刻(とき)の狭間で咲く花
チャプター1 遺跡の呪文
奈良県の山中に沈む夕陽は、森の緑を金色に染めていた。五月の風は柔らかく、温かく、それでもどこか不穏な冷たさを含んでいた。鷹屋甲斐は、その風の中を静かに歩いていた。山道は細く、木々が押し寄せるように迫ってくる。鳥たちの鳴き声がどこか遠くから響き、時折、木々のざわめきが耳を打った。
甲斐の目は、足元の苔むした石を探るように見つめていた。考古学者として、彼は何度もこうした場所を訪れてきたが、今日は何か違っていた。彼の胸の中で静かに鼓動していた期待感が、徐々に重さを増していた。それは単なる直感ではなく、これまでの調査が示していた確かなものだった。
石碑はその先にあった。人の手によって整備された道が途切れた先、森の中にひっそりと横たわっていた。大小さまざまな石が積み重なった不規則な形の塚の上に、古びた石碑が立っていた。石碑は不思議な光を放っているように見えた。長年の風雨に晒されて、表面は浸食され、細かいヒビが走っていた。それでも、何か古代の力を感じさせる存在感があった。
甲斐は一歩近づくと、石碑に刻まれた文字に目を凝らした。古代の呪文らしきものが、歪んだ筆跡で彫り込まれていた。それは彼がこれまでに見たどの文字とも違っていた。未知の言語、あるいは古代の形式を失った断片。それが甲斐の心を刺激し、彼の好奇心を一層強くした。
「これが…見つかったというのか」
彼の頭の中には、これまで解読してきた資料や文献の断片が走馬灯のように駆け巡っていた。古代日本の歴史の中でも、まだ解明されていない部分がいくつもある。そして、この石碑がその一端を担うかもしれないという予感が、彼を駆り立てていた。
甲斐の隣には、同僚の綾小路椿が立っていた。彼女はカメラを手にし、石碑の周りを歩きながら撮影していた。白いシャツとジーンズ、肩にかかる黒髪を無造作に束ねた彼女は、どこかクールな印象を与えるが、その目には常に鋭い観察力が宿っていた。
「どう思う?」椿がカメラのレンズを覗き込みながら、低く呟いた。
甲斐はしばらく黙っていた。石碑に刻まれた呪文の断片を指でなぞりながら、言葉を選んでいた。何かを言うには、まだその全貌を掴み切れていなかった。しかし、言葉にしなければならない何かが、彼の中で渦巻いていた。
「これが本物なら…我々の考古学の常識を覆すことになる。これまで知られていなかった文化や信仰が、ここに眠っている可能性がある」
彼の声には静かな興奮が滲んでいた。椿もまた、その言葉に軽く頷きながらシャッターを切り続けた。
「確かに。だが、これだけじゃ不十分だ。写真を撮って資料を集めるにしても、この呪文が何を意味しているかが分からなければ、ただの石だよ」
彼女の冷静な言葉は、甲斐の内なる熱を少し和らげた。それでも彼の目は、石碑の文字から離れなかった。呪文の断片が、彼の心に何かを訴えかけてくるようだった。
「分かってる。でも、これはその手がかりだ。俺たちはただ、探し続けるだけだ」
甲斐の言葉に、椿は何も言わなかった。ただ再びカメラのレンズを石碑に向けた。その音だけが、静寂の中に響いていた。
夜が訪れる頃、甲斐は研究室に戻り、撮影した写真をデスクに広げた。薄暗い蛍光灯の下、彼の目は写真に映る石碑の文字に釘付けになっていた。何度も繰り返し見ることで、何か見落としているものがあるのではないかと焦りを感じていた。
「何かがあるはずだ…」
甲斐は自分に言い聞かせるように呟いた。古い言語の解読には時間がかかる。しかし、この呪文には、ただの言葉以上の何かが隠されているという確信があった。それが何なのか、まだ手がかりは少なすぎたが、その思いは消えなかった。
彼の目の前には、椿が撮影した写真がずらりと並んでいた。石碑の全体像、刻まれた文字、そしてその周囲の風景。写真は細部まで鮮明に捉えていたが、それでも解読の糸口を掴むことは容易ではなかった。
「焦るな、焦るな…」甲斐は自分に言い聞かせた。解読は論理と根気の勝負だ。慌てて結果を求めるのは禁物だった。
やがて、夜の静寂が一層深まる頃、彼はようやく一つの可能性に気づいた。石碑に刻まれた呪文の文字は、特定のパターンで並んでいるように見えた。単なる飾りではなく、何かの規則性がそこに存在しているように感じたのだ。それが何を意味するのか、まだ全貌は掴めなかったが、それでも甲斐の心には一つの確信が芽生えていた。
「これはただの石碑じゃない…」
その言葉が彼の口から自然と漏れた瞬間、甲斐はさらに深くその謎にのめり込んでいった。
五月の中旬、奈良県の山中遺跡は一層深い緑に包まれていた。鷹屋甲斐はその静寂の中で、一人、石碑の前に立っていた。風が静かに木々を揺らし、鳥たちの声が遠くに聞こえる。それ以外には、何も音がしなかった。まるでこの場所だけが時間から切り離され、世界から取り残されているかのような感覚が甲斐を包んでいた。
彼はここ数日間、椿と共にこの石碑に向き合い続けてきた。古代の呪文を解読するために、彼らは膨大な資料を調べ、あらゆる仮説を立てては打ち砕いてきた。そして、ついに今朝、甲斐はその一部を解読することに成功した。ほんの一節だったが、それは確かに、彼らが待ち望んでいた突破口だった。
甲斐は石碑に刻まれた文字を指でなぞりながら、静かにその一節を心の中で繰り返した。言葉は異様なリズムを持ち、まるで生き物のように彼の思考の中で蠢いていた。それはただの言葉ではなかった。彼にはそう感じられた。
「これが…鍵なのか?」
甲斐はその言葉を口にすることに一瞬ためらいを覚えた。だが、その瞬間、彼の胸の奥で何かが確かに動き出した。まるで長い間閉ざされていた扉が、今まさに開かれようとしているかのように。その感覚に突き動かされ、甲斐は静かに唇を開いた。
「我が名において、古き契約を呼び覚ます…」
その瞬間、石碑がわずかに震えた。彼はその振動を足元から感じた。大地がかすかに波打つような、微かな震え。それはまるで、彼の言葉に応じて何かが目覚め始めたかのようだった。
「まさか…」
甲斐は息を呑んだ。彼の心臓が激しく鼓動し始め、胸の内に混乱と恐怖、そして興奮が渦巻いた。こんなことが本当にあるのか?古代の呪文が現実の力を持ち、彼の目の前で何かが動き出そうとしているのだろうか?
次の瞬間、石碑から淡い光が漏れ出した。最初は小さな光点だったが、それが徐々に強く、そして大きくなっていく。光は静かに、しかし確実に石碑全体を包み込んでいた。甲斐はその場から一歩も動けなかった。目の前で起こる出来事があまりにも現実離れしていて、思考が追いつかなかったのだ。
光はさらに強くなり、彼の周囲の風景が歪んでいくのを感じた。木々は揺らぎ、空はその色を失い、世界そのものが解けていくような感覚に襲われた。甲斐は本能的に目を閉じた。次の瞬間、彼の身体は何か強大な力によって引き込まれた。
目を開けたとき、彼はもう奈良の山中にはいなかった。
常世——それはこの世とは全く異なる場所だった。甲斐の目の前には、見たこともない風景が広がっていた。空は鈍い銀色で、太陽も月も見当たらない。それでも、どこからか柔らかな光が差し込んでいた。足元には奇妙な植物が生い茂り、葉は紫がかった青色をしていた。風は湿っており、かすかな甘い香りが漂っていた。まるで夢の中にいるような感覚だった。
「ここは…どこなんだ?」
甲斐は声に出して問いかけたが、その声はやけに小さく、響きも鈍かった。自分の声すらこの場所では異質に感じられた。彼はゆっくりと歩き出した。足元は柔らかく、まるで苔の上を歩いているようだったが、それでも何かが彼の足に絡みつくような感触があった。
甲斐が数歩進んだその時、彼の前に突然、何かが現れた。それはまるで空気が割れたかのようにして現れた。
「ようこそ、常世へ」
低く、しかしどこか心地よい女性の声が響いた。甲斐はその声の方向を見やった。そこには、一人の女性が立っていた。
彼女は黒い着物を纏い、長い黒髪が風に揺れていた。その姿はどこか妖艶で、目を離すことができないほどに美しかった。彼女の目は鋭く、しかしどこか楽しげな光を帯びていた。甲斐はその場で立ち尽くし、言葉を失った。
「驚くことはないわ。あなたがここに来たのは、当然のことよ」
彼女はゆっくりと甲斐に歩み寄りながら、柔らかく笑った。その笑みは、どこか不吉なものを感じさせたが、同時に抗えない魅力があった。
「誰だ…?お前は…?」
甲斐はようやく声を絞り出した。彼の心の中には恐怖が渦巻いていたが、それでも彼は冷静であろうと努めた。この状況を理解しなければならない。それが彼の考古学者としての本能だった。
「私は桐生葉月。この常世の案内人よ。あなたがここに来るのを、ずっと待っていたわ」
葉月の声は滑らかで、まるで囁くようだった。彼女の言葉はまるで甲斐の心に直接響くかのようだった。彼はその場に立ち尽くし、葉月の言葉を理解しようと努めた。
「常世…?ここが…その常世という場所なのか?」
「そうよ。そして、あなたがここに来たのは偶然じゃない。あなたは石碑の呪文を解読し、それを唱えた。それが契機となって、この世界へと引き込まれたの」
葉月は甲斐に一歩近づき、その目をじっと見つめた。彼女の目には何か得体の知れない力が宿っているように感じた。甲斐はその視線に圧倒されながらも、冷静さを保とうとした。
「それで…俺はどうすればいい?」
彼は問うたが、その答えが恐ろしいものであることを感じ取っていた。しかし、葉月は笑みを浮かべながら答えた。
「あなたには、この世界の真実を知ってもらう必要があるわ。そして、その真実を知ることで、あなた自身の運命も変わることになる」
その言葉に甲斐はさらに混乱した。運命?何を意味しているのか分からない。しかし、彼にはもう選択肢はなかった。この異世界に引き込まれた以上、何かを解明しなければならない。それが甲斐の中に芽生えた新たな使命感だった。
「分かった。案内してくれ」
甲斐は静かに答えた。彼の中で覚悟が固まった瞬間だった。葉月は満足げに微笑み、甲斐に背を向けて歩き出した。その後ろ姿を見つめながら、甲斐は再び自分の運命が大きく変わろうとしていることを実感していた。
五月の終わり、雨はしとしとと降り続いていた。湿気が肌にまとわりつき、街の空気を重く感じさせる。その雨音が耳を打つ中、綾小路椿は警察署の待合室でじっと座っていた。空気はひんやりとしているが、椿の心の中には燃え上がるような焦燥感が渦巻いていた。鷹屋甲斐が姿を消してから、一週間が過ぎた。
「彼がどこかに行くなんてありえない…」
そう、彼女は自分に言い聞かせていた。甲斐は考古学の研究者として、異常なまでに計画的で慎重な男だった。山中遺跡に向かった日も、椿には詳細なスケジュールを残していた。それが急に途絶え、連絡もないまま一週間が経過するなど、絶対に考えられない。椿の胸には恐怖が広がっていた。
彼女は警察署の薄暗い蛍光灯に照らされながら、ふと指先で自分の髪をいじった。湿気で少し癖がついた髪を無意識に整えながら、ぼんやりと天井を見つめる。外の雨音がさらに重く響き、心が押しつぶされるような感覚を覚えた。
「綾小路さん、どうぞ」
受付の女性の声に椿ははっと我に返り、すぐに立ち上がった。深呼吸を一つし、まるで自分を奮い立たせるように足を進める。扉を開けると、そこには捜査員の鷺沢龍彦が待っていた。無骨な顔立ちに短髪、着崩したスーツからはその堅物な性格が垣間見えたが、その目には知性と冷静さが宿っていた。
「お待たせしました。どうぞ、座ってください」
鷺沢は無表情で椿に向かって手を振り、椅子を勧めた。椿は無言のまま椅子に腰掛け、その姿勢を正した。机の上にはいくつかの書類が並び、彼のペンがその上で音もなく滑っていた。部屋の中には重い沈黙が漂っていたが、椿は口を開いた。
「甲斐の件、進展はあるんでしょうか?」
彼女の声には焦りと不安が隠し切れなかった。鷺沢は椿をじっと見つめ、静かに深いため息をついた。
「正直に言いますが、非常に奇妙な状況です。鷹屋さんが最後に確認されたのは遺跡周辺で、そこで足跡が途絶えています。何の痕跡も残っていません。ただ、これまでのところ、事件性があるとは判断できていない。ですが…」
彼は書類に目を落としながら言葉を続けた。
「普通の失踪事件とは明らかに違う。あの場所には何か異常な力が働いているようにしか思えません」
椿は鷺沢の言葉に反応し、驚きと不安が交錯する表情を見せた。
「異常な力…?それはどういう意味ですか?」
鷺沢は一瞬黙り込んだ後、慎重に言葉を選んだ。
「私も科学的な根拠を持って言っているわけではありません。ただ、現場の状況と鷹屋さんの研究内容を調べる中で、普通では説明のつかない現象が多すぎるんです。遺跡の石碑に刻まれた文字…あれが何かのきっかけになったのかもしれない」
「石碑…」
椿は自分の指先を見つめ、何かを思い出そうとしていた。甲斐と共に撮影した石碑の写真、彼が研究に没頭する様子、そして彼が何度も口にしていた「呪文」という言葉。まさか、それが本当に何かを呼び起こしてしまったのか?
椿の思考は混乱しながらも、一つの方向に向かって加速していった。彼女は急に立ち上がり、鷺沢に向かって言った。
「甲斐の研究室を調べさせてください。彼が残した資料の中に、何か手がかりがあるかもしれません」
鷺沢は少し驚いた様子を見せたが、すぐに頷いた。
「分かりました。捜査協力として、あなたにも確認をお願いしたい。私たちも全力を尽くしますが、学術的な知識はあなたの方が豊富でしょうから」
その言葉に、椿はわずかに安堵した。甲斐の失踪の真相に近づけるかもしれないという希望が、彼女の胸の中に灯った。
甲斐の研究室は静寂そのものだった。まるで時間が止まったかのように、彼がいなくなった日から一度も触れられていないかのようだった。机の上には書類や古文書が広がり、彼が作業していた痕跡がそのまま残されていた。
椿は慎重に一枚一枚の書類に目を通し始めた。手に触れる紙の感触が、冷たく、重かった。甲斐が何を考え、どのように研究を進めていたのか、その痕跡を辿るのは、彼がいない今となっては、まるで亡霊を追いかけているかのような感覚だった。
「ここに何かがあるはず…」
彼女は自分に言い聞かせながら、焦りを押し殺していた。突然、彼女の目に一つの書類が飛び込んできた。それは甲斐の手書きのメモだった。彼が石碑の呪文について考察していたものだ。彼の字は急いで書かれたようで、不規則だったが、その内容には明確な意図が感じられた。
「この呪文は封印の解除に関するものか…?」
椿は声に出して読んだ。そこには「常世」という言葉が繰り返し記されていた。常世…それは古代の神話において、異世界を意味するものとして伝えられている。しかし、ただの伝説に過ぎないはずだ。それがどうして甲斐の失踪と関係しているのか?
彼女の頭の中でピースがゆっくりと組み合わさり始めた。甲斐は呪文を解読し、その一部を唱えた。そして、その瞬間に何かが起こった。それは単なる偶然ではなく、何か異世界との繋がりを示していたのではないか?彼は、何かに引き込まれたのだろうか?
椿はその場に座り込み、深く息をついた。目の前の事実は、信じがたいものだった。しかし、彼女は甲斐を信じていた。彼の研究、彼の情熱、そして彼が選んだ道。そのすべてが、今、彼女をこの場所に導いているのだ。
「必ず見つける…」
椿は小さく呟いた。その決意は揺るぎないものだった。鷺沢と共に捜査を進める中で、彼女は甲斐の足跡を辿り、真実に迫っていく覚悟を固めた。それがどんなに恐ろしいものでも、彼女はもう後戻りはできないのだ。
常世の空は、異質な光で満ちていた。現世とは異なる光源がどこからともなく発せられ、昼と夜の区別が曖昧な世界に甲斐の意識は揺らいでいた。頭の中にはまだ現世の記憶が鮮明に残っているが、今、彼が立っているのはあの見慣れた世界ではない。それを感じさせるのは、足元に広がる荒涼とした大地、耳に響く風の唸り声、そして何よりも肌を這う不気味な冷たさだった。これは常世だ――死者の世界。現世と異なる法則に支配された異界であることは、すぐに直感した。
「少し疲れた?」
隣で微笑む桐生葉月の声が、静かに甲斐の耳に届いた。彼女は長い黒髪を後ろに流し、薄い絹の衣を身にまとい、その姿は妖艶そのものだった。目には奇妙な輝きが宿り、全身からは常世の住人としての不可思議な気配が漂っている。彼女はこの世界に馴染んでいるように見えた。そんな葉月の姿を横目で見ながら、甲斐は言葉を絞り出す。
「ここは本当に……死者の世界なのか?」
甲斐の声には不安と疑念が混じっていた。自分が生きたままこの異界にいるという現実を、まだ心の中で完全に受け入れられていないのだ。
「そうよ。ここは常世、死者の魂が集う場所。そして、私たちは今、スサノオ様に会うために宮殿へ向かっているの」
葉月の声は柔らかいが、その言葉が発する意味は重く、冷たかった。彼女の足音に導かれるまま、甲斐は無意識に歩を進める。目の前に見えるのは、巨大な宮殿の輪郭だ。遠くの霞の中からその荘厳な姿が徐々に明らかになっていく。彫刻された柱や重厚な石の壁は、まるで時空を超越した存在を象徴しているかのようだった。
宮殿に近づくにつれ、甲斐の心臓の鼓動は高まっていた。何か得体の知れない力がこの場所に宿っている――それは肌で感じるほどに明白だった。甲斐は目を細め、葉月に尋ねた。
「スサノオとは……一体どんな人物なんだ?」
葉月は一瞬、微笑みを浮かべ、そして立ち止まった。彼女の表情が一瞬だけ陰り、何か深い思いを隠しているように見えたが、すぐにその微笑みを取り戻した。
「スサノオ様は常世を支配する神。力と知恵を持ち、全ての魂を見守っている方よ。だけど、現世との均衡が崩れつつある今、その役割が大きく変わろうとしているの」
「現世との均衡?」
「そう。現世と常世は、互いにバランスを取り合うことで成り立っているの。どちらかが崩れれば、もう一方も破滅してしまう。最近、現世の秩序が揺らぎ始め、常世もその影響を受けている。スサノオ様はその原因を突き止めようとしているのよ」
甲斐はその言葉に驚きつつも、同時にどこか腑に落ちる感覚を覚えた。彼がこの場所に引き込まれた理由が、ただの偶然ではなく、何か大きな力に動かされているということに気づき始めたのだ。
宮殿の内部に入ると、甲斐は圧倒されるような威圧感を感じた。天井は高く、金色の装飾が施された壁が広がっていた。柱には異形の生物が彫り込まれており、それらがまるで生きているかのように動き出しそうな気配を漂わせている。甲斐は息を呑み、目の前の空間に立ち尽くした。
「スサノオ様がお待ちです」
葉月が静かに告げ、彼を導く。その先に座していたのは、スサノオ――神々しい力を纏った存在だった。長い黒髪が背中に流れ、瞳には静かな火が灯っている。その姿は恐ろしいほどに威厳があり、甲斐はその場で息を飲んだ。
スサノオはゆっくりと視線を甲斐に向けた。彼の目は、すべてを見通すかのような鋭さを持っている。しかし、その奥には深い哀しみも感じられた。
「よく来たな、甲斐」
その声は低く、響き渡るようだった。甲斐は自然とその声に引き込まれ、答えた。
「あなたがスサノオ……ですか?」
スサノオは頷き、冷静な口調で続けた。
「そうだ。私はこの常世を支配する者。そして、現世と常世の均衡を守るために存在する。だが、その均衡が今、乱れ始めている。お前がここに引き寄せられたのも、その一環だ」
甲斐はスサノオの言葉を飲み込みきれないまま、次の質問を投げかけた。
「均衡が崩れている?それはどういうことですか?私がここにいる理由とは?」
スサノオは深い溜息をつき、続けた。
「お前が関わっている遺跡、そしてその石碑に記された呪文は、現世と常世を繋ぐ鍵だ。その力が解き放たれたことで、現世の秩序が乱れ、常世にも影響が及んでいる。お前はその呪文を部分的に解読し、知らず知らずのうちに均衡を崩したのだ」
甲斐の胸に重い衝撃が走った。自分が知らぬ間に、そんな大きな事態を引き起こしていたのか。彼の頭は混乱し、次々と浮かぶ疑問が言葉にならず喉に詰まった。
その時、スサノオが視線を僅かに横に向けた。甲斐もその方向に目をやると、そこにいたのは、驚くべき存在だった。
「澪……!」
甲斐は驚きの声を上げた。そこに立っていたのは、彼の妹である澪だった。だが、彼女は以前の澪とは違っていた。彼女の目には冷たく光る輝きが宿り、その表情には無感情な仮面が張り付いていた。まるで彼女の魂そのものが別の存在に変わってしまったかのようだった。
「どうして……澪がここに?」
スサノオは再び口を開き、甲斐に向かって静かに語り始めた。
「お前の妹は、すでに現世の秩序から外れている。彼女は常世の側近として、私に仕えているのだ。お前がここに来た理由の一つは、彼女と再会するためでもある」
甲斐の頭の中で、数々の思い出が駆け巡った。妹と過ごした幼少期、家族としての絆――それらが全て、今や崩れ去りつつある現実の中で、あまりに儚いものに感じられた。彼の胸には、激しい葛藤と怒り、そして哀しみが渦巻いていた。
「どうして澪が……そんなことに?」
スサノオは静かに答えた。
「現世と常世の均衡が崩れたとき、彼女もまたその運命に巻き込まれたのだ。お前が
望むならば、彼女を取り戻すための道はある。しかし、それはお前自身の選択にかかっている」
甲斐の目に、一筋の涙が光った。
チャプター2 二つの世界の危機
常世の森は、生きているかのような不気味な静けさで満ちていた。甲斐は一人、濃い霧の中を進んでいた。数日前に宮殿を抜け出して以来、彼はスサノオの放つ重圧から逃れるように、ひたすら歩き続けている。どこへ向かうべきかは分からなかった。だが、常世の闇に潜む何かが、彼を引き寄せるように道を示しているかのようだった。
草木の匂いは、現世の森とは違い、甘い腐臭が混じり合っていた。風が吹くたびに、枝や葉がかすかに震え、まるで誰かが息をひそめて見張っているような気配を感じさせる。甲斐は何度も振り返ったが、後ろには誰もいない。ただ、常世の森そのものが、彼を監視しているかのように感じられるだけだった。
「俺は本当に、この世界に存在しているのか?」
その問いが心に浮かぶたびに、現実感は遠のき、代わりに狂気のような感覚が忍び寄ってくる。それを振り払うために、甲斐はさらに速足で進んだ。しかし、進めば進むほど、森は深く、暗くなっていく。霧の中に見える木々の影は、歪んだ形をしており、その影が伸びては縮み、甲斐の視界を乱す。
突然、前方から声が響いた。
「止まれ」
その声は鋭く、甲斐の動きを止めさせた。反射的に腰に手を当てたが、武器など何も持っていない。彼は慎重に目を凝らし、声の主を探した。霧の中から現れたのは、筋骨隆々とした男だった。肩幅は広く、無骨な顔つきに険しい表情を浮かべている。鎧のように硬質な革の装束を纏い、手には大きな刀を持っていた。
「お前が甲斐だな?」
その男は、確信を持った口調で言った。甲斐は驚きを隠せずに答える。
「どうして俺の名前を知っている?」
男は甲斐の問いには答えず、じっと彼を見つめ続けた。その瞳は鋭く、まるで甲斐の内面を見透かそうとしているようだった。しばらくの沈黙の後、男は刀を納め、歩み寄った。
「俺の名は葛城虎鉄。常世の反乱軍のリーダーだ」
「反乱軍?」
甲斐はその言葉に驚きを隠せなかった。スサノオが支配するこの常世に、反乱軍など存在するのか。虎鉄の姿からは、ただの野盗とは思えない圧倒的な気配が漂っていた。
「スサノオに歯向かう者がいるのか?」
甲斐の質問に、虎鉄は低い声で答えた。
「そうだ。俺たちはスサノオの支配から、この世界を解放しようとしている。そして、奴が黄泉比良坂の封印を解き、死者の世界『黄泉国』を解放しようとしていることも知っている」
その言葉を聞いた瞬間、甲斐の心臓は激しく跳ねた。黄泉国――それは死者が永遠に閉じ込められている暗黒の世界だ。スサノオがその封印を解き放つとなれば、現世も常世も大混乱に陥るに違いない。だが、スサノオは常世を支配する神ではないのか?なぜそのような危険を冒すのだろうか。
「なぜスサノオはそんなことをしようとしているんだ?」
甲斐の問いに、虎鉄は眉をひそめ、苦々しげな表情を浮かべた。
「奴の目的は完全な支配だ。黄泉国を解放し、全ての死者の魂を従わせることで、常世も現世も奴の手に落ちる。スサノオは神でありながら、欲にまみれた存在だ。現世と常世の均衡を崩し、全てを支配しようとしている」
その言葉は、甲斐にとって信じ難いものであった。スサノオが、そんな野心を抱いているとは思いもよらなかった。しかし、彼の胸には不安が広がっていった。澪がスサノオの側近として仕えていること、そして自分がこの世界に呼び寄せられた理由が、全てその大きな陰謀の一部であるのかもしれないという疑念が頭をよぎった。
「お前も感じているだろう?この世界に何かがおかしいと」
虎鉄は甲斐の目を覗き込みながら言った。その鋭い瞳には、真実を知る者の確信が宿っている。
「俺たちはスサノオに反旗を翻し、この世界を守るために戦っている。お前もその力を貸してくれ。お前が持つ石碑の知識は、俺たちにとって重要な鍵だ」
「石碑の……知識?」
甲斐は眉をひそめた。自分が解読した呪文が、この世界とどう関係しているのか、その全貌はまだ見えていなかった。しかし、反乱軍がその知識を欲しているということは、何か重要な役割があるに違いない。
「俺にはまだ、すべてが分かっていない。だが……」
言葉を詰まらせながらも、甲斐は自分の胸の中で燃え上がる怒りを感じていた。スサノオの支配、澪の変貌、そして自分が巻き込まれたこの混沌とした状況――それらが彼の心に重くのしかかっていた。
「……俺は、もう逃げたくない」
その言葉を口にした瞬間、甲斐の中で何かがはっきりとした。自分はこの世界に来たのではなく、引き寄せられたのだ。そして、ここで何かを成し遂げるべきだという運命を背負っている。
「俺はお前たちに加わる。スサノオの陰謀を止めるために」
虎鉄は微かに笑みを浮かべ、力強く頷いた。
「それでいい。お前は、俺たちの戦士として戦うべきだ」
その言葉には、信頼と期待が込められていた。甲斐は自分が新たな運命に向かって歩み始めたことを実感し、胸の中で何かが解き放たれるのを感じた。
反乱軍の拠点は、常世の森の奥深くに存在していた。そこには、虎鉄を中心にした多くの戦士たちが集まっていた。彼らは厳しい表情を浮かべ、皆がスサノオへの憎しみを共有しているようだった。甲斐は、その一員となった自分を不思議な感覚で見つめていた。
「ここが、俺の新しい場所なのか……」
甲斐は静かに呟き、拳を握りしめた。この異世界で、彼は再び立ち上がる決意を固めたのだった。
霧が立ち込める常世の森の中、甲斐は息を潜めながら進んでいた。反乱軍の作戦が今まさに展開されようとしていた。虎鉄を筆頭に、少数の戦士たちがスサノオの兵士の動きを妨害し、奴らの拠点に潜入する計画だった。しかし、甲斐の胸中には不安が渦巻いていた。反乱軍に加わる決意を固めたものの、この世界の力と自分自身とのつながりをまだ完全には理解できていなかった。
草木のざわめきが遠くから聞こえてきた。夜風が吹き、木々の間を通り抜けると、まるで何者かの低いうめき声のように響いた。湿り気を帯びた冷たい空気が彼の肌を撫で、甲斐はその感覚に引き寄せられるように、思考の奥深くに潜っていった。
「行けるか?」
背後から聞こえた虎鉄の声に、甲斐はハッと意識を戻した。振り返ると、虎鉄が鋭い目で彼を見つめていた。彼の体格は大柄で、まるで山のような存在感があった。だが、その目は冷静で、まるで甲斐の心の中まで見透かしているかのようだった。
「大丈夫だ。準備はできている」
甲斐はそう言ったものの、その声には自信が欠けていた。虎鉄は何も言わずに頷くと、再び前方へと進んでいった。
その時、突如として甲斐の視界が揺れ始めた。地面が不自然に歪み、木々の輪郭がぼやけ、そして次の瞬間、彼の体は力なく崩れ落ちた。意識が遠のき、常世の暗い森は瞬く間に消え去った。
気がつくと、甲斐は知らぬ場所に立っていた。目の前に広がるのは常世ではなく、現世の景色だった。彼の足元には草が柔らかく揺れ、遠くには都市の灯りがぼんやりと浮かび上がっていた。空は青く、雲一つない澄み渡った夜空が広がっていた。風が吹き、彼の髪を撫でた。その冷たさは、常世とは違う、現実的な感触だった。
「ここは……」
言葉にならない声が漏れた。彼はなぜここにいるのか理解できなかった。ついさっきまで常世の森にいたはずだ。それが一瞬にして、この現世に引き戻されたのだ。
混乱の中で、甲斐は足元を見つめた。そこには何の変哲もない道が続いていた。だが、その道の先には一つの影が揺れていた。近づいてくるその人影は、やがて甲斐にとって見慣れた顔となった。
「椿……」
甲斐の声が震えた。椿は現世の友人であり、彼にとって唯一無二の存在だった。彼女の長い黒髪は夜風に揺れ、その瞳は柔らかな光を帯びていた。彼女は驚いた様子で甲斐を見つめていたが、すぐに笑みを浮かべた。
「甲斐……あなた、生きていたのね」
椿の声は、どこか遠い夢の中から響いてくるようだった。甲斐は駆け寄り、彼女を強く抱きしめた。その温かさは、彼が現実に戻ってきたことを確信させるには十分だった。
「どうして……どうしてここにいるんだ?」
甲斐は言葉を選びながら問いかけたが、椿もまた混乱しているようだった。彼女は彼を見つめ、静かに首を振った。
「それはこっちのセリフよ。あなたが急に消えてからずっと、探していたのよ。何が起こったのか分からなくて……」
椿の言葉は彼の心に重くのしかかった。彼は説明しなければならない、常世で起きた出来事を、そして自分が今置かれている状況を。だが、どこから話せばいいのか分からなかった。彼は深く息を吸い込み、目を閉じた。
「俺は……常世にいたんだ」
椿は目を見開いた。驚きと困惑が彼女の顔に浮かんだが、甲斐は続けた。
「信じられないかもしれない。でも、本当なんだ。常世という、死者が集まる世界に俺は引き込まれたんだ。そして、そこでスサノオに会った。彼は、この世界と常世の均衡を崩そうとしている」
甲斐は話すうちに、自分の言葉が現実のものではなく、まるで作り話のように感じられてきた。しかし、これが彼の経験した真実であり、逃れられない現実だった。
椿は静かに甲斐の言葉を聞いていた。彼女の瞳には混乱が浮かんでいたが、信じようとする意思も感じられた。
「それで、あなたはどうしてここに戻ってきたの?」
「……分からないんだ。俺も何が起こったのかはっきりしない。気づいたら、突然ここにいた」
甲斐は頭を抱え、考え込んだ。常世と現世を行き来することができる――それは彼自身に備わった何かの力なのかもしれない。しかし、それがどのように機能しているのか、彼にはまだ理解できていなかった。
椿はその場でしばらく黙り込んでいた。彼女の表情は複雑で、何かを思案しているようだった。そして、やがて小さく息を吐き、彼に向き直った。
「甲斐、もしあなたが常世と現世を行き来できる力を持っているなら……それをどう使うか、考えなきゃならないわね」
彼女の声は冷静で、現実的な響きを持っていた。甲斐はその言葉に反応し、彼女の瞳を見つめた。
「どう使うか……?」
椿は頷き、さらに続けた。
「スサノオが本当にこの世界を壊そうとしているなら、あなたのその能力は重要な鍵になるはずよ。常世の反乱軍だけでは、スサノオを止めるのは難しいかもしれない。でも、もしあなたが両方の世界を行き来できるなら、情報を伝えたり、援助を求めたりできるはず」
その考えに、甲斐は思わず息を呑んだ。彼はただ、運命に流されるように常世に巻き込まれたと思っていた。だが、もしこの能力が彼に与えられたものだとすれば、それはスサノオの野望を阻止するための手段となり得るのだ。
「……でも、どうやってその力を制御すればいい?」
甲斐の声には不安が滲んでいた。彼はこの力を自覚してからまだ間もない。今のところ、それを自分の意思で発動させる方法も分からない。だが、椿は落ち着いた様子で彼に向き直った。
「まずは試してみることから始めるしかないわ。今、こうして現世に戻ってきたということは、少なくとも何かのきっかけがあったはずよ。それを見つければ、コントロールする糸口が掴めるかもしれない」
その冷静な言葉に、甲斐は少しだけ心が軽くなった。彼は一人で悩むことが多かったが、椿と話すことで、少しずつ自分の立ち位置が見えてくるような気がした。
「ありがとう、椿。君と話せて、少し頭が整理できた気がする」
彼はそう言って微笑んだ。椿もそれに応えるように微笑み返し、彼の肩に軽く手を置いた。
「大丈夫よ、甲斐。私もあなたと一緒に考えるわ。一人で背負わないで」
その言葉が、彼の心に深く響いた。
大学図書館の静かな一角、古代神話の研究を進める甲斐と椿は、薄暗い照明の下、数百年の歴史を持つ書物に囲まれていた。静寂に包まれた空間では、二人の声だけが微かに響き、紙をめくる音すらも聴覚を研ぎ澄ませるかのように感じられた。周囲の読書机には他の利用者もいたが、二人の世界は孤立していたかのように、完全に本に集中していた。
甲斐の目は古ぼけた本の一節に釘付けになっていた。彼は天叢雲剣――伝説の剣に関する記述に目を走らせながら、心の中でその存在の重みを感じていた。
「スサノオがこの剣を手に入れたのは……海の底からだと記されているな。ヤマタノオロチを討つ際、剣がスサノオに力を与えたとも書かれている」
彼は低い声で言葉を紡ぎ、隣に座る椿に向けて本を少しずらした。椿は眉をひそめ、指先でページを軽くなぞりながら考え込んでいた。
「天叢雲剣……それがスサノオの力の源だとしたら、逆にそれを利用して彼を封じ込めることができるかもしれないわね」
椿の声には、理知的な響きがあった。彼女は慎重に言葉を選びながら、冷静に思考を巡らせていた。図書館の薄暗がりの中で、彼女の黒髪はしっとりと光を吸収し、瞳はまるで深い湖の底にある静かな波のように穏やかで、それでいて底知れぬ深みをたたえていた。
甲斐は彼女の考えに同意しつつも、一抹の不安が心の片隅をよぎった。この剣は、果たして本当に彼らの味方になり得るのだろうか。神話の力は人間の手に余るものだと、常世で感じた畏怖が今も彼を縛っていた。
「でも、それを手に入れるのがどれほど危険か……考えるだけでも気が重いな。俺たちはあくまで人間だ。神話の力にどこまで抗えるか」
その言葉には、甲斐自身も気づかないまま、彼の中に宿る常世の影響が色濃く滲んでいた。常世で目にした力の奔流、そしてスサノオの威圧感が、彼の心に深い爪痕を残していた。
椿は静かに頷き、彼の言葉に耳を傾けていた。だが彼女の表情は決して弱々しいものではなく、むしろ深い覚悟を帯びていた。
「たしかに危険ね。でも、私たちが何もしなければ、もっと大きな危険が現世にも常世にも降りかかるわ。今は恐れてばかりいる時間はないわよ、甲斐」
彼女の言葉は冷静だが、確固たる意志を感じさせた。椿のその毅然とした態度が、甲斐の中にわずかな希望の灯火をともした。彼はもう一度、目の前のページに目を落とし、剣の記述に集中した。
その時、背後の棚の方から微かに音がした。誰かがゆっくりと歩いているような気配に、甲斐と椿は同時に顔を上げた。だが、そこには人影は見えない。ただ、遠くの本棚に古びた図書館の老管理人が静かに書棚を整理している姿がちらりと見えた。
千早冬夢――この大学図書館で長年管理を務める彼は、白髪を整えた端正な顔立ちと、少し曲がった背筋が特徴的だった。彼の瞳は深く沈んでいて、何かを見透かすような鋭さがある一方で、どこか別の時間に生きているような遠い静謐さをまとっていた。
椿がふと目を細めた。老管理人の動きはゆったりとしていたが、どこか不自然な気配があった。彼がこちらの話を聞いているのではないかという一抹の不安が、彼女の胸中に浮かんだ。
「気をつけた方がいいわね……図書館の中でも、誰が敵か味方か分からない」
彼女は声を落とし、甲斐に小さく囁いた。彼もまた、その気配を感じ取っていたが、言葉に出すことはせず、ただ頷いた。
「それで、椿。もう一つ確かめたいことがあるんだ」
甲斐は話題を戻すべく、椿に視線を向けた。
「何?」
「お前も、境界渡りの能力を持っているんじゃないかと思っているんだ」
その言葉に、椿は一瞬驚いた表情を浮かべた。だが、それもすぐに消え、彼女は考え込むように唇を噛んだ。
「どういうこと?」
「お前が現世にいるのに、俺と常世の出来事を理解してくれているのが妙なんだ。俺は自分でも気づかないうちに常世と現世を行き来しているけど、お前も同じ力を持っているんじゃないか?」
椿はその問いに対してしばらくの間、答えを見つけられないまま目を伏せていた。だが、徐々に自分の記憶が甦るように、何かを思い出したかのように目を見開いた。
「たしかに……昔から夢の中で、常世のような場所を見ていた気がする。でも、それが本当に何だったのか、ただの夢なのか分からなかった」
甲斐の予感は当たっていた。彼女もまた、常世と現世の間を行き来できる力を無意識に持っていたのだ。だが、それを自覚しなかったために、その力は潜在的に眠っていただけだった。
「もし本当にそうなら……お前と俺が一緒に境界渡りをできれば、もっと自由にこの二つの世界を行き来できるはずだ。スサノオの野望を阻止するための重要な鍵になる」
甲斐の声には、希望と覚悟がこもっていた。常世と現世の境界を渡る力は、スサノオを止めるために必要なものだと信じ始めていた。そして、その力を二人で共有することで、より強大な敵に立ち向かえるのではないかという期待も生まれた。
だが、それは同時に危険な賭けでもあった。椿もそのことを感じ取っていた。
「それが私たちの運命だとしても、私はあなたと一緒にこの力を使うわ。常世の危機を放っておけないし、スサノオの野望を止めるためにはやるしかないわね」
彼女の決意が揺るがないことを確認し、甲斐は深く頷いた。そして、二人は再び古代神話の研究に没頭し始めた。彼らが手にするべき「天叢雲剣」の謎、そして自分たちの能力をどう使うべきか――その答えを見つけるため、膨大な情報の中に身を投じていった。
一方、棚の陰で耳を傾けていた老管理人・千早冬夢は、彼らの会話を興味深げに聞き取っていた。彼の鋭い目は静かに輝き、深い知識と経験を秘めた笑みが浮かんでいた。
彼の胸中にもまた、何か大きな秘密が隠されている
ことを、誰も知らなかった。
常世の反乱軍基地は、現世とは異なる重苦しい空気をまとっていた。基地は地下に広がり、薄暗い灯りが石壁に映り込むその様子は、時間さえも停滞したかのような錯覚を与える。ここでは太陽も月も存在せず、季節感や時間の流れすら曖昧だ。重たい扉の軋む音が甲斐の耳に響くたび、彼はこの世界の異質さを改めて実感していた。
椿とともに作戦会議室に入った甲斐は、まずその広さに圧倒された。古代の戦場に残る石造りの大広間を彷彿とさせるその空間には、無数の戦略図が壁に掛けられ、床には常世と現世の地図が無造作に広げられていた。中央には大きな円卓があり、反乱軍のリーダー格である虎鉄が鋭い眼光を光らせて座っていた。彼の存在感は、まるで重く暗い雲に覆われた山岳のようだった。
「来たか、甲斐。それに椿も」
虎鉄の低い声が響き渡り、その瞬間、会議室内の空気が一瞬張り詰めた。彼は短髪に整えられた頭を軽く振り、目の前にある地図に視線を戻した。力強い手つきで地図を指しながら、反乱軍の次なる一手を示す。
「天叢雲剣を奪う。それが俺たちの最優先課題だ。スサノオがこの剣を手にする前に、我々が確保しなければならん」
その言葉に、甲斐は深く頷いた。天叢雲剣――それはスサノオの力を封じるための唯一の武器であり、反乱軍の命運を握る重要な存在だった。だが、剣を奪うことは一筋縄ではいかない。スサノオの勢力は強大であり、その奪取作戦は命懸けの賭けに等しかった。
虎鉄はさらに詳細な戦略を説明し始めた。彼の言葉は正確で無駄がなく、まるで機械のように冷徹だった。彼が指し示す地図上のルートや、敵の配置を考慮した攻撃のタイミングは、綿密に計算されたものであった。甲斐もその説明に耳を傾けつつ、内心では別の考えが渦巻いていた。
彼の心に浮かんだのは、妹・澪の裏切りだった。常世で彼女が反乱軍を裏切ったという噂は、甲斐にとって信じがたいものだったが、その真相を知るために彼は常世に戻ってきたのだ。作戦会議の重々しい空気の中で、甲斐は虎鉄に向き直り、そのことを尋ねる決意を固めた。
「虎鉄さん、話したいことがある。澪のことだ」
その言葉に、虎鉄の表情がわずかに動いた。彼は甲斐の顔を見つめ、しばらくの間黙り込んだ後、ゆっくりと息を吐いた。
「澪の裏切りについてか?」
虎鉄の声は静かだが、その中には明らかな重みがあった。甲斐は頷き、言葉を続けた。
「俺にはまだ信じられない。澪が裏切ったなんて……どうしてそんなことをする必要があったんだ?」
甲斐の言葉には、妹への深い愛情と、真実を知りたいという強い願望が込められていた。彼は澪が裏切り者であるという噂に納得できず、その真相を追い求めていた。
虎鉄はしばらくの沈黙の後、厳しい表情を保ちながら口を開いた。
「甲斐、お前に話しておかなければならないことがある。澪の行動は確かに裏切りと見なされたが、彼女自身にも何かしらの理由があったに違いない。だが、その理由はまだ分かっていない」
その答えは、甲斐の胸に一層の不安をもたらした。妹が何かに追い詰められていたのか、あるいは裏切りに至る何か特別な事情があったのか。彼の胸中は混沌としていた。
「……真実を知るには、もう少し時間がかかるかもしれん。それまでは、お前も心を乱さずに、目の前の任務に集中してほしい」
虎鉄の言葉は甲斐を諭すようなものであったが、甲斐の内心はそれでも揺れていた。澪を信じたいという気持ちと、裏切りの事実が混在する中で、彼は自分の感情をどのように整理すべきか分からなくなっていた。
その時、部屋の隅に微かな気配が感じられた。誰かが二人の会話を盗み聞きしている――甲斐の本能がそう告げた。彼は瞬時に視線をそちらに向けたが、暗がりの中に人影は確認できなかった。
だが、甲斐の感覚は間違っていなかった。その影は、スサノオの刺客・影丸であった。彼は巧みに自らの存在を隠しながら、会議の進行と甲斐たちの動向をじっと観察していた。彼の目は、まるで獲物を狙う鋭い鷹のように光り、その心には冷酷な意志が宿っていた。
影丸は、反乱軍の全てを把握し、スサノオに報告する役割を担っていた。彼の存在に気づく者はほとんどいないが、その裏では常に暗躍し、敵の動きを監視している。彼が動くたびに、風も静かにその後を追うかのように、無音の波動が広がる。
影丸は、虎鉄と甲斐の会話を完全に盗み聞いていた。その内容は、スサノオにとっても重要な情報であり、特に澪に関する話は彼にとっても興味深いものだった。澪が裏切った理由――それはスサノオにとってもまだ完全に明らかではなかったが、彼女の行動は何かしらの意図を持っていたに違いない。
会議が続く中、影丸は冷静に状況を分析しながら、次なる一手を考えていた。スサノオの刺客としての使命は、敵を撹乱し、反乱軍を弱体化させることだった。だが、甲斐と椿が天叢雲剣を手に入れようとする動きには、彼自身も警戒していた。その剣がスサノオの力を脅かすものであることを、影丸は十分理解していたからだ。
影丸はそのまま影の中に溶け込むように、静かに会議室を後にした。彼の存在を察知できる者は、今はまだ誰もいなかった。
チャプター3 過去との対峙
常世の「記憶の森」は、現世とは全く異なる、言葉にしがたい場所だった。甲斐がその深奥に足を踏み入れると、空気が突然変わり、まるで時間と空間が揺らいでいるかのような感覚に包まれた。樹々は空高くそびえ、葉は青や紫、そして深い緑色に光り、風が吹くたびに無数の記憶がその表面にさざめいた。記憶の森には、誰もが心に秘める過去が眠っている。それは人の想いを具現化し、視覚と音で体験させる場所だ。
甲斐は一歩一歩、足元を確かめながら進んだ。森の中に流れる時間は、どこか曖昧で、過去と現在、さらには未来さえも混ざり合っているように感じられた。どれだけ進んでも、周囲の景色は変わらない。迷い込んだ者は永遠に出口を見つけることができない――そう聞いたことがあったが、今やそれはただの噂話ではなく、実感として彼の心に重くのしかかった。
「澪の過去を知るためにここに来た」と、甲斐は自分に言い聞かせた。妹の裏切りの真相を確かめるため、彼は常世のこの場所に足を踏み入れたのだ。しかし、それだけではなかった。澪を救いたいという想いも強く、彼の胸に渦巻いていた。幼いころから澪を見守り続けてきた兄として、彼女がどんな理由で反逆に走ったのかを知る責任があると感じていた。
森の中に響く風の音は、どこか囁くようだった。まるで甲斐の内面を見透かしているかのように。目の前に現れる風景もまた、彼の心の中を反映しているのかもしれない。歩を進めるたびに、過去の断片が視界の隅に現れては消えた。彼の記憶ではない――澪の記憶が、そこに浮かび上がっていた。
その瞬間、甲斐は足を止めた。周囲の景色が大きく変わったのだ。今までは曖昧だった樹々の輪郭がはっきりと浮かび上がり、目の前には小さな少女が立っていた。その姿を見た瞬間、甲斐の胸が強く締め付けられた。澪だった。
幼い澪が、一人で森の中をさまよっていた。彼女は怯えた表情を浮かべ、震える声で何かを呼んでいる。森の木々が彼女を包み込み、どこか異次元に引きずり込もうとしているかのように見えた。澪は現世から迷い込んだのだ――常世に、まだ幼いころに。
「澪……」甲斐は思わず口にしたが、彼女の耳には届かなかった。これは彼女の過去の記憶であり、彼はただそれを見ているだけだった。
幼い澪が迷い込んだ記憶は、彼をどんどん引き込んでいった。彼女は泣きながら、目の前に広がる奇妙な光景に怯え、必死に逃げ出そうとしていた。しかし、常世の森は彼女を放さない。甲斐は、その様子をじっと見つめながら、胸の奥で何かが崩れ落ちるような感覚に襲われた。
突然、彼の視界に別の影が差し込んだ。それは高い影――力強い存在感を放つ男だった。スサノオだった。彼は無表情で、しかしどこか威厳を感じさせる様子で澪の前に現れ、彼女に手を差し伸べた。その瞬間、澪は涙を止め、彼を見上げた。恐れと安堵が混じったその表情を、甲斐は見逃さなかった。
「スサノオが澪を助けたのか……」
甲斐はその事実に動揺した。妹がなぜ反逆者としてスサノオに従ったのか、その一端が垣間見えた気がした。スサノオは澪にとって、単なる神ではなく、救い主でもあったのだ。常世で生きる道を彼女に示したのがスサノオだったとすれば、彼に従うことは、澪にとって当然の選択だったのかもしれない。
だが、甲斐は同時に強い疑念も抱いた。スサノオはなぜ澪を助けたのか?そして、彼の真の目的は何だったのか?彼はただ澪を救いたかったのではなく、何かしらの野心がそこに絡んでいるのではないか。甲斐の胸には、その問いが重くのしかかっていた。
記憶の森の中で、視界は次第に曇り、再び別の断片が浮かび上がった。今度は、甲斐自身の過去に関するものだった。彼はその映像の中で、自分の家族が大切にしていた神棚を見た。それは、天照大神に祈りを捧げるものだった。甲斐の一族が天照大神と何らかの関係を持っていることは、家族内でも暗黙の了解だった。しかし、その具体的な意味については、誰も語ろうとしなかった。
「俺の家系と天照大神……?」
その断片的な映像が、彼に何を示そうとしているのかはまだ明確ではなかったが、何か重大な秘密が隠されているのは間違いなかった。甲斐は深い混乱に陥りながらも、真実に近づいている感覚を覚えた。
記憶の森は、甲斐に答えを与える一方で、さらなる疑問を投げかけてきた。澪の過去、スサノオの思惑、自分の家系に隠された秘密――それらが複雑に絡み合い、彼の頭の中で渦を巻いていた。しかし、彼はこの迷宮から脱出しなければならなかった。答えを見つけるために、さらなる記憶の奥底へと進む必要があったのだ。
「進むしかない……」
甲斐は決意を固め、再び森の中を歩き始めた。足元の苔がふわりと沈み込み、葉の香りが彼の鼻をかすめた。風が再び囁き始め、彼の耳元で言葉にならない声がさざめいた。森が何かを告げようとしている――それは間違いなかった。
甲斐の心は、不安と期待の入り混じった複雑な感情で満たされていた。しかし、彼は前に進むしかなかった。
常世の森は、昼夜の区別が曖昧だった。日差しが差し込むわけでもなく、月の光も届かない。しかし、その不思議な薄明かりの中で、空気はひんやりとして澄み渡っていた。甲斐は聖なる泉に向かって歩を進めていた。周囲には不規則に生える古木が絡み合い、泉へと導かれる道筋を見えなくしていたが、彼の心の中には確かな方向感覚があった。
泉に近づくたび、微かに漂う水の匂いが彼の鼻腔を満たしていった。それは現世の水とは全く異なる、透き通った冷たい清浄感であり、まるで記憶や過去さえも浄化してくれるような錯覚を覚えさせた。甲斐はその泉の力に心を寄せながら、自分の思考を整理しようと努めていた。
澪の裏切り、スサノオの野望、そして自らの家系に隠された秘密――すべてが未解明のまま、甲斐の心を重くしていた。彼は何度も自問した。なぜ自分がこの戦いに関わることになったのか。自分には何ができるのか。だが、答えは出ないままだった。進むべき道は見えていても、その先に待つ運命は見えなかった。
やがて、彼は聖なる泉のほとりにたどり着いた。澄み切った水面は静かで、まるで一枚の鏡のように空を映し出していた。森の静寂の中で、泉から漂うかすかな波紋だけが、時間の流れを感じさせる。甲斐は泉の縁に膝をつき、その冷たい水を一掬い手に取った。水の感触は柔らかくもあり、同時に冷たくて骨まで凍るようだった。
その瞬間、静寂が破られた。背後からふとした気配が彼を包んだ。空気が変わり、温度が一瞬で上昇したように感じた。甲斐は振り向いた。そこに立っていたのは、一人の女性だった。彼女の姿はどこか幻想的で、現実感が希薄だった。白い衣を纏い、長い黒髪が風に揺れている。彼女の瞳は深い湖のように澄み、しかし、その中には永遠に続く時の流れを秘めているようだった。
「天鈿女命……」
甲斐の口から自然とその名が漏れた。彼女は神話の中で語られる天照大神の使者、天鈿女命。彼の目の前に、その伝説の存在が現れていた。甲斐は信じがたい光景に目を見張りながらも、彼女の神聖な雰囲気に圧倒された。
天鈿女命は静かに微笑んだが、その微笑みはまるで心の奥底まで見通しているかのようだった。そして、彼女の声は泉の水面を滑るように穏やかに響いた。
「甲斐、あなたは何を求めてこの場所に来たのか、もう自分でわかっているはずよ。」
その問いに、甲斐は一瞬答えを探したが、すぐに思考を引き戻した。彼は澪を救うために、スサノオの野望を阻止するために、この戦いに身を投じた。しかし、その先に待つ運命を彼はまだ正面から受け止めていなかった。
「俺は……スサノオを倒すためにここに来た。澪を、妹を救うために。」
甲斐の声には確固たる決意がこもっていたが、その一方で、胸の奥にはまだ迷いがあった。それを感じ取った天鈿女命は、さらに彼を見据え、語りかけた。
「スサノオは、あなたが思っている以上に強大な存在よ。そして、彼の野望は単なる支配や力ではなく、すべての存在を無に帰すことなの。彼は、創造を破壊し、世界そのものを再構築しようとしている。そんな彼を止められるのは、あなただけ。あなたには、その血が流れているから。」
甲斐はその言葉に戸惑った。自分が特別な存在だとは思っていなかった。ただの一兵士、一人の男に過ぎない。だが、彼女の言葉は重く、逃れることのできない運命を暗示しているようだった。
「俺にそんな力があるとは思えない……天照大神の血を引いているなんて、どういうことだ?」
天鈿女命は静かに甲斐に近づき、その眼差しを彼に向けた。その瞳は、まるで無限の知識と叡智を内包しているように見えた。
「あなたの家系は、天照大神に深く結びついている。それは単なる血統ではなく、使命を受け継ぐ者としての宿命。天照大神の力は、あなたの中に眠っている。その力を覚醒させれば、スサノオを打ち倒すことができる。だが、そのためには覚悟が必要よ。あなた自身がその運命を受け入れ、立ち向かわなければならない。」
甲斐は、彼女の言葉に心の中で揺れ動いた。天照大神の末裔としての運命を受け入れること、それは彼にとって想像を超える重荷だった。自分がそのような力を持つなど、これまで考えたこともなかった。そして、その力を覚醒させることは、自分自身をも変えてしまうのではないかという恐怖があった。
「それでも、俺にできるだろうか……」
天鈿女命は甲斐の不安を感じ取り、さらに彼に近づいた。彼女の手が甲斐の肩に軽く触れる。その瞬間、彼の中に微かな温かさが広がり、心が少しずつ落ち着いていくのを感じた。
「恐れることはない、甲斐。あなたには、その力が備わっている。それは天照大神から受け継がれたもの。そして、それを引き出す鍵は、あなた自身の中にあるの。あなたの想い、澪を救いたいという強い意志、それこそが力の源になる。」
彼女の言葉は、まるで深い湖底に沈んでいた答えを浮かび上がらせるかのようだった。甲斐は、これまで感じていた迷いや不安が次第に薄れ、自分の中に眠っている何かが目覚めつつあるのを感じた。
「俺には、澪を救う責任がある。そして、スサノオの野望を止めなければならない。たとえ、それがどんなに困難でも。」
甲斐の声は今度こそ確固たる決意に満ちていた。天鈿女命はその言葉を聞き、微かに微笑んだ。
「その意志こそ、あなたの力。そして、それがあなたを導く。スサノオを倒すために、あなたは天照大神の力を解き放つ必要がある。それを忘れないで。」
彼女の姿が次第に薄れていく中、甲斐は最後の言葉を胸に刻み込んだ。泉の静寂が戻り、彼は再び一人となったが、その胸には確かな目的が宿っていた。
7月下旬、東京都内の空気は一層重たく湿っていた。朝から陽光が降り注ぎ、アスファルトの上に残る小さな水溜まりが、ささやかに蒸発し始める。だが、日常の喧騒とは裏腹に、街全体にどこか異様な雰囲気が漂っていた。まるで見えない力が東京の上に垂れ込め、じりじりと人々の精神に影響を与えているかのように。
鷺沢刑事は、異変を肌で感じ取っていた。ここ数週間、不可解な事件が立て続けに起きていた。失踪事件、突発的な暴力沙汰、不自然な事故。それらは一見、無関係な出来事に見えたが、彼の直感は何かが繋がっていると告げていた。デスクに散らばる資料の束を見つめ、鷺沢は深く息をついた。重い空気が彼の胸を圧迫しているようだ。
「またか…」
彼は昨晩、立て続けに起きた奇妙な事件の報告を思い出した。目撃者たちは皆、何か「影のようなもの」が現場にいたと口を揃える。しかし、それが人間なのか、あるいは別の存在なのか、誰一人としてはっきりとは言えない。監視カメラには何も映っておらず、物理的な証拠も残っていない。
「影…」鷺沢は独り言のように繰り返した。考えが巡るが、どれも断片的だ。事件の背後に潜む何か、目には見えない存在。それが現実に影響を及ぼしていることは確かだった。
その時、彼の携帯が震えた。画面に表示されたのは、同僚の柴崎からの連絡だ。メッセージには「新たな失踪者が出た。現場に急行してほしい」と書かれている。鷺沢は短い返事を打ち、椅子から立ち上がった。頭の中には無数の疑問が渦巻いていたが、今はただ、現場に向かうことしかできなかった。
その頃、甲斐の両親のもとに訪れていた椿は、冷たい緊張感を抱いていた。古い和室に通された彼女は、目の前に座る甲斐の両親の厳粛な表情に不安を感じていた。二人は落ち着いた年齢に見えるが、その目は長い間、何かを隠し続けてきた者特有の疲労を滲ませていた。
「椿さん、私たちがあなたに伝えなければならないことがあります。」甲斐の母が口を開いた。声には静かな力があり、そこには隠せない重みがあった。
椿は少し息を飲んだ。ここに来る前から、何か重要なことが話されるだろうという予感はあったが、それがどのような内容かまでは分からなかった。
「私たちの家系には、代々伝わる秘宝があります。それが『八咫鏡』というものです。」
「八咫鏡…?」椿はその名に聞き覚えがあった。神話の中で語られる三種の神器の一つである八咫鏡。だが、それがなぜ甲斐の家系に関係しているのか、彼女の頭の中では混乱が広がっていた。
「これは単なる神話や伝承ではなく、実際に存在するものです。」甲斐の父が低く重い声で続けた。「八咫鏡は、天照大神が自らの姿を映した鏡であり、その力は現世と常世を繋ぐものとしての役割を持っています。我が家にそれが伝わったのは、長い歴史の中での出来事です。」
椿は信じられない思いで二人を見つめた。もしその話が本当なら、甲斐が今巻き込まれている事態は単なる偶然ではなく、遥か昔から運命づけられたものであるということになる。
「では、甲斐は…」椿は声を震わせながら尋ねた。
「彼はその運命を背負っています。しかし、それをどう受け止めるかは彼自身の選択です。」母の言葉には深い憂いが込められていた。「私たちはただ、彼にそれを伝えることしかできないのです。」
夕暮れ時、椿は心を落ち着かせるために都内の図書館に足を運んだ。古びた木の棚に囲まれたこの場所は、彼女がしばしば訪れる静かな避難所だった。だが、その日は何かが違っていた。いつも通りの静寂の中に、微妙な違和感が漂っていたのだ。
椿が読書に集中しようとしていた矢先、隣のテーブルから声がした。
「八咫鏡のこと、知っているのか?」
椿は驚いて顔を上げた。そこには、杖をついた一人の老人が立っていた。彼の瞳は、年齢を感じさせない鋭さで、彼女をじっと見据えている。
「あなたは…?」椿は問いかけた。
「千早だ。」老人はにこりともせずに名乗った。「私は常世からの使者だ。」
「常世の…使者?」椿は信じられない気持ちで、その言葉を反芻した。ここで初対面の老人がそんなことを言い出すとは、到底予想していなかった。
「そうだ。」千早は静かに頷いた。「私はこの地に長く留まり、ある役目を果たすために生きてきた。だが、その時が来たようだ。」
「その時とは?」椿の胸は高鳴っていた。ここに来て、自分の知らない世界が一気に押し寄せてくるような感覚に、彼女は一瞬圧倒されそうになった。
「八咫鏡の力が目覚める時が来たということだ。あなたもその運命に関わっているのだ、椿。」
千早の言葉は冷徹でありながら、何か深い確信を持っていた。彼の背筋は年齢に反してまっすぐに伸び、その佇まいには不思議な威圧感があった。
「私はただ、甲斐を助けたくて…」椿の声は震えていた。
「その想いこそが大切なのだ。」千早は静かに言葉を重ねた。「だが、あなたが何も知らずに行動すれば、その力は逆に災いをもたらすことになる。常世の力は強大で、制御が難しい。それを知った上で、あなたはどうするつもりだ?」
椿は深く息を吸い込み、自分自身に問いかけた。果たして、自分に何ができるのか。この異常な状況に対して、どう向き合うべきなのか。しかし、今は一つだけ確かなことがあった。彼女は甲斐のために、そしてこの現世の危機を乗り越えるために、何としてでも立ち向かわなければならない。
「分かりました。」椿は決意を込めて答えた。「私にできることを教えてください。」
スサノオの城は、まるで常世の象徴そのもののように佇んでいた。空には不吉な暗雲が垂れ込み、鋭い風が城の尖塔を包み込む。あたりは静寂に包まれ、まるで時が止まってしまったかのようだ。甲斐はその城を見上げ、胸の奥に不安を抱えながらも、前に進む覚悟を固めていた。彼らの目的は明白だ――「天叢雲剣」を手に入れること。それが唯一、スサノオを打ち倒し、この世界を守る手段であると信じていた。
「準備はいいか?」
虎鉄が静かに問いかける。彼の声は低く、鋭い緊張感が漂っていた。甲斐は小さく頷き、周囲を見渡した。仲間たちの顔にはそれぞれに覚悟が宿っている。特に澪は、冷徹な眼差しを持ちながらも、その内側に何か隠しているかのような陰りがあった。しかし、甲斐はそれを深く追及することなく、ただ前へと進んでいく。
「行くぞ。」
甲斐は力強く言い、彼らは闇の中に身を沈めた。城内の通路は複雑に入り組んでおり、まるで迷宮のようだ。石造りの壁は冷たく、空気は重く澱んでいる。時折、遠くから聞こえる異様な音が、彼らの緊張をさらに高めていく。
作戦は順調に進んでいるかに見えた。しかし、甲斐の心の奥底には何か不安が渦巻いていた。澪の瞳に時折浮かぶ冷ややかな光――それが何を意味するのか、彼は理解しきれていなかった。だが今は、その疑念に囚われている時間はない。彼らは天叢雲剣の安置された祭壇へと急ぎ進むのみであった。
やがて、一行は広間にたどり着いた。巨大な柱が立ち並び、中央には神聖な祭壇が鎮座している。天叢雲剣はその中央に輝きを放ち、まるで彼らを誘うかのように光を反射していた。甲斐は一歩、また一歩と剣に近づき、心臓の鼓動が次第に速くなるのを感じた。
しかし、その瞬間、広間に響く鋭い音が一行を引き裂いた。何かが崩れるような音、そして甲斐の目の前に現れたのは澪の冷たい微笑であった。
「どういうことだ…?」甲斐は息を詰めながら問いかけた。
「ごめんなさい、兄さん。」澪は静かに言ったが、その声には一片の後悔も感じられなかった。「これが私の選んだ道なの。」
「裏切ったのか…?」甲斐の声には驚きと、どこか希望を捨てきれない感情が混じっていた。澪はその問いに答えることなく、指先を軽く動かすと、背後から虎鉄が捕らえられる音が響いた。
「おい、やめろ…!」虎鉄が抵抗しようとするが、力強い影が彼を押さえつけ、その動きを封じる。甲斐は愕然として立ち尽くした。目の前で起こる出来事が現実なのか、まだ信じられない思いだった。
「澪、なぜだ…」甲斐の声は低く、しかしその中には絶望が色濃く含まれていた。彼は妹の裏切りを理解しようとしながらも、心の中で感情が交錯するのを抑えきれないでいた。憎しみ、失望、そして微かな希望――それらが彼の胸を締めつけた。
「兄さん、私にも選ばなければならないことがあったの。」澪は冷ややかに言い放った。「私はスサノオの側に立つ。彼の力が新しい秩序をもたらすと信じているから。」
「それが正しいとでも思っているのか?」甲斐は激しい感情を込めて叫んだが、澪の表情は微動だにしなかった。
「正しさなんて、時代によって変わるものよ。」澪の声は冷静でありながら、その奥に何か壊れたものを秘めているようだった。「私たちが信じるべきは、今ここにある力。その力だけが、私たちを生かしてくれるの。」
甲斐は一瞬、妹を打とうとする衝動に駆られたが、その感情を抑え込んだ。澪はかつての無邪気な妹ではない。だが、それでも――彼はまだ彼女に手を上げることができないでいた。血の繋がりという見えない鎖が、彼の動きを縛っていたのだ。
その一瞬の躊躇が命取りとなった。背後から忍び寄る気配に気づく暇もなく、甲斐は一気に捕縛されてしまった。冷たい鎖が腕に巻きつき、その力で自由を奪われる感覚に、彼は歯を食いしばった。
「くそ…!」甲斐は叫び声を上げたが、抵抗する力は失われていた。目の前で笑みを浮かべる澪の姿がぼんやりと視界に残る。彼女の冷たい瞳が、かつての妹とは別の存在であることを告げているようだった。
「さようなら、兄さん。」澪は小さくつぶやき、甲斐の前から姿を消した。
広間には再び静寂が戻り、甲斐はその場に取り残された。
チャプター4 真実の解放
スサノオの城の地下牢は、異様なほど静かだった。冷たい石の壁が音を吸い込み、空気そのものが重く澱んでいるように感じられる。甲斐は荒く呼吸しながら、薄暗い牢獄の中に佇んでいた。足元には湿った土の匂いが漂い、遠くで滴り落ちる水の音が微かに聞こえる。外はすでに夜であることは確かだが、ここでは時間がどれほど経ったのかはわからない。
鉄格子の隙間から漏れる冷たい月光が、彼の顔に影を落とす。その影の中で、甲斐の心には様々な感情が渦巻いていた。澪の裏切り、仲間たちの捕縛、そしてこの絶望的な状況。自分は果たして、この牢獄から抜け出し、再び戦うことができるのか――その疑念が胸を締め付ける。
「おい、まだ生きてるか?」隣の牢獄から低く響く声が、甲斐を現実に引き戻した。虎鉄だ。彼はすぐ隣の牢獄に閉じ込められているが、甲斐にはその姿がほとんど見えなかった。だが、その声にはいつも通りの強い意志が宿っている。
「生きてるさ、どうにか。」甲斐は力なく答える。「だが、ここからどう脱出すればいいのか、まったく見当がつかない。」
「考えろ、甲斐。俺たちはここで死ぬわけにはいかないんだ。」
虎鉄の言葉に何か重みを感じた。甲斐はその言葉の意味を掴もうとするが、すぐには理解できない。牢獄の中で、何をどう考えればいいのかもわからなかった。しかし、そのとき、虎鉄が低い声で続けた。
「甲斐、お前にはまだ知らされていないことがある。」
「知らされていないこと?」甲斐は眉をひそめ、わずかに体を前に乗り出した。「今さら何だ?ここからどうやって逃げるか、それが先決だろ?」
虎鉄は深い溜息をついた後、静かに語り始めた。「俺はお前の父方の叔父だ。」
その言葉が、甲斐の頭に鋭く突き刺さった。しばしの間、言葉を失い、ただ静かにその情報を消化しようとする。しかし、思考はまとまらず、頭の中であちこちに散乱する。叔父?虎鉄が?
「嘘だろ…」甲斐はようやく絞り出すように言葉を発した。「そんな話、今まで聞いたこともない。」
「聞かされていなかったのは当然だ。お前の父親は俺と袂を分かち、俺はその後、姿を消したからな。しかし、今はそのことが重要ではない。大事なのは、俺たちが共にここから脱出し、スサノオを止めることだ。」
甲斐はその言葉に再び心を乱されたが、冷静に考えれば、虎鉄の言葉に嘘や虚飾の影は感じられなかった。自分が知らなかった家系の秘密――それが、この状況で明らかになるとは思いもよらなかったが、今はその真偽を確かめる時間もなかった。
「どうやって逃げるんだ?」甲斐はようやく気を取り直し、冷静な声で問いかけた。
「俺が手助けする。」虎鉄の声は不敵な笑みを含んでいた。「この牢獄は完璧に見えるが、昔の設計を知っている者には、抜け道があるんだ。」
甲斐はその言葉に希望を見出し、すぐに虎鉄の指示に従った。牢獄の壁には、小さな亀裂があり、その下に隠された石が外れる仕組みになっていた。二人は協力してその石を外し、地下通路へと降り立った。そこには、かすかに流れる空気の匂いと、遠くで響く水音が、彼らを出口へと導いているかのように感じられた。
暗い通路を進む中、甲斐は虎鉄と共に歩きながら、再び心の中に渦巻く感情を抑えることができなかった。叔父であるという事実、そしてこの命を懸けた脱出劇。彼の心は今まで以上に揺れ動いていたが、同時にどこかで落ち着きも感じていた。虎鉄の存在が、自分にとって未知の家族の絆を強く感じさせていたからだ。
やがて、彼らはスサノオの寝所にたどり着いた。その扉は重厚でありながら、どこか異様な冷気を放っている。甲斐はその前で立ち止まり、一瞬の躊躇を覚えた。扉の向こうに待ち受けるもの――それは、彼が想像できないほどの脅威であることは確かだった。
「行くぞ、甲斐。」虎鉄が低く言い、扉に手をかける。甲斐も深呼吸し、心の準備をした。
扉がゆっくりと開かれると、中には薄い霧が漂い、まるで夢の中の光景のような空間が広がっていた。しかし、その中心に立つスサノオの姿は、あまりにも異質だった。彼は人間の形をしているが、その身体は輪郭を持たず、無数の影が揺らめき、実体を持たない「虚無」そのもののように見えた。
「これは…何だ…?」甲斐は驚愕し、言葉を失った。
スサノオは静かに振り向き、その無表情の顔が彼らに向けられた。甲斐と虎鉄は、その瞬間、彼の中にある深淵を覗き込むような感覚に囚われた。それはまるで、無限の虚無が彼らの存在そのものを飲み込もうとするかのような、圧倒的な力だった。
「このままでは、世界は飲み込まれる…」甲斐はそう呟き、拳を握り締めた。
だが、スサノオは何も言わず、ただ彼らを見つめ続けていた。その視線の先にあるのは、人間としての感情や意思などではなく、ただ無機質で、冷たい虚無そのものだった。
甲斐と虎鉄はその場に立ち尽くし、どうするべきかを模索していた。スサノオの真の姿を目の当たりにした彼らは、これからの戦いがいかに過酷であるかを痛感していた。
夏の終わりを告げる風が、甲斐の実家の庭に漂う。緑深い木々の間を通り抜ける風は、どこか物寂しげであり、同時に不穏な空気を含んでいた。椿は、縁側に座り込み、目の前に置かれた古びた木箱をじっと見つめていた。その中には「八咫鏡」が眠っている。古代の力を封じ込めたというその鏡は、今、この瞬間に再び目覚めようとしていた。
「椿さん、準備はいいかね?」千早老人が静かに声をかけた。彼はゆっくりとした動作で、椿の背後に立ち、彼女の肩に手を置く。老人の手は驚くほど冷たかったが、そこには長年の知識と経験が凝縮されているような、どこか安心感を与えるものだった。
椿は深呼吸を一つして頷いた。「ええ、やります。今はそれしかない。」彼女の声は震えていなかったが、その胸中には不安が渦巻いていた。もし失敗したら――この鏡の力を制御できなかったら、どうなるのだろうか。だが、甲斐たちが常世でどれほどの危険にさらされているかを考えると、そんな迷いは許されなかった。
千早老人は静かに、だが確固たる口調で言った。「八咫鏡はただの道具ではない。その力を引き出すには、君自身の内に眠る神性を覚醒させる必要がある。鏡の力を開放するということは、君がその力を受け止める覚悟を持たなければならないということだ。わかるね?」
椿は再び頷いたが、その瞳には葛藤が浮かんでいた。自分が本当に神性を持つ存在なのか、それを受け入れるべきなのか。普通の人間としての生活を送り続けていた自分に、そのような力が眠っているとは到底思えなかった。だが、今は疑念を捨てるしかない。甲斐を助けるためには、自分の中にある何かを目覚めさせなければならない。
「鏡に触れてみなさい。」千早老人は指示した。
椿はおそるおそる手を伸ばし、八咫鏡に触れた。その瞬間、冷たさが指先から全身に広がり、目の前の世界が揺れ動くような感覚に襲われた。まるで時が止まり、空間がねじ曲がったかのような感覚だった。椿は鏡に引き込まれそうになるが、なんとか意識を保とうと必死に踏ん張った。
「感じるか? それが八咫鏡の力だ。」千早老人の声が遠くから聞こえる。「鏡は君を試している。君がその力にふさわしいかどうかを見極めようとしているんだ。」
椿は必死に力を入れ、鏡を握り締めた。すると、その瞬間、彼女の内側から何かが溢れ出すような感覚が広がった。それは熱でもあり、冷気でもあり、同時に何か巨大な存在に包まれているかのような感覚だった。
目の前に突然、眩い光が広がった。椿は目を閉じるが、その光は彼女の内側にまで浸透してくる。それは彼女の過去、現在、そして未来をも飲み込むかのような光だった。意識が引き裂かれるように感じながらも、椿はその力に逆らうことを止めた。むしろ、それを受け入れることが必要だと直感的に理解した。
「これが…八咫鏡の力…」椿は静かに呟いた。
その瞬間、椿の意識が完全に別の場所へと飛ばされた。常世の世界――それは現世とは全く異なる、暗く冷たい空間だった。闇に包まれたその場所では、何もかもが虚無に近い感覚だったが、彼女はその中で何かを感じ取った。甲斐たちの存在が、遠くで苦しんでいるかのような感覚が伝わってきた。
「甲斐…?」椿は目を凝らし、暗闇の中を探る。すると、甲斐の姿がぼんやりと浮かび上がった。彼はどこかで戦っている。何か巨大な力に押しつぶされそうになりながらも、必死に立ち向かっているのがわかった。
「彼らが危ない。」千早老人の声が再び耳に届く。「椿、今すぐに彼らを助けに行くのだ。八咫鏡の力を使えば、君は常世に干渉できる。その力を信じなさい。」
椿は必死に八咫鏡を握り締め、全身の力を振り絞った。彼女の心には、甲斐たちを救いたいという強い願いが渦巻いていた。その願いが、八咫鏡を通じて常世へと流れ込み、彼らの元へ届くことを信じて。
すると、鏡が一層輝きを増し、椿の全身を包み込んだ。その瞬間、彼女は完全に常世の世界に飛び込んだかのような感覚に囚われた。
澪は冷たい床の上に膝をつき、息を整えようとしたが、胸の奥に渦巻く不安と焦燥感が彼女を静めることを拒んでいた。彼女の目の前に広がるスサノオの城の廊下は、暗く、息苦しいほどの静寂に包まれている。石壁に反射する薄暗い灯りが、彼女の心の揺れを映し出しているようだった。
甲斐と虎鉄の脱出。彼らがついにここから逃れたという知らせが、澪の心に突き刺さる。逃れたのは祝福すべきことなのに、なぜだかその一報は重くのしかかった。澪は目を閉じ、深く息を吸った。なぜこんなにも苦しいのか。それは、自分が兄を裏切ったからだ。
「私は…一体何をしているの?」澪は小さくつぶやいた。声は自分に向けられたものだったが、その問いはまるで空間そのものに問いかけているかのように感じた。
彼女はゆっくりと立ち上がり、スサノオの居所へ向かう決意を固めた。スサノオ。彼こそが、すべての原因である。この混乱、兄との対立、そして自身の葛藤。澪はスサノオと向き合わなければならないと悟った。何かが間違っている。そう思うたびに、心の中に一筋の疑念が生まれる。自分は本当に正しい道を歩んでいるのだろうか?
彼女が進むにつれ、城の奥へと深まる闇が重くのしかかる。まるでその闇が彼女自身の内面に呼応しているかのようだった。澪はその重圧を感じながらも、足を止めることなく進んだ。
スサノオの間に到着すると、澪は扉の前で立ち止まり、深く息を吐いた。彼との対話を避けてはならない。そう思い、彼女は扉を押し開けた。
中は薄暗いままで、スサノオはその中心に静かに座していた。彼の姿は相変わらず冷酷で、どこか異質な雰囲気を漂わせている。澪が近づくと、スサノオは目を細め、彼女に視線を向けた。
「何を悩んでいる?」スサノオの低い声が、部屋の空気を震わせた。その言葉には、まるで彼女の心の中を見透かしているかのような冷淡さが込められている。
澪はしばらく黙っていた。自分が何を言うべきか、どの言葉を選ぶべきか、迷っていた。しかし、その迷いも瞬く間に消え去った。彼女の中で何かが変わりつつあった。スサノオの前に立つことで、彼女の中にあった小さな疑念が一気に確信に変わったのだ。
「私は…あなたに操られていたのかもしれない。」澪は、声を絞り出すように言った。
スサノオは微動だにせず、ただ冷たい視線を澪に向け続けていた。「操られている? 何を言っている?」
「自分では気づかなかったけど、今ははっきりと感じているのです。私の行動、私の考え、それらすべてが…あなたの意図に従って動かされていたような気がします。」
スサノオは少し笑った。その笑みは、どこか冷たく、澪の言葉を嘲笑しているかのようだった。「そんなことはない。お前は自らの意思で動いているのだ。私が何かを強制したことなど一度もない。」
澪はその言葉に一瞬、心が揺らいだ。自分が間違っているのだろうか。しかし、彼女は首を振り、その思いを振り払った。
「でも、私は今、はっきりと感じているんです。兄を裏切り、虎鉄を裏切り…それが本当に私の望んだことだったのか? ずっとあなたに従ってきたけど、それが本当に私の意思だったのかどうか、もう分からない。」
澪の言葉は強まっていく。それは自分自身との対話でもあった。スサノオはしばらく黙ったままだったが、やがて静かに立ち上がった。
「お前はまだ若い。そして、まだ何も分かっていない。自らの運命というものがどれほどの重さを持つか、まだ理解していないのだ。」
スサノオは澪に向かって歩み寄り、その瞳を覗き込んだ。「お前は私と共にいることで、大いなる力を手に入れることができる。それはお前の運命なのだ。私に背くということは、お前自身の運命に逆らうことになる。」
澪はその言葉を聞きながら、自分の心が徐々に冷たく硬直していくのを感じた。スサノオの言葉には力があった。それは心の奥深くにまで入り込み、彼女の意思を揺るがす。しかし、同時に彼女はその言葉の中に隠された偽りを感じ取っていた。
「運命だなんて、そんなものに縛られたくはない!」澪は強く叫んだ。その叫びは、自らの内側から絞り出された真実の声だった。「私は自分で決めたい! あなたに従うことが私の運命だと言うなら、私はそれに逆らいます。」
スサノオは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにその顔は冷たく引き締まった。「ならば、どうするというのだ? お前には私に逆らう力などない。お前が兄を助けようとするなら、それはすなわち私に反旗を翻すことを意味するのだぞ。」
澪は唇を噛みしめた。兄を救いたいという思いと、自分の力の限界との間で揺れ動く。だが、彼女の心はもう決まっていた。自分が操られているという疑念を捨て、ただスサノオに従うことはできない。兄を救うために、彼女はその全てを賭けるしかなかった。
「私は、兄を救います。そして、あなたに立ち向かいます。それがどれほどの困難であっても、私はもう自分を偽ることはしない。」
スサノオは冷ややかに澪を見つめ、「面白い。ならば、その覚悟を見せてもらおう。」と言った。
澪の中で何かが完全に目覚めた瞬間だった。それはこれまで抑え込んでいた力であり、彼女自身の意志でもあった。彼女はスサノオに背を向け、全てを背負って兄を救うために立ち上がったのだ。
黄泉比良坂――その名の通り、世にも恐ろしい場所である。陰鬱な霧がたちこめ、空は鈍い鉛色に覆われている。風はないのに、湿った空気が肌にまとわりつき、異様なほどの静寂が辺りを支配していた。どこか遠くで、かすかな水音が響く。だが、それが川の流れなのか、あるいは何か別の不気味なものなのかは、定かではない。
甲斐たちは、ついにここまでたどり着いた。スサノオを追い、彼らはこの地へと導かれたが、その先に待つ運命は、まだ誰にもわからない。道は朽ちた石段となり、足元は徐々に不安定になっている。甲斐は、無意識のうちに拳を握りしめ、意識を集中させていた。彼の心の中では、嵐のような感情が渦巻いていた。
「ここが黄泉比良坂か…」虎鉄が低く呟いた。彼の表情は険しく、鋭い目つきが前方を見据えている。「気をつけろ。何が出てくるかわからん。」
甲斐はうなずき、虎鉄の言葉に応じた。「油断はできない。スサノオがここで何を企んでいるのか、それを突き止めなければならない。」
だが、二人の前に、予期せぬ影が現れる。霧の中から静かに現れたその姿は、椿だった。彼女は優雅に歩み寄り、彼らに穏やかな笑みを浮かべていたが、その眼差しには決意と覚悟が宿っていた。彼女の背後には、輝く「八咫鏡」がかすかに光を放っている。
「お待たせしました、甲斐さん、虎鉄さん。」椿の声は静かだが、その中に確固たる力があった。「私はこの鏡を持ってきました。これで三種の神器が揃います。」
椿が差し出した八咫鏡を見て、甲斐の胸が高鳴った。これこそが、彼らが探し求めていた最後のピース。既に彼の手には「天叢雲剣」が握られており、虎鉄が持つ「勾玉」と合わせて、三種の神器が揃う瞬間が訪れた。
「三種の神器が揃ったことで、何が起きるんだろうな。」虎鉄が不安げに眉をひそめた。「ただの伝説じゃなければいいが。」
椿は優しく笑い、その表情に何か確信めいたものが浮かんだ。「神器はただの道具ではありません。私たちがそれに何を見出し、どのように使うか、それが鍵です。甲斐さん、あなたには神性が宿っている。三種の神器の力を解放することで、その神性が完全に目覚めるはずです。」
甲斐は一瞬言葉を失った。彼の中に眠る「神性」という言葉は、あまりに遠く、現実離れしているように感じた。だが、これまでの道程で、彼は何度も自分が特別な存在であることを認識せざるを得なかった。そして今、この場所で、その全てが頂点に達しようとしている。
「俺の神性…」甲斐は静かにその言葉を反芻し、心の中でそれを受け入れようとしていた。「それが、俺たちの運命なのか?」
椿は軽く頷き、その視線をまっすぐに甲斐へと向けた。「そうです。そして、運命に立ち向かうためには、自らを信じることが必要です。スサノオに打ち勝つためには、あなた自身の力を解放しなければならない。」
甲斐は深く息を吐いた。彼の胸の中では、葛藤が続いている。自分が本当にそのような力を持っているのか? それとも、全てが幻想に過ぎないのか? だが、彼の仲間たち、椿と虎鉄は信じている。自分の中に何か特別なものがあると。それならば、自分も信じるべきではないのか。
甲斐はゆっくりと八咫鏡に手を伸ばし、それをしっかりと握りしめた。その瞬間、冷たい感触が手のひらに伝わってくると同時に、鏡から何か温かな光が甲斐の体内に流れ込んでくるのを感じた。それは、まるで彼の内なる力が呼び覚まされるような感覚だった。
目の前の世界が一瞬、ぼやけたかと思うと、次の瞬間には鮮やかな光景が広がった。彼の目の前には、無限の宇宙が広がり、その中に無数の星々が輝いている。それはまるで、自分自身が神々の世界に引き込まれたかのような感覚だった。
「これが…俺の力…」甲斐はつぶやいた。その声はまるで、遠くから響いてくるように感じられた。
同時に、彼の体全体に力が満ち溢れてくる。筋肉が緊張し、心臓が高鳴り、血液が体中を駆け巡る。彼の中で、何かが完全に目覚めた。それは人間としての限界を超えた力であり、彼自身がこれまでに知り得なかった未知の力だった。
「甲斐…その力が、スサノオに立ち向かうためのものよ。」椿の声が静かに響いた。「あなたは、私たち全員の希望なの。」
甲斐はうなずき、彼女の言葉を受け止めた。「分かった。俺は…自分の力を信じる。そして、スサノオを倒す。」
三種の神器を手にした甲斐は、まるで新たな存在へと生まれ変わったように感じていた。その力は、彼の体だけでなく、心までも強化し、彼を次なる運命へと導いている。
「行こう、スサノオを倒しに。」甲斐は静かに言い、前方を見据えた。
その言葉に、椿と虎鉄もまた力強くうなずき、三人は再び歩み始めた。
黄泉比良坂の奥へと進むその足音は、静寂を切り裂き、彼らの運命を決する戦いへと向かっていった。
チャプター5 世界の再生
黄泉比良坂の闇は深く、空は裂けたように暗黒が広がっていた。太陽の光は届かず、空には無数の影が蠢いている。山肌を吹き抜ける風は冷たく、そこには死の気配が漂っている。甲斐はその場所に立っていた。体は緊張し、手の中で「天叢雲剣」の冷たい感触が脈打つ。剣がまるで生き物のように彼に呼びかけ、これからの戦いに備えるよう促しているかのようだ。
前方、スサノオが悠然と立ち尽くしていた。彼の背中には、荒々しい嵐が巻き起こり、闇の中に雷鳴が轟いていた。スサノオの体から発せられる圧倒的な気迫は、甲斐たちの前にそびえ立つ壁のようだった。巨大であり、古の神の恐ろしさを具現化したかのような存在感だった。
「やっと来たか、甲斐。」スサノオの声は低く、しかしその音は全てを支配するかのように響き渡った。「この黄泉比良坂で、決着をつける時が来た。」
甲斐は無言のまま、スサノオの姿を見つめていた。その瞳には、かすかな光が宿っている。彼の背後には椿と虎鉄が並び立ち、二人もまた静かにその時を待っていた。甲斐の中で、焦りと恐怖が入り混じり、鼓動が激しく高鳴っていた。
「甲斐さん…」椿がそっと声をかけた。その声には不安と決意が混じっていた。「私たちは一緒です。あなたを支えます。」
甲斐は彼女の言葉を聞き、心の中で覚悟を固めた。自分は一人ではない。仲間たちがいる。椿と虎鉄だけではなく、これまで彼を導いてくれた無数の存在たちが、彼の背後に控えている。そして、その力を束ねることができるのは、彼自身なのだ。
「分かっている。俺たちは一つだ。」甲斐は剣を握り直し、スサノオに向かって一歩踏み出した。
「愚かな…」スサノオが鼻で笑い、手を軽く振り上げた。その瞬間、大気が震え、巨大な雷が甲斐の方へと放たれた。
甲斐は反射的に剣を掲げ、その雷を受け止めた。電撃が剣を通じて彼の体に流れ込むが、甲斐はそれを押し返すように踏みとどまった。全身がビリビリとしびれるが、その感覚がかえって彼の意識を研ぎ澄ませていく。雷の光が一瞬、周囲を照らし、スサノオの険しい表情が浮かび上がった。
「くそ…!」虎鉄が歯を食いしばり、拳を固めた。「スサノオの力は尋常じゃねえ。どうやってあんな化け物を倒すんだ…?」
だが、甲斐は焦ることなく、静かに立ち上がった。彼の目には確信の光が宿っていた。「まだ終わっていない。俺たちの戦いは、これからだ。」
椿もまた、落ち着いた表情で甲斐を見つめていた。「甲斐さん、あなたには神の血が流れています。三種の神器の力を信じてください。それが、あなたの中の力を引き出す鍵です。」
「分かっている。」甲斐は頷き、再び剣を握りしめた。剣が重く感じられるが、その重さはむしろ彼を支えているようだった。自分がただの人間ではないことを、今はっきりと自覚していた。
スサノオが再び動き出した。彼の周囲には嵐が巻き起こり、その嵐は次第に甲斐たちを包み込んでいく。風が唸り、雷鳴が轟く中、甲斐は目を閉じ、心の奥深くにある何かを感じ取ろうとした。その何かが、自分にとって決定的な存在だと理解していた。
「天照大神…」その名が、ふと心の中に浮かび上がった。
その瞬間、甲斐の中に眠っていた記憶が一気に解き放たれた。彼は自分がただの人間ではなく、太陽神・天照大神の転生であることを悟った。自分の中に流れる神性が、今まさに完全に覚醒しようとしている。
「俺は…天照大神の力を持っている…」甲斐は呟いた。
椿と虎鉄が驚いた表情で甲斐を見つめた。「天照大神…! それが、あなたの正体だったのですか…」
甲斐はゆっくりと頷いた。「そうだ。俺は天照大神の転生者だ。この三種の神器は、俺をその力へと導いてくれる。」
スサノオはそれを聞いて、冷笑した。「天照の転生だと? 面白い…だが、それがどうした? 神であろうと、このスサノオに勝てると思うな!」
スサノオが再び嵐を巻き起こし、雷を放った。しかし、今の甲斐は違った。彼は剣を掲げ、嵐と雷を一つに受け止めた。剣からは眩い光が放たれ、その光が雷を切り裂いていく。
「俺は…もう恐れない。」甲斐の声は静かだが、その中に確かな力が感じられた。「俺の中には、天照大神の力がある。そして、この三種の神器が、その力を最大限に引き出してくれる。」
甲斐の言葉と共に、八咫鏡が光を放ち、勾玉が輝きを増した。三種の神器の力が融合し、彼の中に流れ込んでいく。その瞬間、彼の体全体が光り輝き、彼自身が一つの太陽のように光を放つ存在へと変貌していく。
スサノオは驚愕の表情を浮かべたが、すぐにその表情は怒りに変わった。「たとえ天照の力を持っていようと、俺はお前を屈服させる! この地は、俺の支配下にある!」
スサノオは全力を振り絞り、巨大な嵐を再び巻き起こした。だが、その嵐は今や甲斐の前では無力だった。甲斐は一歩前に進み、剣を振りかざした。その一振りで、嵐は切り裂かれ、スサノオの力が徐々に弱まっていく。
「これで終わりだ、スサノオ。」甲斐は低く呟いた。その声は、まるで運命を決する神の声のようだった。
スサノオは最後の力を振り絞って甲斐に向かって突進してきたが、甲斐は冷静にそれをかわし、剣を一閃した。眩い光がスサノオを包み込み、その巨体が静かに倒れ込んでいった。
風が止み、周囲の嵐も徐々に収まり始めた。空は再び澄み渡り、静寂が訪れた。
「やったか…?」虎鉄が呟き、倒れたスサノオの方を見やる。
甲斐は静かに剣を収め、目を閉じた。「まだ終わっていない。だが…これで一つの決着はついた。」
椿がゆっくりと歩み寄り、甲斐の肩に手を置いた。「あなたの力を信じていました、甲斐さん。これからも、
私たちは一緒です。」
甲斐は微笑んだ。彼はもう迷わない。自分の中にある神性と、人間としての強さ。その二つが一つに溶け合い、彼を新たな道へと導いていく。
黄泉国の入り口に静けさが戻った。甲斐の足元に倒れ伏したスサノオの体からは、もう何の力も感じられない。その嵐のような存在感は、消えてしまったかのように無音の闇へと溶け込んでいた。しかし、その場の静けさは、不気味なほどに不自然だった。冷たい空気が肌にしみ、霧がゆっくりと舞い上がり、甲斐の胸の内に小さな違和感を呼び覚ます。
「本当にこれで終わったのか?」甲斐は自問した。
仲間たちが傍らにいる。椿がゆっくりと彼に近づき、静かにその肩に手を置いた。その手の温もりが、現実感を取り戻させるかのようにじんわりと伝わってきたが、それでも彼の内側には、言い知れぬ不安が広がっていた。
「甲斐さん、もう終わったんです。あのスサノオは倒れたんですから…」椿の声は優しく、だがどこか切実だった。それでも甲斐の心には、確信が足りなかった。
「いや、何かが違う…」そう言った瞬間、甲斐は全身が硬直した。まるで地面が彼の足元から抜け落ちるかのように、意識が急速に遠ざかっていく。
視界がぼやけ、現実が崩れていく。仲間たちの姿も、黄泉比良坂の風景も、全てが霧のように消え失せ、甲斐は暗闇の中へと飲み込まれた。静寂が耳を覆い、風の音すらも消え去った。その瞬間、彼は気づいた――スサノオの魂が、自分の中に入り込んだのだ。
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目を開けたとき、甲斐は全く別の世界にいた。そこは現実とも夢ともつかぬ、虚無の空間だった。何も存在しない、広大でありながら閉鎖的な場所。空はなく、地面もない。ただ無限に広がる灰色の何かが、どこまでも続いていた。
「ここは…どこだ?」甲斐は声を出してみたが、それが反響することもなく、その言葉は消えていった。周囲には誰もいない。だが、確かな存在感を感じる。何かがこの空間に潜んでいる――いや、誰かが彼を見ている。
「スサノオ…」彼は低く呟いた。
「そうだ、ここにいるぞ。」その声は突然、どこからともなく響いた。それはスサノオの声だったが、かつてのような荒々しさはない。むしろ、その声は沈痛であり、まるで深い底から這い上がってきたかのような重みがあった。
「お前は…何をしているんだ?」甲斐は辺りを見回したが、スサノオの姿は見当たらない。ただ、声だけが響いていた。
「ここは、虚無だ。」スサノオの声が再び響く。「俺の魂が長年囚われてきた場所だ。この無限に続く虚無の中で、俺は何度も自分を見失い、何度も怒りに飲まれてきた。」
甲斐はその言葉に耳を傾けながら、自分の中に浮かび上がる疑問と向き合っていた。なぜスサノオはここにいるのか。彼の戦いは終わったはずではなかったのか。
「お前が俺を倒した。それは事実だ。しかし、倒された俺の魂は、この虚無へと帰還した。そして、お前の中に取り込まれたのだ。」
甲斐は眉をひそめた。「俺の中に…お前がいるのか?」
「そうだ。お前は俺を倒すことで、俺の孤独と絶望をも引き受けたのだ。」
スサノオの言葉が、甲斐の心に重くのしかかる。その意味を理解するのには少し時間がかかった。彼は戦いに勝利したつもりだった。だが、スサノオの絶望が彼自身の中に宿っていると知り、甲斐は戸惑いを覚えた。
「それで、どうするつもりなんだ?」甲斐は静かに問いかけた。「お前は俺の中で何を望んでいる?」
その問いに対し、しばらくの沈黙が続いた。やがて、スサノオの声が低く響いた。
「俺はずっと孤独だった。何千年もの間、俺は神でありながらも、孤立していた。誰も俺を理解せず、誰も俺を助けようとはしなかった。ただ、俺は破壊者として見られ続けた。」
その言葉を聞き、甲斐は自分の胸にわき上がる感情に気づいた。スサノオはただの破壊の神ではなかった。その背後には、深い孤独と絶望があったのだ。それは、彼がずっと背負い続けてきた重荷だった。
「だから、お前は暴れ続けたのか…?」甲斐はそっと問いかけた。
「そうだ。俺には他に方法がなかった。ただ、怒りと破壊でしか自分を表現できなかった。誰も俺を理解しなかったし、俺もまた誰かを理解しようとしなかった。」
甲斐はスサノオの言葉に耳を傾けながら、胸の内で何かが共鳴するのを感じていた。彼自身もまた、長い間、自分の存在に疑問を抱いていた。そして、スサノオの孤独は、甲斐自身の中に潜んでいる孤独と重なっていた。
「俺も…孤独だった。」甲斐は静かに告白した。「天照大神の転生だと言われても、俺は自分が何者なのか分からずにいた。戦い続けるしかないと思っていたんだ。」
その言葉に、スサノオの声は少しだけ和らいだ。「お前も孤独を感じていたのか…。俺と同じだな。」
甲斐はゆっくりと目を閉じ、心の中でスサノオと対話を続けた。この虚無の中で、二人は孤独を共有し合い、互いの痛みを理解し始めた。スサノオはただ破壊を求めていたわけではなかった。その奥には、理解されたいという深い欲求が隠されていた。
「スサノオ、お前はただ破壊者ではない。お前の怒りは理解されないことへの叫びだったんだろう。」
スサノオの声が微かに震えた。「そうだ…。俺はただ、誰かに理解してほしかっただけだ。」
甲斐はその言葉に、静かに頷いた。彼自身もまた、ずっと孤独だった。しかし、今は違う。彼には仲間がいる。椿や虎鉄、そして自分を支えてくれる人々がいる。スサノオもまた、孤独を終わらせることができるはずだ。
「和解しよう、スサノオ。俺たちは敵ではなく、共に歩む存在になれるはずだ。」
その提案に、スサノオは一瞬の沈黙を返した。しかし、その後、深い息をつくように、静かな声が響いた。
「和解か…。そんなことが本当に可能なのか…?」
「可能だ。お前がそれを望むのなら、俺は受け入れる。お前の孤独を、俺も共に背負う。」
その言葉は、甲斐自身の魂から自然に溢れ出たものだった。彼はスサノオの力を否定するのではなく、それを抱え、共に歩む覚悟を決めたのだ。
常世の風が変わった。10月の冷たい空気が、甲斐の肌にぴりりと刺さるように感じられる。目の前には、これまでの戦いの余韻を漂わせた黄泉国の荒れた地が広がっていた。甲斐はゆっくりと視線を上げ、広がる虚空を見つめた。その空は、どこまでも黒く、無限に続く闇だった。しかし、その闇の中には微かに光が見える。光と闇が混ざり合う境界。それが、新たな秩序の兆しなのだろうか。
スサノオとの和解は、全てを変えてしまった。彼の魂と一つになった瞬間、世界の根底にある何かが揺らいだ。甲斐はそれを感じ取っていた。そして、常世と現世、黄泉国――これらの世界が繋がり、再び一つの秩序を構築するための時が来たのだと理解していた。
彼の手の中にある三種の神器――草薙剣、八咫鏡、そして八尺瓊勾玉――は、まるで脈動するかのように微かに震えていた。それらの力が、今や甲斐の意思に応じて反応している。彼はそれを確かに感じた。
「これが、俺に課せられた使命なんだな…」甲斐は静かに呟いた。
その声は風に乗り、誰もいない黄泉国の荒野に消えていく。だが、彼の心はもう迷ってはいなかった。スサノオと一体となり、彼の孤独と絶望を理解した今、甲斐には新たな責任がある。それは、崩れかけた常世の秩序を再び形作り、死者の魂に新たな帰る場所を与えることだ。
甲斐はふと、スサノオの声が頭の中で響くのを感じた。今やスサノオは彼の一部となっており、その存在は消えてはいない。ただ、二人の間に静かな共感が生まれ、対話が可能になった。
「これで良いのか?」スサノオの声は静かだが、その背後にはまだ疑問が残っているようだった。「本当に、これで世界が救われるのか?」
甲斐は答えるように、剣を握りしめた。「俺たちがこれを成すしかないんだ。他に道はない。お前が感じてきた孤独も、絶望も、全てはこの瞬間のためだったんだろう。今、俺たちは新たな道を作る。」
その言葉に、スサノオは一瞬の沈黙を返した後、低く応じた。「お前が信じるならば、俺も信じよう。だが、この力を使うことには代償がある。お前もそれを理解しているだろう?」
甲斐は頷いた。三種の神器の力は決して無制限ではない。むしろ、その力は常にバランスを保つ必要がある。一つの世界を救うために、何か別のものが犠牲になる。それが常世のルールだ。甲斐はその事実を受け入れた。
「それでもやるしかない。」彼は静かに答えた。
そして、甲斐は意識を集中させた。三種の神器の力が、彼の体を通じて流れ始める。剣は空気を切り裂き、鏡は光を集め、勾玉は静かに脈動する。全ての力が彼の意思に応じて一つの流れとなり、常世の秩序を再構築するための糸口を探っていく。
まず、彼が行わなければならないのは、黄泉国に囚われた死者の魂を解放することだった。長い年月、黄泉国はその死者たちを閉じ込め続け、彼らの苦悩と絶望を増幅させてきた。スサノオ自身がその一部だった。だが今、甲斐は彼らに新たな道を示す力を持っている。
甲斐は八咫鏡を掲げ、その表面に現世の光を映し出した。その光は、黄泉国の暗闇を切り裂き、閉じ込められた魂たちに新たな希望をもたらす。鏡に映し出された光景は、静かで美しい草原だった。現世の風が、黄泉国の重苦しい空気を一掃し、魂たちはその風に誘われるようにして現世へと帰っていく。
「帰るべき場所があること。それが救いなんだ。」甲斐は心の中でそう呟いた。
しかし、次に訪れたのは、常世そのものの変革だった。常世は、長い間現世と黄泉国の間に立ち、両者のバランスを保つ役割を果たしてきた。だが、その秩序は崩れかけている。スサノオの力が、甲斐の中で反応し、彼の体全体を震わせた。
「俺たちの役割は、常世そのものを再構築することにある。」スサノオの声が、再び甲斐の内側で響いた。「それには、犠牲が必要だ。常世の時間が流れるためには、新たな魂が供物として捧げられなければならない。」
甲斐はその言葉に静かに頷いた。「そうだな。俺たちが手にした力は、決して万能ではない。だが、それでも俺は新たな秩序を作る覚悟がある。」
彼は草薙剣を再び掲げ、常世の大地に突き立てた。剣の力が、地面を貫き、大地そのものが震え始める。常世の秩序が崩れ、そして再び形を成し始めた。時間と空間が歪み、現世と黄泉国、常世の境界が再び整列する。その過程で、何かが消え、何かが新たに生まれる。
甲斐はその変化を冷静に見つめていた。彼の心は、かつてのように迷いも恐れもなく、ただ新たな秩序を受け入れるための静けさに満ちていた。そして、最後の仕上げとして、彼は八尺瓊勾玉を握りしめ、祈りを捧げた。
「これが新たな輪廻の始まりだ。」
その言葉が響いた瞬間、常世の全域に広がる力が解放された。死者の魂は現世へと戻り、彼らは新たな生命として再び生を受ける。その輪廻の流れが、静かに、しかし確実に動き出したのだ。
甲斐は静かに目を閉じ、全てが終わったことを感じ取った。スサノオの力が彼の中で穏やかに流れ、その力は常世の新たな秩序として定着した。常世、現世、黄泉国――三つの世界は再び一つの流れに戻り、新たなバランスを保ち始めた。
「これで良いんだな…」
甲斐はその問いに、静かに答えた。「ああ、これで良いんだ。」彼の声は穏やかで、しかし確かな決意に満ちていた。
常世の風は再び吹き、静けさが戻った。その風の中に、全てが始まり、全てが終わる予感があった。
東京都内の朝は、日々同じように始まる。甲斐は目覚めると、窓の外を見やった。柔らかな秋の光がビル群の間を縫うように差し込み、空気がわずかに冷たく感じられる。10月中旬、季節の変わり目はいつもどこかぼんやりしている。夏の暑さが遠のき、冬の冷え込みが近づく。その曖昧さが、彼の心の中にも似た感覚を残していた。
ベッドの縁に腰掛け、甲斐はふと頭を押さえた。全てが終わったはずなのに、どこか現実味が希薄だった。常世での冒険は確かにあった。スサノオとの戦い、魂の再構築、そして新たな秩序の誕生。それらははっきりと記憶の中に刻まれているはずだが、何かがぼやけている。まるで霧がかかったように、核心に触れようとするとそれが消え失せてしまう。
「…本当にあれは、夢だったのか?」
甲斐は小さく呟いたが、その答えを誰も教えてはくれない。彼の胸の奥にだけ、微かな使命感のようなものが残っていた。それが何なのかはっきりとは分からない。ただ、それは確かに存在していて、時折静かに呼吸をしているかのようだった。
甲斐は仕事に戻っていた。考古学者としての彼の日常は、以前とほとんど変わらない。発掘現場に向かい、古代の遺物を手に取り、それらを解釈する。土の匂い、風に舞う砂、そして長い年月が封じ込められた石の冷たさ。だが、そのどれもが以前よりも遠く感じられるのはなぜだろうか。まるで自分が今いる世界に完全に属していないような、現実と少しだけズレた場所に存在しているような気がしてならなかった。
「甲斐さん、ちょっとこれを見てくれる?」
椿の声が背後から響いた。甲斐は振り返り、彼女の差し出した資料に目を通した。相変わらず彼女は真剣で、仕事に対する熱意は衰えていない。椿は淡いベージュのカーディガンを羽織り、その下に白いブラウスを合わせていた。彼女の瞳は、どこか昔からの仲間を信頼し続けるような落ち着いた色をしている。だが、その奥にもまた、甲斐と同じようなぼんやりとした不確かさが潜んでいることに彼は気づいた。
「どう思う?この文献、現場と一致してないんじゃない?」
彼は一度資料に目を落とし、慎重に考えながら答えた。「そうかもしれないな。ここの地層の年代が微妙にズレている。これ、もう一度確認する必要があるかもな。」
「だよね。やっぱり、もっと詳細な分析が必要だわ。」椿はそう言って、少しだけ笑顔を見せた。その笑顔はどこか安心感を与えてくれるが、同時に何かを隠しているようでもあった。
椿もまた、甲斐と同じく、常世での出来事を覚えているはずだ。しかし、それを語ることはなかった。まるで二人の間に不文律があるかのように、誰もその話題に触れない。だが、その沈黙が彼らの間にある強い絆を逆に示しているのかもしれない。
その日の夕方、甲斐は仕事を終えて研究室を出た。外はすっかり日が暮れ、冷たい風がコートの隙間をすり抜ける。彼は東京の街を歩きながら、自分がどこに向かっているのかを考えていた。日常に戻ったはずなのに、その日常がどこか違う。何かが失われ、何かが新たに加わったような、そんな感覚が彼を包んでいた。
一方、澪は現世に戻り、まったく新しい生活を始めていた。彼女は神戸の小さなカフェで働きながら、静かに暮らしている。過去の自分とは別の人間になったような気がしていた。常世での冒険を経て、彼女の心には確かに何かが変わっていた。だが、その変化が何なのかは、彼女自身も分かっていなかった。
ある日、彼女はカフェで働きながら、ふと手を止めて窓の外を眺めた。秋の柔らかな陽射しが、通りを歩く人々の影を長く伸ばしている。澪はその光景をぼんやりと見つめながら、胸の奥に微かな違和感を感じた。
「これで良かったのか…?」彼女の心に浮かんだのは、その問いだった。常世での出来事が現実なのか夢だったのか、それはもうはっきりとしない。ただ、彼女の胸の中に残っているのは、何かを成し遂げたという感覚と、同時に何かがまだ終わっていないような気がすることだった。
その夜、澪は奇妙な夢を見た。夢の中で彼女は再び常世を歩いていた。薄暗い霧の中、彼女は何かを探している。足元には砂が広がり、遠くには荒れ果てた山々が見える。彼女は進むべき道が分からないまま、ただ無意識に前へと歩き続けた。そして、ふと顔を上げると、そこには甲斐が立っていた。
「澪…」
夢の中で、甲斐は静かに彼女の名前を呼んだ。だが、何も語らない。彼の瞳はただ遠くを見つめている。それは、かつて常世で共に過ごした日々の記憶だったのかもしれない。澪はその夢の意味を理解しようとしたが、目が覚めると全ては霧散してしまっていた。
「何だったんだろう…」
澪は夢の余韻に浸りながら、ベッドから起き上がった。窓の外はもう朝日が昇っていて、彼女の新しい日常が再び始まろうとしていた。
虎鉄もまた、現世に戻り、かつての家族と再会を果たしていた。彼は甲斐の叔父としての役割を再び担い、日常の中で静かな時間を過ごしていた。彼もまた、何かが変わってしまったことを感じていたが、それを言葉にすることはなかった。ただ、甲斐との関係が以前よりも深く、強いものになったことだけは確かだった。
常世での冒険は、彼ら全員の心に何かを残した。それは明確な形を持たないが、時折ふとした瞬間に顔を出す。夢の中で、あるいは日常の些細な瞬間に。その名残は、彼らが再び常世へと呼び戻される日を予感させるものだった。
新たな日常は静かに続いている。しかし、その静けさの奥には、未だ語られぬ物語が潜んでいた。甲斐も椿も澪も虎鉄も、それぞれの道を歩き始めたが、その道の先に何が待っているのかは、誰もまだ知らない。
彼らの胸に残る微かな違和感。それは、世界が再び揺らぐ兆しだったのかもしれない。
<完>
作成日:2024/09/23
編集者コメント
プロットはClaude 3.5 Sonnet、執筆はChatGPT-4oです。
最初に与えた指示は、スサノオが敵の親玉になるような神話小説、という感じのものです。
思わせぶりな登場人物、例えば天鈿女命なんて名もあるのですが、ほとんど活躍らしい活躍をしていなくてもったいない。あきらかに文章量として書き足りてない。プロットとお話の長さがあってないのだろうなと思うのですが、なかなか長い文章を書かせるのが難しいのですよね…。もう少しシーンを細かに割っていくのがいいのでしょうか。