あんな美人にいきなり声かけられてさ、連絡先まで交換して。何なの、持ってるの? 隠してたの、そういう運」

「隠してない。初めてだよ、こんなの」

「マジか。いや、でもさ、あの子ちょっとヤバくない? なんていうか、空気が違うっていうか」

「ああ」

律は頷いた。ヤバい。その表現は的確だった。

「深入りしないほうがいいんじゃねえの? 俺の直感だけどさ」

「かもしれない」

「かもしれないって、お前……」

晴臣は何か言いかけて、口を閉じた。そして深いため息をつき、空になったグラスをカウンターに置いた。

「まあいいや。お前の人生だしな。でも、何かあったら相談しろよ。俺でよければ聞くからさ」

「ああ。ありがとう」

二人は店を出た。

地上に戻ると、十一月の冷たい空気が肺を刺した。律は深く息を吸い、吐いた。白い息が夜の闇に溶けていく。頭上には曇り空が広がり、星は一つも見えなかった。

帰りの電車の中で、律はぼんやりと窓の外を眺めていた。流れていく街灯の光が、暗い車窓に点線のように映る。その光の軌跡を追いながら、紗耶の言葉を反芻していた。

『嘘をつけない顔をしてる』

『私はね、嘘しかつけないの』

その二つの言葉が、まるで対になるように頭の中で響いている。嘘をつけない人間と、嘘しかつけない人間。それは本来、交わるはずのない存在だ。磁石のN極とS極のように反発し合うか、あるいは——。

あるいは、引き合うか。

律は目を閉じた。瞼の裏に、紗耶の虚ろな目が浮かんだ。あの底の見えない黒い瞳。その奥に揺れていた、かすかな光。

あれは何だったのだろう。

自宅に着いたのは午前二時を回った頃だった。下北沢駅から徒歩十分、築三十年のアパートの二階。六畳一間とユニットバス、小さなキッチンがあるだけの部屋だ。壁際にはギターが一本立てかけてある。五年前に弾くのをやめたはずの、フェンダーのストラトキャスター。捨てられずに残しているのは感傷ではなく、単に処分が面倒だからだと律は自分に言い聞かせていた。

シャワーを浴び、ベッドに横になっても、眠りはなかなか訪れなかった。天井の染みを見つめながら、今夜の出来事を何度も頭の中で再生する。VENOMの重低音、煙たい空気、青白いネオン。そして、黒い髪を揺らして踊る女。

『また連絡するわ。待っててね』

待っていていいのだろうか。待つべきではないのだろうか。そもそも、なぜあの女は自分に近づいてきたのか。

わからないことだらけだった。わかっているのはただ一つ、今夜何かが始まったということだけだ。それが何なのか、どこへ向かうのか、まだ何も見えない。

律は寝返りを打ち、壁のほうを向いた。そしてようやく意識が薄れていくのを感じながら、最後に一つだけ考えた。

あの女の目には、嘘があった。

でも、孤独は本物だった。

三日後の火曜日、律のスマートフォンが鳴った。

スタジオでの作業中だった。今日はインディーズバンドのレコーディングで、ドラムの音作りに難航していた。モニタールームの薄暗がりの中、ミキシングコンソールに向かっていた律は、バイブレーションに気づいて画面を確認した。

知らない番号——いや、見覚えがある。

霧生紗耶。

一瞬、心臓が跳ねた。それを自覚して、律は自分に苛立った。まるで高校生みたいだ。

電話には出られなかった。レコーディングの最中だ。着信は留守電に切り替わり、やがて沈黙した。

作業が一段落したのは、三時間後のことだった。バンドのメンバーが引き上げ、スタジオに静けさが戻る。律は冷めたコーヒーを一口飲んでから、スマートフォンを取り出した。

留守電は入っていなかった。代わりに、メッセージが一件。

『今夜、会えない? 西麻布の《ビロード》っていうバー。九時に。——紗耶』

律はそのメッセージを、何度か読み返した。短い文面に、感情の色は見えない。命令とも、懇願とも、誘惑ともつかない。ただ事実を伝えているだけの、乾いた文章。

返信すべきか、迷った。晴臣の言葉が頭をよぎる。『深入りしないほうがいいんじゃねえの?』

たぶん、そのとおりだ。あの女には近づかないほうがいい。本能がそう告げている。

それなのに、律の指は勝手に動いた。

『わかった。九時に』

送信ボタンを押してから、律は深いため息をついた。

自分は何をしているのだろう。

その問いに対する答えは、まだ見つからなかった。

西麻布の《ビロード》は、路地裏の雑居ビルの三階にあった。看板はなく、ただ真鍮のプレートに店名が刻まれているだけだ。知らなければ見過ごしてしまうような、隠れ家めいた佇まい。

エレベーターを降り、重い木の扉を押すと、薄暗い店内が広がった。カウンター席が八つ、奥にボックス席が三つ。壁は深い紫のベルベットで覆われ、間接照明が琥珀色の光を落としている。空気には葉巻の残り香とジャズピアノの旋律が漂い、VENOMとは対極の静謐さがあった。

紗耶は奥のボックス席にいた。

黒いワンピースに身を包み、髪を片側に流している。テーブルの上にはカクテルグラスが一つ。彼女は律に気づくと、軽く手を挙げた。その仕草は親しげでありながら、どこか儀礼的でもあった。

「来てくれたのね」

「呼ばれたから」

律は向かいの席に腰を下ろした。紗耶の香水が、VENOMで嗅いだのと同じ匂いだと気づく。薔薇と、煙草と、甘い何か。

「何を飲む?」

「ウイスキーでいい。ロックで」

紗耶がウェイターに目配せすると、すぐに注文が通った。常連なのだろう。この店の空気に、彼女は完璧に溶け込んでいた。

「仕事、終わったの?」

「ああ。レコーディングが長引いてな」

「大変ね、裏方さんは」

「そっちこそ、これから仕事じゃないのか」

紗耶の目が一瞬だけ揺れた。何かを測るような視線。

「よく知ってるわね」

「勘だよ。この時間にこんな場所にいて、これから夜の仕事があるんだろうと思っただけだ」

「正解。銀座のクラブで働いてるの。もうすぐ出勤」

「だったら、なぜ俺を呼んだ」

「会いたかったから」

紗耶はあっさりと言った。まるで天気の話をするように。

「会いたかったって、三日前に会ったばかりだろう」

「三日って長いわよ。知らないの? 恋は三日で芽が出て、七日で花が咲くって」

「誰の言葉だ、それは」

「私の。今作った」

紗耶は悪戯っぽく笑った。その笑顔は、VENOMで見せたどの表情よりも自然で、一瞬だけ年相応の若さが覗いた。

「あなたのこと、もっと知りたいの」

「知ってどうする」

「さあ。でも、知らないままでいるのは落ち着かないでしょう? 気になる相手のことは」

「俺は気にならないほうだ」

「嘘。あなた、あの夜からずっと私のこと考えてたでしょう。顔に書いてある」

律は反論しようとして、やめた。嘘をつけないのだから、つこうとするだけ無駄だ。

ウイスキーが運ばれてきた。律はグラスを手に取り、一口含んだ。スモーキーな香りが鼻腔を抜け、喉を熱くする。

「一つ聞いていいか」

「どうぞ」

「なぜ俺なんだ。あの店には男がいくらでもいた。もっと話がうまくて、金を持ってて、見た目もいいやつが。なのに、なぜ俺に声をかけた」

紗耶はしばらく黙っていた。カクテルグラスの縁を指先でなぞりながら、何かを考えている様子だった。

「最初は、本当にただの気まぐれだったの。あなたの目が面白かったから。周りを観察してる目。距離を置いて、分析してる目。この店に来る男って、みんなギラギラしてるのよ。欲望を隠そうともしないし、隠せてもいない。でもあなたは違った。欲望がないわけじゃないのに、それを自分でもよくわかってないみたいな顔をしてた」

「褒め言葉には聞こえないな」

「褒めてないもの。ただ、珍しかっただけ。それで近づいて、話してみたら、もっと面白かった。嘘をつけない人間って、本当にいるんだなって。私の周りには、嘘つきしかいなかったから」

「お前も嘘つきだと言っていただろう」

「ええ。だから余計に、あなたが珍しいの。自分にないものを持ってる人って、惹かれるじゃない? 磁石みたいに」

紗耶はカクテルを飲み干し、グラスをテーブルに置いた。その目が、不意に真剣な色を帯びた。

「ねえ、律。私とあなたは、たぶん正反対の人間よ。育った環境も、生き方も、価値観も。普通なら交わらない。でも、だからこそ試してみたいの。正反対の人間同士が近づいたら、何が起きるのか」

「実験台にされるのは御免だな」

「実験じゃないわ。賭けよ。お互いにとっての」

律は紗耶の目を見つめた。黒い瞳の奥に、あの夜と同じ光が揺れている。孤独の色。だがそれだけではない。何か切実なもの、必死に何かを求めているような、飢えた光。

「お前は何を賭けてるんだ」

「わからない。まだ決めてないの。でも、きっと大事な何か。あなたは?」

律は答えられなかった。自分が何を賭けているのか、まだ自分でもわかっていなかった。

「……考えさせてくれ」

「いいわ。でも、あまり長く待たせないでね。私、気が短いの」

紗耶は立ち上がり、小さなクラッチバッグを手に取った。

「今夜は出勤だから、ここまで。でも、また連絡する。今度はもっとゆっくり話しましょう」

「ああ」

紗耶は律の横を通り過ぎるとき、ふいに足を止めた。そして耳元に顔を近づけ、囁いた。

「言葉なんて信じないの、私。だから、言葉で私を口説こうとしないで。無駄だから」

その吐息が耳を撫で、律の背筋に微かな震えが走った。

「じゃあ、何を信じるんだ」

「行動。それと、身体」

紗耶はそれだけ言って、店を出ていった。

残された律は、溶けかけた氷の浮かぶウイスキーを見つめながら、長い時間そこに座っていた。

それから、二人は頻繁に会うようになった。

週に三度、四度。紗耶の出勤前のわずかな時間、あるいは深夜、彼女の仕事が終わった後。場所は決まっていなかった。西麻布のバー、渋谷のカフェ、新宿のラーメン屋。紗耶は意外にもラーメンが好きで、濃厚な豚骨スープを音を立ててすすった。その姿は、夜の蝶とは思えないほど無防備で、律はそのギャップに奇妙な親しみを覚えた。

会話は表面的なところから始まった。好きな映画、音楽、食べ物。紗耶はフランス映画を好み、特にゴダールの初期作品に傾倒していた。音楽はジャズとエレクトロニカの中間にあるような、輪郭の曖昧なものを好んだ。律が仕事で関わるロックやポップスには興味を示さなかったが、律の話す音作りの技術的な部分には熱心に耳を傾けた。

「周波数を削るっていうのは、彫刻に似てるのよね」

ある夜、律がイコライザーの話をしていると、紗耶がそう言った。

「彫刻?」

「余分なものを削って、本質を浮かび上がらせるって意味で。ミケランジェロが言ったでしょう、大理石の中にはすでに像があって、自分はそれを掘り出しているだけだって」

「よく知ってるな」

「昔、美大に行こうとしてたの。結局、行かなかったけど」

「なぜ」

紗耶は曖昧に笑った。

「いろいろあって。人生って、思い通りにいかないものでしょう」

彼女は自分の過去についてはほとんど語らなかった。断片的な情報——地方の出身であること、東京に出てきて五年ほど経つこと、家族とは疎遠であること——それくらいしか律は知らなかった。深く聞こうとすると、紗耶は巧みに話題を逸らした。まるで、自分の周りに見えない壁を築いているように。

だが、身体の距離は急速に縮まっていった。

きっかけは些細なことだった。十二月に入った頃、二人で六本木を歩いていたとき、紗耶が躓いた。ハイヒールの踵が側溝の蓋に引っかかったのだ。律は咄嗟に彼女の腕を掴み、支えた。

「大丈夫か」

「ええ、ありがとう……」

紗耶は律の腕に手を置いたまま、動かなかった。見上げてくる目が、いつもと違う色をしていた。

「ねえ、律」

「何だ」

「触って」

「今、触ってるだろう」

「そうじゃなくて。もっと」

律は紗耶の意図を理解した。理解して、身体が強張った。

「ここは道の真ん中だ」

「だから?」

「人が見てる」

「見せてあげればいいじゃない」

紗耶は律の手を取り、自分の頬に当てた。冷たい夜気に晒された肌は、思いのほか温かかった。

「私のこと、欲しくないの?」

律は答えられなかった。欲しいか欲しくないかと問われれば、欲しい。それは認めざるを得ない。だが、この女をただ欲望の対象として見ることへの抵抗感が、律の中にはあった。

「欲しいかどうかの問題じゃない」

「じゃあ、何の問題?」

「お前のことを、まだよく知らない」

紗耶は目を細めた。その表情は、微笑みとも、嘲りとも、悲しみともつかなかった。

「知ってどうするの。知ったら、私のことが好きになる? それとも嫌いになる? 私はね、律、どっちでもいいの。好きでも嫌いでも。ただ、今、あなたの傍にいたい。それだけ」

「なぜだ」

「理由なんてないわ。あったとしても、言葉にできない。言葉にした瞬間、嘘になるから」

紗耶は律の手を頬から外し、代わりに唇に押し当てた。指先に、柔らかい感触。温かい吐息。

「言葉なんていらないの。身体があれば、それでいい。身体は嘘をつかないから」

その夜、律は初めて紗耶を自分のアパートに連れて帰った。

狭い六畳間に二人でいると、空気が濃密になった。

紗耶は部屋の中を見回し、壁に立てかけてあるギターに目を留めた。

「弾くの?」

「昔は」

「今は?」

「触ってない。五年くらい」

紗耶はギターに近づき、指先でそっとネックを撫でた。その仕草は愛撫に似ていた。

「弾いてよ」

「だから、もう弾かないって——」

「一曲だけ。お願い」

その声には、普段の挑発的な響きがなかった。純粋な懇願。律は抵抗する理由を見つけられず、ギターを手に取った。

久しぶりに抱えるストラトキャスターは、記憶よりも重かった。弦に指を置くと、指先の皮が薄くなっていることに気づく。昔は硬く厚かったはずの、ギター弾きの指がもうない。

何を弾くべきか迷い、結局、即興で弾くことにした。コードを適当につなぎ、メロディを紡ぐ。最初はぎこちなかったが、次第に指が思い出していく。身体に染み込んだ記憶が、意識を追い越して動き出す。

五分ほど弾いて、手を止めた。

紗耶は目を閉じて聴いていた。まつ毛が微かに震えている。

「なぜ、やめたの」

「才能がなかったから」

「嘘。今の演奏、素敵だった」

「素敵なのと、才能があるのは違う。俺は、その違いがわかるくらいには、音楽をやってきた」

律はギターを元の場所に立てかけた。

「プロになるには、素敵なだけじゃ足りないんだ。圧倒的に上手くて、圧倒的に個性的で、圧倒的に運がないと。俺にはどれもなかった」

「でも、好きだったんでしょう? 音楽」

「好きだった。今でも好きだ。だから裏方をやってる。好きなものの近くにいたいから」

紗耶は何も言わずに、律に近づいた。そして、彼の胸に頭を預けた。

「私も、そうなのかもしれない」

「何が」

「好きなものの近くにいたいって気持ち。でも、私の場合は、近づきすぎると壊してしまうの。いつも」

律は紗耶の髪の匂いを嗅いだ。薔薇と、煙草と、甘い香水。それに混じって、彼女自身の匂い。汗と、肌と、生きている人間の匂い。

「何を壊してきたんだ」

「いろいろ。全部」

紗耶は顔を上げ、律を見つめた。その目には涙が滲んでいた。

「ねえ、律。私、あなたのことも壊すかもしれない。それでもいい?」

律は答える代わりに、紗耶の唇に自分の唇を重ねた。

柔らかく、温かく、かすかにアルコールの味がした。紗耶は一瞬だけ身体を強張らせ、それからゆっくりと力を抜いた。腕が律の首に回り、身体が密着する。

キスは長く続いた。言葉の代わりに、互いの温度と感触を確かめ合うように。

唇を離したとき、紗耶の目から涙が一筋、頬を伝った。

「泣いてるのか」

「わからない。たぶん」

「なぜ」

「わからない。たぶん、嬉しいのかもしれない。久しぶりに、言葉じゃないもので誰かと繋がれた気がして」

律は紗耶の涙を指で拭った。彼女の肌は、思っていたよりも温かかった。

「好きだ」

その言葉は、意図せずに口から零れた。言ってから、しまった、と思った。紗耶は言葉を信じないと言っていたのに。

だが紗耶は、首を横に振った。

「言わないで」

「もう言った」

「じゃあ、もう二度と言わないで。その言葉は、嘘になるから。いつか必ず」

「なぜそう思う」

紗耶は答えなかった。代わりに、再び律の唇を塞いだ。

その夜、二人は初めて身体を重ねた。

紗耶の身体は律の想像よりも細く、骨の形がはっきりとわかった。肌は白く滑らかで、ところどころに小さな傷跡があった。それが何の傷なのか、律は聞かなかった。聞いても、彼女は答えないだろうと思ったから。

行為の最中、紗耶は目を開けていた。律をまっすぐに見つめ、何かを確かめるように。その視線には、快楽とは別の感情が混じっていた。恐れ、あるいは祈り。何かを失うことへの怯え。

終わった後、二人は狭いベッドに並んで横たわった。紗耶は律の胸に頭を乗せ、指先で彼の鎖骨をなぞっていた。

「ねえ」

「何だ」

「私のこと、何も聞かないのね」

「聞いても答えないだろう」

「そうね。でも、聞かれないのも、ちょっと寂しい」

「じゃあ、聞いていいか」

「何を?」

律は少し考えてから、言った。

「お前は、何を求めてるんだ。俺に」

紗耶は長い間黙っていた。その沈黙の中で、遠くを走る電車の音が聞こえた。深夜の終電だろうか。それとも、始発を待つ回送車両か。

「わからないの」

やがて、紗耶は言った。

「最初は、本当にただの気まぐれだった。でも今は、もうよくわからない。あなたの傍にいると、安心するの。それと同時に、怖い。すごく怖い。自分が何をしでかすか、わからなくなる」

「俺と一緒にいることで?」

「そう。あなたは嘘をつけない人でしょう。私は嘘しかつけない。そういう二人が一緒にいたら、きっとどちらかが壊れる。それはたぶん、私のほう」

「なぜお前のほうなんだ」

「だって、私のほうが、もう壊れかけてるから」

紗耶は身体を起こし、律を見下ろした。裸の肩が、窓から差し込む街灯の光に照らされて白く浮かび上がっている。

「私のことを知らないでいてほしいの。知れば知るほど、あなたは私から離れていく。そうなったら、私は耐えられない。今はまだ、あなたが傍にいてくれるから、どうにか正気を保っていられるの」

「何を言ってるんだ」

「わからないわよね。わからなくていいの。ただ、今はこうしていて。何も聞かないで、何も考えないで。ただ、私を抱いていて」

紗耶は再び律の胸に身を沈めた。その身体が微かに震えているのを、律は感じた。

律は何も言わなかった。言葉を発することが、今は適切ではない気がした。代わりに紗耶の背中に腕を回し、強く抱きしめた。

外では雨が降り始めていた。窓ガラスを叩く雨音が、二人の沈黙を埋めていく。

律は天井を見つめながら、考えていた。この女は何者なのか。何を抱えているのか。なぜ、こんなにも脆く、こんなにも危うく見えるのか。

知りたいと思った。同時に、知ることへの恐れも感じた。知ってしまえば、取り返しがつかない何かが始まる。そんな予感があった。

でも、もう遅いのかもしれない。

この女に触れた瞬間から、何かは既に始まっていたのだ。

第2章 卑猥な距離

年が明けた。

一月の東京は、乾いた冷気に包まれていた。空は毎日のように灰色に曇り、太陽はぼんやりとした光の染みとして、雲の向こうに隠れている。街を歩く人々は厚いコートに身を包み、白い息を吐きながら足早に過ぎていく。

律と紗耶の関係は、奇妙な形で安定していた。

週に四度、五度と会い、律の部屋で夜を過ごす。紗耶は仕事が終わると律のアパートにやってきて、シャワーを浴び、律のTシャツを借りて眠った。朝になると、彼女は何も言わずに出ていき、夜にまた戻ってくる。その繰り返しが、いつの間にか日常になっていた。

会話は増えなかった。むしろ、言葉は少なくなっていった。二人は同じ部屋にいながら、それぞれ別のことをしていることが多かった。律は仕事の資料を読み、紗耶は雑誌をめくったり、スマートフォンを眺めたりしている。ときどき目が合うと、どちらからともなく微笑む。それだけで十分だった。少なくとも、律はそう思っていた。

だが、何かが欠けている感覚は消えなかった。

紗耶の過去。紗耶の本当の姿。紗耶が何を考え、何を求めているのか。それらは依然として霧の中にあり、律がいくら手を伸ばしても掴めなかった。紗耶は身体を許しながら、心には鍵をかけていた。その鍵穴がどこにあるのか、律には見当もつかなかった。

ある夜、律は意を決して聞いた。

「お前の家族のことを、教えてくれないか」

紗耶はベッドの上で身を起こし、律を見た。その目に、警戒の色が浮かぶ。

「どうして急に」

「急じゃない。ずっと気になってた。お前は俺のことをいろいろ聞くのに、自分のことは何も話さない」

「話すことがないの」

「嘘だろう。誰にだって、話すべきことはある。家族、故郷、子供の頃のこと。お前だって例外じゃないはずだ」

紗耶は長い髪を指で梳きながら、視線を逸らした。

「私には、家族と呼べる人はいないわ。母は私が小さい頃に出ていって、父は——」彼女は言葉を切り、深く息を吸った。「父は、私が十五のときに死んだ。酒の飲み過ぎで肝臓を壊して」

「悪かった。聞くべきじゃなかったな」

「いいの。事実だから」

紗耶はようやく律のほうを向いた。その目は乾いていて、感情の色が見えなかった。

「姉がいたの」

「姉?」

「ええ。双子の。私より三分だけ早く生まれた、姉が」

律は黙って聞いていた。紗耶が自分から過去を語るのは、初めてのことだった。

「姉は私と違って、才能があった。絵が上手くて、歌も上手くて、誰からも好かれた。私はいつも姉の影だった。同じ顔をしているのに、姉のほうが輝いていて、私はただの複製品みたいで。でも、嫌いじゃなかった。姉のことは、本当に好きだった。世界で一番」

「今はどこにいるんだ、そのお姉さんは」

紗耶は答えなかった。代わりに、窓の外を見た。外では雪がちらついている。白い粒子が街灯の光に照らされて、ゆっくりと落ちていく。

「死んだわ。三年前に」

律は言葉を失った。

「……どうやって」

「飛び降りたの。マンションの屋上から。遺書があった。『あなたの嘘に殺された』って」

「誰に宛てた遺書だ」

紗耶は律を見た。その目に、初めて明確な感情が浮かんだ。怒り。憎しみ。そして、深い悲しみ。

「それは、まだ言えない。いつか話すかもしれないけど、今は無理」

「……わかった」

律はそれ以上聞かなかった。聞いてはいけないと、本能が告げていた。

紗耶はベッドを降り、窓辺に立った。裸の背中に、外からの光が薄く当たっている。肩甲骨の形がくっきりと浮かび上がり、脊椎の凹凸が一つひとつ数えられそうだった。

「私がこの街に来たのは、姉が死んでからなの。姉のことを忘れたくて、でも忘れられなくて。姉の影を追いかけるように、姉がいた場所を転々として。そして、この仕事に就いた」

「銀座のクラブか」

「ええ。姉も同じ店で働いてたことがあるの。私が店を選んだわけじゃない。偶然よ。でも、運命みたいなものを感じた。姉の足跡を辿ってるんだって」

紗耶は振り返り、律に近づいた。そして、彼の膝の上に座り、額を彼の額に押し当てた。

「ねえ、律。私はたぶん、普通の恋愛はできない。私の中には姉の影がいて、いつも私を見張ってる。私が幸せになろうとすると、姉が悲しむ気がするの。姉だけが死んで、私だけが幸せになるなんて、許されない気がして」

「それはお前の思い込みだろう」

「思い込みでも、消えないの。三年経っても。たぶん、一生消えない」

紗耶は律の唇に軽くキスをした。

「だから、あなたには期待しないで。私は、あなたを幸せにできない。私にできるのは、こうして傍にいることだけ。それでいいなら、一緒にいて。でも、それ以上を求めるなら——」

「求めない」

律は紗耶の言葉を遮った。

「求めないよ。お前がここにいてくれるなら、それでいい。過去のことも、これからのことも、今は考えなくていい」

紗耶の目に、涙が滲んだ。だが、こぼれる前に彼女はまばたきをして、それを押し戻した。

「ありがとう」

「何が」

「嘘をつかないでいてくれて」

その夜、二人は長い時間抱き合っていた。身体を重ねることもなく、ただ互いの体温を感じながら。外では雪が降り続き、やがて街は白く染まっていった。

一月の終わり、律のスタジオに新しい仕事が入った。

「来週から、十文字奏じゅうもんじ かなでのレコーディングが始まる」

マネージャーの祢津芹香ねづ せりかが、そう告げた。三十歳、ショートカットにべっ甲のメガネ、いつもパンツスーツを着崩している女だ。サバサバした性格で、律の数少ない理解者の一人だった。

「十文字奏? あの十文字奏か」

「他にいる? 三年ぶりの復帰作だって。うちみたいな小さいスタジオを選んでくれたの、光栄じゃん」

十文字奏。その名前を聞いた瞬間、律の中で何かが引っかかった。

「三年前に何かあったよな、あの人」

「あったっていうか……知らないの? 当時けっこう騒がれたんだけど。十文字のミューズって呼ばれてた女の子が自殺したの。それで十文字は表舞台から消えて、ずっと引きこもってたらしい」

「ミューズ……」

霧生彩夜きりゅう あやって子。モデルやってて、十文字の恋人だったんだって。マンションの屋上から飛び降りて、遺書に『あなたの嘘に殺された』って書いてあったとかで。週刊誌がすごかったよ、当時」

律の心臓が、一拍だけ止まった。

霧生。

彩夜。

紗耶の言葉が、脳裏に蘇る。

『姉がいたの。双子の』

『死んだわ。三年前に。飛び降りたの。遺書があった。あなたの嘘に殺されたって』

偶然だろうか。霧生という姓は珍しくない。だが——。

「芹香さん、その霧生彩夜って、どんな人だったんだ」

「え? なんで急に」

「いや、ちょっと気になって」

芹香は怪訝な顔をしたが、スマートフォンを取り出してネットを検索した。

「えーと……モデルとしてデビューして、十文字のアルバムジャケットやMVに出演、二十二歳で自殺……写真、見る?」

芹香がスマートフォンの画面を見せた。

そこに映っていたのは、紗耶だった。

正確には、紗耶によく似た女だった。同じ黒い髪、同じ切れ長の目、同じ唇の形。だが、雰囲気は違っていた。紗耶が夜の闇なら、彩夜は朝の光だった。柔らかく、儚げで、今にも消えてしまいそうな透明感がある。

「どうしたの? 顔色悪いよ」

「……いや、何でもない」

律は平静を装ったが、頭の中は嵐のように乱れていた。

紗耶の姉は、十文字奏の恋人だった。そして、十文字のせいで死んだ。少なくとも、遺書にはそう書かれていた。

では、紗耶は——。

紗耶は、十文字のことを知っているのか。知っていて、何かを企んでいるのか。

そして、律に近づいたのは——。

「ねえ、聞いてる?」

芹香の声で、律は我に返った。

「ああ、悪い。何だった?」

「だから、来週からスタジオ押さえるから、スケジュール空けといてねって。十文字のレコーディング、たぶん長くなるから」

「……わかった」

その夜、律は紗耶に会わなかった。

体調が悪いと嘘をつき、一人で部屋にいた。ベッドに横たわり、天井を見つめながら、頭の中で情報を整理しようとした。だが、思考はまとまらなかった。

紗耶が十文字のことを知っている可能性は高い。姉を殺した——直接ではないにせよ——男の名前を、知らないはずがない。

では、なぜ紗耶は律に近づいたのか。偶然か。それとも——。

『tone-lag』で十文字のレコーディングが行われることを、紗耶は知っていたのか。

律の中で、疑念が渦を巻いた。

もしかしたら、自分は最初から利用されていたのかもしれない。紗耶にとって律は、十文字に近づくための道具だったのかもしれない。

それなら、あの夜の涙は何だったのか。身体を重ねたときの、あの震えは何だったのか。

本物だと信じたかった。信じたいと思っていた。だが、今は何も確信が持てなかった。

律はスマートフォンを手に取り、紗耶の番号を見つめた。電話をかけて、直接問いただすべきだろうか。それとも、もう少し情報を集めてからにすべきか。

迷った末に、律は電話をかけなかった。

代わりに、ネットで「霧生彩夜」を検索した。三年前の記事が、いくつも出てきた。ゴシップ誌の扇情的な見出し、テレビのワイドショーの文字起こし、週刊誌の憶測記事。どれも信頼性は低かったが、いくつかの事実は一致していた。

霧生彩夜は十文字奏の恋人だった。十文字のミューズと呼ばれ、彼のアルバムに深く関わっていた。だが二人の関係は次第に悪化し、十文字が別の女性と関係を持ったことが彩夜に知られた。その直後、彩夜は自殺した。遺書には「あなたの嘘に殺された」と書かれていた。

十文字は事件後、表舞台から姿を消した。レーベルとの契約も解消され、一時は自殺説まで流れた。だが三年経った今、復帰を決意したらしい。それが、『tone-lag』でのレコーディングだった。

律は画面を閉じ、目を閉じた。

紗耶は復讐を企んでいるのかもしれない。姉を殺した男への、復讐を。そして律は、その復讐の駒として使われているのかもしれない。

だとしても——。

だとしても、律は紗耶を嫌いになれなかった。

彼女の孤独は本物だった。彼女の悲しみも、彼女の震えも、彼女の涙も。それだけは、嘘ではなかったと信じたかった。

律は寝返りを打ち、壁のギターを見た。五年間触れなかった楽器が、薄暗がりの中で沈黙している。

愛はジャックナイフだ。普通じゃない。苦痛じゃない。でも、夢中で恋すれば——。

渦中に落ちれば、どうなる。

答えは、まだ見えなかった。

翌日、律はスタジオに向かう前に、紗耶に連絡を取った。

『今夜、会えるか。話したいことがある』

返事はすぐに来た。

『いいわよ。どこで?』

『俺の部屋で』

『わかった。十時に行く』

その日の仕事は、ほとんど手につかなかった。ミキシングコンソールに向かいながら、律の頭の中では別の音が鳴り続けていた。紗耶の声、紗耶の言葉、紗耶の沈黙。それらが不協和音のように重なり合い、一つの疑問を形作っていく。

お前は、俺を利用しているのか。

その問いを口にしたとき、紗耶がどんな顔をするのか。律は想像しようとして、できなかった。彼女の表情は、いつも予測を裏切った。笑うべきところで泣き、泣くべきところで笑う。まるで感情の配線が、普通とは違う場所に繋がっているかのように。

「律くん、大丈夫? さっきから上の空じゃん」

芹香の声が、律を現実に引き戻した。

「ああ、悪い。ちょっと寝不足で」

「無理しないでよ。来週から十文字のレコーディング始まるんだから、体調崩されたら困るし」

十文字。その名前を聞くたびに、胸の奥がざわついた。

「芹香さん、十文字奏って、どんな人なんだ。会ったことあるのか」

「私? ないよ、直接は。でも、昔から音楽は聴いてた。才能あるよね、あの人。曲も詞も自分で書くし、プロデュースもできるし。ただ……」

「ただ?」

芹香は少し言いにくそうに、メガネの位置を直した。

「なんていうか、噂はいろいろあるのよ。女癖が悪いとか、スタッフに当たり散らすとか。天才肌の人にありがちなやつ。あの自殺事件の後は、さすがに大人しくなったみたいだけど」

「そうか」

「なんで? 気になる?」

「いや、仕事相手のことは知っておいたほうがいいと思っただけだ」

芹香は納得したように頷いたが、その目にはまだ疑問の色が残っていた。律は視線を逸らし、コンソールに向き直った。

十時を少し過ぎた頃、紗耶が律の部屋にやってきた。

黒いカシミアのコートに身を包み、髪は一つに束ねている。化粧はいつもより薄く、どこか疲れた顔をしていた。

「寒くなったわね」

玄関で靴を脱ぎながら、紗耶は言った。

「ああ。コーヒー、飲むか」

「お願い」

律は小さなキッチンに立ち、コーヒーを淹れた。豆を挽く音、湯が沸く音、カップに注ぐ音。その一つひとつが、妙に大きく聞こえた。沈黙が重かったからだ。

二人はローテーブルを挟んで向かい合い、コーヒーを啜った。紗耶は両手でカップを包み込むようにして、湯気を顔に当てていた。その仕草は、寒がりの猫のようだった。

「話って、何?」

紗耶が先に口を開いた。

律は一度深呼吸をして、それから聞いた。

「霧生彩夜という名前を、知っているな」

紗耶の手が、一瞬だけ止まった。それは本当に一瞬のことで、すぐに元の動きを取り戻した。だが律は、その微かな揺れを見逃さなかった。

「……どこで聞いたの、その名前」

「仕事で。来週から、十文字奏のレコーディングがうちのスタジオで始まる」

紗耶の目が、わずかに見開かれた。だが、それもすぐに元に戻った。彼女は表情を作るのが上手かった。何千回と嘘をついてきた人間だけが持つ、滑らかな仮面。

「そう。偶然ね」

「偶然か?」

律の声に、初めて鋭さが混じった。

「何が言いたいの」

「お前の姉は、十文字奏の恋人だった。そして、十文字のせいで死んだ。違うか」

紗耶は答えなかった。カップをテーブルに置き、律をまっすぐに見つめた。その目は、夜の海のように暗く、深かった。

「違わないわ」

「なら、聞かせてくれ。お前が俺に近づいたのは、最初から——」

「最初から、十文字に近づくためだったのかって?」

紗耶は律の言葉を先取りした。その声は平坦で、感情の色がなかった。

「そうだとしたら、どうするの」

「どうもしない。ただ、知りたいだけだ」

「嘘。怒ってるでしょう。利用されたって感じてる」

律は否定しなかった。否定できなかった。

紗耶は小さくため息をついた。それは疲労のため息であり、諦めのため息でもあった。

「最初は、そうだった」

その言葉が、律の胸に突き刺さった。予想していた答えだったのに、実際に聞くと、思った以上に痛かった。

「VENOMで見かけたとき、あなたが『tone-lag』で働いてることは知ってた。十文字が復帰するって噂は、業界ではちらほら流れてたの。どのスタジオを使うかまでは分からなかったけど、小さくて信頼できるところを選ぶだろうって予想はできた。『tone-lag』は候補の一つだった。だから、あなたに近づいた」

「それで、復帰作が『tone-lag』に決まったから、俺との関係を続けた」

「そう」

紗耶は淡々と認めた。まるで他人事のように。

「お前は最初から、俺を道具として見ていたのか」

「そうよ。最初は」

「最初は?」

紗耶は目を伏せた。長いまつ毛が、頬に影を落としている。

「今は違うの。自分でも、いつから変わったのかわからない。でも、気づいたら、あなたのことを考えている時間が増えていた。十文字への復讐よりも、あなたと過ごす時間のほうが大事になっていた。それは、嘘じゃない」

「信じろと?」

「信じなくていい。私は嘘つきだから。でも、これだけは本当。あなたの前では、嘘をつきたくなかった。つけなかった。あなたが嘘をつけない人だから、私も——」

紗耶の声が震えた。

「私も、あなたの前でだけは、本当の自分でいたかったの。姉の影じゃなく、復讐の道具じゃなく、ただの私として」

律は黙って聞いていた。紗耶の言葉が本当かどうか、判断がつかなかった。彼女は嘘をつくのが上手い。それは本人も認めていることだ。今この瞬間も、彼女は完璧な演技をしているのかもしれない。

だが、彼女の震える声を聞いていると、嘘だとは思えなかった。少なくとも、すべてが嘘だとは。

「復讐というのは、何を企んでいるんだ」

「……言わなきゃだめ?」

「聞きたい」

紗耶は長い沈黙の後、話し始めた。

「姉は、十文字に殺されたも同然なの。直接手を下したわけじゃない。でも、姉を追い詰めたのは十文字よ。姉は十文字を愛していた。本気で、狂おしいほど。でも十文字は、姉を消費品としか見ていなかった。才能を搾り取って、飽きたら捨てる。姉が精神的に不安定になっても、十文字は向き合わなかった。別の女に逃げた。姉はそれを知って、壊れた」

紗耶の声に、押し殺した怒りが滲んでいた。

「私は姉の日記を持ってるの。姉が最後の数ヶ月間、何を考え、何を感じていたか、全部書いてある。十文字がどれだけ姉を傷つけたか、証拠が残ってる。復帰ライブの日に、それを公開しようと思っていた。十文字が華々しく戻ってきた瞬間に、彼がどんな人間か、世間に知らしめようと」

「それで、十文字のキャリアを潰す」

「そうよ。姉の命と引き換えに手に入れた名声なんて、許されるわけがない」

律は紗耶の目を見た。そこには、三年間溜め込んできた憎悪が、暗い炎のように燃えていた。この女は本気だ、と律は思った。姉のために、自分の人生を捧げる覚悟がある。

「俺に、何をさせようとしていた」

「最初は、情報が欲しかっただけ。十文字のスケジュールとか、スタジオでの様子とか。近づくための手がかり」

「それだけか」

「今のところは。でも、もしあなたが協力してくれるなら——」

「協力しない」

律はきっぱりと言った。

紗耶の顔が、一瞬だけ歪んだ。失望、怒り、悲しみ。それらが混ざり合って、すぐに消えた。

「……そうよね。当然よね。私に利用されてたって知って、それでも協力するわけがない」

「違う。そういう意味じゃない」

律は立ち上がり、窓辺に歩いていった。外は暗く、街灯の光が雪に反射して、かすかに青白く光っている。

「俺が協力しないのは、お前のためだ」

「私のため?」

「お前が十文字を潰しても、姉は戻ってこない。そして、お前自身も壊れる。復讐なんてものは、成功しても失敗しても、復讐する側を蝕む。俺はそれを見たくない」

「きれいごとね」

「きれいごとでも、本心だ」

律は振り返り、紗耶を見た。

「俺はお前を利用されていた道具だと思いたくない。お前が俺に見せてくれたもの——身体だけじゃなく、孤独や悲しみや、時々見せる笑顔——それが全部演技だったなんて思いたくない。だから、俺はお前を信じたい。信じたいんだ」

紗耶の目に、涙が浮かんだ。

「どうして。私を恨んでもいいのに。怒ってもいいのに」

「恨んでるよ。怒ってもいる。でも、それ以上に——」

律は言葉を切った。言うべきか、言わざるべきか、一瞬だけ迷った。だが、嘘はつけない。

「それ以上に、お前のことが好きだ。それは変わらない」

紗耶の涙がこぼれた。彼女は顔を手で覆い、声を殺して泣いた。律は近づき、彼女の傍に座った。肩を抱くべきか迷ったが、結局、触れなかった。今、彼女に必要なのは慰めではない。時間だ。自分自身と向き合う時間。

しばらくして、紗耶は顔を上げた。目は赤く腫れ、化粧は崩れていたが、どこか晴れやかな表情をしていた。憑き物が落ちたような、軽さがあった。

「私、最低ね」

「そうだな」

「慰めてくれないの」

「嘘はつけないからな」

紗耶は泣き笑いの顔をした。

「ねえ、律。私、どうしたらいいの。三年間、復讐のことしか考えてこなかった。それがなくなったら、何を支えに生きていけばいいかわからない」

「復讐をやめろとは言ってない。ただ、やり方を変えろと言ってるんだ」

「やり方?」

律は少し考えてから、言った。

「十文字に、直接会え」

「会って、どうするの」

「話をしろ。彩夜さんのことを。お前の気持ちを。ぶつけてこい、全部。日記を公開するのは、その後でもいい」

紗耶は困惑した顔をした。

「そんなことして、何になるの。十文字が謝るとでも思う? 反省するとでも?」

「わからない。でも、少なくとも、お前は自分の言葉で伝えられる。姉のために、自分のために。それは、日記を公開するのとは違う意味を持つ」

紗耶は長い間黙っていた。律の言葉を、頭の中で何度も噛み砕いているようだった。

「……考えさせて」

やがて、彼女は言った。

「今すぐには決められない。でも、あなたの言うことは、わかる気がする」

「ああ。急がなくていい」

律は紗耶の手を取った。冷たい指先が、少しだけ震えていた。

「俺はお前の味方だ。それだけは、忘れないでくれ」

紗耶は何も言わずに、律の胸に顔を埋めた。彼女の髪から、いつもの薔薇の香りがした。その匂いを嗅ぎながら、律はふと思った。

自分は何をしているのだろう。利用されていたと知って、それでもこの女を抱きしめている。馬鹿げている。どう考えても、馬鹿げている。

だが、離れられなかった。

この女の孤独が、自分の孤独と響き合っていた。二つの孤独が触れ合うとき、そこに生まれるのは倍の孤独ではなく、何か別のものだった。それが何なのか、律にはまだ名前をつけられなかった。

愛と呼ぶには、まだ早い気がした。

でも、それに近い何かであることは、確かだった。

第3章 嫉妬の数量

二月に入り、十文字奏のレコーディングが始まった。

初日、スタジオに現れた十文字を見たとき、律は奇妙な感覚を覚えた。雑誌やネットで見ていた華やかなイメージとは、まるで違う人物がそこにいた。

三十六歳。かつては長髪がトレードマークだったが、今は短く刈り込まれている。頬はこけ、目の下には深い隈があった。高価そうなジャケットを着ているが、身体が服に負けている印象だった。全体的に、萎れた花のような雰囲気。かつての輝きを、どこかに置いてきてしまったような。

「よろしくお願いします。十文字です」

挨拶の声は穏やかで、傲慢さは感じられなかった。芹香が言っていた「女癖が悪い」「スタッフに当たり散らす」という噂は、少なくとも今の彼からは想像できなかった。

「椎堂です。エンジニアを担当します」

律は事務的に答えた。声に感情を乗せないように気をつけた。目の前にいるのは、紗耶の姉を死に追いやった男だ。だが、それを態度に出すわけにはいかない。

十文字は律をじっと見た。その目には、何かを探るような光があった。

「椎堂さんは、この仕事、長いんですか」

「五年ほどです」

「五年。僕が表舞台を離れてた間くらいですね」

十文字は自嘲気味に笑った。

「三年も離れてると、浦島太郎みたいな気分ですよ。業界の空気も変わったし、自分の立ち位置もわからない。でも、音楽を作りたいって気持ちだけは、消えなかった」

律は何も言わなかった。相槌を打つのも、反論するのも、どちらも適切ではない気がした。

レコーディングは順調に進んだ。十文字は確かに才能があった。ギターの腕は確かだし、歌声には独特の陰りがあって、聴く者の心を掴む力があった。三年のブランクを感じさせない、というのは嘘になるが、それでも一流のミュージシャンであることは間違いなかった。

だが、律は十文字から目を離せなかった。彼の一挙手一投足を観察し、言葉の端々に耳を澄ませた。この男がどんな人間なのか、紗耶の姉をどう扱ったのか、その片鱗でも見えないかと。

数日が過ぎた頃、休憩時間に十文字が律に話しかけてきた。

「椎堂さん、コーヒー飲みます?」

スタジオの片隅にある小さな休憩スペースで、二人は向かい合った。安っぽい紙コップに入ったインスタントコーヒーは、お世辞にも美味いとは言えなかったが、十文字は美味そうに飲んでいた。

「いい音作りますね、椎堂さん。僕の意図を汲んでくれるっていうか、こちらが言葉にする前に、求めてるものを出してくる」

「ありがとうございます。でも、これが仕事なので」

「謙遜しなくていいですよ。こういう仕事こそ、才能が要るんです。僕は裏方の人たちに支えられて、ここまでやってこれた。そのことは、よくわかってるつもりです」

十文字の言葉には、嘘の響きがなかった。少なくとも、表面的には。だが律は、この男の言葉を額面通りに受け取る気になれなかった。

「十文字さんは、なぜ三年も離れていたんですか」

思い切って聞いてみた。十文字の目が、一瞬だけ揺れた。

「……知ってますよね、たぶん。ネットを調べれば、いくらでも出てくるでしょうし」

「ええ。でも、ネットの情報は信用できない。本人から聞きたかったんです」

十文字はコーヒーを一口飲み、窓の外を見た。曇り空の向こうに、新宿の高層ビルがかすんで見えている。

「彩夜が死んだからです。僕の——恋人だった女性が」

「恋人」

「ええ。僕のミューズでした。彼女がいなければ、僕の音楽は半分も成立しなかった。でも、僕は彼女を守れなかった。守ろうとさえしなかった」

十文字の声は低く、平坦だった。感情を押し殺しているというよりは、何度も繰り返し語ることで、言葉から感情が抜け落ちてしまったような響きがあった。

「彼女は繊細な人でした。傷つきやすくて、不安定で。でも、だからこそ美しかった。僕はその美しさに惹かれて、同時に、その脆さに耐えられなくなった。逃げたんです、僕は。別の女に。彩夜にはそれがわかった。わかって、壊れた」

「後悔していますか」

「後悔なんて言葉で片づけられないですよ。毎日、彼女のことを考えます。彼女が最後に何を思っていたか、僕に何を伝えたかったか。でも、答えは出ない。永遠に出ない。それが、僕への罰なんだと思います」

律は黙って聞いていた。十文字の言葉が本心かどうか、判断がつかなかった。だが、彼の目に浮かんでいる影が、演技だとは思えなかった。この男は確かに苦しんでいる。三年間、自分の罪と向き合い続けてきた。それは事実だろう。

だが、それで紗耶の姉が戻ってくるわけではない。

「双子の妹がいたんです、彩夜には」

十文字が、ふいに言った。

律の心臓が、一拍だけ速く打った。

「妹……」

「紗耶という名前です。彩夜とそっくりな顔をしていて、でも、雰囲気は全然違った。彩夜が朝の光なら、紗耶は夜の闇。僕は彩夜が死んでから、紗耶にも会おうとした。謝りたかったんです。でも、彼女は僕を避けた。当然ですよね。姉を殺した男に会いたいはずがない」

「今は、どこにいるんですか。その妹さんは」

「わかりません。連絡先も知らないし、探しようもない。でも、いつか会えたら、直接謝りたいと思っています。それが許されることかどうかは、わかりませんけど」

十文字は立ち上がり、紙コップをゴミ箱に捨てた。

「すみません、余計なことを話しました。仕事に戻りましょう」

十文字が去った後、律はしばらくその場に座っていた。頭の中で、情報が渦を巻いている。

十文字は紗耶の存在を知っている。会って謝りたいと思っている。だが、紗耶は十文字を避け、復讐を企んでいる。

この二人を会わせたら、何が起きるのか。

律にはわからなかった。だが、このままではいけないという思いが、強くなっていた。紗耶は復讐に囚われている。十文字は罪悪感に押し潰されそうになっている。二人とも、過去に足を取られて、前に進めないでいる。

誰かが、その糸を解きほぐさなければならない。

その役目を負うのは、自分しかいないのかもしれない。

その夜、律は紗耶に十文字のことを話した。

「十文字は、お前に会いたがっている」

紗耶は顔をこわばらせた。

「会って、何をするつもり? 謝るの? 今さら?」

「そうだと思う。少なくとも、そう言っていた」

「謝れば済むと思ってるの? 姉を殺しておいて、謝れば許されると?」

紗耶の声には、押し殺した怒りが滲んでいた。拳が握りしめられ、爪が掌に食い込んでいる。

「許せとは言ってない。ただ、会ったほうがいいと思う」

「なぜ」

「お前が前に進むためだ」

紗耶は律を睨んだ。だが、その目には怒りだけでなく、困惑もあった。

「前に進むって、どういう意味」

「お前は三年間、復讐だけを支えに生きてきた。でも、そのやり方では、いつまでも姉の死に縛られたままだ。十文字を潰しても、お前の中の傷は癒えない。もっと深くなるだけだ」

「じゃあ、どうしろっていうの。許せっていうの? 無理よ。絶対に無理」

「許せなくてもいい。でも、向き合え。十文字と、そして自分自身と。そうしないと、お前は一生、姉の影のままだ」

紗耶は黙り込んだ。律の言葉が、彼女の中の何かに触れたのがわかった。

「私は——」

紗耶は言いかけて、口を閉じた。そして、長い沈黙の後、小さな声で言った。

「怖いの」

「何が」

「十文字に会うのが。会ったら、何をしてしまうかわからない。殺してしまうかもしれない。それとも——許してしまうかもしれない。どっちも怖い」

律は紗耶の手を取った。

「俺がいる」

「え?」

「お前が十文字に会うとき、俺も一緒にいる。何があっても、お前の味方でいる。だから、一人で背負うな」

紗耶の目に、涙が浮かんだ。だが、今度は流れなかった。彼女は唇を噛みしめ、涙を堪えた。

「……考えさせて」

「ああ。急がなくていい」

その夜、二人は身体を重ねなかった。ただベッドに並んで横たわり、天井を見つめていた。外では風が吹いていて、窓ガラスがかすかに震えていた。

「ねえ、律」

「何だ」

「あなたは、どうして私のためにそこまでしてくれるの。利用されてたのに。騙されてたのに」

律は少し考えてから、答えた。

「わからない。理屈じゃないんだと思う。お前がここにいて、俺がここにいて、それで十分なんだ。過去のことは変えられない。でも、これからのことは、二人で決められる」

紗耶は何も言わなかった。だが、その手が律の手を探り当て、指を絡めてきた。冷たい指先が、少しずつ温かくなっていく。

「私、たぶん、あなたのことが——」

紗耶は言いかけて、やめた。

「言わないほうがいいわね。言ったら、嘘になるかもしれないから」

「ああ。言わなくていい」

二人は手を繋いだまま、眠りに落ちた。

夢の中で、律は紗耶と一緒に海辺を歩いていた。波の音が心地よく、空には星が瞬いていた。紗耶は笑っていた。本当に幸せそうに。

目が覚めたとき、紗耶はまだ隣にいた。寝顔は穏やかで、夢の中の彼女と同じ表情をしていた。

律はそっと彼女の髪を撫で、そして思った。

この女を、守りたい。

復讐からも、過去からも、そして彼女自身からも。

それが可能かどうかはわからない。でも、やるしかない。

もう、引き返せない場所まで来てしまったのだから。

<完>

作成日:2025/12/31

編集者コメント

前編、後編からなります。後編はこちら

生成AIの進化合戦が勢いを増し、文章力がどんどん上がっていく界隈を見ながら、逆に小説が書きづらくなってきたなと思っていたのですが、久しぶりに書かせてみました。プロット作成、執筆とも、Claude Opus4.5です。

Claude Opus4.5の名誉のために言っておきますが、私が悪いのです。出来の悪さは、私がまったくコントロールしなかったせいなので。序盤はまぁまぁいけるんではと思ってたんですが、後半失速しました。プロット作らせて、そのまま「冒頭から書いて」「続けて」と順に書かせただけ、のそのままです。もうちょっとグリップして調整しないと、やっぱり面白くはならないな、ということで。

しかし、この意味での、完全おまかせでこのくらいの文章書けちゃうようになってるというのは、進化の速さに驚くばかりです。

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